2003年11月21日(金)  押忍!いくつになっても応援団

学生時代、応援団チアリーダー部というところにいた。応援団というのは、ハタから見ると野蛮で荒唐無稽な存在のようで、「何が面白くてやっているの」と4年の間に百回以上は聞かれた。母校のチームを応援するときも気合十分だが、それ以上に気合が入るのが他大学応援団との酒の席。試合では応援する身だが、飲み会では団員自ら選手となって戦う。先輩の注いだ酒を真っ先に飲み干し(頭の上で空のグラスをひっくり返して証明する)た下級生だけが名刺を頂戴できたり、サッポロソフトという酒というよりアルコール原液のようなものを石油ポンプで飲まされたり。そのまわりをビニール袋を張ったポリバケツが取り囲んでいた。わたしは好奇心が勝ってそれなりに修羅場を楽しんでいたけれど、「応援は好きだけど酒は嫌い」と去って行った仲間は数え切れない。

苦労を共にした者同士の結束は強まるようで、卒団してからもつきあいは続き、学校や学年の違いを超えて一緒に飲む。今夜はわたしの大学のひとつ上のリーダー部長だったI先輩が上京していて、のぞみの終電で大阪に帰るというので、東京駅近くに4大学からOBが集まった。8時過ぎに到着すると、全員が大声で一斉にしゃべり、すでにわけがわからない状態。社会人になって十年以上経つというのに、まるで飲み方が変わっていない。皆さん、職場で浮いていないだろうか。心配だ。T大リーダー部だったK先輩は「お前はーきっといいことあるぞぉー」とわたしの頭を木魚のようにたたき続けた。

9時過ぎ、I先輩を見送りに東京駅へ。切符売場で「ニューじゃんやろーぜ!」。負けた人が全員分のジュースを買う「ジューじゃん」の入場券版。N大のI先輩が8人分を買う羽目に。数分後、新幹線ホームは演舞会場となり、冷たい視線をものともせず、マーチやエールが繰り広げられた。酔っ払った応援団員ほど怖いもの知らずはいない。奇妙な光景を写真に撮りながら、中に入ってみない限り理解できない集団だろうなあと思う。熱くて、まっすぐで、情にもろくて、ちょっと不器用で……結局のところ、応援団を離れられない理由は「人」なのだ。明日は、わたしと同期で2年前に急逝したH大のI君の命日。関西にいる応援団関係者が集まって、霊前にお参りすることになっている。東京組からはラベルに寄せ書きをした焼酎をI先輩に託した。新幹線の中で口をつけてなければいいのだけど。

