2004年01月06日(火)  引っ越したお隣さんと舞い込んだ鳥

■お隣さんが引っ越して行ったらしい。わたしより20センチぐらい背の高いお姉さんが住んでいた。会って言葉を交わしたことは数回しかなかったけれど、そのうち一回は強烈な出来事だったので、忘れようがない。■3年前のこと、朝、植木に水をやろうとベランダに出たら、鳥が死んでいた。すずめのようなかわいいものじゃなくて、頭から尻尾まで40センチぐらいあった。あたふたと出張先のダンナの携帯に助けを求めると、「なんでそういうことになるんだ?」と間の悪さを責められた。鳥が死んだのはわたしのせいではないと思うけれど、こういう目に遭うのは、間が抜けている証拠かもしれない。大阪の母に電話すると、ゲタゲタ笑うばかりで話にならない。そんなに娘の悲劇がおかしいか、と東京の義母を電話でつかまえると、「あらまあ、かわいそうにねえ。死んじゃったのねえ」と嫁よりも鳥に同情を寄せる有様。よし、もうこうなったら頼れるのは自分しかいない、と再びベランダへ向かったものの、かがんで鳥を間近に見ると、足がすくんでしまった。頭から流した血が固まっていて、どうやら窓ガラスに激突した模様。ガラスが見えなかったのか、曲がり損ねたのか。鳥の死骸は消せない事実としてそこにあった。何とかしなくてはと思いつつも、手を出す勇気が出ない。■そのとき頭にひらめいたのは、「困ったときは、お隣さん」。わたしが子どもの頃は、隣近所が何かと助け合っていた。引越のときに挨拶したきりのお隣さんをピンポーンと訪ね、「すいません。びっくりしないでくださいね。ベランダで鳥が死んでいたんです。で、わたし、こういうの苦手でして。できたら、わたしが鳥の死体を片付けるのを横で見守っていてもらえませんか」と訴えた。お隣さんは不思議そうな顔をしつつも、わたしについてきてくれた。「よかったら、やりましょうか」とまで言ってくれたが、さすがにそこまで甘えるわけにいかず、「いえ、がんばります」。誰かが見てくれるということが、こんなにも怖さや苦手意識を忘れさせてくれるというのは驚きだった。バーベキューの炭バサミに靴下を履かせて鳥をつかみあげる作業の間、余計なことは言わず、見守る人に徹していたお隣さんは、菓子箱の棺に納められた鳥に「南無ー」と手を合わせた。■鳥の話には後日談があり、管理人さんに「どうしましょう」と相談すると、「区役所に聞いてみましょう」と菓子箱の棺を預かってくれた。数日後、「犬や猫は埋葬サービスがあるらしいんだけど、鳥はなくてね。うちの庭に埋めておきました」と言ってくれた。ゴミと一緒に捨てるのは気の毒だしね、という言葉がうれしかった。マンション暮らしにもほのぼのとした交流はある。つぎはどんなお隣さんが来るのだろうか。

2002年01月06日(日)  非戦


2004年01月04日(日)  じゅうたんの花の物語

■2002年秋、「風の絨毯」脚本の話が舞い込んで、わたしが最初にしたことは、ただひとりのイラン人の友人と会うことだった。イラン人の父と日本人の母の血を引く彼は、同時多発テロ直後でテレビ局のニュース翻訳に引っ張りだこの中、時間を割いてくれた。「イランと日本の合作映画で絨毯の話をやりたいと考えているんだけど」と話すと、「イランにこんな話があるよ」と語ってくれたのが、『じゅうたんの花の物語』。そのとき取ったメモが長らく行方不明になっていたのだが、大掃除で発掘できた。走り書きを少し物語風にふくらませて書き記しておこうと思う。
じゅうたんの花の物語

