2003年09月01日(月)  「うんざりがに」普及運動

■「うんざりがに」という言葉を流行らせようとしているが、どうも流行りそうにない。きっかけは、ダンナが猛暑とわたしの弾丸トークのたたみかけに参って、「もう、うんざりがに!」と悲鳴を上げたこと。この響きが妙に気に入り、以来、嫌気が差すと、「うんざりがに」と言い合うようになった。言うときには両手でVを作り、「ざりがに」のジェスチャーをするのだが、いかにもやる気のないVサインはバカバカしく、脱力した笑いを誘う。これは他人が見ても面白いのでは、ひょっとしたら流行るのでは、と二人して盛り上がり、「うんざりがに普及運動」が始まった。暑さのせいで、どうかしていたのかもしれない。■同僚で仲良しのT嬢が「かわいいー」とやや受けしてくれたのに気を良くして、『夢の波間』に出演してくださった上杉祥三さんと西凜太郎さんに再会した際に披露したら、「大丈夫?」と心配された。「あれ、おかしくないですか、うんざりがに?」「おかしいのは、今井さんですよ」。お二人に会うのはこのときが二回目、人間関係が確立されていない相手の前では危険なネタだとわかり、あえなく退散。■秋の訪れとともに「うんざりがに」熱も冷めつつあるが、ダンナは深夜番組をぼけーっと見ながら、「ある日突然うんざりがにが流行語になってさ、あれ言い出したのはオレなんだよって自慢したいなあ」と夢を見続けている。誰か、流行らせてくれませんか。


2003年08月26日(火)  アフロ(A26)

なぜかわたしの入社した年にはやらなかったけれど、それ以来毎年伝統のように続いている新卒パーティーの今年のテーマは「アフロ」!開催日の8月26日(August 26)を略してアフロ(A26)なのらしい。わたしの後ろの席に入れ替わり立ち替わり新卒君たちがローテーション配属されたおかげで、「店探し」にはじまり、「アフロというテーマ決定」「アフロのヅラ発注」「夜ごとのダンス練習」「必死のチケット販売」と繰り広げられた舞台裏を垣間見ていた。

途中、青春ドラマを見ているようなぶつかりあいがあり、その後のこれまたビバヒルもびっくりの熱い仲直りがあり、近所のお姉さんとしては、「この子たち、無事パーティーできるのかしらん」とおせっかいな心配をしながら出かけたのだが、蓋を開けてみれば、受付で渡されたアフロヅラを率先してかぶった瞬間、映画「ゲロッパ」を見たせいで疼いていたアフロ熱が一気に爆発。「今日はとことん楽しむぞ!」とフィーバーのスイッチが入った。

新卒君たちが猛特訓したダンスは、テレながら一生懸命踊る姿がなんともかわいく、参観日のお母さん状態でウルウル。ダンスタイムに突入すると、アメリカのディスコで体に叩き込んだユーロビートにあおられ、パブロフの犬状態で体が動き出す。気がつけば、アフロから滝のような汗をしたたらせ、まわりがひくほど踊り狂っているのはわたしだった。終わってから「いやー、よかったよ」と新卒君に声をかけると、「僕たちのために盛り上げてくれてありがとうございました」と爽やかな返事。好きで楽しんでただけなんだけど、「なりふりかまわず、年も考えず、プライドを捨てて盛り上げてくれた先輩」に映っていたのだろうか……。

2002年08月26日(月)  『ロシアは今日も荒れ模様』(米原万里)


