きままくらし

2002年10月29日(火) 不調は続くよ----

今日は、また相続系話をするために姉と実家へ行くことになった。
いつも実家にゆくと体調が悪くなるので、コモリにはつらいことだ。
とりたてて 実家の母が心配なわけでもない。
母の様子は 姉に聞けばいつでもわかるので、こちらから 
出向いてもと思う。

たとえば、遺言書のようなものが見つかった時から
3ヶ月以内に家裁の検印を受けないと遺言書の効力が
失効するということなど、、、まったく知らなかったし。


事実、生きているものは そういう現実問題にすぐに
直面するので、、、かなり いろんなことにアタマを使う。
それは、死後 かなり早い時期に浮上している・・・
しかし、行事などは実家のことであるから、私たち(姉とわたし)は
勿論口出しなどしないし、淡々とこなしてきただけだ。

以後 そのままでいいのか??という思いで 姉と出向いたわけで
実家からは何の働きかけもなかった。

失効されたら、、、デメリットになるのは私たちではなく
実家のほうではないかと思うのだが・・・・
個人名義の土地を 法人に寄付したいという内容である。

母が話しに入ると本当にややこしくなる・・・
結局、、来週家裁に出向くとただそれだけなのに 3,4時間を
使い、、全然本題とは 無関係な会話をずるずるとして・・・・

いったい この問題がすっかりかたがつくのは いつなのだろう?

10ヶ月内に遺産分割協議をするらしい・・・らしいだけで、
そうなる日は確実にくるのだろうが 現実味はない。

重くもないが 軽くもない スポンジの帽子をかぶっているような
妙な感覚だ。しかし、日常とは かなり違和感のあるこの奇妙な
感覚は 早く脱ぎ捨ててしまいたい。

それは、自分が 父の死に はやくケリをつけたいのかとも
思うのだが、、、母の今後というのも 姉弟の思惑にもあるので
そういった ”がらみ、込み”の部分も含まれている。
およそ、自立していない母の存在が 一番の心配事ではあったが・・

帰りの車で 姉と話したのは 母の様子をみて、思ったほどの落ち込みも
体調の不良もなく、安心したということと、、、もともと感情の希薄な
ひとなので、このままでも大丈夫だろうということと それは案外
長年夫婦でいた両親だが 母は父にさほど 愛情がなかったのではない
かなどと 憶測したりした。

そういう、情感乏しい母に育てられたわたしもまた
                     そんなものかも知れぬ。




2002年10月27日(日) なんとはなしに

なんとなしに うまくいかない日があるものだ・・・
用意万端整えていても、 なぜかボタンのかけちがい状態が
続く日がある・・・

娘が通学用の靴を買いたいというので、、夕方でかけた。
通学用ローファーを 都合 3軒見て廻ったが、
結局 これといったものがなく むなしく帰ってきた。

どんなものでも<はやく>決めてくれというこちらの思惑が
悟られたらしく、娘はたいそう不機嫌になった。

そういえば 朝から 風邪気味で 鼻がグスグスしだし
アタマがどんよりと重い。
昼食後 横になっていたら ついうとうととし
目覚めたら3時をまわっていた。
寝覚めが悪くそのころには 喉も痛くなっていた。
おおむね今日はさしたる家事もしないで過ごした。

十分な休養(?)はたぶんできなかった。すこし-----かなり 手抜きを
させてもらった。 昼、夜とも 麺類の食事だった。
1品だけで 他のものは作らなかった。
まあ、夫が留守なのでできたことだ。
いてもいなくても、、、なんとなしに 気鬱と悪寒で
不機嫌であっただろう。 
不機嫌の度合いは多少 ちがうかもしれないが・・

こうして、うまく廻って欲しいなどという思惑とは別に 
他の些事でも、、、結局 うまくなど いかなかった。

体調のせいではなく、、、昔、交通センターでバイオリズムの紙を
くれたが、、、それを思い出すとそんな感じ。 きっと 低調な日であったのだろう。



2002年10月26日(土) いままで

日記を書き始めて、トータルな数を調べてみたら、、40日ぶんであった。
8月8日から今日10月26日までで、41日の記録、、
といっても 心象を記したものが多く、 いかに とりたてて
記すべきことがないか 窺われよう・・・

