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■ プレイ・バイ・メイルはライトノベルの夢を見るか? その2
昨日の続き(昨日から読んでね)。
さて、プレイ・バイ・メイル「蓬莱学園」をノベライズした二人の 手がけた、二種類の作品。この二種類の作品には、 明確な違いがあるように私は思う。 新城氏は(数日前の日記で述べたように)、蓬莱学園以降、 その魅力を分化させ、進化させていっているように思える。 逆に言うと、蓬莱学園にはその異なるベクトルの魅力を一つにまとめ 上げるだけの包容力があった。 彼の濃密な言葉の連鎖に綴られ、彩られ、形作られていった世界。 あそこでこそ新城氏の本領が発揮できると言ったら言い過ぎだろうか? 新城氏、つまり蓬莱のグランドマスターである柳川氏は、 おそらくもっともあの巨大学園を理解していた人物であると思う。 言い方を変えると、あの世界を(いい意味で)我が物にしていたのだ。 生徒数十万の巨大学園、現実世界のカリカチュア。地球上のどこにも 存在し得ない異常な空間。しかしいつ自分の隣に現れてもおかしくない、 日常の隣り合わせにある、決して幻想ではない空間。 新城氏の作品は、蓬莱学園があまりにも魅力的だった、いや魅力的 すぎたために、その影から抜け出しきれていないのではないだろうか。 私は彼の蓬莱学園以外の作品が嫌いなわけではない。大好きである。 が、それは「蓬莱学園みたいで好き」になってしまうのだ。悲しいかな。 そう、蓬莱学園以降の作品も全て、蓬莱の物語に見えてしまうのだ。
賀東氏は逆だ。蓬莱学園の短編を手がけている間、賀東氏の作品は 「面白いのだが、一歩新城氏に及ばない」というイメージがあった。 それが蓬莱学園という呪縛から解き放たれた結果、蓬莱学園の ノウハウを生かしつつ、新しい魅力を持つ作品を生んだように思える。 蓬莱学園は賀東氏に必要なプロセスだったのだろうけれど、そこから 卒業することで賀東氏は新しい作品を生み出せたのではないだろうか。
そう。卒業である。
かつて蓬莱学園という巨大学園には、二種類の生徒がいた。 毎日がフェスティバルのような、サバイバルのような、夢のような 三年間を過ごし、しかし三年間で、その学園を卒業していく者と。 フェスティバルとサバイバルと夢の中に本当の自分自身を見つけ出し、 やがて古参生徒と呼ばれプロフェッショナルとなり、学園に残る者と。
どちらが正しくて、幸福なのかは、誰にもわからないけれども。
だから富士見書房。早く「蓬莱学園の革命!」を完結させろと 言っとるんじゃゴルァ!(゚д゚)
では今日の科白。恥ずかしながら、太字部分で電車内で爆笑。 ネタバレというほどではないのだが、一応白にしておこう。
「貴様の犯した罪は海よりも深い。キキは……キキはな……飛行船に 宙づりになったトンボを助けるために……必死になって……。 そこに、よりにもよってヒンデンブルグ号の墜落シーンだと……? 人間には、やっていいことと悪いことがある」
〜フルメタルパニック!「どうにもならない五里霧中?」より〜
2001年10月17日(水)
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