きままくらし

2002年08月30日(金) 気がついてみれば

ふと、天井をみあげるとくもの巣にほこりがからまっている。
洗濯物のゆき場をうしなったものが、いすの上にある。
黒の服もかたづけてない、、、、
ふぅ〜、ため息ものだ。
昨日も半日寝ていたし、今朝もついうとうとしてしまった。

すこし風邪気味のようだ、この暑さは一体いつまで続くのだろう。

と、午後になって急に裏庭の草むしりをした。
なつくさの生い茂る速さは行く夏に種を残さんばかりの勢いでそれさえ生存へのあくなき意志のように思えてしまった。
バッタが2,3飛び出してきた。お家を奪ってゴメンね。

この前より、根が強く張っている、すごい生命力だと感心してしまう。
2時間あまり夢中で草と格闘していたが素人菜園の方まで手が回らなかった。たった1、2週間ほどでこんな草むらと化してしまったのか、、、


日常が日常ならざるものになると、かつて日常と思われていたものが馴染み薄いものになってしまって妙な戸惑いをおぼえる。

いつも、午後はのんびり過ごしていた。どうでもいいようなことをぼんやり考えたり、本を読んだりして夕食のしたくをする時間までま〜ったり過ごしていたんだ。忙しいなんてことはあまりなかった。

むしろ、忙しくなく生活していたんだなとも思う。あれしなきゃ、これしなきゃというのがたまらなくイヤで。なのに、つい指先が痛くなるまで草をむしっていたのも、考え事をしたくなかったからだ。

そのくせ、”父は夏はほとんど戸外にいて広い庭をそれこそ一本の雑草もないくらいに手をいれて、一体何を考えながら草むしりをしていたんだろう”などとまた考えてしまっていた。

 

  フルサトハ アトカタモナイ ホウタル

もう、こどものころ過ごしたところ(心のふるさとのようなトコロという意味で)はなくなってしまった。








2002年08月29日(木) 何とあわただしいこと

昨日の日記を翌朝つけるということを続けていたし、はっきりした曜日の観念がこの一月はまったくなくなっていた。

enpituの日記をこのまま続けるのはどうしたものだろう、、と今日ふと考えてしまった。

しかし、自宅でのターミナルケアのこともこれから考えてみたいし、やはり必ずおとずれる母や夫の老いと死と(もちろん自分自身の)を見つめるところにしよう。

40のときは生きているのが妙にむなしい気がしていた。
さりとて死を望んでいたわけではない。
このまま死にたくないという漠然としたものだったけれど。

よく知人に’Yさんは幸せよ’と言われたし、たぶん「したいことしかしない」と傲慢に言い放っていたし、事実”逃げ”はお得意だし、、、ひそかに息づいていたいと乙女チックな気分で暮らしていたかもしれない。

実は、尾崎 放哉のような自死にひそかにあこがれていた。
孤高の死のように思えたから、、自殺なんてものに比べ、生易しくない己が死を見つめ続ける行為はとても壮絶だと思う。

でもねー、、、それさえも、もういいかもしれない。

葬儀につかう写真ひとつどれでもいいのだ。生前に考えておこうなんざ こんな長生き国になったからだし、ほんとは誰はばかることなく死んでいけるんだ。誰はばかることなく死んでいけばいいんだ。

「あとは人 先は仏に まかせおく
             おのが心の うちは極楽」

貞心尼のこの歌をもう一度こころの奥深く反芻すること。

ほんとうになんにも選べません。生きているうちがはなですが、いつもお隣さんは”死”なのかもしれません。




   



2002年08月27日(火) 終わりました

昨晩の大夜(一般で言う通夜)に続き、父の密葬をすませた

もう何もする気力もない、、、

落ち着いたらまた、しみじみと実家で母と、姉弟と思い出を語ろう

白い骨になってしまった父、きれいにしてもらった顔には苦痛もなく
平安と静寂があった  好きだった竜胆をたくさん飾って。

激しい人であった  特攻の生き残りというつらさが常に父に纏わりついていた  戦後はそのまま激しさをもって生きてしまった  私には理解できない父の人生だったけれど


父の寝ていた部屋も、来客のために片付けられたほかの部屋も、実家の庫裏は妙に広々として、物悲しかった


’お父さん、私はいまは十分幸せだから、、大丈夫だからね’
そう心の中で語りかけた

 