読書の過程だけを 本日は 記す

  ”宗教のジャパノロジー” 現代との対話7 
               作品社  山折 哲雄・川村 湊

   シンクレティズムの世界という 副題あり

   1988年刊   
 第一章より    新・新興宗教が内的に求心していく・・・一番興味
          ふかかったのは
          全共闘世代 → コミューン主義 → 神秘主義
      
      *実は わたしの近くにもいる、、、そういう世代の残り香の
       中で青春してたひとが、、、なにを隠そう私の姉だが
       いつも、逢うと 神秘主義に関する ひとくさりを始める。

       ただし、彼女は 暴君で コミューンなどといったものには
       属せるはずもなき 人物。
       踊る 神秘主義者だ・・・

 第二章     チベット学の可能性 (中沢新一がらみか?
                    と思ったが・・・)

      *高さ=高度に関する記述は何度よんでも面白いが
        自分はたぶん ラサにはいけないだろうと思った酸素が
         いまより少ない環境は???だ

以上、中途まで・・・



2002年10月24日(木) 有料

にっきを書くのを 大儀だと思うコトがある・・・

書き続け、書き捨ての 連続だが

何故? の 問いには つまり ここを 有料で

借りている… あ、はぁ〜、ただ それだけのことである


ケチな 主婦には (どうせ)有料なら

つかわにゃ ソン、ソン と・・・



毎日が 芥 のごとく、 澱 のごとくに なったら
一掃 するほうが いいに 決まっている

毎日は 遊び の ように 過ぎていってしまう
遊びは 遊びで 呆けているようだが それなりの 意味づけも
必要だろう

時折 心の奥の 毒を 吐き出すには ここは 必要か

サントウカさんよ ’あいきょうの ある イボ’ と 自分を
感じたいものだ



2002年10月20日(日) ゆらゆら

つかれた、、先週に 嫌気がさしていた

大勢のヒトのなかで過ごすことがないから

いつも ちいさな場所で 適度な温度で

ゆらゆら、ゆらゆら たゆとうて いるだけのわたし






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2002年10月16日(水) 午後から

今日は 父の 本葬に伴う 逮夜の日となってしまった。

早いもので、もうひと月と半分以上の時間が流れていってしまった。

逮夜とはいっても、、普通でいう通夜の儀式である。
大勢の近隣の僧侶をむかえ、わたしのなかでは 多分に 儀式化した
イベントとしか もはや とらえられないのだが・・・

こうした行事も残されたものの務めといってしまえばそれまでだが
普段 死というものに少なからずかかわっているものの家族としては
決まりごとの遂行が 果たして 単なる 習慣、習俗としてのみの
形骸化してしまったものになっているのではないかと 深く思わざるを得ない。


送るものがあれば、、かたちはどうであれ−−−−とここまで書いて
実に不遜なことを・・と気づく。
こころのなかを思えば、、 単にわたしが そういった 世間間の
煩いが うとましいだけの、、、狭い了見であったのだ。


   父へ・・
   
      その一片はふるさとの土となる秋     山頭火



    






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2002年10月15日(火) 昨日をこえて






連休の3日を穏やかに過ごした。

とはいえ、、連日 PC遊びを時と人目とを盗んで していたのだが、、、
とうとう日を越してしまった。


明日のことを思うと 少し どころか 非常につらいものがある。
歳に加えて、悲しいほどの視力の低下、筋肉の疲労はなはだしい。

おまけに慢性の運動不足は いかんともしがたい。

読書も 気持ちは動けど ページを繰る前に睡魔が襲い 本をはたりと落とす音に はっとはするが そのまま 惰眠をむさぼってしまう。


あっと気がつけば すでに 午前1時17分
夜の夜中に何をしているんだろう・・・

愚痴るまい、、、この静かな時はわたしの手のうちにあり・・・






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2002年10月12日(土) 生きていれば

生きていれば いろいろな 欲もでてくるものだが・・・

この年になると 物欲よりも 精神の平安であるとか
 負けない 身体とかが 欲しくなるものだ

指輪をするのをやめた・・
 節の立ってきた指に似合わないから、、昔 ずんぐりした指に
  指輪だけはでかい オバサンを見たときに あ〜、これだけはやめよう
   と、思った。 金で解決できるほど 欲望は こぶりではなくなった

