2003年11月08日(土)  竜二〜お父さんの遺した映画〜

ストレイドッグ第16回公演『竜二〜お父さんの遺した映画〜』を観る。生江有三氏のノンフィクション『竜二 映画に賭けた33歳の生涯』(幻冬舎刊)を原作に森岡利行さんが脚本・演出を手がけている。竜二というのがモデルとなった男性の名前だと勝手に思い込んでいたが、役者であり、『竜二』をはじめ幾つかの映画の脚本を書いた金子正次さんの人生を描いた話だった。自分が映画で主役を張るために脚本を書くようになったが、売り込みをかけてもなかなか色良い返事はもらえない。脚本を買われても、「主役は客が呼べる役者にしたい」と言われたりする。それでも、「自分が主役で無ければ意味がない」とこだわり、病魔に冒された体に鞭打ち、資金難の中で『竜二』を完成させる。だが、『竜二』が公開されて間もなく、彼は33歳で命を閉じる。それが20年前の11月6日だった。昨年の公演の再演である今回の公演は、命日に幕を開けている。■役者、製作者を問わず、映画関係者に金子正次ファンは多いらしい。好きな道を突き進む生き方にかっこよさを感じるのだろう。去年は舞台の初演と同時期に同名の映画が公開された。会場には映画の出演者も何人か見えていた。今日の舞台とあわせて、映画『竜二〜お父さんの遺した映画〜』と『竜二』も見てみたくなった。■いつものように打ち上げに参加させてもらう。竜二の相手役だったシェイプUPガールズの中島史恵さんを紹介される。年下なんだけど、姉御肌のカッコいいお姉さん。「この間お会いしましたよね?」と言うと、首をかしげられる。10ガールズの福地香代さんと勘違いしていた。「すいません、オスカーでガールで髪の長い美人って覚えていたので……」と言い繕っていると、「オバチャン、もうわかったがな」と木下ほうかさんに突っ込まれる。『パコダテ人』を観た森岡さんにわたしを紹介してくれたほうかさんは、映画版『竜二〜』にプロデューサー役で出ている。『料理昇降機』に出演していた古川康大さん、工藤剛さんは、わたしの日記の感想を読んでいて、「あの後、ファンの方がオリジナルの英語脚本を届けてくれました」と報告してくれる。観に来ていた蛍雪次朗さんにあたたかい言葉をかけられ、観劇で涙ぐむ女優さんも。今夜も元気をもらって帰る。


2003年11月06日(木)  よかったよ、ガキンチョ★ROCK

いつもアホな冗談言い合っているが、作品を見せられると、「この人、すごい人やったんやー」と思い知らされるのが前田哲監督。今日シネフロントで見た新作ガキンチョ★ROCKは膨れた期待を上回る勢いで面白かった。前田作品は毎回とてもチャーミングだけど、今回は監督が普段からおどけて言っている「オッス! メッス! キッス!」に象徴されるように、前田色が濃く出ていて、登場人物たちのダメな部分であり愛せる部分にも前田さんの目線を強く感じた。大阪弁の映画は大好きで、それだけで点数が3割増しになるが、観ている途中はワクワクドキドキして、観終わるとスキッとする、爽やかでハートウォーミングな作品になっていた。

ロックバンドが主人公で全編が音楽に彩られ、ミュージカル仕立てになっているシーンもあるのだが、使われている歌がどれもぴったりしっくり、東京国際映画祭でのリージョナルフィルム上映ということでつけられた英語字幕の歌詞も見事にはまっていた。中島みゆきの『時代』にだけ字幕がなかったのは残念。許諾の関係なんだろうけど、外国人の観客さんも歌詞の意味がわかったら泣けただろうなあと思った。『時代』のシーン、わたしはボロ泣き。

キングコングの西野亮廣さん、梶原雄太さん、ロザンの宇治原史規さん、菅広文さん、彼らの憧れの比呂美ちゃん役の清水ゆみさんも等身大で生き生き、キラキラと演じていて大好感。アイドル歌手になりきったチュートリアル徳井義実さん、警官役の田中要次さん、御曹司役の山中聡さんなど、クセのあるキャラたちからも目が離せない。登場人物の個性が際立って見えるのは、衣装デザインの小川久美子さんの魔法も、もちろん入っている。今回もかわいかったなー、衣装。