2002年08月25日(日) 月の美しい夜

昨晩はおとついの満月に続き、雲はありましたがきれいなお月夜でした。

10:50に父は亡くなりました。



昨日は姉とふたり夜間ついていようと決めていた。
姉はなるべく休んで来るのは10時でも11時でもいいよと言ってくれたがなぜか、夕方5時くらいにはいけるからと姉の好意を翻す返事をした。

実家について、、(その前に姉と今後の夜間の付き添いは夏休みが終わると厳しくなること、姉と義理の兄の仕事も9月からは忙しくなるのでいままでのようには時間をやりくりできなくなるだろうということ、、弟とこの状態が続くことを想定した話し合いをしなければということなどを話していた)

幸いなことに夏休み中でわたしたちは多くの時間を父にさくことができた。姉夫婦は学習塾をしている。弟も幼児教育の仕事で、時折行事などがあったがこちらも夏休み中であったし、、、わたしは本当にこの夏休みは何も予定をいれず静かな夏休みをおくるつもりだった。


父は午後訪問医が一昨日よりいい状態との診たてで酸素をレベル4に落としていた。まだまだがんばっているようにその時は見受けられた。
また今夜を乗り切っていけるかも知れないとは思ったものの一抹の不安があり、私の中では”きのうとすこし違う”という感じをぬぐえないでいた。

夕方から夜8時ころにかけて発熱があり身体を冷やした。呼吸は昨日より弱くなっていたが、苦しそうな様子もなく次の段階の安定に入っていくのかとも思った。
そうしているうちに酸素量の数値が下がり酸素をレベル5にあげ一時間ほどようすをみていたが、いつもは上がってくる酸素量がなかなか戻らない。

それでも父のむくんだ手足を母と甥とでなでながら、孫のなかで一番年長の甥としみじみと話をしていた。
父はもうこのまま意識が混濁した状態でまた数日を過ごしてゆくのかとおもうともう一度意識が戻って一言でも何か言ってほしいと願った。

10時過ぎに酸素量はかなり低い数値を示し、血圧等をはかることにしたのだが、何度計っても上が50台、下も40台の数値しか表われない。酸素量はPという表示が出てくる。私たちにはこれが何を示すのかわからない。呼吸はひどく乱れている様子はないが、弱いながら止まっている間隔がさほど長くなってはいなかった。しばらく置いて血圧を計りなおした。Errが表示される。次も Err

私たちの中に緊張がはしった。
 姉と母は何度も「お父さん、、お父さん」と呼びかける。
弟が看護師に電話をいれ、医師にも往診を頼んでもらう。
ほんの短い間だった。
呼吸がとぎれる、、、姉はとっさに酒瓶を手にしてきて、湯飲みに移しガーゼを浸し父の唇をしめしていた。
弟は父のかねてからの頼みだった遺教経の中の父が一番好きであったという一節を唱えた。母と姉の口から嗚咽がもれていた。
父は酸素マスクを再び顔に当てたとき唇を一つ結んだ。
唇が閉じられたとき何かが抜けていったような気がした。


顔色があんな一瞬で変るのをわたしは見たことはなかった。
ほほのいろが一瞬で黄みがかった白いいろに変化した。


喪失感というのではない。すべて終わったという脱力感でもない。
こうしてかつて家族として過ごしていた母と姉と弟とわたしで父の看取りができたことに感謝したい気持ちだけだった。
父はとても穏やかな顔をしていた。


父は最期にこうしてほしかったのであろうと思う。さまざまな条件がかなえられ、家で死にたいと常々ねがいその通りに最期を迎えられた父をうらやましいと姉はいった。


看護師と医師の到着の後、診察と死亡の確認さらに葬儀社の手配、父の弟達への連絡とひたすらあわただしかった。
それは午前2時頃まで続き、仮眠をとるべく別室に移ったのだが結局4時半くらいまで眠れなかった。
今朝は葬儀社が8時に家に来るのでその前には弟夫婦は起きだし、色々なことに追われ昼前にやっと自分の家に戻った。

車を運転している時に突然、なみだが出てくる、、一人でしゃくりあげていた。






2002年08月24日(土) こうして、、、

こうして、父の病に関する日記を書いている、こう迄して残すものなんかないという気もする。

昨晩、7時過ぎに姉から電話。今日の血液検査の結果の数値が思わしくないので今、訪問医が駆けつけてくれていると弟から連絡があり実家に向かっているとのこと。詳しくはわからないが私も娘に伝えすぐに実家に行く。

