きままくらし

2002年09月29日(日) この月の終わり

今月は時間のたつのが妙に早く思われてしかたがなかった。 
いちにち一日がかなり短かったような気がする。
暑い日もあったがいまや覚えていない、、このところ天気も悪く 薄ら寒いくらいの日が多かったせいか、、、
あの夏の日の じっとしていても アセが吹き出てくるような暑さのことなど とうに 忘れてしまっている・・・

このように忘れることはたぶんいいことだろう・・
 来年の夏はことしとはきっと違う、そう思うことで生きてゆこうと
  思ったり、、、生きていけそうだとひそかに思ったり

庭の柿や栗の出来は その年によってよかったり、悪かったりで一喜一憂、、
一年たつと 樹たちは年輪をひとつ増やしていくだけのことなのに・・・

 そして、その実のなりぐあいなどかれらの意志ではなく
  ましてや、わたしたちの思惑など はなから含まれてはいない。

あるがまま、、であることは、ヒトにはむずかしいのだろうが、
       できるなら あるがまま の まんま で いたい。

栗も、たわわな柿も わたしたちのために実をつけるのではないが
       今年もその実を口にすることができる喜び。

あまりに 飛躍した考えだと思ったが、、つい 白骨観という言葉を
思った。 所詮は 骨のうえに肉を 肉の上に皮膚を 覆っただけの いきもの。
何が 必要か、皮膚のうえになにをのせて喜びとするか・・・
     暑さ、寒さに 耐えないだけのことだ。

こうとまで、思ってしまったら、この周りにあるものなど ただの
 ガラクタだったり、古びた布きれだったり
            後生大事はほんとはどこにある?

いるもの と いらないもの に 分けてしまえば
 いらないもののほうが 多い わたしの 生活が 今日も暮れ行く。



2002年09月27日(金) 逡巡

行きつ戻りつする心をいったいいつの頃から覚えただろう

行きつ戻りつするのはこころだけで 行動はいたってはやい
大切 も 欲望 も いつも 行きつ戻りつしている

 実際のわたしは
 
  決定が早いと言われる、時を選ぶということをしない
  その思いは一瞬で決められる
  断絶、打ち切り は 即座に決める
  悩み続けるということができないからなのだろう
  安易な決断をしても後悔がない


決断 と いうよりは 切断 と いうべきか
                     「一瞬」 に 後悔 がない

その前の逡巡が大切なので というと眉根に皺をよせ
 苦悩を表しているようだが 実はもうすでに 8割以上は決めている

   それで いつも 般若顔 を しているのかもしれぬ

行きつ戻りつの持続が困難になったという 一瞬に おこる決断
           非常に 決断 が 安易 な だけなのだ

安易なだけに 後悔が うすい と ただ それだけのこと・・・

こう、書いてる(打っている)そばから 結論 が でる









*今日の 決定 は 何?
  ヤフオク で ’あれ’を 売ろう!
  (あ〜、 結局 逡巡していたではないか・・・!)

  おまけに たいした 逡巡 では まったく ない!




   たいしたこと  じたい  大嫌いだ
         上州弁 で 『 あんじゃあ ねえ 』 と いう

           この 軽さが 上州人なのか
                        粘り なし









  



2002年09月26日(木) 読了の感想

 数日前から 読んでいた 
   中村 元 
      「老いと死」を語るを読了  平成5年のモラロジー研究所の
                     セミナー講演の出版物
                                                


 中村 元先生についてはあまりに偉大な方であり、数冊の著作を読んだことがあるが、この講演の本については、ことにその語り口が平易でわかりやすくかった。人間釈尊としての思想を学ぶことをこの数年、折りがあれば、図書にて続けてきたが、体系的なこと、本質的なことはまだまだ理解の及ぶところではない。
いつも死を考えているというのはあまり当たらないが、考えざるをえないというか考えねばならぬ(好悪にかかわらず)ので・・・
    つまり佛飯をいただいているからなのだが・・・

しかし、儀礼や儀式にかかわることより、個人の死を考える上でつねに
死を意識していないとというのがここ数年の思いになった。
ことさらに恐怖を感じるというより死を遠くないものとして意識できるようになったというところまでというのが現在のわたし。