上映の後はトーク。監督、キングコング、ロザン、清水ゆみさんの5人に田中さん、山中さんら「キル・ビル出演組」4人が加わり、大盛り上がり。観客はキングコングとロザンのファンの方が多かったようで、リアクションが大きく、気持ちよくそのノリに巻き込まれた。後でわかったことだけど、MCの女の子は、友人ミナのホームパーティーで一度会っていた安田佑子さん。映画大好きな人で、『パコダテ人』も観てくれていた。

出口のところで田中要次さんを見かけて、「パコダテ人の今井です。ジェニファもゲロッパも見ました」と声をかけたけど、きょとんという顔をされていた。たぶん忘れられている。覚えてもらうよう、まだまだ書かないと。なんだか、とても映画を作りたくなった夜だった。


2003年11月02日(日)  ロンドン映画祭にも風じゅーの風!

■ロンドンに住む留学時代の同期のナオコから「ロンドン映画祭に『風の絨毯』が出品されることがわかったので、見に行ってきました」とメール。2回ある上映のうち1回目はチケットがsold-outで、2回目を観てくれたそう。「日本語がわかる日本人と、イラン語がわかっているイランの人たちと、英語の字幕を読んでいるイギリスの人はみんな笑うタイミングがみんな微妙に違ってた」と興味深いレポート。東京国際映画祭でもそうだったなと思い出す。「あと、映画の後にも面白いことがあって……」というこぼれ話がついていた。会場でロンドン在住の日本人女性に声をかけられてしばらくおしゃべりしていたら、映画の最初の場面で工藤夕貴さんが着ていた洋服をデザインした人だったのだそう。日本に一時帰国していたときにたまたまテレビを見ていたらインタビュー番組に夕貴さんが出演していて、一瞬映った『風の絨毯』の一場面を見て、自分が昔デザインした服だと気づかれたそう。「その後この映画を見たいと思っていたんだけれどもロンドン在住だしあきらめていたら、ある日ふっとこちらの日本人情報誌が目に留まったと言ってました」と、偶然が重なり、無事観ていただけた様子。ナオコとデザイナーさんとはすっかり意気投合し、これからもおつきあいが続きそうとのこと。人と人のつながりから生まれたこの作品が、ロンドンでもあたたかい風を吹かせてくれたことがうれしくて、プロデューサーの益田さんと山下さんにも知らせる。つくづく、映画は人をつなげる天才。■ちなみにロンドン映画祭のサイトの『風の絨毯』紹介は、ネイティブの人から見ても「いい英語」らしい。

2002年11月02日(土)  幼なじみ同窓会


2003年10月29日(水)  日米合作映画『Jenifa』完成試写

映画『Jenifa』に関わるようになったのは、今年1月。プロデューサーの佐々木亜希子さんから電話があり、日本にホームステイするアメリカ人の女の子の話なんだけど…と相談されたのが、きっかけだった。以前、『パコダテ人』の前田哲監督に紹介されたときに留学経験があると話したのを覚えていてくれたのだった。原案者のJennifer Holmesを交えて話を聞き、シノプシスにアドバイスするうちに脚本を書くことになった。

ジェニファが日本で一年を過ごしたのは16才のとき。わたしは同じ16の年にアメリカで一年を過ごした。そのときに感じた驚きや喜びや、今も消えない記憶がよりどころになった。肌の色も言葉も違う他人の家に家族の顔をして一緒に暮らすホームステイというのは、なんとも不思議な体験で、ホームステイする本人もされる側の家族も互いに「変化」を迫られる。目をそむけていたものに直面させられ、後回しにしていたものが急かされ、当たり前だと思っていたことが通用しなくなり、信じていたものが揺らぐ。「ホームステイする外国人」という異物を受け入れることで、なんとなく流れていた日常がかき回され、新しい形になる。ばらけていたものがまとまる場合もあるし、微妙なバランスが崩れることもある。Jenifaのストーリーは決定稿になるまでに何度も設定が変わったけれど、ジェニファが「再生」をもたらす流れは変わっていない。どこかでボタンをかけ違えたままの夫婦、不完全燃焼の娘、傷ついた少年……彼らのもとに何の前触れもなくやってきた赤毛の女の子・ジェニファが、わだかまりやくすぶりを少しずつ溶かし、大切なもの(=愛)に気づかせる。