2002年11月21日(木)  ファミレスの誘惑


2003年11月13日(木)  SKAT.2@Wired Cafe

■渋谷のQフロントビル6階に10月25日にオープンしたWired Cafeは、お茶しながらネットができて、本も読める場所。置いてある本はかなり偏っていて、『ブレーン』『宣伝会議』など広告関係のものがほとんど。宣伝会議社とタイアップしているのだろうか。SKAT.2という冊子を手に取る。SENDEN KAIGI AWARD TEXTを略してSKAT。「第40回宣伝会議賞優秀作品一挙公開」の副題。宣伝会議賞はプロ・アマを問わないコピーライター選手権のようなもので、わたしも何度か応募していた。懐かしい気持ちでページをめくる。この賞は数十社ある協賛企業が課題を出し、それに応募者が挑戦する形になっているのだが、お題発表広告に各社の遊び心が効いている。板チョコが札束(金賞は賞金百万円)に化けていたり、「うちの商品を飲んで考えよう」といったキャッチがあったり。第40回は過去最高の応募数だったそうで、審査員は「最終ノミネートされた全部に賞をあげたいぐらい」だったとか。シナリオ新人コンクールの選評では最近「低調」の嘆きが目立つがコピー界の未来は明るいと見える。■激戦を勝ち抜いた金賞は「お母さん、そのお皿の洗い方はなに?」。課題商品はアルバイト発見マガジンan。「『そのお皿の洗い方は何ですか』だったら受賞しなかった」という審査員コメントに納得。ターゲットの気分がよく出ている。「ごちそうよりごちそうさまを大切にしています」という丸大食品の企業広告も印象に残る。「最終ノミネート」「2次審査通過作」も掲載されていて、読み比べると、賞を取るコツをつかむいい勉強になりそう。■感激したのは、第1回(1962年)からの金銀銅賞が特集されていたこと。第1回の金賞はサントリービールの商品広告で「最初のノドごしをお聞かせください」。第9回(1970年)は「8月37日。」。お題はジャルパックのJOYハワイ。全然古さを感じさせない。第16回(1978年)は「さらば視聴率、こんにちは録画率」。松下ホームビデオの広告。でも現代もまだ視聴率。第16回(1982年)の「愛しあっているのなら、0.03m/m離れなさい」(岡本理研ゴム)、第28回(1990年)の「明日の自分に借りるのだ」(アコムキャッシング)はやっぱり強い。第32回(1994年)の「女子トイレがとっても混雑しているのは落ちやすい口紅にも責任があると思います」(コーセーヴィゼ)にも時代が見える。わたしのお気に入りは第38回(2000年)の「精子だった頃の運をもう一度」(LOTO6)。生まれてきただけで大強運の持ち主。■受賞コピーと並んで、受賞者のコメントを読むのも好きだ。受賞にそれぞれの人が勇気や励ましをもらっていることが伝わってきて、コピー以上に心を動かされることもある。「もう少し頑張りたくなった」「書き続けていいよと言われた気がした」といった言葉に、自分が応募していた頃を思い出す。広告代理店のコピーライターになれたものの、なかなか戦力になれず、もどかしさを感じていた。宣伝会議賞は、全国にいるライバルの胸を借りる年に一度の機会だった。応募したコピーが1次審査2次審査と勝ち進んでいくのを見て、自分の力を確かめていた。入社2年目にリクルート社の「じゅげむ」のラジオCMが審査員特別賞に。授賞式で知り合ったコピーライターたちとは、励ましあう仲間になった。入社5年目に東ハトの「キャラメルコーン」のコピーで協賛企業賞をもらったのを最後に、応募は卒業した。今もコピーを書き続けていられるのは、宣伝会議賞があったからだし、これからもコピーを書く人は、この賞を目指し、卒業していくのだろう。ずっと続いて欲しい。


2003年11月11日(火)  空耳タイトル

「前田監督の映画、『キンチョー★ROCK』いうんやってね」と大阪の母より電話。「キンチョーやなくてガキンチョやけど」と言うと、「劇場に問い合わせたら、キンチョーて言われたよ」。劇場の言い間違いか母の聞き間違いか、キンチョーとは大阪らしい。前田監督に伝えたら「『ガチンコ★ROCK』と言う人もいる」とのこと。母は以前、『スリーパーズ』を「三人のパーの物語」と勘違いしていた。「ちょうど主人公の男の子が3人おってん」と言うが、「パー」に複数のSがつくかいな。父からは「黒川芽以ちゃんがラジオに出て、『屋根裏の野良猫』の話しとった」と電話があった。『路地裏の優しい猫』なんだけど。そんな両親の血を受け継いだわたしは、ショーンコネリー主演の『ザ・ロック』を伝説のギタリストの話だと決めつけて観に行った。ロック(アルカトラス島の別名)から脱走を図る囚人の話だとわかるのに20分かかった。最近は映画情報にも少し明るくなって間違いも減ったと思っていたら、電車の中吊り広告を見て、重大な思い違いに気づく。「ねえねえ『ファイティング・ニモ』じゃなくて「『ファインディング・ニモ』だったって知ってた?」と同僚たちに言うと、「ファイティングだと思ってた」という答え。「でしょでしょ、ニモの視点から見ると、ファイティングだよね」と同意を求めると、「っていうか、君がファイティング・ニモって連呼してたから」。ちなみにわたしの作品でいちばん間違われ率が高いのは、『パコダテ人』。聞きなれない造語のせいで、『ハコダテの人』と記憶されていることが多い。『箱だけ人』『パタゴニア人』『パンダゴテ人』……こうなると、もう別人。