何しろ1時間近くかかるので一刻も早くという気持ちがとても強かった。実家はすでに医師が帰った後で、2人から様子をきく、、数値に表れているものから、もはや非常に危険な状態であり 週を越すのは奇跡がおこる以外 無理だという。姉弟はかなり沈んでいたが、まだできることをできるだけやりたいといった。


わたしは、チガウとすぐに感じたが口には出さずにいた。
姉がすこしの呼吸の変化にも動揺しているのがわかる。しかし私まであたふたと動き回るのはその場の気がかなり乱れるようでできない、、、多分姉は私が妙に落ち着いているのが不思議?もしくは冷たいあきらめからのものだと思っているかもしれない。

こう迄になっている父に何をするべきかなんて、、、私には考えられないし、そういう手を差し出してその動揺した気持ちを父に感じさせるのもいやだ。

私には医療に関する知識などないので、静かに注意深く変化をみてゆくしかない。確かに呼吸が先日の夜より弱々しくなっている。横たわった胸の上下がかなり少なくなった。手足にむくみがでて、唇が乾いて舌が口の中でくっついてしまったかのようにみえる。
呼吸は酸素量を増やしたにもかかわらず弱い。しかし規則的で時折間隔がわずかに遅くなる。意識に関しては呼び声に反応することは、ほとんどない。あっても閉じた目が皮膚越しにかすかに動くのが見て取れるくらいだった。

(*突然の睡魔に襲われてしまいました、、、中断)

あきらめよりも、私にはこの程度では今夜は越せるだろうという確信めいたものがあった。かつて誰かの臨終に立ち会ったというようなことは一度もないのだが、父を見ているとまだかろうじて生につながっているように思えたからだ。
隣室の引き戸を開けて父のいる部屋は照明を落とし、こちらに4人で座った。
時折様子をみてやるほうが父も落ち着けると思った。とにかく気を乱したくない。

酸素の数値を30分おきにはかり、時折血圧や体温をはかり、唇があまりに乾いているので吸入、おむつもかえたりしているうちに午前4時を過ぎた。
数値に一喜一憂しても仕方がない。

わたしはかなり安定していると思ったので、結局姉と別室で仮眠をしたが
6時半に一たん家に戻った。

単なる経験にすぎない、、、本当に臨終となったらこの私の高ぶりもしない、あわてもしない気もちはどんな風にかわるのだろうか?
それとも、このままずっと静かな気持ちのままで父を看取れるのだろうか?
それが正直な今の気持ちで、、、まったくわからない。
姉のように言わば素直な対応ができないのも、この家で育った時の感情のもつれがあるのかもしれないな〜と思ったり、また今の自分はそれをすこし悲しい思い出としてとりあえず離れてみることができるようになったとも思ったりしていた。






2002年08月22日(木)

最近普段出くわしたことのない風景を目にする、、、というのも、早朝車の運転をすることなどめったにないから、朝からウォーキングをしている人達がいかに多いかなんてことや、朝焼けのばら色の雲だとか、毎日を十年一日のように専業主婦として過ごしてきたものには、自分時間というものが出来上がってしまっているせいかなじみのない光景がなぜか新鮮にうつる。

今日は昨晩父の夜間の付き添いをしていたので、早朝に家へもどった。
父の容態はさほど変化がなく落ち着いていたため、ひどい睡魔が襲ってこないうちに家路につくことにした。
ばら色の朝焼けは美しかった。昨晩は月がきれいにさえていたし、父のこともいつも気がかりだがこんな時にも、なにか美しいものを見るとこころがすーっと落ち着いていく。
自然が一番こころを癒してくれるようだ。

もっとも家族の朝食を用意し、それがすめばみんなに’ごめん、ねるわ’と言って昼まで眠り、昼食後も睡魔に襲われ再び布団になだれこんでしまった。体力だけはけっこう自信あったんだけどな〜、気が衰えないよう、しっかりしなければ、、、