五反田イマジカで関係者試写があった。決定稿から撮影稿を経て、さらに現場での変更も加わっているので、脚本を書いた本人にもいろんな発見がある。脚本通りに撮っている部分は、「ああ、こんな絵になるんだ」、脚本になかった台詞やシーンは、「なるほど」。頭の中にある脚本と見比べながら鑑賞するので、最初の試写には味わうという余裕がない。役者さんたちは、それぞれはまっていた。荒木隆志(荒木という苗字はunluckyからの連想でつけた)役の山田孝之さんは、難しい役をよく自分のものにしていた。台詞の外にある台詞を表情で表現する力のある人と思った。モノローグ形式のナレーションも印象に残った。『パコダテ人』で調査団長役だった田中要次さんが檀家役で出演。郁代役の浅見れいなさんは、のびのびと演じていて魅力的。ジェニファと郁代のシーンを見るのは楽しかった。郁代はミシンが得意でリメイクワンピを作るのだけど、その設定をうまく活かして「再生」のメッセージにつなげていた三枝監督の演出がうれしかった。最後のほうに、脚本にはなかった、とても好きなシーン(風景)があった。出口で三枝健起監督に「やられました」と言ったら、「前日に思いついたんだよ」と照れていた。

2002年10月29日(火)  『風の絨毯』ワールドプレミア


2003年10月19日(日)  100年前の日本語を聴く〜江戸東京日和

100年前の日本語を聴く」というポスターに興味をそそられ、江戸東京博物館へ。パリ万博の際に世界各国から集まった人の声を録音したものを公開する試み。スクリーンに映し出されたレジュメをもとに研究学者の方が解説をし、それに添って録音を再生していく形で、言語学学会を聴講させてもらっているようなアカデミックな内容だった。

「パリ万博で人気を博した日本の五重塔が六重塔になっていたのは、フランスでは1階を0階と数えるから、5階建ての塔を作ろうとして6階になったのでは」といった興味深い話も聞けた。百年前、緊張してマイクに向かった人達の声を今の日本で聞く不思議。大昔のように感じるけど、言っていることはちゃんとわかる。タイムマシンに乗って百年前の人に会うことがあっても、話は通じるぞ。パリ人類学協会の厚意により、ネット上で一部公開されているので、興味のある方はこちらの下のほうにある「パリ録音(1900)の見本」をクリック。

ついでに企画展「東京流行生活展(11/16まで)」をのぞいたら、これがまた食べるものと着るものが大好きなわたしのハートを鷲づかみ。

竹久夢ニの小説「恋愛秘話」(1923 大正13年)の一節《昔は、見そめる、思ひそめる、思ひなやむ、こがれる、まよふ、おもひ死ぬ、等等の言葉があった。今は一つしかない。「I LOVE YOU」》にしびれたり、考古学ならぬ考現学を提唱し、今を生きる人々が何を身に付けどのように行動したかを観察し、まとめ上げた今和次郎(こん・わじろう)という学者を知ったり(この人の描いた「銀座のカフェーwaitress服飾特集」や「丸ビルモダンガール散歩コース」などのスケッチは、「散歩の達人」にそのまま使えそうな今っぽさと味がある)、昭和40年代の大東京土産「空気の缶詰」に印刷された「汚れた空気の缶詰 田舎では得られない珍品」のコピーに吹き出したり、昭和47年に康康・蘭蘭が来た頃のパンダブームの頃のぬいぐるみを見て、「わたしも持ってたー」と懐かしくなったり、一人百面相をしながら大正から昭和を駆け抜ける。

映像ホールでは昔の映像を無料公開。昭和30年代に作られたという東京の最新観光事情をまとめたフィルム。当時の東京観光の人気ベスト5は「皇居 東京タワー 羽田空港 霞ヶ関ビル 浅草」。「交通ラッシュも高速道路も観光対象」だったらしい。観光とは日常を離れた体験をすることなので、東京の人にとっての観光は「前衛演劇」であり、そこで「芝居よりも若者の風俗を見ていた」そうな。うーん、あなどれない奥深さ。江戸東京博物館はかなり遊べるぞ。着物体験なんてのもやっていた。

夜は駒込にある旧古河庭園へ。秋バラの季節で10/1〜19の10日間だけ夜のライトアップを行っている。足を踏み入れたのは初めてだったが、洋館とイギリス風の庭園と日本庭園が共存する夢のような場所で、行き交う人々の表情もどことなくうっとり。外国の庭を歩いているような夢見心地を味わう。特設テントではビーフシチューの前に行列。グラスワインを売っているのも気が利いている。期間中の土日だけコンサートを行っていて、今夜はマリンバの合奏。軽やかな音色のハーモニーが広い庭を満たした。今年は江戸開府400年。歴史のある街に住むのは面白い。