 あるところに仲のいい一家がいました。お父さんは羊を飼い、その羊の毛糸を染めて、お母さんがじゅうたんを織って暮らしていました。子どもたちは元気ないい子ばかりでしたが、お手伝いは好きではありませんでした。
 ある夏、日照りが続いて、羊に食べさせる草が枯れてしまいました。お父さんはひとりで羊を引き連れて、遠いところへ旅に出ました。太陽と星が何度も過ぎ、丸々と太った羊たちと、たくさんの小羊たちを連れて、お父さんが戻ってきました。
「お父さん、どこ行ってたの?」と子どもたちはお話をせがみました。
「北へ行ってきた。北には森があって花があって鳥がいたよ」
「森って何?」
 生まれたときから南に住んでいる子どもたちは、森を見たことがありませんでした。
「森というのは、お前たちの何倍も大きな木が何百とひしめいているところさ」
「あとは何を見たの?」
「海を見たよ。海には魚がたくさん泳いでいた」
「海って何?」
「魚って何?」
「泳ぐって何?」
「海というのは、一面に水が広がっているところだよ。水たまりを百個、いや千個集めたようなところだ。その中を魚というきれいな色をした生き物がひらひらと動き回っているのさ。空を鳥が飛ぶみたいに」
「ぼくたちも海に行きたい!」
「森も見てみたい!」
「お話だけじゃわからない!」
 子どもたちはもう大騒ぎです。お父さんが見てきた場所を、自分たちも行ってたしかめたくて仕方がありません。
「だめだめ。お前たちはまだ小さすぎる。旅は危険だ」
 お父さんは子どもたちの小さな頭をなでて、なだめました。
「じゃあ海を連れてきて!」
「森を連れてきて!」
 子どもたちはおなかをすかせたときのように床をばんばんたたきました。
「そんなことできないよ。海も森も、とてつもなく大きいのだから」
 お父さんは困った顔で言いました。やれやれ、おとなしい羊にくらべて、子どもは何と世話が焼けるのでしょう。
「いい方法があるわ」
 お母さんのやさしい声がしました。お母さんはさっきからお父さんと子どもたちのやりとりを黙って聞いていたのでした。
「いったいどんな魔法を使うんだい?」
 とお父さんがからかうと、お母さんは毛糸を差し出して、言いました。
「さあみんな手伝ってちょうだい。お父さんが頭の中に持って帰ってきた景色を、じゅうたんに織るのよ」
 子どもたちは、わーいと歓声をあげ、色とりどりの毛糸に飛びつきました。こんなにうれしそうにお手伝いをするのは、はじめてです。
「お父さん、森は何色?」
「森は深い緑色だよ。青に近い緑だ」
「海は何色?」
「海は青だ。太陽が当たるところはきらきらと黄色く光る青だよ」
「魚は何色?」
「赤やら黄やら、いろいろだ。しましまの魚もいるし、虹みたいなのもいる」
 子どもたちは森の向こうに広がる海と、その中で泳ぐ色とりどりの魚を早くじゅうたんにしたくて、うずうずしていました。でも、めったにお手伝いをしないので、糸の結び方もさまになりません。最初は失敗ばかりでしたが、子どもたちはしんぼう強くお母さんを手伝いました。少しずつ、森は森らしく、海は海らしく見えるようになってきました。
 秋が過ぎ、冬がめぐってきました。
 出来上がったじゅうたんは、世界中の花がいっせいに咲いたように、きれいで楽しい色があふれていました。空には鳥が、森には花が、海には魚が、いのちの色をきらめかせていました。
「これはお父さんが見てきた森と海だ。ううん、それよりもっと美しい景色だよ」
 お父さんは子どもたちをぎゅっと抱きしめました。
「わーい、海だ! うちに海が来たよ!」
「わーい、森だ! うちに森が来たよ!」
 子どもたちはじゅうたんの森を歩いたり、じゅうたんの海で泳いだりしました。力を合わせて織り上げたじゅうたんは、とても丈夫で、あったかいのでした。
「このじゅうたんがあれば、わたしたちは海や森の中で暮らせるわね」
 お母さんはにこにこしながら子どもたちを見ていました。家族みんなが寝転がれるぐらい大きな大きなじゅうたんなのでした。
 子どもたちはじゅうたんを織るのが大好きになっていました。毛糸を染めるお手伝いも、その毛糸を作ってくれる羊の世話をすることも、いやがらなくなりました。じゅうたんを織るときは、自分たちが見たい景色を織るようにしました。誰も見たことのない珍しい模様のじゅうたんが次々と出来上がりました。そのじゅうたんは、買った人たちも幸せな気持ちにするのでした。
■この微笑ましい物話には、「一枚の絨毯が持つ豊かさ」を教えてもらい、「色の豊かさと心の豊かさ、糸の結びつきと心の結びつきを重ねて描きたい」という方向性を指し示してもらった。脚本の初稿には、絵を描くさくらにルーズベ少年が「日本を連れてきて」と言う台詞を入れた。その台詞はなくなっても、この物語から得たものはスープになって作品に溶けてくれたことを願っている。