     醜さを2乗する・・・

さらさら血に血道をあげよう・・・
    免疫力 倍増、 SlimなBodyで 病知らずかぁ


さて、またわたしの 逆戻り理論では、、、どんなに金使えど 死は 傍ら
にあり・・・

死ぬまで生きていませう  の ココロだ〜






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2002年10月11日(金) 病院

今日は、朝から 母を大学病院に連れて行った。
母は 21年前にこの病院で脳腫瘍の手術を受けた、、、

ここ何日か頭部の手術跡がゆびで触れるとへこむようでヘンだと言うので
10数年ぶりに行ってみることにしたのだ。この何年かは 違う病院で薬だけをもらっていた。

姉と私とで付き合うことにした。母は一人では何も出来ない。
駐車場に車を入れることから、すべて 「待ち」 が 続いた。

受付、診察、検査 (CT,血液検査etc.) 結果の説明 会計・・・・
すべてが時間待ちという状態に ふだん のほほんと暮らしている
わたしには、、、たいそう疲れる一日だった。

結果は、とりたてて感染などもなく よいものだったので安心したのだが。

しかし、担当の医師に見せられた今回のレントゲン写真には改めて
驚いた。  腫瘍は当時も良性だったが、21年たった今でも   当時
取りきれなかったという腫瘍の残りはわずかにあるものの 脳の左耳の後ろ部分に取りさった腫瘍のおおきさのままに 黒く空洞が写っていた。

 
 腫瘍は鶏卵大であった・・・ぽっかりとそのままの空間が脳内にある。


空いた空間にすこしづつ 脳が 侵食してきているものと思っていた。
皮膚であれば 傷口にあたらしい皮膚が再生してくるように、脳もその空間を埋めるべく 伸びて(?)きているものと思い込んでいた。

  黒々とした空間には何もないのだろうか?


医師は大変な手術だったでしょうね・・といい  手術は、朝8時から夜の10時過ぎまでかかったことを思い出した。
隔世の感ありといった風だ、、、彼はそのころ少年だったろう。

その後、再発もせず、後遺症は残ったが それが当たり前のような顔をして母は暮らしている。 

今回 病院にいったのも 母の様子を心配してのことだが、、、父の死は 表には現さないが かなりこたえているだろうし母のこれからも心配であったからなのだが、むしろ母は 姉と私と病院に来たことのほうが嬉しそうであった。

帰る道すがら、弟に とても悪そうな顔をしてやろうと 嬉々として話す
母。 言われぬ 寂しさがあるのだろうと 感じた。







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2002年10月10日(木) no title

山頭火が すきだ、、、

   今朝、こんな句をみつけた

     空はゆたかな  柿のうれたる  風のいろ

 いまの場所に越してきて足掛け 3年めになる。
 結婚後、何度か住まいを移してきたが
          ここが ついの棲家となるだろう。

 この土地には 2本の桜がある。
 これから しばらくは 落ち葉掃きをする日が続くだろう。
 それさえも、 秋から冬への 季節の 通り道。







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2002年10月09日(水) 加齢と向老

たわいなく 夫と話をしていて、、、

  「老いがすすむと加齢臭がするらしい・・・」と夫はじぶんの
   うなじあたりを 指でさしながら言う。

  「ふ〜ん、、、、」と聞き流してはいたが、、、ドラッグストアで
   それら用のシャンプーやら、ボディ・ソープを目にしたことが
   あった。

 老いにむかう夫婦の会話は、艶もなにもあったものじゃないが、
 確かに 老いにむかうこのごろは 関心がお互いの健康や体に向いて
 いる。

また、ある時 
   
   "死ぬ時に ひとは それまでの願いが すべてかなうらしい・・・”
   と、夫は感慨深げに言い、それがどこから聞いたはなしなのか
   真偽のほどもわからぬが、、わたしは答えた。