日野原 重明先生のDeath Educationという言葉にも深く感じたが常に死を通じて、生を知ることを考えていなければならない。
いとわしいもの、不愉快なものとしてとらえていてはいけない。
そう思うと、これからの生に対して少しでも意欲をもてる。

 「世界は美しい、人間のいのちは甘美なものだ」という
   釈尊最後のことばの中の一節はやはりとても有り難く心にしみ入る。



2002年09月22日(日) やはり新しい日は

ささいなことで新しい日はやってくるのだなぁと思う
あなたにとってではなく わたしにとって、、ほんの小さなことで

My Enpituに入れている日記作家さんたちのPageにうかがうと
日常は今日という縦糸に日々の出来事を織りこんでゆく行為だと
あらためて思う 
  淡々と綴られる日常にそのかたがたの思いが垣間見える
   日記を読ませていただくことでずいぶん心の栄養をいただいている



新しい日などと何もエポックメイキングなことが起こったわけではないが
昨日のこころの澱がすうっと流れ去り きょうの一日のふたを
あけたら まっさらな 一日が迎えてくれた・・・そんな 些細なこと
なのだけれど

  今朝も朝一コーヒーを淹れ とてもすてきな日常に会いに行く



2002年09月20日(金) 思うことは

思うことはあるのだが、、言葉にするのが
 言葉にならないような  
  つまりどの日記サイトにもあるような
    輝かしさがない・・・人との小競り合いも不倫も なあんにも

      つまり  ない  からで

   今朝からしたことといえば
      今日は ビン・カンの回収の日であるから
        それらを車で運び いつもリングプルを集めている
         おばあさんと二言三言会話をし

      洗濯を干し、夫とスーパーに買い物にゆき
        その帰りに公民館で市のレントゲン検査を受け

      昼食に買ってきた寿司を食べ、、
         ”おもいっきり〜”をみているうちにす〜っと
          昼寝をしてしまい、、

      夫が仕事で出かけた後、掃除機をかけ、洗濯物を
         取り込み、たたみ、おのおのの引き出しに分けて入れ
          夕食の準備をはじめ カレーの玉ねぎをこげる寸前
           までいため、、ジャガイモと人参の皮をむき・・・

      ・・しているうちにあたりは薄暮となった

  今は、せみも鳴きやんだし 風もときおり そよと涼しく吹くだけで
  
    たそがれ に 黄昏 

            逢魔が刻 に 

                  もはや 誰とも逢わぬよう


   あー、普通の一日だった・・・
           もはや、語ることもない

           

  



2002年09月18日(水) 秋晴れ

今日は久しぶりに青空が広がって、気温もどんどん上昇してきた。
主婦にはうれしい洗濯日和だ。

これほどの平和、これほどの幸せ・・・
ささいなことで人は幸せになれると実感する。

ささやかな、ささいなことの繰り返しで毎日は繋がってゆく。
子供がいれば一年の区切りは容易につくが、果たして子どもが
いなくても 一年は確実にめぐりいつかは老いや死を迎えるだけなのだ。

小さな子どもはもういないので、あの喧騒やただただあわただしいだけの
日を振り返ると、大変さも忙しさも今となっては夢に等しいといった程度になってしまった。

子供がいてもいなくてもわたしの思いや想いや性癖や嗜好はそう変らなかっただろうなとおもう。
ただ子供は 自ら認めているそれらのうちの悪しき部分をいとも簡単に挙げつらい残酷に批判するのでつらさを感じざるを得ないことがある。
また、子供の中にその悪しき部分を見たときには愕然となる。


個としてのつきあいが始まった時に、こどもは私の子供ではなくなり
もはや触れることができないほどの距離を感じてしまう。

それはそうなったであらたによい関係を作り出してゆけばいいだけのことだ。自分も両親に適度な距離をおいてきたように。

わたしはやはり昔の大家族のようなものにはなじめないし、もしそのような
環境におかれたらそれはわたしにとって一番唾棄すべき生活だろうなとおもう。

つまり、誰にも触れてほしくない空間、時間、こころの内側を保ち続けられないとわたしが私でなくなるような、、そんな恐怖に襲われるからなのだ。

今はと問われたら、、まさにそのような、、 私にとってかなりベストに近い状況ではあると思う。


これを幸せといわずして、、、なんて言おう。


大望もなく極端な変化も望まず、 ただ夫と二人であれば どんな
サバイバルな状態でも大丈夫そうだなとこの安心感が一番大きいのかもしれない。日ごろ感謝を口にするのも自意識過剰なわたしにはできないことだがこれも誰が作り出してきたというわけでもない。