* 深夜姉に父の様子を聞く。午後に、輸液のための切開手術をした。
そうすぐに、変化があるとも思われないが、昼はやはり微熱があったらしいし、それは夜になっても下がっていないとのこと。
電話越しに 母が呼びかけたら「おかあさん」と答えたという 声がした。
もうやまばだよ、、、このローテーションが終わったら夜間は二人づつで
つこうか?と姉が言う。 医師の話では危篤状態は変らないようだ。

気休めにすぎなくとも、身体に栄養物を送ってやりたい。
しかし、すい臓は機能していないため、インシュリン量を増やし、肺炎の耐性菌には次の抗生物質とわたしたちはやはり延命をしているのか?
父がのぞんでいるかはわからない。






2002年08月21日(水) 延命について

今、訪問してくださっているお医者さんは県内でも2件ほどしかない在宅看護を希望する家族を助けてくださるお医者さんだ。緩和ケアをしてくれるホスピスのようなものも数は非常に少ないのだが自宅でそれを望んだ私たち家族のものは病院よりもそれはそれは気を使い、それに延命は望まないので(過剰な装置、薬物による)静かに見守り容態をしっかり認識していなければならない。

弟からまた話し合いたいときき、昨晩実家に行った。
もう、状態的には肺炎がよくなりつつあるが、(どちらにしても右肩下がりの小康状態)栄養的な輸液をしていないのでこのまま意識が混濁した状態では1週間ほどで亡くなるかもしれない、、と言うことらしい。そして一つの提示として栄養物の輸液を中心静脈から行うこと、、それによって体力的な回復(今より)と肺炎の状態をよくするという話が医師からあったとのことだった。

その輸液についての選択を弟は決めたかったのだが、話がはっきりしなかった。医師からの話があったとき私と姉はその場にいなかったので、理解しにくかったのだが、すこしの永らえのために新たなことをするのがよいこととも思えずにいたので、二人ともいまのままでよいかとも思ったのだ。
結局結論的なものはなかった。

今日、看護師さんが来てくれたときに姉が色々聞いてみたところリスク的なことよりも、むしろそれを行うことが家族ののぞまない延命の部分に触れていることが判った。

それはやはり医師に聞くべきことかと思い午後の診察時間に聞きに言った。
 
医師の方針は無為な延命はすべきでないという立場と理解したが、患者が 家に帰ってからあまりに短い期間で肺炎を何度もおこしそのための
衰弱と意識の低下が速かったとのことでもう少し家での生活を
させてやりたいという考えから中心静脈からの輸液はどうか、、と
いうことになったようだ。

家族としては父が家に帰ったときの喜びを見ているが、やはり、もし
かなうならばもう一度家で過ごす生活を父が意識してほしいと思う。
たとえ短期間であったとしても今のままの意識があまりはっきりしない状
態で父を送るのは忍びない。

医師に私たちの気持ちを姉が伝え中心静脈からの輸液をお願いした。

これとて、どういう結果が待っているかはまだわからない。が、、何かよい方向を模索してやってみるほうがよいだろう。

昨晩話したことは誰か一人が決めるなどできないことだった。
色々なことを話すことによって家族の覚悟のようなものを深めることが
できたと思っている。
父の意志がどのようなものかはわからない。 わからないのだが果たしてこれでよかったかよりも、私たちはこう望むという選択だった。




2002年08月19日(月) 普通そうな一日

今日はどこにも出かけていない、あ、、ゴミだし以外は。

普通の生活というのはこういうものであったのか、、、
普通の夏休みの一日。
 
 そう思いながらも、実家の父のことはいつも脳裏をかすめている。

 緊急のことがあれば連絡が入る。その緊急は、、その時はと思うと
 何だか落ち着かないのだが。

 でも子どもたちといる普通の一日はとても穏やかでつい数週間前と
 変わらない。

台風の雨も上がって、雲につつまれたつきが出ている。やさしい色だ。
あしたは、そうあしたも多分家にいて、次の日また夜間の父を見守ろう。
姉と弟と交代で夜間の看病をすることにした。
 ’何人もいても、、すこし落ち着いているようだし、、、昼間も仕事があるしね’ 
 姉も疲れているようだ。父は今日は熱もあがらず過ごせたらしい。

肺炎はでも侮れないな、、もうすこしよい状態に戻らなくても、もう日付と衰弱の追いかけっこでも、まだこちらにいられるだけいて下さい。










2002年08月18日(日) 生きているものと、、、

死というものに謙虚に厳粛に向きあいたいと思っていた。しかしこちらがわにある生と今の父とのあいだにはおおきなギャップがある。
生きているものと死にゆくものの間に何があるのだろう。