2002年10月19日(土)  カラダで観る映画『WILD NIGHTS』


2003年10月15日(水)  このごろの「悲しいとき」

黒いスーツに身を包み、真顔でファイティングポーズのまま「悲しいとき……」と身の回りにあるトホホな出来事を淡々と訴える二人組『いつもここから』。彼らのネタを聞いていると、悲劇と喜劇は背中合わせだなあと身につまされる。取り返しのつかない惨劇は別だけど、本人が「悲惨だったよー」と半分笑って振り返れるぐらいの災難は、同情よりも笑いを誘う。わたしの場合、受けを狙ってギャグを言っても無視されるか叱られるのがオチなのに、わが身にふりかかった悲しい話はやたらと受ける。というわけで、今日は、「最近の悲しいとき」特集。

【悲しいとき1 地震で胸だけ揺れなかったとき】
先日東京で震度4の地震があり、職場の高層ビルにいたわたしは入社以来最大の揺れに震え上がった。その夜、ダンナに「怖かったー」と報告すると、「それでも揺れなかったんでしょ、君の胸は」。なんせ低層ですから……。

【悲しいとき2 お化粧したら病人にされたとき】
貧血のため会社を午前半休。回復したので午後になって出社すると、同僚たちが「大丈夫? やっぱり顔色悪いよ」。血の気が戻るまでの間、ヒマなので珍しくしっかりお化粧しただけなのに……。

【悲しいとき3 しおれたポインセチアと一緒にされたとき】
職場の窓辺に置いたポインセチアがしおれていた。水はあげてるのになぁ、と男性社員たちが首を傾げていたので、「霧吹きをしたら元気になるよ」と教えると、「そっか、空気が乾燥してるのかぁ」と納得、感心される。調子に乗って「ほら、わたしもどんどんしおれてるでしょ」とボケてみると、「なるほど」と納得されてしまった。そんなことないよ、と軽く突っ込んで欲しかったのだけど、霧吹きが必要なのはポンンセチアよりわたしだったか……。

この手の話は同情を煽れば煽るほど、聞き手の笑いのツボを刺激して,ドツボにはまる。それもまた悲しい。


2003年10月12日(日)  脚本家・勝目貴久氏を悼む

■「おじさんが亡くなりました」と友人のカツメからメール。「おじさん」とは、脚本家の勝目貴久(かつめ・たかひさ 本名吉彦=よしひこ)氏のこと。姪の友人(つまりわたし)が脚本を書いていることを聞き、「だったらシナリオ作家協会に入ったほうがいいよ」とすすめ、入会の際の推薦人を引き受けてくださった恩人だ。脚本家としては、新人映画シナリオコンクール(1990年より新人シナリオコンクール)の第6回(1956年)に「血友家族」で当選を受賞。第5回までは佳作または選外佳作受賞者しか出ていないので、コンクール初の当選だったようだ。「うなぎとり」(1957) 「素敵な野郎」(1960) 「情熱の花」(1960) 「小父さんありがとう」(1961) 「太陽を射るもの」(1961) 「山男の歌」(1962) 「われら人間家族」(1966) 「ともだち」(1974) 「アフリカの鳥」(1975) 「四年三組のはた」(1976) 「新どぶ川学級」(1976) 「残照」(1978) 「お母さんのつうしんぼ」(1980) 「仔鹿物語」(1991) 「小さな仲間」などの映画のほか、テレビドラマも多数手がけられていた。享年69才。3か月前にお会いしたときの元気な姿が記憶に新しいので、訃報はあまりに突然だった。■「おじさんをいまいに紹介するまで実はあまり交流がなく、『幻の叔父』だったんだけど、いまいの事で(シナリオ協会に入る時とか)電話を掛けてきてくれたり手紙をくれたりして、身近な人になったの」とカツメのメールには書いてあった。シナリオ作家協会に入ってからは、姪の彼女よりもわたしのほうが勝目氏と頻繁に会い、言葉を交わす機会に恵まれていた。とても面倒見のいい方で、協会の集まりでお会いすると、知り合いのいないわたしにせっせと人を紹介し、「姪の友人で、将来有望なライターなんですよ」と持ち上げてくださった。カツメにもわたしのことをうれしそうに話してくれていたのだという。カツメのメールは続く。「いまいの記事が載っていた月刊シナリオ(だっけ)を郵送してくれたお礼を延ばし延ばしにしていて(なおかつおじさんはその事を気にしていて)結局お礼が言えなかった…後悔」。わたしも勝目氏に期待されたり心配されたりしながら、何にも応えられないままのお別れとなってしまった。いつも「どうやったら日本の脚本家の質と地位が向上するか」を真剣に考え、「今井さんも自分のことだけじゃなくて、後に続く脚本家のことを考えてほしい」とおっしゃっていた大先輩。わたしのうれしいニュースを一緒に喜び、悔しい出来事にはわたし以上に怒ってくれた心やさしい人。そんな風に仲間や後輩と関わりあえる脚本家になりたいと思う。カツメのおじさん、ご冥福をお祈りします。