自然とこのようなものを選び取ってきたと思う。なるべくしてなることには
逆らわずゆだねてしまったほうがいいだろうというのが 老いをむかえる
私のこの頃の気づきだ。




2002年09月17日(火) 今日の終わりに

小泉首相の訪朝で明け暮れた感の今日一日。
拉致されたかたがたの親御さんの気持ちを思うとほんとうにやりきれない。

首相の会見の’言葉もない’という発言に、、まったくその通りだと、、

訪朝で何か解決があればと思っていた。
拉致された方々が日本に帰れると、かすかではあるが期待していた。
病で命をおとすひとはあっても 大方の日本人が元気にこの地を踏む日が必ず来るであろうと



どうして、異国の地で命を落とさねばならなかったのだろう?
どのようにして、命を終わりにしたのか?

なんて不条理なこと、、、

この国でうかうかと暮らしていたわたしには拉致という非常な事態を
推測することなどできないが、、、
そのときのことを思うと  まるで ドラマか小説のようだが(不謹慎ではあるが)連れ去られた先は地理的にはそれほど遠くないのに まるで不毛の地のような 悲しいイメージが浮かぶ。

生きて、どんなに生きて還りたかっただろう。
安否の確認の発表が進むのを聞きながら ふーっと力がぬけていった。

どのような事情があったのだろう?
この国にいたならば これほどのひと達が死なねばならぬ年齢ではない

今は声なき人たち、、、故郷を、父を、母を、兄弟姉妹を思いながら
命の終わりを迎えなければならなかった人たち

こころから お悔やみ申します



2002年09月16日(月) 無題

無題というほどで、、特別なことがおこったわけじゃない


亡くなった人のことをふと思い出すことがある
ほんのちいさな表情の変化だったり、しぐさだったり、、、
それは ひそやかと云うにふさわしいひとのことだ

にぎやかで自己主張の強かった人はなぜか無口、無表情な
時のことのほうが思い出される

わたしはことさら霊感が強いとか霊がみえるという人間ではない
ただ、ときおりごくまれに’けはい’のようなものを感じることがある

台所で夕方、夕食のしたくをしながら薄ぼんやりと考え事をしたり、あるいは手早く調理の準備をしたりしている時に、、、
’視線’というのか’気配’というのか、、、ふわりとしたもの、ゆらりと
したもの、なにかがふっと動いたようなかんじ
 そう、ただの感じに過ぎないのだけれど、、、

そういう時は、あ、○○さん逢いにきてくれたんだと
心ひそかに思うことにしている
若くして生を終えた人  ひそやかなたたずまいだったひと、、
わたしの知り合いにはそう何人もいないのだが、、たぶん、そっと逢いにきてくれたんだろう  そう、思うことにしている。

しかし、わたしは普段はあの世だの、輪廻だのをまったく否定したい人間なのだが、、、このときばかりは、空気のゆらぎにすこし驚き、その瞬間
’あ、○○さん’と無意識にその人のことを思ってしまう

ひとしきり、彼女たちのおもいでに浸って、、、そうして それが
わたしの供養なのだとおもう

果たして 自分がひとの思い出のなかにいつか登場するのかと 考えると
なお おかしな気もするが、思い出されなかったら ちと悲しいかなとも
思う・・・

そのくらいのわたしというのも、いいではないか
そのくらいの生なのだと・・・



2002年09月15日(日) 気づかなかったが

ふと、気づいた。Enpituの新ジャンル  日常/生活のほかに 
                      静かな日常が加わっている

静かな日常・・・こっちだよ じつに静かだもの 私の日常は
もう、いままでの静かな日常にもどりたい・・・

毎日、ハンでついたような日常
それがわたしの毎日でそれがあたりまえだった
父のことで今までとかけ離れた生活をして 
それをまだ引きずってはいるが
多分 本葬が終われば 
取り戻せるかもしれない