ふと父をみていて思ったことだが、なんて今は平和そうなのだろう、、確かに病状を思えば高熱が出て身体の節々がだるそうで痛みもあるらしく手や足を無意識に動かしたりやせ細った腿をたたくようなしぐさをする。
それさえもみていると、、、実は苦痛のなかにあってもなぜか赤ん坊のような安らぎが見て取れる。こちらも落ち着いた精神状態のときだ。
多分肉体的な苦痛はあっても現実の”生”からはかけ離れた精神の安らぎのようなものを父の顔色の中に見た。
ふと、うらやましさも感じた。
取り巻く周りの人々の思惑など入り込む余地のない確たる死が実はわたしにはとても崇高なもののように思えた。


この2年父とはまともに口をきいたことはなかったし、今でも父がどんな思いで老いの日々を過ごしていたかなど本当は判りはしないのだが、(それだけ父自身が偏屈な老人になっていたのだが)今は父にもう思いわずらうことなく静かにくれてゆくいち日の終わりを見るような気がしている。


そうしてわたしの今日が終わり、自分の家に帰ればまた夫や子どもたちと夕の食卓を囲み、、、普通の一日のごとく過ごしているのだが、生きていることはこのように喰らい活動しているだけで、、、その繰り返しなのだとしみじみ思う。
わたしなど世間とのかかわりは極々少ないほうだがそれでも時に疎ましかったり憎しみさえ感じてしまうこともあるのだが、父のそれらから離れた本当に子どものような無邪気ささえ感じる表情には重篤な状況にもかかわらず安堵の感を禁じえない。

終末期のなかにもこのような日があることを知った。



2002年08月17日(土) 帰ってきても、、

帰ってきたばかりで、父はまた肺炎をおこした、このため夜間2日間はわたしも実家で付き添った。体温が40度を超えることがあり、点滴と抗生剤...病院と同じように点滴をする。身体を氷で冷やし酸素もはずさないように注意する。
看護師と医師とで微妙な見解の相違を感じた。その場には居合わせなかったが、医師は’病院から帰ってきたばかりなんだからもうすこしがんばってみよう’ということで、点滴をすることにしたらしいし、看護師の人は無為な延命をしない方針らしく、、、最初にも’延命のための点滴などは家族の人がやはり御願いしますと当初の考えを翻すことが多い’とふっともらしていたこともあり、、この医師の言葉は患者のみならず家族のことも考えてくれているのだなと思った。それはありがたいことだ、、家で残りの日々をと思っていたのに、かえってすぐ旅立たれたら家族の気持ちとしてはやりきれないものだ。 

しかしそれも、家族のエゴであることも承知している。
在宅で看取るのは確かに一人や二人ではムリだとおもう。毎日見舞いに行くといった程度の問題ではない。
昨日の朝わたしも初めて、痰を取ってやった。吸入カテーテルを咽喉にいれて機械が吸い込む、、、父も苦しそうな時’痰をとるかい?’と聞くと大きくうなずく。手早く何度もとってやるほうが父も楽そうだということがわかった、、、なんでもやってみることだと思った。

父はまったく意識がない訳ではなく、高熱でうなされたりうわごとを言ったり、確かに呼吸は乱れているが、色々伝えようとしたりする。
15日に医師には”死にかけて、苦しかった’というようなことも言ったようだし、気力は確かにまだ衰えていない。
医師が来るのを確認したりしていると聞いて たいした気力だと思った。
それも もういいとか死にたいとかいう言葉になるよりは気持ち的にはこちらも安堵するものがある。


熱が下がって天井をじっと見つめながら手を振るようにしている。
’なあに?’と聞くと’飛行機’という。 ’飛んでいるの?’とまた問うと’ああ、、’と答えた。
’○○○、、’と聞き取れない言葉を発した。ふとよぎったのは飛行機に乗っていたという戦時中のことだ。たくさんの戦友を送ったことも聞いている。 

父の握力はまだ力強かった。そんなことでも、まだ大丈夫だろうという思いが私にはある。肺炎をおこすたびに段階的に衰えていくだろうとも思う。



実はやはり病人だけのことではなかった。
まわりの親戚、知人がどんなに精神状態をかき回してくれるものか、、、といった問題もある、こちらは昼間、姉と弟に降りかかってきたものだが、口うるさい叔父とかそういった人たちに対処するのもかなり気をつかったりして大変らしい、、、