2003年08月25日(月)  冷凍マイナス18号

■最近、ふとした瞬間に「♪冷凍マイナス18号 マイナス18度でまーナイス ウー!」と歌ってしまっている。得意先の日本冷凍食品協会のお仕事で、冷凍食品の歌を作ったのだが、「消費者が思わず口ずさむような親しみやすい歌を作りましょう」という狙いに自分自身がはまってしまったことになる。作詞は担当コピーライターということでわたしが担当。作曲は数々のヒットCMソングをはじめ、NHK「おかあさんといっしょ」の「でこぼこフレンズ」でも活躍されているMAXMANの福井洋介さん。うたは同じくMAXMANの田中千架子さん。会社でデモテープをかけていると、まわりの同僚たちが「サビの部分が頭から離れない。なんとかして〜」と悲鳴をあげるほど、一度聞いたら忘れない曲に仕上がった。先週金曜に収録を終え、9月中旬頃から世の中をお騒がせするつもりなので、どうぞお楽しみに。■この冷凍食品ソング「冷凍マイナス18号」のキャンペーンがらみで、CD、カセット、絵本、テレビCF、ラジオCM、プロモーション映像、サイト、缶バッジ、駅貼ポスター、新聞広告などなど、おそろしい点数の制作物を作らせてもらえることになり、現在スケジュールと格闘しながら制作進行中。急ピッチで工事中のキャンペーンサイトでは、「映像つきCD&飛び出す絵本」が2000名に当たるプレゼントも実施する。今日はラジオCMの収録。「アクアリウムの夜」の高橋役で好演した有馬克明さんにナレーションをお願いすると、「よろこんで!」。アクアリウム以来の念願だった「いつかまたお仕事を」がかなう。「小泉総理 欧州訪問の記録」のナレーションも手がけるノーブルな声で「冷凍食品の歌、できたて!」とアナウンスしていただく。ちなみに有馬さんの声のラジオCMが流れるのは、文化放送にて毎週土曜日の「雄治・ナイクのSATURDAY NICE TRY」の中の「ランチ らんち LUNCH フリージング・クッキング」 のコーナー。12:05〜12:10という短いコーナーなので キャッチしやすいのでは。 オンエアは9/6 13 20 27の4回予定。

2002年08月25日(日) 1日1万


2003年08月16日(土)  6人で400才

■昭和4年生まれのT氏のお宅に招かれる。集まったのはT氏、T氏の幼稚舎時代の同級生のY氏、O氏、H氏と、Y氏の従兄弟のS氏、そしてわたし。6人あわせて400才の会となった。小児科医で、ドラマのアドバイスなどもされているY氏と放送文化基金のパーティーで出会ったのが3年前。以来、Y氏の友人知人を次々と紹介され、70代の輪に入れていただいている。集合場所に現れたわたしに最初にかけられる言葉が「お若いですねえ」。40才ほどかけ離れているからこそ当然なのだが、こんなに力を込めて言ってくださる男性は、なかなかいない。■わたしの作品の熱心で貴重なファンであるT氏は、感想文を絵手紙でくださるが、仏教をテーマにした絵を描かれている。「今井さんがいらっしゃるということで、普段なら3週間ほどかかる絵を1週間で仕上げました」と床の間に飾られた絵のタイトルは「鼓動」。「仏様はすべての生命に宿る鼓動だと気づきました」とのこと。■お酒とお茶を行ったり来たりしながら、話題もこちらからあちら、はたまたこの世とあの世を行ったり来たり。「腸にピロリ菌がたまると大腸癌になりやすいから除菌しないといけないんですよ」「我々にはジョギングならぬジョキング(除菌+ing!?)ですな。ハハハ」といった普段なかなか聞けない健康談義が飛び出したかと思うと、「ユビキタスを時空自在と訳すのはいかがなものか」「国民に投票させるべき!」と国語論になり、グルメな話題から時事問題まで守備範囲の広いこと。おまけに昔のことも手に取るように覚えておられるので、年代もぽんぽん飛ぶ。気がつけば、6時間しゃべりっぱなし。こちらが頭の体操をさせていただく。