2002年10月12日(土)  『銀のくじゃく』『隣のベッド』『心は孤独なアトム』


2003年10月11日(土)  わたしを刺激してください

■「わたしを刺激してください」。三年前、わたしが初対面の年上の男性に言った台詞である。言った本人は覚えていなかったが、言われたほうは衝撃的な一言としてしっかり胸に刻んでいた。「いきなり面白いことを言う人だなあとびっくりしましたよ」と先日その方に言われ、こちらこそびっくりするやら恥ずかしいやら。彼、Y先生とは放送文化基金主催のアットホームなパーティーで知りあった。小児精神科医であり、テレビドラマにアドバイスをされることもあると紹介された。ウェルニッケ脳症という記憶障害を扱ったラジオドラマで放送文化基金賞を取ったばかりのわたしは「医学のことをもっと知りたい!」という好奇心と「まだまだ書くぞ!」という意気込みのあまり、思わずそんな刺激的な言葉を口走ってしまったのだろう。■普通は鼻息の荒い駆け出し脚本家の言葉など受け流してしまうのではないだろうか。Y先生がすごいのは、「これは期待に応えて刺激しなくては」と行動に移したところ。パーティーの数日後には本のぎっしり詰まった紙袋を両手に提げて現れた。ハンセン病や福祉関連のものが中心で、夭逝画家の話と詩集が数冊。どれも手に取ったことのない本ばかりだった。読み終えると、ドサッと新聞の切り抜きファイルが届いた。「自分が持っているより、あなたが持っているほうが役に立つでしょう」と。昭和4年生まれの先生の同世代の方々も次々と紹介していただき、一挙に70才代の知人が増えた。浅草サンバカーニバルの生写真を薬袋に入れて「元気のもとです」と配る先生は、同級生の間でもユニークな存在らしい。■好奇心旺盛な先生は演劇やコンサートも精力的に見に行く。先日はベニサンピットでのtpt第44回公演「スズメバチ」をご一緒した。舞台も興味深かったが、その後に立ち寄った寿司屋がまた面白かった。誰にでもバリアフリーな先生といると、色がにじむように話の輪が広がる。お店の大将や常連さん(後でベニサンピットの専務さんとわかる)と会話が弾んだ。別れ際に「使用済み切手を集めている」と話したところ、翌々日にどっさり送られてきた。切手を納めた封筒には、タイプで印字されたLENNOXなる人の住所。「Lennoxは私が1965年に留学したときの師匠Lombeozoのまた師匠で、てんかん病の大学者、大先輩です。現在もこの住所でLombeozo(そろそろ90才)が開業しています」と説明が添えられていた。そして今日は、「人類の規格を75センチにするという計画があるって聞いたことあります?」と電話があった。人間を小型にすれば家も車も省エネサイズで事足り、資源節約につながるという発想。冷蔵庫も今の半分の大きさで済み、その分電気も食わない。先生のまわりではまことしやかな噂になっているらしい。「そんな話、初耳ですが」と言うと、「でも、SFの題材にはなりそうですねぇ」。先生の刺激は衰える気配がない。