2002年01月04日(金)  ひだまりでウェイクアップネッド


2004年01月03日(土)  庚申塚の猿田彦神社

■申年2本目に観たドラマは今夜放送された『古畑任三郎スペシャル』。南米某国を訪ねた古畑氏のパスポートを猿に盗ませ足止めを食らわせる設定で、彼のせいでアリバイを崩された犯人に「今となってはあなたのパスポートを盗んだ猿が憎い」と言わせるところが心憎い。小道具の鍵の使い方にも感心。初オーディオドラマのNHK-FM『浅間』も同じく今夜放送。220年前の浅間山噴火をモデルにした立松和平原作のドラマ化。『アクアリウムの夜』『夢の波間』でご一緒した保科義久さんが演出で、音響はわたしの高校の同級生・嶋野聡君という顔合わせ。ほんとに世の中狭い。『浅間』は噴火のために家族を失った村人たちが、残ったもの同士で縁組し、再び家族を作り、村を再生させる話。夫婦だけでなく、親子の縁も組み直す。天災という圧倒的な悲劇に屈することなく前向きに生きていく人々のたくましさと力強さを感じさせるドラマだった。■人の作ったものに膝を打ってばかりでなく、今年はしっかり書かねば、と自分を戒めて初詣。大晦日に行列していた神社は、今日は貸切状態。巣鴨の庚塚(こうしんづか)にある田彦神社。縁起を担いで。いい作品が書けますように。

2002年01月03日(木)  留守番


2004年01月02日(金)  金持ちよりも人持ち

■夕方にダンナの母と弟夫妻が来るので、朝から必死で大掃除。年末まで仕事だったので、今ごろ汗(冷や汗?)をかく羽目に。乾いたきり投げていた洗濯物の山を崩し、古新聞の山に取りかかる。使えそうな記事を切り抜き、心引かれた部分に蛍光ペンを引き、ファイルに分類する。ザッザッとこなしているつもりでも、結構時間がかかる。「金持ちよりも人持ち、友持ち」という言葉を見つけ、新年の抱負はこれで決まり。■ピンポーンと義母が到着したときは、片付く一歩手前の「捨てる物捨てない物ごちゃまぜ状態」。「いいわよ家族なんだから気にしないで」とおおらかに言いつつ、あれやこれやを投げこんだ『開かずの間』をちゃっかり開けて、「まあ!」と驚いていた。ダンナは新年会。義母と義弟夫妻とわたしで1時間ほどのんびりお茶をし、他愛ない話をして過ごす。「あのサンタクロース、えらい薄汚れてますねえ」。東京育ちだが大学から関西にいる義弟は関西弁で話す。「アメリカいたときのクリスマスにもらったから、もう18年洗ってないことになるわね」と大阪育ちのわたしは標準語アクセントで不思議な逆転現象。サンタさんの垢落としをしなくては。サンタで思い出したが、年末に会社の後輩コピーライターに雪だるまの姿をしたミルク泡立て器をもらったので、今日カフェオレ用のフォームミルクを作るのにデビューさせた。乾電池を入れ、スイッチONにすると、ウィーン。なかなかしっかり泡が立つ。■夜、「向田邦子の恋文」ドラマを観る。恋人のもとへ足しげく通う邦子に恋人が「仕事に障るのでは」と心配すると、「ここに来なきゃ一行だって書けないんだから!」と言い返す台詞が良かった。この人も、好きな人から、書く力をもらっていたんだな。■今年も、金持ちよりも人持ちでいたい。その人たちに力をもらって、作品を書いていきたい、と思う。