2002年08月16日(金)  持ち込み企画


2003年08月11日(月)  伊豆高原


■ふだんは朝ご飯を食べないのに、旅先だとおなかいっぱい食べられるのは不思議。腹ごしらえをし、伊豆の旅2日目は伊豆熱川から伊豆急行で10分ほど東京寄りに戻って伊豆高原で下車。東京行き乗車券で途中下車OKというのはうれしい。お膳立てされたような観光地で、美術館や博物館と名のつくものがひしめきあっているが、まずは「吊り橋へ行くべし」という観光サイトの言葉を信じ、せせらぎが心地よい小道を進んでいくと、おおっ、小川が滝になり、海に流れ込んでいるではないか。そのはるか下方には岩が波水をせき止めた自然のプールがあり、海水浴の人でにぎわっている。そしてたどり着いた吊り橋は、意外と長く、しかも揺れる。橋の上で感じた風はなんともすがすがしく、汗ばんだ体へのごほうびのよう。伊豆へ行かれたら、ぜひ!
■さて次は何しよう。オルゴールやら人形やらジュエリーやらガラス細工やらの館を素通りし、「お、ここは」と入ったのは「おもしろ博物館」というレトロなものを集めた館。昔の少女雑誌、昔の教科書、昔の広告、昔のおもちゃ。先祖のDNAが騒ぐのか、懐かしい気持ちになる。売店では、九州の問屋に眠っていたというおもちゃを入手。その近くのKENNY'S HOUSE自慢のソフトクリームを食べ、さらに茶屋であんみつをペロリ。ミュージアムのカフェにもそそられたけど、満腹のため次回のお楽しみに。伊豆高原からの踊り子号が満席のため、鈍行で熱海に出て、こだまで東京へ。実はそのほうが踊り子号よりおトクで到着も早かった。

2002年08月11日(日)  ヤクルトVS横浜


2003年08月10日(日)  伊豆 is nice!


昔、「伊豆に泳ぎに行ったよ」とアメリカ人の知人に話したら、「Where is Izu?」と聞かれ、駄洒落になってるねと大笑いした。でも、そのときは渋滞に巻き込まれ、伊豆から家に帰り着くのに7時間もかかってしまったので、あまりいい思い出はなかった。

あれから8年。2度目の伊豆に行くことになったのは、そこに「宿」があったから。急に休みが取れることが決まったものの、どこも予約でいっぱい。「宿泊予約」で検索してヒットした中にあった こだわりの宿どっと混むで3つの宿にあたってもらったところ、伊豆熱川にある『作右衛門宿』を取ってもらえた。

踊り子号で東京駅から2時間ちょっとで、そこはのどかな海辺の町。車窓から海を見て、「しまった!」。水着のことなど頭をよぎりもしなかった。もう何年も着てないけど。まあ今回は宿目当ての旅ということで、ひたすらのんびり、心の洗濯をするとしよう。作右衛門宿は、そんな人にはもってこいの宿。もとは地元の名主の屋敷だったということで、食事は趣のある母屋(というのかな)で、泊まりは土蔵作りの「蔵」で。2階建ての蔵の各階にひと組ずつ、さらに「離れ」があり、こちらにもう1組。1日3組しか客を取らないという宿なのだが、意外な穴場だった。

泊まり客よりも宿の人のほうが多いのではと思ってしまうが、もてなす宿の人たちも肩の力が抜けていて、こちらも田舎の親戚の家に泊まりに来たようなくつろいだ気分になる。サービスがマニュアル化されていないので、いい意味でいい加減な部分も。露天風呂の鍵のかけ方を教え忘れられ、「後から来た人と鉢合わせたら……」と気をもんだが、次の瞬間には、「ま、そのときはそのときか」とおおらかな気分になってしまうのも、宿に流れるほんわりした空気のせいなのかも。開放感たっぷりの露天風呂は気に入った。海の幸づくし、ボリュームたっぷりの食事には降参。でも食後の自家製オレンジシャーベットは、するりとおなかに入った。


それにしても伊豆はいいとこ。オレンジの花があちこちに咲いているし、遊歩道に足湯スポットがあったり、散歩も楽しい。お昼を食べた定食屋は、お刺身どっさり、小鉢と山盛りのお漬け物と磯の香りのお味噌汁がついて900円。宿の近くにあるハーブテラスでは、数百種あるというハーブを鑑賞した後に、ローズマリーウォーターで割ったオレンジジュースを飲みながら、ご主人と1時間ほど話をする。レジャースポットの乱立で伊豆への観光客は減ってきているとのこと。「いいとこですよ、伊豆は。わたしはまた来ます!」とリピーター宣言。

2002年08月10日(土)  こどもが選んだNO.1


2003年07月30日(水)  脚本家ってもうかりますか?