2002年11月11日(月)  月刊デ・ビュー


2003年11月09日(日)  小選挙区制いかがなものか

■夜8時から朝3時まで延々と選挙報道を見る。今回は知人が立候補していて、当落が気にかかっていたのだが、結果が出ないうちに、ずるずると見てしまった。最初はダンナの実家で義母と二人で見ていた。「あら人相悪いわね」「やだ、まだいたの、この人」と義母は画面に向かって絶妙な突っ込みを入れる。そこに、ほろ酔いの義父が帰ってきて、「俺は投票用紙に『雅子』って書いたぞぉ」とふざけてのたまう。「それは大いに無効票ですねえ」などと笑いながら、義父の実況解説つきでワイワイと票の行方を見守る。■見ている間にむくむくと膨らんできたのが、小選挙区という制度への疑問。いちばんの人しか選ばれないって、面白くない。候補者も様々だけど、有権者も様々。1選挙区1人というのは、いろんな可能性をバッサリ切り捨てているように見える。メジャーなことは悪くないけど、メジャー=絶対という図式は少数派のチャンスを狭めてしまう。シナリオコンクールも「大賞1点のみ」より「優秀賞」や「特別賞」があるほうが応募意欲が湧くんだけど。自宅に戻り、一人で続きを見ているところに帰ってきたダンナをつかまえ、「小選挙区制いかがなものか」と息巻くと、「今回から始まったわけじゃないんだけど」と勉強不足をあきれられた。10年前から導入されていて、もう3度目の選挙だとか。今回小政党が大敗したのは、選挙制度が変わったからではなく、小選挙区はもちろん比例区でも議席を減らしたのだと。政党そのもののパワーの問題なのか。ただ今回は、マニュフェストというありがたそうだけど借り物に終わった概念が一人歩きし、「自民党と民主党、どっちのマニュフェストを選びますか」と突き付けられた印象があった。それに制度が絡んで「どっちかが勝つ」図式になったのかもしれない。■留学先で選択したアメリカ史の授業では、共和党と民主党が政権交代を繰り返してきた歴史を学んだ。「二大政党制のいいところは、主張の異なる二つの政党がそれぞれの方向に引っ張り合ってバランスが取れること。どちらかの党が行き過ぎたら、もうひとつの党がブレーキとして働くの」とMrs.Lee先生は言った。そのとき、教室から質問の声が飛んだ。「でも二つの政党が同じ方向を向いたら、どこまでも飛んで行ってしまって、誰も止められないんじゃない?」。先生は「いい質問ね」と褒め、「そこに二大政党以外の政党の意味があるの。たとえ少数でも議論のきっかけは起こせるし、議論するのが議会の仕事よ」と答えた。あなたが使う一票の先には、国を動かすストーリーがある。それを想像することも政治に参加すること、と教えてくれた。日本の政治はどこへ行くのか、ちゃんとお勉強して、想像力を働かせて見守らないと。

2002年11月09日(土)  大阪弁


2003年11月08日(土)  竜二〜お父さんの遺した映画〜

ストレイドッグ第16回公演『竜二〜お父さんの遺した映画〜』を観る。生江有三氏のノンフィクション『竜二 映画に賭けた33歳の生涯』(幻冬舎刊)を原作に森岡利行さんが脚本・演出を手がけている。竜二というのがモデルとなった男性の名前だと勝手に思い込んでいたが、役者であり、『竜二』をはじめ幾つかの映画の脚本を書いた金子正次さんの人生を描いた話だった。自分が映画で主役を張るために脚本を書くようになったが、売り込みをかけてもなかなか色良い返事はもらえない。脚本を買われても、「主役は客が呼べる役者にしたい」と言われたりする。それでも、「自分が主役で無ければ意味がない」とこだわり、病魔に冒された体に鞭打ち、資金難の中で『竜二』を完成させる。だが、『竜二』が公開されて間もなく、彼は33歳で命を閉じる。それが20年前の11月6日だった。昨年の公演の再演である今回の公演は、命日に幕を開けている。■役者、製作者を問わず、映画関係者に金子正次ファンは多いらしい。好きな道を突き進む生き方にかっこよさを感じるのだろう。去年は舞台の初演と同時期に同名の映画が公開された。会場には映画の出演者も何人か見えていた。今日の舞台とあわせて、映画『竜二〜お父さんの遺した映画〜』と『竜二』も見てみたくなった。■いつものように打ち上げに参加させてもらう。竜二の相手役だったシェイプUPガールズの中島史恵さんを紹介される。年下なんだけど、姉御肌のカッコいいお姉さん。「この間お会いしましたよね?」と言うと、首をかしげられる。10ガールズの福地香代さんと勘違いしていた。「すいません、オスカーでガールで髪の長い美人って覚えていたので……」と言い繕っていると、「オバチャン、もうわかったがな」と木下ほうかさんに突っ込まれる。『パコダテ人』を観た森岡さんにわたしを紹介してくれたほうかさんは、映画版『竜二〜』にプロデューサー役で出ている。『料理昇降機』に出演していた古川康大さん、工藤剛さんは、わたしの日記の感想を読んでいて、「あの後、ファンの方がオリジナルの英語脚本を届けてくれました」と報告してくれる。観に来ていた蛍雪次朗さんにあたたかい言葉をかけられ、観劇で涙ぐむ女優さんも。今夜も元気をもらって帰る。