2002年01月02日(水)  パワーの源


2003年12月31日(水)  年賀状でペンだこ

■一年でいちばん「自分の手で文字を書く」のは、間違いなく大晦日。仕事ではワープロ、パソコンだし、日記までキーボードたたいてつける生活。まとまってペンを走らせる機会は、年賀状ぐらいになってしまった。毎年、「今年こそは住所をラベル印刷にしよう」と思いつつ、今年も間に合わなかった。それどころか、会社のパソコンからフロッピーに落とした住所録が文字化けしていて、まったく使えない。プリントアウトしてくるのも忘れてしまった。部署の住所録係を買って出た本人が住所録を使えないとは……何をやっているんだか。まあでも、一年前の年賀状を見ながらあて名書きをし、メッセージを書くというのもなかなか良いもので、一年がかりの息の長い文通をしているような気持ちになる。苦労してあて名を書いたのだから、メッセージはせめて住所より長く、などと思ってぐいぐい書いているとペンだこがぷくっと膨らんでしまった。あて名も文章も全部印刷にしちゃえばラクだろうなあという誘惑にかられるのだけど、なかなかそうできない。普段はメールの人、年賀状だけでつながっている人だからこそ、郵便でしか伝えられないものを伝えたいと思うから。たとえ一言でも、手書きの文字の筆圧やクセは、わたしの意気込みや気持ちを語ってくれるし、体温のようなものも運んでくれる気がするから。年賀状を出す相手は年々増えて、今年は300枚を超えそう。来年こそはラベル印刷に頼るかもしれないけれど、あて名のその人に向けた言葉は、自分の手で書き添えたいと思う。

2002年12月31日(火)  大掃除に救世主あらわる
2001年12月31日(月)  祈り
2000年12月31日(日)  2000年12月のおきらくレシピ


2003年12月29日(月)  そんなのあり!? クイズの答え

■ひと月前、折り込みチラシにこんなクイズが載っていた。「200グラムの重りが6つと500グラムの重りが1つあります。500グラムの重りを見つけるのに、天秤ばかりを何回使わなくてはなりませんか」。こういうクイズ、子どもの頃によくやったなあ、と懐かしさも手伝って、考えてみた。左右の秤に3つずつ乗っけて、釣り合ったら、秤に乗せていない1個が仲間外れの500グラムだとわかる。これが最少で見つかるケース。どちらかに傾いたら、下がっているほうの3個に500グラムが混じっていることになる。その3個のうち1個ずつを左右の秤に乗せれば、500グラムの重りを突き止められるから、秤を使うのは最高2回だ。と答えを導き出し、調子に乗って応募したら、1か月後、今月号のチラシに載っていた答えは「0回」とあるではないか。理由は「秤を使わなくても、手で持てば重さの違いはわかるから」。おいおい、そんなのありかいな。


2003年12月27日(土)  腐ったブドウ・熟成したワイン・腐ったワイン

■最近気に入って使っているたとえが、「ブドウはほうっておくと腐るけれど、手をかければ熟成してワインになる」。中古品とビンテージの違いも同じ。人間も年を取って衰えるのではなく、年月をかけて磨きをかけていく生き方ができるはず。ということを話すと、「わかるわあ」と熱く支持するのは、わたしと同世代あるいはその上の女性たち。身に覚えがあるのだろう。「熟成よ」と言い聞かせて年齢と立ち向かう時期に来ているのだ。わたしより下の世代の女性たちは、「まだピンと来ません」という顔をする。一方、肌の衰えが頭髪ほどは気にならない男性たちは、「女って大変だね」とか「せいぜい頑張ってください」といったとんちんかんな反応が多い。いちばん強烈だったのは、「ところで、腐ったブドウからワインってできるんですか?」。つまり、今からがんばっても手遅れなのでは、ということ? まだまだブドウのつもりでいたが、もはやブドウではない? そこまでは考えていなかった。この一撃で、「かわいこワインになるぞー」とワイングラス片手に韻など踏んでいたわたしの酔いは一気にさめた。■先日、脚本家の川上徹也さんに会ったときにこの話をしたところ、「そういや貴腐ワインってのがありますよ」と教えていただいた。調べてみると、微妙な天候のいたずらで、ごくまれにブドウにカビが生えることがあり、このブドウから作られた貴重なワインが貴腐ワインとのこと。腐ったブドウでもワインになれることはわかったけれど、自分がいまどの程度のブドウ状態にあるのかは謎のまま。腐ったブドウか、熟成したワインか、はたまた腐ったワインか。さてどこへ向かっているのやら。