就職活動をしていた頃、会社説明会の最後に質疑応答の時間になり、さっと手を上げた男子学生がいた。彼の質問は、「給料はいくらですか」。担当者が何と答えたのかは覚えていないけれど、その場の空気が「びっくり!」したことは妙に生々しく覚えている。

そんなことを思い出したのは、このところ「脚本家っていくらもらえるんですか」という質問メールが立て続けに舞い込んだから。発信者は脚本家志望の人たち。その職業を志すからには収入を知っておきたいということなのだろうけど、家族だって遠慮して聞けないギャラの話を見知らぬ人がイキナリ聞ける便利な時代になってしまった。

「おいくら」と聞いてくる人たちには共通点があって、わたしの作品には一言も触れていない。はじめてのメールで自己紹介もそこそこに本題に入るので、誰にしてもいい質問をなぜわたしにしてきたのかわからず、なんと答えたものか困ってしまう。……と、先輩脚本家に相談したら、「そんなヤツには答えなくてよろしい」と一喝した上で、「テレビドラマ1分で1万円。でも長者番付には載れない、と僕は答えている」とのお返事。30分ドラマで30万円という目安。新人の場合はその半額強、というのはわたしの感覚。ラジオはさらに単価が下がるし、映画はギャラが支払われるかどうかギャンブルみたいなところもある。

デビューほやほやの脚本家が仮に30分ドラマを1日で書き上げたら、日給15万円。でも、原稿を渡しておしまいということはまずない。本打ち合わせを元に初稿を直していくわけだけど、改訂稿が二桁に及ぶこともあるし、途中で白紙になって企画から練り直しという事態もよくある。脚本にする前にはプロットを固める作業があるし、企画段階から関わった場合は、シナリオを書き出すまでに何か月も打ち合わせを重ねることになる。

時給に換算したことはないけれど、わたしの場合、直しがほとんどない仕事でも「時給ン万円」にはならないし、「時給ン百円」という仕事もありえる。そんな風に計算すると、脚本家は割に合わない仕事だし、ネーミング100案出して数十万(これもかなりの幅があるけれど)というコピーライターのほうがずっと儲かる。漣ドラがヒットしてビデオ化されてノベライズも出て……となれば話は別だけど。写真は、ここ半年のボツ原稿。全部を書き直しているわけではないけれど、書いたもの全部をプリントアウトしたわけでもない。でも、これだけ書いた先に「作品」が生まれている。

ギャラはもちろん大事だけど、脚本家にとっていちばんのごほうびは書いたものに命が吹き込まれることだと思う。自分の頭の中だけにあったものが形になって、たくさんの人に届けられる贅沢。これは一度味わったら、やめられない。というわけで、わたしの答え。「楽して儲けることははできないけど、お金で買えない楽しいオマケがついてきます」。

でも、忘れちゃいけない。脚本家もコピーライターも、書けばギャラがもらえるわけではないのだ。書いたものが全部現金になるなら、わたしだって、とっくに御殿を建てている。「いくらもらえるか」を心配するより、「どうやったらお金になる脚本を書けるか」「どうやったら作品化への道が拓けるか」に頭を悩ませたほうが建設的だし、そういうことであれば多少はアドバイスできるのだけれど。