移ろう日を 移ろうままに みる だけのことだ

雨の日は 雨を 
晴れた日は 青い空を 
雲間のつき 夕焼け
連翹 牡丹 すすき 山茶花 毎日は 庭の花と
流れる雲と それらを愛で 過ごすだけだ


ことさらの変化など のぞまない
 気をみだすことは 不本意だ

隠遁ではありませぬ・・・
 さとりでは さらありませぬ・・・

わたしのまわりで おこることなど たかがしれてます
 
来年も 庭の 桜に あえること が ささやかな 望みです
 


    



2002年09月14日(土) しばらく

しばらくぶりにこちらへ、、、

書くことが

ふたたび

ありふれた

にちじょうに

もどり

書かなくても書いても

かわらなくなった



この1週間は結局 ふつうの遺産相続系のはなしがメインになって
きてしまった
とてつもなき 現実だ・・・・

これから、市役所へ戸籍謄本やら抄本やら印鑑証明やら
いったい いくつ とりにゆくことになるのか、、、


そして、飽きるほどの協議だが
こちらも いったい どんな結末か、、、


その故 2nd の名を この日記に冠す



2002年09月03日(火) 9月に

家で普通に生活することはありがたきかな...

 あることが難しいのでありがたいのであって、ふつうに日常に埋没する
 ことはあまりに当たり前のことなのだと改めて思った。

 また、何か起こるのか?と不安な日々を送っていたのがウソのようだと
 言うのはあまりに安易だが、、、

 夕食のメニューを朝、夫に告げる
   新サンマ 塩焼き
   タコの薄作り  
   冷奴
   大根と厚揚げの煮物
   ナマの野菜
   浅利の味噌汁

 夫は「あ〜、やっと普通の夕飯だね」と言った。

ここひと月、夕食はホカ弁、コンビ二、外食が多かった。
わたしは食に関してはあまり執着はない(つもり)が、夫は食事がとても大切な人なので、いつも夕食の献立には難儀する。
それもこれも、長年主婦業をしてきたのだが一向に上達しない料理の腕と、面倒なことがとにかく嫌なのが災いしている。

実家に長くいたので、食事の支度はわたしの分担だった。これもあまりやる気のない母のせいで父の好きな野菜の煮物や酢の物などは私が作っていたが私自身も本来料理は好きではなかったので心のこもったものではなかったと思う。そう思うと父はあまりに家庭運にめぐまれぬ人だっだんだなーと気の毒にさえ思える。


祖母はかなりの変わり者だったので、学問好きというか偏った考え方のひとだったし かなりの家事オンチだった。
わたしは祖母の煮物が大嫌いだったのを今でも覚えている。真っ黒なのでにんじんと芋の区別もなかったような、、味については多分耐え難かったと思う。家事よりも読書を大切にしていた。 父は祖母のことが大嫌いだった。

質素でも暖かい家庭に憧れていたのかもしれない。そして母ときたらこれまた家庭的とは言いがたい人だったし、、脳腫瘍の手術をしてからかなりおかしくなっていた。 

過度のアルコールを父は飲んでいたのだが、じつはよほど家庭がつらかったのか? と、色々考えてみる、が父そのものがやはり変り者だったというのが一番の原因なのだろうが。

心が遠くなってしまってから、父の死を何度も考えていた。
多分悲しくもないだろうと、、

 
   今も、悲しみというよりは寂しさがまさる。
   今生ではもうあの父には逢えぬのだ。


父の子として産まれたことがなぜか不思議な気もする。

いごこちのいい いまの生活ーそんなことばかりじゃないけれど、少なくとも父の家にいた時よりはー 自分の家庭を持ったのは悪くない。
むしろ自分の家庭をもったほうが人として少しは成長できるのかもしれない。わたしの家庭観はとことん向き合うこと。 ちいさな社会である家庭を維持するには、こうるさい夫のようなものも必要だが、主婦のわたしはいつも家族のことを考えている。(少しウソっぽいが。)             

 それでも自分のことは一番たいせつ、、これに尽きてしまう。
 ああ、しあわせな日常




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