2001年12月27日(木)  今がいちばん若い


2003年12月24日(水)  PLAYMATE#03『ワンダフルボーイ』

■コピーライターにして脚本家という境遇が似ている知人の川上徹也さんからユニットPLAYMATE公演第4弾『ワンダフルボーイ』のご案内をいただく。「クリスマスがガラガラなんですよ」ということで「じゃあイブに行きます」と答えたものの、さて、誰と行こうか。この人ならあいているのでは、という人までもが、見栄もあるのか「予定があります」というこの日、さんざん断られた挙句、ダメもとで先日再会した女優の鈴木薫を誘ってみたところ、「ヒマヒマ!」。世の中わからないものだ。彼女に会うのは今日が3回目なのだけど、なぜかお互いずっと前からの友だちだったような感じ。わたしにとっても彼女にとってもお芝居は楽しみであり勉強になるので、いい相手が見つかってよかった。■お芝居のほうは、おなじみの近江谷太朗さんが主演で、いつもながら愛がテーマなのだけど、今回は「男女」よりも「親子」の愛に光を当てた新機軸。落ち目のAV監督の元に実の息子が男優志望でやってくるという話なのでシモネタも満載なのだけど、じめっとしているどころか、むしろからっとしていて、しっかり笑わせ、ほろっとさせるうまい展開になっていた。上演後はクリスマスプレゼント争奪抽選大会で盛り上がり、会場に残った関係者の皆さんとシャンパンで乾杯。さらに打ち上げにもまぜてもらう。世間の恋人たちがワイングラスを傾ける頃、居酒屋でワッハッハー。近江谷さんはわたしの友人・宮村陽子と同じ舞台に立ったことがあるとか、近江谷さんと今回の舞台でファンになった丸山優子さんのSAT(スーパーエキセントリックシアター)卒業公演の脚本を書いたのが、先日観た「父帰る」の吉村ゆうさんだとか、演劇の世界は映画以上につながっていた。終電の中で日付が変わり、メリークリスマス。

2001年12月24日(月)  イベント大好き


2003年12月21日(日)  SLばんえつ物語X’masの旅 2日目:喜多方

8時起床。誰と旅行に行っても、わたしはいちばん最後に布団からはい出す。同室の女性3人が朝風呂を浴び、身支度を整えたところでむっくり起きだし、朝食へ。予約が15人に達しなかったため、川下り遊覧船は断念。予約していたSLより40分早い在来線電車で鹿の瀬より喜多方へ。喜多方は蔵の町。「飢饉に備えて米蔵を建てさせたんです」と博識のK氏。この人、膨大な量の本を読んで生きて来たのではと思われるが、蓄えられた知識がきちんと整理され、絶妙なタイミングで引き出されるところがすごい。干し柿を見れば、「砂糖が出回る前、干し柿は存在する最も甘い物でした。江戸時代の和菓子は干し柿の甘さを超えてはいけないとされていたそうです」という具合。

みぞれまじりの雪がちらつく中、第一のラーメン屋『あべ食堂』をめざす。ラーメンの前に出される豚の煮こごりのようなものがおいしい。チャーシューもとろとろしていて、ここのカツ丼が隠れた名物というのもうなずける。

腹ごしらえを終えて、大和川酒蔵北方風土館を見学。映画『ジェニファ』のホームステイ先を酒造所で考えたことがあったので、酒作りについてはずいぶん勉強した。本で読んだことをなぞる感覚で興味深い体験。案内のお姉さんの美声と名調子にうっとり聞き惚れ、「こんな風に作った酒を飲みたい!」気分が最高潮になったところで試飲コーナーへ。ほとんどが無料だが、高いお酒は有料。1升15000の酒がおちょこ1杯400円となれば、飲んでしまう。お土産のお酒もついつい買ってしまう。