2002年07月30日(火)  ペットの死〜その悲しみを超えて
2001年07月30日(月)  2001年7月のおきらくレシピ


2003年07月25日(金)  日本雑誌広告賞

■昨日と今日、「日本雑誌広告賞」の審査に参加した。主催者である日本雑誌広告協会のホームページによると、「経済産業省後援のもと、雑誌広告に関する作品の表彰を行うことにより、雑誌広告の 質的向上を図るとともに、社会生活情報としての機能を高め、もって我が国の産業、経済、社会、文化の発展に寄与すること」を目的に昭和33年に設立された賞で、今回で46回目になる。わたしが参加したのは、最終審査に残す作品を選ぶ段階の審査。審査員は雑誌社や広告代理店から派遣された人たちで、わたしも上司に送りこまれた。雑誌社が自社の雑誌に掲載された広告をエントリーする形式のコンクールなので、同じ原稿が複数の雑誌社から寄せられたりする。当初7000点余りあったエントリー作品は、重複を除いて4000点余りに。それを部門(業種別に12部門、その他にシリーズ広告部門、マルチ広告部門、小スペース広告部門の計15部門に部門)別に分類したものが、わたしたちの審査対象となった。細長い会議室にぎっしり並べられた長机には、約200誌分の見開き広告を並べることができ、審査員はその間を迷路をたどるようにぐるぐる回りながら、手元の紙に自分が選んだ作品のエントリーナンバーを書き入れていく。雑誌というのは、普通は手に持って、目から30〜40センチほどの距離で読むものだけど、その2倍ほどの距離から見下ろすので、実際に雑誌広告を目にするときとは少し環境が違う。投票と同時並行で集計が進められ、1つのラウンドが終わると、すばやく長机の上の広告は次のラウンドのものと入れ替えられていく。これを1日半の間に20回近く繰り返した。これだけ雑誌広告ばかり見ることはめったにないし、最近は雑誌そのものから遠ざかった生活をしているので、色の洪水に目がチカチカしたり、「こんなコスメがあるのか!」「この子ども服かわいい!」と一消費者になってときめいてしまったり。いきなり自分の手がけた広告に遭遇して、ドギマギしたり。ひさしぶりの運動で筋肉痛になったことも含めて、なかなか刺激に富んだ経験をさせてもらえた。

2000年07月25日(火)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2003年07月23日(水)  チョコッと幸せ

新聞整理をしていたら、「幸せとは」という言葉がやたらと目についた。柳生博さんの「Happiness is……」に影響されて、敏感になっているせいかもしれない。「幸せとは幸せをさがすことである」「幸せとは目的ではなく結果である」「不幸だと嘆く人は、自分が思い描く幸せと現実とのギャップを嘆いている」などなど。発信している人はすべて違うけれど、どれも、「幸せとは、幸せ探しの道に落ちているもの」というようなことを言っている気がする。

理想と同じ姿かたちをした幸せを求めると、探し疲れてしまうけれど、思いがけないところにひょっこり顔を出した驚きや発見は、たとえささやかでも、プレゼントになる。オマケのようについてくる幸せに気づけることが「幸せ」なのかもしれない。こんな風に思えるようになったのはここ数年のことで、20代の頃は記念日を祝ってもらえないとふてくされ、映画「プリティウーマン」を見て、うらやましさのあまり泣いたりした。映画のヒロインと自分を比べて「わたしは不幸だ……」とメソメソ。今思うと、アホちゃうかとあきれる。幸せ渇望病のようなものだったのだろうか。

切抜きの中に「人は幸せを握りしめて生まれてくるが、生まれた途端、手を開くと幸せを逃してしまう。それを追いかけるのが人生だ」という内容の台詞を見つけた。教師が教え子に贈った言葉なので、「幸せは自分の手でつかまえろ」という激励だったのではと思うが、わたしは別な意味も想像した。幸せとは、手でつかめるぐらいの大きさのもので、それは、手をのばせば届くところにあるということ。

「これ、今日の今井さんみたいだったので」と会社で背中合わせの席に座っている新卒の女の子が、チョコレートを一箱くれた。この席には研修のローテーションで4週間おきに新卒の女の子がやってくる。彼女で4人目。最初はお互いドキドキだけど、チョコレートが溶けるみたいにちょっとずつ打ち解けていく。「わあ、アポロ大好き! ピンクのとこだけ離して食べたりしたよね」「これは大きくって、中にクッキーが入ってるんです」「ほんとだ。このタイプのお菓子おいしいよね。たけのこの里とか……」なんて他愛もない会話が楽しい。ピンクのワンピースを着ていてよかった。小さな幸せを口の中で転がしながら、思いをめぐらす。赤ちゃんが握りしめる幸せって、チョコレート一粒ぐらいの大きさなのかもしれない。アポロより大きくて、クッキー入りアポロより小さくて。アポロだと手の中で溶けちゃうけれど。