2002年08月13日(火)

実家に行く。色々なことがあるものだ、、、家政婦さんが気に入らなかったらしい。身体を拭く、着替え等を拒否したらしい。

突然というわけではない、家政婦さんにいつまでいるんだと父が言ったらしい。後でわかったのだが家政婦さんも’いやなら帰りますよ’と言い返したようで、言葉の行き違いなのか、多分家政婦さんのやりようが父は気に入らないので暴言を吐いたらしい。その場に居合わせたわけではないのでどちらがどうとはいえないがこういうことは相性もあるのでとりあえず、姉がよほど我慢ならないようだったらおりていただくよう家政婦さんに話した。

盆のことで、次の人がすぐに代わってくれるというわけにもいかず、数日はこの人がいてくれるとは思うが、、。
予想できないことではなかったのだが、父は家に帰ってきたのは、肺炎がよくなって帰れたと思っているのに、立ってトイレにもいけず、回復が思うように進まないので苛ついているのだ。

24時間、病人についていることは本当にたいへんだと改めて思ったが、父の性格を思うとそばにいるものはそれ以上に精神的な苦労が大きいだろう。

もう、性格がどうたらいっても仕方ないが、、、
午後に診察にいらしたお医者さんは、家政婦さんが気にいらないのはよくあることなので、かわってもらったらと言っていた。
告知に関しても、病名を患者に聞かれたらいいますとおっしゃっていた。

それと延命は望まず、痛みを緩和することなどを再び家族で確認した。


私と姉とは、実家でのこれまでのことやら、幼いときのことなどを色々話しながら帰ってきたが、ひどく疲れ果てたような気がした。



2002年08月12日(月) 曇り空

天気予報通りの曇り空、、今日は草むしり日和だ。朝から庭の草をむしってぽつんぽつんと考え事をしながら、、覚悟なんてなまやさしいもんじゃないよ、、昼まで連日の暑さに弱った草を素手でブチブチ引き抜いていたら、指先が黒くなった。
父の手を思う。いつも草むしりをしていた。指先がいつも黒く、つめの中にも土が入って、、よく働く人だと周りから言われていた。庭には雑草などなかった。何足ものわらじを履いていた人だった。

家庭的という言葉は昔はなかったと思う。父は言わば家長という立場の最後の人だった。家族は多分そんな父に、多少の疎ましさがあったのだろう。ホームドラマのような家庭を子どもは絵空事とわからず憧れるものだ。


終戦記念日のある8月は私には暗かった。8月15日には昼に必ず黙祷をした。多感な時期に予科練に入った父は戦争にも行き、それをずっと引きずって生きてきた。こうとしか書けない。

私にはなにしろ経験のないことだ。何か父がかけてきたものが崩れ去った時に、くるったとしかいいようがない。
苦しかった時代を忘れてはいけないのは判るが苦しかった時代は共有していたものにしかわかり得ない。

今、わたしは実家にいた時の波立ち荒れる感情を久しぶりに感じざるをえないことがとてもつらい。それはダレのせいなの?あのいつも妙な言葉と声で戦没者慰霊祭で「お言葉」を述べていた昭和という元号を冠した人のせいじゃないの?子どもの頃言葉にはださないがいつもそう感じていた。
私にはいつも奇妙としか思われないこの光景を一体いつまで見つづけるんだろう。(もう最近では意識して見ないようになってしまったが)

ぐるぐると回り続ける渦巻きのようなこどものころの思い出を草をむしりながら思った。



2002年08月11日(日) 夏空

今日は車の中からふと見た空にこころがほっと緩んだ。
考えてどうにもならぬもの、そこいらへんを妙に堂々巡りするだけのものなら、考えぬのにこしたことはない。


青い夏空に、もこもこっとした白い夏雲がとてもきれいだった。
どこかで夕立があるかもしれない、そうすれば開け放した窓から風が入って今夜は涼しくなるだろう。
昔からのおまじない。とにかく眠ろう、眠ってしまおう。