「では今井さんのためにカフェめぐりを」と気をきかせてもらい、庄屋のお屋敷の応接間でお茶を飲めるカフェへ。お屋敷の雰囲気は素晴らしいのだが、応接間は土産屋と混然となっていて情緒半減。メニューも大半が「(冬なので)やってません」でがっかり。冬季限定メニューでお汁粉を出すとか、ひと工夫すれば人気が出そうなのに、もったいない。喜多方は他にも気になるカフェがいくつかあったので、次回リベンジしたい。

帰りのSL発車まで1時間を切ったところで、「もう一軒行くぞ!」と2軒目のラーメン屋『まこと』へ。おなかいっぱいのはずなのに一同ペロリ。1軒目との違いはよくわからなかった。汁を飲み干したときに器の底に当たりが出ると記念品がもらえるそうだが、ここでも「冬はやってません」。

「発車まであと20分!」となり、駅までひた走る。皆さん、食後によく走ること。ラーメン&マラソン大会をやったら上位に食い込むのではなかろうか。無事、新潟行ばんえつ物語号に間に合う。座席に着くなり、酒盛り開始。昨日と同じく乗車記念証と葉書が配られ、抽選大会が行われる。大阪の親と東京の親に手紙を書き、車中の郵便ポストに投函。特製スタンプが押されるとのこと。

白いツリーがきらめく展望車ではゴスペルコンサート。喜多方の駅のホームで練習していた姿を見かけ、「ゴスペラーメンズだね」と勝手に名付けていたのだが、新潟を拠点に活動する『REJOICING(リジョイシング)』というグループだった。生で聞くゴスペルは心地よく、SLの中というシチュエーションも手伝って、メロディも歌詞も心に染みた。大きな窓から銀世界を臨みながら大好きなWhite Christmasを聴けたのが最高だった。乗客の方に「ノリいいですねえ」と話しかけられるほど、ほろ酔いご近所8人組はノリノリで聴いていたらしい。

新潟から上野の新幹線は東京ディズニーランド20周年の広告一色。座席の背もたれカバーも20周年仕様。駅弁を肴に日本酒を飲み、1泊2日の思い出話や新年会の企画で盛り上がる。ご近所さんと旅行に行くのも初めてならば、SLに乗るのも初めて、そばの里・山都もラーメンの里・喜多方も初めて訪れた場所だったし、今年初めての雪を踏んだ。「今回のSL旅行をシナリオに書こうかな」と言うと、「誰が犯人?」。電車が舞台のドラマ=サスペンスと思われているらしい。

2002年12月21日(土)  切手占いと『鉄カフェ』1st drip
2001年12月21日(金)  サプライズ


2003年12月20日(土)  SLばんえつ物語X’masの旅 1日目:山都〜鹿瀬

今年もいろんなことが起こりそうだと思っていたけれど、SLに乗ることは予想していなかった。ご近所仲間のT氏が企画した「SLばんえつ物語X'masに乗る旅」に乗っかり、思いがけなくSLを体験をすることに。

T氏のことは先日「時刻表マニア」と紹介してしまったが、鉄道ファンと呼ぶのがふさわしいらしい。「鉄ちゃん」という呼び方もあるそうで、主流は「撮り鉄」だけど、「私は数少ない『乗り鉄』です」とT氏。電車話が肴の「飲み鉄」、沿道から電車に手を振る「振り鉄」などという応用語も。ではわたしは電車をネタに「書き鉄」になるとするか。

7:18上野発の「とき」に乗り込み、ばんえつ物語号の待つ新潟へ。寝不足がたたって車中爆睡。その横で同行の7人は持参の酒とお猪口で宴会開始。途中「トンネルを抜けると雪国」になったとか、「亀田製菓の近くであられが降った」などとは露知らず新潟着。

ホームには、おおっ、鼻先にリースを飾ったSLばんえつ物語号が。ちらつく雪が黒い車体に映え、にわか「撮り鉄」してしまう。今回は本来牽引するはずだった「C57」(シゴナナ)が直前に体調を崩して回復のめどが立たず、「走行取り止めか!?」とやきもきさせられた。結局、わたしにはより馴染み深い「D51」(デゴイチ)が代役を務めることになり、「CでもDでもEです」と同行者K氏の名言。某代理店のスローガンのようだけど。ちなみにC、Dというのは車輪の数(Cは3、Dは4)を意味するとか。