2003年07月12日(土)  15年目の同窓会

高校を卒業して、今年で15年目になるらしい。ということを同窓会の案内で知った。卒業以来はじめて、しかも学年全体の同窓会とあって、楽しみな反面こわさもあった。わたしは入学時と卒業時に在籍した学年が違う。高校2年の1学期を終えて留学し、帰国してから一年下の学年に編入した。今回の同窓会は後のほうの学年のもの。1年と2学期しか過ごしていないので、知ってる人はいるだろうか、覚えていてくれているだろうか、とそわそわした。でも、当日が近づき、懐かしい友人たちから「わたしも行くよ!」とメールが来るようになると、がぜん楽しみになり、今朝伊丹行の飛行機に乗り込むときは駆け出す勢いだった(空港カウンターは長蛇の列で、プチ暴動が起きていたけれど)。

会場に直結した難波駅の改札出たとこで、食べ歩き仲間だったてるちゃん、ゆみちゃんと再会。高校時代、わたしを含めた女子3人と男子4人で「グルメの会」なるものを結成し、小遣いを奮発しておいしいものめぐりをしていた。1リットルパフェなんてものをペロリと食べた若い食欲が懐かしい。会場の宴会場前のロビーでは、「ひさしぶり!」「わたし、わかる?」「キャー!」の声が飛び交い、同窓会のシズル満点。結婚して改姓した女の子たちは「旧姓で呼ばれるだけでタイムトリップやわあ」と嬉しそう。わたしもひさしぶりに「まいまい」と高校時代のあだ名を連発され、気持ちがあの頃に戻ってしまった。

乾杯が終わると、3年生のときのクラス別に順に壇上に出て、近況報告と記念撮影。わたしは3年6組、文化祭で『オズの魔法使い』のミュージカルをやったクラス。この劇の台本・演出をやったわたしの印象はけっこう残っているらしく、ブリキ役だったS君は 「ジャングルジムの上で歌わされた」ことを強烈に覚えていた。そんなS君は、ライバル広告代理店でヒットCMを手がけるアカウント・ディレクターになっていた。

先生方は5人参加。2年のときの担任だった永山先生は、当時と印象がほとんど変わっていなくて驚いた。さすが体育教師。あいかわらず陸上部の指導に燃えていて、黒目がちな目がキラキラしていた。2年の3学期、成績が急降下したわたしを呼び出して、「お前はもう少しいけると思たけどな」とポツリ。その一言が効いてサボリぐせを改善できたので感謝しています、と伝えたら、「そんなことあったかいな」と笑っていた。70代の先生が二人。当時すでに定年近かったことになる。この春、高校教師の定年を迎えた父イマセンの十数年後を想像した。

クラスメート、体操部の同期、体育祭のときだけ結成される応援団の仲間もたくさん来ていた。アメリカ留学から帰ったばかりの「チビの巨体」だったわたしと身長順でペアを組まされたH君は、どうしているのかな。わたしを持ち上げるたび、「ウッ」と気張っていたのが気の毒だった。今日はじめて口をきいた同級生との出会いも嬉しかった。集合写真のカメラマンを買って出たN君は、「はいチーズ」のかわりに「ここ見て!」と股間を指差すおもろい人だった。みんなドッと笑顔。いい写真が撮れたと思う。

よく笑い、しゃべりっぱなしのうちにお開きの時間。料理がたくさん余った。食べることに口を使っている暇がなかった。二次会に流れても話は尽きず、「またやろな!」を連発。同窓会ってこんなに面白いものだったのか。幹事のK君に感謝。難波駅に着いたら無性におなかがすいて、蓬莱の豚まんを買って実家に帰る。

2002年07月12日(金)  『真夜中のアンデルセン』小原孝さんのピアノ収録
2000年07月12日(水)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)

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