   ’そう、そう、、、そうかもしれないね・・
   父が、息を引き取る前に、口を大きく開けてね、それから
   「うむ」と口を結んだんだけれど、、あの時の顔 とても幸せそう
   だった、、、喉をごくりと鳴らすようにね・・
   きっと、 あのとき父の望みは叶ったのね。大好きな酒を飲んだ時
   のようだった・・・’と。

  夫は死のときには居合わせなかったが 義父のことを思い 静かに頷
  いた。


私は、どうだろう・・・夫は 好物の果物を パクリと するのだろうか?
酒ともタバコとも縁のない夫。食後の果物を食べる時の目の細めようがすぐに浮かぶ。 位牌の前に ダミーの果物を供えるよと以前冗談で言ったことがある。 プラスティックだかのりんごやみかんや葡萄を 本当に並べるかとおもったのか、夫は不機嫌そうな顔をした。

わたしは 紫けむりがだいすきなので・・・去るときには、息をふぅ〜と吐いて それから いとおしく その煙を吸い込むように息を引き取るだろうか? それとも、淹れたてのコーヒーを飲み干すようにのどを震わすだろうか?

ささいな そして 大切な 嗜好 の ことで、、、思わぬ最期の想像をする 秋の 午後だった・・・





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2002年10月07日(月) きうす

ここ数日で 急須を 立て続けに 2個 壊した。
一つは とてもモダンなでデザインで
グレーとカフェオレ色の 刷毛目の四角が 
ところどころに置かれていて 胴もまっすぐな円錐形
蓋には取ってはついておらずフラットなまま
茶を湯飲みに注げば3〜4杯は入れられる、、、
夏に素麺たれを入れても いい雰囲気のものだった。

もうひとつは、やや小ぶりの万古焼。
特有の茶色の肌に線ぼりの 椿 と 菊 が ひとつずつ
丸の中に紋のように描かれていた。
急須を温めて 少し話をし、湯を空け 
茶葉をいれ、湯冷ましから湯を注ぐ間の時間が
たいそう ゆったりと感じられる・・・
友人とふたり で なにやら話しをするとき使うもの。

大きめな急須は 1年半ほど使い、なぜか水漏れするように
なってしまった。
茶渋は気がつけば漂白して、愛着があった。

万古焼の急須も もうじき3年たとうというころだった。
こちらは蓋のふちを1cmほどおとしてしまった。

どちらも、とても後悔した・・・


家事のとき、洗い物がシンクにたくさんあったり
大きな中華なべを洗うのに 思わず急須にあててしまう。
事なきを得たときは、気にもとめないのだが、、、

南部鉄の重いフライパンを洗っていた時、蓋を急須の尻にのせて水を
切っていた小さいほうの急須は、、、
あっ、と思ったときには蓋が飛びシンクに爪のきりかす程の
かけらが落ちていた。

割れ目にかけらを当ててみるとぴたりとあうのだが・・・
もうどうにもできないのだ。以前にもお気に入りのふちが
欠けたときになんとかならないものかと 接着剤ではってみたことが
あるが、それはやはり まったくの別物になってしまった。

小さな急須はしばらくかけらも 本体もとっておいた。
さっさと捨てるのがほんとうに忍びなかったからだ。

調理台の上に 置かれても、、、どうにかするのを待つかのようだが
それは、わたしの心が風化するのを 待つばかりの時間 だった。

 かたちを壊されてしまったもの・・使われなくなってしまったもの・・

そうしたものを容易く目に触れぬところに放ってしまうのが 
たまらなく悲しい気分になってしまった。
それは、人とても 同じかもしれない。
いつも、空気のように あたりまえにある 人が 
壊れ、姿も変えて、、、そんな時を超えるのに
               一体どれほどの時間が要るのだろう。

現状のまま、、、は どこにもないことを 知る。






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2002年10月05日(土) さやかに

風がさやかに吹く・・どこかの運動会のアナウンスが きれぎれに風とともに届く

思い出を一つ
 どこかで、秋祭りや運動会のにぎやかな様子が聞こえても
 こころ浮き立つようなことが なかった・・・
 いつも、それらは 他人事のようで ひとりで 部屋のなかで
 本を読んでいた
 まるで 暗い子ども時代だ・・・

子どもは 明るくて健康で よく笑い 楽しそうでなければならない と
思い込んでいた節がある

型どおりの しあわせ感とは程遠いもので そういった型どおりが ない不幸を きわめて恨んでいたろうか?
子どもというものは 不思議なもので そうあることに 飼いならされるのか?