遅れた電車から乗り換える人を待って、予定より40分ほど遅れて10:20出発。ホワンと汽笛を響かせ、シュッポシュッポと会津若松方面へ。車中ではT氏に「スジ」と呼ばれるダイアグラムの解説を受ける。縦軸に走行距離、横軸に所要時間を取り、線でつなげたもので、「スジが立っている」ほどスピードは速いことになる。逆は「スジが寝ている」。転じて「あそこの窓口はスジが寝てる(作業が遅い)」といった使われ方もあるとか。ダンナに言われないように気をつけねば。

窓の外は一面の銀世界。昨夜降ったばかりの深雪なので白がきれい。ガタンゴトンという心地よい揺れを楽しみながら、雪見酒。途中、停車しないはずの駅で一時停止すると、ホームでT氏の鉄仲間がこごえていた。シャッターチャンスを狙って待ち構えている撮り鉄さんには、到着の遅れはこたえたのでは。デゴイチは挽回する素振りも見せず、黙々と(そしてモクモクと)自分のペースで走り続ける。

プレゼント大会(賞品は特製のピンバッチ、カレンダー、クリアファイル)、サンタによる風船大道芸、記念乗車証と絵葉書の配布などあり、乗客を飽きさせない。これで通常料金なのだから、指定席があっという間に売り切れたのも納得。8人分の座席をおさえたT氏、乗り鉄の面目躍如といったところ。

1時間遅れで「そばの里」山都(やまと)着。予約しておいた地元の山都タクシーが待っていてくれた。「駅で10分(この日は7分)停車する間に先回りして、鉄橋を渡るところを撮ろう」というT氏のスペシャル企画で、急いで鉄橋下へ乗り付け、自分達が乗ってきたばんえつ物語号を撮る。雪、川、鉄橋、SL、煙、なんとも絵になる。タクシーは鉄橋を後にし、そば屋が13軒連なる「宮古」へ。眉はないけど笑いのセンスはある運転手さん、「ここが国道かってとこ走ってんだべさ」とお国言葉で突っ込みを入れながらのドライブ。

着いたそば屋は「入中島屋」。ここの料理を思い出すと顔がにやける。わらび餅のような歯ごたえの刺身こんにゃく、しっかり味のするきのこ、貝柱のだしがきいた野菜の煮物「こづゆ」など、出るものすべてがおかわりしたいおいしさ。そばを食べられないわたしには炊きたての舞茸ごはんが出されたのだが、皆が「わんこそば」する横で、わたしも「わんこ飯」してしまう。

ここのご主人は「山菜名人」だそうで、熊の住む山に分け入り、山菜やきのこを採ってきて出している。先日熊と格闘した折、深手を負い、ひと月入院したばかりとのこと。とても愛嬌のあるおじさんで、「こんなの食べたことあるか?」とかぼちゃと小豆を煮た「いとこ煮」も出してくれた。田舎の親戚の家に遊びに行ったような雰囲気で、ほんとに楽しい食事になった。そばは食べられないけど、また行きたい。

山都から再びSL。元来た方向に1時間ほど揺られ、日出谷駅着。ホームには、地元の方々が飾りつけたクリスマスイルミネーションと雪だるまがお出迎え。宿泊は鹿瀬温泉赤崎荘。温泉で「すす」を落とし、名物のしし鍋を食べた後、お楽しみのクリスマスプレゼント交換。最後にやったのは何年前なのか、やってみると、予想以上に盛り上がった。ワイングッズ、旅グッズ、グルメ本、色もの……贈り主の人柄と受け取り手との組合せの妙が面白く、「来年もやりましょう」となる。

わたしが昨晩用意した「オレンジとレッドのゼリーに植えたアイビー」はT氏にもらわれ、わたしはK氏の「2004年當用日記」を贈られた今回の旅に参加したメンバーで集まるようになったのは、今年の後半から。好奇心旺盛、話題豊富な人たちで、おかげでずいぶん楽しい年になった。来年の日記に、このメンバーとの想い出を綴れることを願う。早起きだったにも関わらず、話は深夜まで尽きなかった。

2002年12月20日(金)  生爪様
2001年12月20日(木)  幸せの粒

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