2003年11月06日(木)  よかったよ、ガキンチョ★ROCK

いつもアホな冗談言い合っているが、作品を見せられると、「この人、すごい人やったんやー」と思い知らされるのが前田哲監督。今日シネフロントで見た新作ガキンチョ★ROCKは膨れた期待を上回る勢いで面白かった。前田作品は毎回とてもチャーミングだけど、今回は監督が普段からおどけて言っている「オッス! メッス! キッス!」に象徴されるように、前田色が濃く出ていて、登場人物たちのダメな部分であり愛せる部分にも前田さんの目線を強く感じた。大阪弁の映画は大好きで、それだけで点数が3割増しになるが、観ている途中はワクワクドキドキして、観終わるとスキッとする、爽やかでハートウォーミングな作品になっていた。

ロックバンドが主人公で全編が音楽に彩られ、ミュージカル仕立てになっているシーンもあるのだが、使われている歌がどれもぴったりしっくり、東京国際映画祭でのリージョナルフィルム上映ということでつけられた英語字幕の歌詞も見事にはまっていた。中島みゆきの『時代』にだけ字幕がなかったのは残念。許諾の関係なんだろうけど、外国人の観客さんも歌詞の意味がわかったら泣けただろうなあと思った。『時代』のシーン、わたしはボロ泣き。

キングコングの西野亮廣さん、梶原雄太さん、ロザンの宇治原史規さん、菅広文さん、彼らの憧れの比呂美ちゃん役の清水ゆみさんも等身大で生き生き、キラキラと演じていて大好感。アイドル歌手になりきったチュートリアル徳井義実さん、警官役の田中要次さん、御曹司役の山中聡さんなど、クセのあるキャラたちからも目が離せない。登場人物の個性が際立って見えるのは、衣装デザインの小川久美子さんの魔法も、もちろん入っている。今回もかわいかったなー、衣装。

上映の後はトーク。監督、キングコング、ロザン、清水ゆみさんの5人に田中さん、山中さんら「キル・ビル出演組」4人が加わり、大盛り上がり。観客はキングコングとロザンのファンの方が多かったようで、リアクションが大きく、気持ちよくそのノリに巻き込まれた。後でわかったことだけど、MCの女の子は、友人ミナのホームパーティーで一度会っていた安田佑子さん。映画大好きな人で、『パコダテ人』も観てくれていた。

出口のところで田中要次さんを見かけて、「パコダテ人の今井です。ジェニファもゲロッパも見ました」と声をかけたけど、きょとんという顔をされていた。たぶん忘れられている。覚えてもらうよう、まだまだ書かないと。なんだか、とても映画を作りたくなった夜だった。


2003年11月02日(日)  ロンドン映画祭にも風じゅーの風!

■ロンドンに住む留学時代の同期のナオコから「ロンドン映画祭に『風の絨毯』が出品されることがわかったので、見に行ってきました」とメール。2回ある上映のうち1回目はチケットがsold-outで、2回目を観てくれたそう。「日本語がわかる日本人と、イラン語がわかっているイランの人たちと、英語の字幕を読んでいるイギリスの人はみんな笑うタイミングがみんな微妙に違ってた」と興味深いレポート。東京国際映画祭でもそうだったなと思い出す。「あと、映画の後にも面白いことがあって……」というこぼれ話がついていた。会場でロンドン在住の日本人女性に声をかけられてしばらくおしゃべりしていたら、映画の最初の場面で工藤夕貴さんが着ていた洋服をデザインした人だったのだそう。日本に一時帰国していたときにたまたまテレビを見ていたらインタビュー番組に夕貴さんが出演していて、一瞬映った『風の絨毯』の一場面を見て、自分が昔デザインした服だと気づかれたそう。「その後この映画を見たいと思っていたんだけれどもロンドン在住だしあきらめていたら、ある日ふっとこちらの日本人情報誌が目に留まったと言ってました」と、偶然が重なり、無事観ていただけた様子。ナオコとデザイナーさんとはすっかり意気投合し、これからもおつきあいが続きそうとのこと。人と人のつながりから生まれたこの作品が、ロンドンでもあたたかい風を吹かせてくれたことがうれしくて、プロデューサーの益田さんと山下さんにも知らせる。つくづく、映画は人をつなげる天才。■ちなみにロンドン映画祭のサイトの『風の絨毯』紹介は、ネイティブの人から見ても「いい英語」らしい。