青い空にすこしこころ救われる。





2002年08月10日(土) 姉と、、、

姉に電話をして、明日の父の退院の事を聞く。自宅で余生を送ることになったのだ。とにかく家に帰りたい父には本当にうれしいことだろう。しかし、実家のお嫁さんにはかなり負担らしい。24時間の家政婦さんもお願いしてあるのだが。彼女は姉と母にその人の三食の食事をつくるのはいやだし、気も使わなくてはならないし、、、とにかく負担になるのが気に染まないといったらしい。
 
父が末期がんで治療は見込めないと告げられた時に、弟を含め母、姉この義理の妹とこれからの看護について話し合った。その時皆でいずれ在宅で父を看取ることを決め、緩和ケアしてくれる医師をさがし父にとってなによりよい方向を探してきた。

父は肺炎の脱水症状が回復し食事も取れるようになったので、明日帰宅できることになった。それは、一時的には喜ばしいことだと思う、何より父の希望をかなえてやれる。

一体何が不満なのだろう、、昔から自分の家で死ぬことを父は望んでいたが父に告知をしていない限り父には肺炎が治って帰るということだけで、それを家族は一緒に喜ばしいこととしてやればよいではないか。
まだ、先々どうなるとかどうなったと色々考えてもしかたないことだ。

彼女にとってこの家に来たことは確かに大変だったろう。しかし歳月は徐々に彼女の居場所もステータスも作り上げていっただろうし、、何より本当にいやなところに16年も居続けることができただろうか?
何も考えたくなくなった。
金銭的なことも、実際のこれからの看護も、、やはりそこに父は不在だ。
半分呆けてしまった父は、、、再び家にいた時のわがままな父と変わらないだろう。しかし彼の幕引きの日までの看取りはできうる限りしたいと思っている。それは家族としてしてやれる最低のことだと思っている。

人は自分の最期をどんなふうにしたいかなんて望むべくもないのだが、かなうものなら静かに穏やかに死んでゆきたい。
一切のこの世でのわずらいを断ちきることができればと思うのだが、、
父のことを思うとまた現実に立ち戻る私だった。



2002年08月09日(金) 穏やかな日々

毎日が穏やかな私の日々、というのはうそ臭いがかなり静かな毎日をおくってきた。 そこへ突然、老父の入院と病名の告知が7月にあった。
 末期の肺がん  肺炎を起こして救急車ではこばれた。
 7月の夏休みが始まってまだ数日といったところだ。

わたしは実家とは疎遠になっていた。正月でもここ何年かは顔を出していない。よほどのことがない限り出向かないので、何があっても知らない。
弟夫婦と父母が同居してもう、16年以上たっているので、いってももはや私のいるところもないのだし、、その間にいろいろな騒ぎもあったので私は自分の家族だけをよりどころにしてきた。自分の家庭が居心地のいいものになってきたとここ2年間は心から思える。(それは、夫と喧嘩もするしこどもはこどもで心配のたねはつきないのだが、、)

同じ県内に住んでいるので、こ一時間もあればいけない距離ではないが、とにかく近寄らなかった。


幼い頃はよその家のことはわからなかったが、かなり普通じゃない家庭だった。それはこの歳になればもう引きずるものもないと思っているが、わたしの中ではあまりいい思い出がないから、自分で記憶を薄れさせて来たのかもしれない。


おいおいこの日記は父との別れの記録になって行くだろう。
40を過ぎてから、いつも死を想ってきたので父の死は来るべきものがきたという感じだった。心が波立ったり騒いだりしていない。

むしろ、その感情のほうが今のわたしには救いといえよう。
2年ほど前から私の中では父は死に限りなく近く、というかすでに死んでいたような気がする。
ソレがどこから来ているのかはまた書き進めていくうちに答えが出るかもしれない



2002年08月08日(木) 日記を書いてみる

人様の日記を読むのは、単に読み物として面白かったり考えさせられたりするので、とても興味深い、、が、いざ自分でも書いてみようとすると読み手の第3者をものすごく意識してしまうしある種の気恥ずかしさもあり、、はたしてこれは自分のことなのか、はたまた読まれることを意識する余り、誇張したり美化し過ぎたりしやしないだろうかという懸念がある。

しかし、私の日常はほんとうに水のように表面は静かに波立ちながら過ぎてゆくので、それはそれで、時おり芥でよどんだり、泡だったりするのを自分でみつめたいという気持ちがつよい。

くどくどしいけれど、日々の思いをぶつぶつ、、、つぶやいていこう。


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