今でも、きわめて 明るい人が苦手だ・・健康な 思考も嗜好も いまだに持てぬ。しかし、そう暗くもない と 自分のことは思っている
『昨日はこんなことがあってね、こんなに楽しくて、こんなに幸せで・・・』なんて 口がさけても言えんよ!
淡々としてあれ、すべてを飲んでモノを言え

家庭において、 はしゃぎや無邪気さを 現すことが できなかったとしか思えないが、 敢えて いつも 感情を抑えていたわけではない
ただ、あらわすことに 慣れていないだけだろうと自分では推察するのだが

戦前の産まれ育ちの両親は 「かくあるべき・・・」や「あるべき姿」と言う言葉が当たり前のように染み付いていた

人に伍していきることに どうにも違和感を感じて ”突然 おりる” を
繰り返してきた  放下というほど高邁なものでないことは自明だが 
いつも胸の奥に去来するのは 放下してしまえ・ 放下著 という言葉だ
かくあることへの 単なる嫌悪であるのか

あまりの執着の強さに ことの重大さに直面することの怖さに
  この便利なことばを使ってきてしまった

放ってやるべきは そのうちにある おまえを縛るおまえのこころだと 今日も 自戒

こんな気持ちのいい風が吹いてくれる秋の日・・・








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2002年10月04日(金) とおいこころ

ちかくて遠い国のことは、心の片隅に今日もあるが、、、

先日、知り合いからメールが来て それも 一方的に なにやら報告めいていて、しばし えっ、何コレ?と思ったことを書こう。

知り合いといっても、娘が小学校のときの同じクラスの母親なのだが、
その、報告というのは彼女の息子(わたしの娘のかつての同級生)が
高校を休学することになりました。というもの、、
たった3行は次のように書かれていた。

 
 休学願いを出しました。三人で良く意見を聞き登校できないというので、
 そうしました。これからは、大学検定に向けてすごすようです。皆様の、
 暖かいお祈りと、励ましに、ただただ、感謝致します。


あ〜、そうなの、、、と思ったけれど。これって、、だから何?なのだ。
しかも、同報したらしく、宛先にずらずらと10名ほどの名前が見えた。
だから、なんてお答えすべきなの? よかったですね とも 何とも伝えようがない。
とても、不快だった。
私信というのなら 宛先からわたしのアドレスをはずして欲しい。
単にメルアドを知っているというだけで、こうしたメールを送る神経が
まったくもって理解できない。

それに、お祈りと励ましなどという言葉を安易につかって不愉快さをつのらせる。敬虔なキリスト教徒であるらしい。いつも 苦悩のなかに生きてる。

 意地悪なわたしは一度聞いたことがある。

  「どうして、あなたの神様はたすけてくれないの?」と、、、

すると、聖書の中の ヨブ記の話をもちだし、神をためそうとしたヨブの話を延延とするのだった。だから、だれからも試されたくないんだって、、、誰かの許しのなかにあなたの安心<あんじん>があるのだったらそれでいいでしょ。とまた、意地悪なわたしは思う。

それは、信仰が足りないのかどうかなんてことも その時 聞いたような気もするのだが、信仰以前の問題かもしれない。
深い溝は 私だけが感じているもの。

苦悩の中にあるひとは 本当は苦悩を欲しているのかもしれない。

こころは物質化する。だ〜れのせいでもない。
あなたの病はあなたしか 癒せない。

いつも 彼女のことを思い出すたびに こういいたくて 仕方がない。

周りのひとのなかでも 特異な ひとだ。

そして、捨て去ることはいともたやすいが そうした たやすさを
実行する自分がいやで 今も、、、

甘い言葉をかけてやれるほど わたしは いいひとではない。








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2002年10月03日(木) このくにのひと

連日報道される、北朝鮮拉致問題は、隔靴掻痒 明かりの見えないトンネルの先といった感がある・・・
首相訪朝の際の驚きとはべつものの憤り・・・外務省の調査報告の内容は
怒りを増幅させた。