2002年11月02日(土)  幼なじみ同窓会


2003年10月29日(水)  日米合作映画『Jenifa』完成試写

映画『Jenifa』に関わるようになったのは、今年1月。プロデューサーの佐々木亜希子さんから電話があり、日本にホームステイするアメリカ人の女の子の話なんだけど…と相談されたのが、きっかけだった。以前、『パコダテ人』の前田哲監督に紹介されたときに留学経験があると話したのを覚えていてくれたのだった。原案者のJennifer Holmesを交えて話を聞き、シノプシスにアドバイスするうちに脚本を書くことになった。

ジェニファが日本で一年を過ごしたのは16才のとき。わたしは同じ16の年にアメリカで一年を過ごした。そのときに感じた驚きや喜びや、今も消えない記憶がよりどころになった。肌の色も言葉も違う他人の家に家族の顔をして一緒に暮らすホームステイというのは、なんとも不思議な体験で、ホームステイする本人もされる側の家族も互いに「変化」を迫られる。目をそむけていたものに直面させられ、後回しにしていたものが急かされ、当たり前だと思っていたことが通用しなくなり、信じていたものが揺らぐ。「ホームステイする外国人」という異物を受け入れることで、なんとなく流れていた日常がかき回され、新しい形になる。ばらけていたものがまとまる場合もあるし、微妙なバランスが崩れることもある。Jenifaのストーリーは決定稿になるまでに何度も設定が変わったけれど、ジェニファが「再生」をもたらす流れは変わっていない。どこかでボタンをかけ違えたままの夫婦、不完全燃焼の娘、傷ついた少年……彼らのもとに何の前触れもなくやってきた赤毛の女の子・ジェニファが、わだかまりやくすぶりを少しずつ溶かし、大切なもの(=愛)に気づかせる。

五反田イマジカで関係者試写があった。決定稿から撮影稿を経て、さらに現場での変更も加わっているので、脚本を書いた本人にもいろんな発見がある。脚本通りに撮っている部分は、「ああ、こんな絵になるんだ」、脚本になかった台詞やシーンは、「なるほど」。頭の中にある脚本と見比べながら鑑賞するので、最初の試写には味わうという余裕がない。役者さんたちは、それぞれはまっていた。荒木隆志(荒木という苗字はunluckyからの連想でつけた)役の山田孝之さんは、難しい役をよく自分のものにしていた。台詞の外にある台詞を表情で表現する力のある人と思った。モノローグ形式のナレーションも印象に残った。『パコダテ人』で調査団長役だった田中要次さんが檀家役で出演。郁代役の浅見れいなさんは、のびのびと演じていて魅力的。ジェニファと郁代のシーンを見るのは楽しかった。郁代はミシンが得意でリメイクワンピを作るのだけど、その設定をうまく活かして「再生」のメッセージにつなげていた三枝監督の演出がうれしかった。最後のほうに、脚本にはなかった、とても好きなシーン(風景)があった。出口で三枝健起監督に「やられました」と言ったら、「前日に思いついたんだよ」と照れていた。

2002年10月29日(火)  『風の絨毯』ワールドプレミア


2003年10月19日(日)  100年前の日本語を聴く〜江戸東京日和

100年前の日本語を聴く」というポスターに興味をそそられ、江戸東京博物館へ。パリ万博の際に世界各国から集まった人の声を録音したものを公開する試み。スクリーンに映し出されたレジュメをもとに研究学者の方が解説をし、それに添って録音を再生していく形で、言語学学会を聴講させてもらっているようなアカデミックな内容だった。

「パリ万博で人気を博した日本の五重塔が六重塔になっていたのは、フランスでは1階を0階と数えるから、5階建ての塔を作ろうとして6階になったのでは」といった興味深い話も聞けた。百年前、緊張してマイクに向かった人達の声を今の日本で聞く不思議。大昔のように感じるけど、言っていることはちゃんとわかる。タイムマシンに乗って百年前の人に会うことがあっても、話は通じるぞ。パリ人類学協会の厚意により、ネット上で一部公開されているので、興味のある方はこちらの下のほうにある「パリ録音(1900)の見本」をクリック。