2003年09月30日(火)  BG SHOPでお買い物

■手に取って見られないものを買うということに、どうも不安がある。とくに身につけるものや雑貨の場合は、写真だとサイズがよくわからないし、色も実物を確かめたい。というわけでオンラインショッピングで買うのはチケットぐらいにとどめていたが、どうしても欲しいものを見つけてしまった。お店の名前はBG SHOP。いまいまさこカフェやパコダテ人の掲示板の壁紙をお借りしているFree BG Shopさんが今年2月にオープンしたインテリア雑貨ショップで、ホームぺージ素材のデザインにも発揮されているバツグンのセンスが光るバッグや雑貨やファッション小物をそろえている。メルマガはいつも受け取っていたもののじっくりお店をのぞく機会を逃していたのだが、先週ついに開かずの扉を開けてしまったら引き返せなくなった。「暮らしに色とデザインを。をコンセプトに、色と柄に注目した雑貨を販売」なんて、わたしのためにあるような店ではないか!その商品がいちいち誘惑してくるので、片っ端から一目惚れしてしまって、もう大変。さすがに店を買い占めるわけにいかず、悩みに悩んでクッションカバー2つとトートバッグとハンドバッグを購入。それが今朝届いたのだが、包みを開けた瞬間、「わあ!」という感じ。レトロなクッションカバーは想像以上にきれいな色だし、オランダのデッドストック生地で作ったイチゴバッグも存在感バツグン。A4サイズが入れば打ち合わせにも便利なんだけど、「イチゴありき」のデザインなので、B5サイズでよし。イチゴ君はうちに来るために生まれてきたんだよね。ハンドバッグの花柄生地もオランダのデッドストック。着物リメイクワンピに合わせるのが楽しみ。面白くてクオリティもあって、とても気に入ったので、これからはちょくちょくお店をのぞいてみるつもり。欲しいものが必ず見つかってしまいそうで怖いのだけど。


2003年09月27日(土)  ハロルド・ピンターの「料理昇降機(THE DUMB WAITER)」

「料理昇降機」というタイトルに惹かれ、劇団ストレイドッグ番外公演を見てきた。工藤剛さんと古川康大さんの二人芝居で、どこかの地下室と思しき部屋で物語は進んでいく。最後まで一生懸命「これはこういうことか」と推理しつつ見ていたのだが、難しいお芝居だった。二人はどうやら殺し屋らしいというのはなんとなくわかった。誰かを殺すべく指示待ちしているのだが、ラストで、ガスと呼ばれる片割れが相棒に撃たれて死んでしまう。なぜなんだ。何があったんだ。そして、昇り降りしてメニューの注文を出すだけの料理昇降機は本当にあれでよかったのか。謎を残したまま幕は下りた。

打ち上げに参加させていただいた席でストレイドッグ主宰の森岡利行さんや昨日に続いて2度見て内容を理解したという駆け出し脚本家の千葉嬢に話を聞いてわかったのは、「原作の英語の戯曲では料理昇降機が出してくる注文メニューそのものがジョークになっていて、そこで観客は笑うらしい」「ガスに火がつかないシーンがあったが、殺された男の名前もガス(gas)なので、Fire gas(ガスに火をつけろ)はガスを殺せとダブルミーニングになっている」といったことだった。つまりはイギリスの劇作家ハロルド・ピンターの原作が日本語になったときに、何かが落ちてしまっているらしい。

原題は「THE DUMB WAITER」。DUMBには「口のきけない」「うすのろ」といった意味があるが。このタイトルにはその両方が込められているのかもしれない。物言わぬ、まぬけな料理昇降機が、階下にいるのはシェフではなく殺し屋だというのに料理を注文してくる。もちろん本当は料理昇降機のほうがウワテで、彼は「今夜の標的をどう調理するか」の注文を出しているわけなのだが。

一見バカげたメニューなんだけど、殺し屋たちにはドキッとする響きのあるメニューになっていると面白い。たとえば、「めんどりの血祭り」に昨日の殺人を思い出したり、「逃げ足の速い豚の丸焼き」に自身の不吉な運命を感じたり。料理昇降機と殺し屋の「やりとり」から、観客は二人が背負っているものを読み取っていく、その部分が今回は弱かったように思う。命令どおり男がガスを殺した後に料理昇降機が再び降りてきて、「WELLDONE」(「よく火の通った」と「上出来」のかけ言葉)というブラックユーモアはどうだろう……などと空想をたくましくしてしまうのは、この原作にそれだけそそる魅力があるということ。料理昇降機と殺し屋という組合せを思いついた時点で、ほとんど勝利を手にしているといえる。後はこの設定でどこまで遊べるかが勝負。「自分たちでもっともっと面白くできる作品だと思うし、ぜひ再挑戦してほしい」と出演の二人に伝えた。

お芝居も映画も、見るものはなんでも栄養になっていると思うが、今夜は翻訳劇の難しさと面白さについて考えることができてよかった。海外の名作を自分なりに翻訳してみたいという目標ができた。

2002年09月27日(金)  MONSTER FILMS

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