今日も拉致された人々の家族の会見があった。
淡々と発言がなされてゆく。
深い悲しみの中の怒りがあまりに静かで、一層こころの奥深い悲痛な叫びのようだとわたしは感じたのだが、、、

かの国のTV放送を目にする機会がまれにあるが、ニュース報道のアナウンサーのあの、語気のあらさに吃驚してしまう。
女性のアナウンサーにして、まるで怒っているか、叱咤しているかの如き
語気の強さに思わずその表情をまじまじと見つめ 引き寄せられてしまう。
偉大な将軍様 と いう 大時代な言葉を 聴くにつけ、、、これは現にこの時代のことなのか、もしや わたしは 架空の話の映画を観ているのかと・・自分の頬をつねりたくなってしまうのだ。

それでも、K氏がどうした、こうしたを聞いているうちはまだよかった。
これほど大量の人がかの国に連れ去られているなど思わなかったから・・・
そして、ほんとうの実数もわかりはしないこと、あの素人考えでもわかるほどの死因の不自然さ。この実態があまりに遠くて まるで 咽喉の奥深く何かが張り付いてしまったような状態が いつまで続くのか・・・

かの国の政権が変らなくては何一つ解決しないだろうという悲観的な意見を耳にし、何がどうすれば すべてが クリアーになるのか 全く わからず
このまま時はすすんでゆくのだろうか?

今夜も、憤りのなかで こころはどんどん 無機的にならざるをえない。
かの国の人たちが悲しみで号泣したり、地団駄を踏んで悔しがったり、抱き合って声をあげてうれし泣きしたりするのを目にしたことがある以上、このくにの人たちも大声で怒りを表すしかないんじゃないだろうか。
胸倉をつかんで罵声をあげ怒りを表明するぐらい、感情をたたきつけたい。


このくにの静かな怒りは あまりに 静かすぎる。





2002年10月01日(火) 雨が降り続く

気象情報では 台風がだいぶ接近しているらしい
ここはまだ静かな雨
内陸のひどい被害のおこらないところに住んでいるので
普通の雨降りとかわらないし、時折鳥が鳴く声がきこえている

静かな秋・・・一番好きな季節
裏庭のコスモスがゆれて静かなあめに打たれ はかなげで

夫に 「今日も、だれとも会わなかったよ・・(家族以外の)誰とも口をきいてない」と言った

姉からのメールが入っていた。
土曜日にうちの近所までくるので、、また話をしようということだったが
あまりあてにはしていなかったら、確かに以後なんの連絡もなく
メールで 「タイヤがパンクしたうえに、携帯も忘れてしまったので
       連絡できなかった・・・ごめんね」と言う内容

まあ、いいのだけれど・・・予定をつくっても、いつも帰宅時間をわたしは気にしてしまうし、居心地にいい家にいるとかえってせかされるのが
ほんとうに嫌になってしまった

若いときの自由とは違う自由
 自分で時間を計ってすることをしてしまえば後はのんびりすごしている
 今より老いてもこのままかなと思うしこのままでもいいしと・・・

ただ、なさざれば喰らわず という言葉も浮かぶが 時間になれば空腹を
覚え 喰らってしまうし、、、なさずとも喰らうがわたしには正しい

”これは今日じゃなくてもいいかな”と思う程度ですむ毎日だから、いろいろなことを明日に延ばしてしまったり・・・

すべて縁もので動いているような気がしてならない

それは めぐり合わせというのかもしれないが、なにも起こらなくても
確かな時間の移動だけは感じているから 雨のなかでぽつんと取り残された子どものような さびしさは ない
「ほとんどのおかーさんは働いてるのよ! うちにいるんだからもっとちゃんとしてよね」とこどもにいわれることもある
そうか、わたしにはできそうもないなーと思う

でも別に今は 働けないわけじゃないけど 働きたくはないので
働かなくても何とか暮らしてゆけるだろうし、、、二十年前は必死で
働いてたんだけどね〜 

歩き出せば 犬に当たるかもしれないというくらいの 生活を
長くつづけているなあ 

雨のカーテンは厚くて重い
  


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