ついでに企画展「東京流行生活展(11/16まで)」をのぞいたら、これがまた食べるものと着るものが大好きなわたしのハートを鷲づかみ。

竹久夢ニの小説「恋愛秘話」(1923 大正13年)の一節《昔は、見そめる、思ひそめる、思ひなやむ、こがれる、まよふ、おもひ死ぬ、等等の言葉があった。今は一つしかない。「I LOVE YOU」》にしびれたり、考古学ならぬ考現学を提唱し、今を生きる人々が何を身に付けどのように行動したかを観察し、まとめ上げた今和次郎(こん・わじろう)という学者を知ったり(この人の描いた「銀座のカフェーwaitress服飾特集」や「丸ビルモダンガール散歩コース」などのスケッチは、「散歩の達人」にそのまま使えそうな今っぽさと味がある)、昭和40年代の大東京土産「空気の缶詰」に印刷された「汚れた空気の缶詰 田舎では得られない珍品」のコピーに吹き出したり、昭和47年に康康・蘭蘭が来た頃のパンダブームの頃のぬいぐるみを見て、「わたしも持ってたー」と懐かしくなったり、一人百面相をしながら大正から昭和を駆け抜ける。

映像ホールでは昔の映像を無料公開。昭和30年代に作られたという東京の最新観光事情をまとめたフィルム。当時の東京観光の人気ベスト5は「皇居 東京タワー 羽田空港 霞ヶ関ビル 浅草」。「交通ラッシュも高速道路も観光対象」だったらしい。観光とは日常を離れた体験をすることなので、東京の人にとっての観光は「前衛演劇」であり、そこで「芝居よりも若者の風俗を見ていた」そうな。うーん、あなどれない奥深さ。江戸東京博物館はかなり遊べるぞ。着物体験なんてのもやっていた。

夜は駒込にある旧古河庭園へ。秋バラの季節で10/1〜19の10日間だけ夜のライトアップを行っている。足を踏み入れたのは初めてだったが、洋館とイギリス風の庭園と日本庭園が共存する夢のような場所で、行き交う人々の表情もどことなくうっとり。外国の庭を歩いているような夢見心地を味わう。特設テントではビーフシチューの前に行列。グラスワインを売っているのも気が利いている。期間中の土日だけコンサートを行っていて、今夜はマリンバの合奏。軽やかな音色のハーモニーが広い庭を満たした。今年は江戸開府400年。歴史のある街に住むのは面白い。

2002年10月19日(土)  カラダで観る映画『WILD NIGHTS』


2003年10月15日(水)  このごろの「悲しいとき」

黒いスーツに身を包み、真顔でファイティングポーズのまま「悲しいとき……」と身の回りにあるトホホな出来事を淡々と訴える二人組『いつもここから』。彼らのネタを聞いていると、悲劇と喜劇は背中合わせだなあと身につまされる。取り返しのつかない惨劇は別だけど、本人が「悲惨だったよー」と半分笑って振り返れるぐらいの災難は、同情よりも笑いを誘う。わたしの場合、受けを狙ってギャグを言っても無視されるか叱られるのがオチなのに、わが身にふりかかった悲しい話はやたらと受ける。というわけで、今日は、「最近の悲しいとき」特集。

【悲しいとき1 地震で胸だけ揺れなかったとき】
先日東京で震度4の地震があり、職場の高層ビルにいたわたしは入社以来最大の揺れに震え上がった。その夜、ダンナに「怖かったー」と報告すると、「それでも揺れなかったんでしょ、君の胸は」。なんせ低層ですから……。

【悲しいとき2 お化粧したら病人にされたとき】
貧血のため会社を午前半休。回復したので午後になって出社すると、同僚たちが「大丈夫? やっぱり顔色悪いよ」。血の気が戻るまでの間、ヒマなので珍しくしっかりお化粧しただけなのに……。

【悲しいとき3 しおれたポインセチアと一緒にされたとき】
職場の窓辺に置いたポインセチアがしおれていた。水はあげてるのになぁ、と男性社員たちが首を傾げていたので、「霧吹きをしたら元気になるよ」と教えると、「そっか、空気が乾燥してるのかぁ」と納得、感心される。調子に乗って「ほら、わたしもどんどんしおれてるでしょ」とボケてみると、「なるほど」と納得されてしまった。そんなことないよ、と軽く突っ込んで欲しかったのだけど、霧吹きが必要なのはポンンセチアよりわたしだったか……。

この手の話は同情を煽れば煽るほど、聞き手の笑いのツボを刺激して,ドツボにはまる。それもまた悲しい。

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