かっしーのつぶやき
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2007年10月28日(日) ふとんをほす

先週と今週と、2週連続でとてもよい天気の日曜日。
どちらの日も家にいて、秋冬用の布団を押入れから出し、むきになって干した。


ふかふかふかふかふかーーー


おひさまのにおいはただそれだけでなんだか元気になる。
子供の頃、風通しのいい西日のよく入る部屋で大きくなったせいかなと思う。

湿気キライキライ。

心の湿気もついでに飛んでってしまうといい。うん。


2007年10月15日(月) やさしいはなまめ、うすむらさきよ

花豆のやさしい紫色を見るたび、母方の祖母を思い出す。


その祖母が晩年、病を得て入院していた時、私は家で「花豆の煮たの」を作って持っていった(家では花豆の「きんとき」でも「蜜煮」でもなく「煮たの」としか呼ばなかった)。
とは言えそれはわざわざ買ってきて作ったわけではなくその時たまたま家に花豆があって、「そういえばおばあちゃんは花豆が好きだから」という母の言葉に従ってなんとなく煮てみたに過ぎなかった。

けれど、ベッドの上でそれを見たとき祖母が上げたあの歓声が今も忘れられない。
「あら、花豆!」
それは病室には不似合いなほど可愛らしい、明るい声だった。

祖母がそんなにも花豆が好きだなんて、私はそれまで知らなかったのだ。実家の食卓の上には、それほど特別な時でなくてもいつでも「花豆の煮たの」がなんとなく載っていた。どうということのない中ぶりの普段使いのお鉢にいつでも「花豆の煮たの」は盛られていて、家族の誰もがそれに対してたくあんをつまむ位の気持ちでしか箸を伸ばさなかった。花豆なんてそういうものだとしか思っていなかった私は、毎日何の気なしに箸休めに花豆をつまんで食べてそれに何のありがたみも感じていなかった。考えてもよかったのに。共働きの母に代わってほぼ毎日の孫たちの食事を作ってくれていた祖母が、孫たちの誰かがもりもり食べるわけでもない「花豆の煮たの」をいつでも食卓に載せておきたかったのはなぜなのか。少しは考えてもよかったのに、私はただ何も感じず考えず暢気に箸を動かすばかりの子供だったのだ。

祖母の病名がわかってからしばらくして、私は祖母から彼女流の煮豆の作り方を教わった。私が自分から申し出たのだ。それまでたくあんと同列の扱いしかしてこなかったくせに、その時になって初めてこの花豆の味がもう食べられなくなるのは嫌だと思った。それにしたところで、なぜ実家の毎日の食卓に花豆の煮たのがいつでも存在していたのかという理由に思いをいたしたわけではなく、ただ自分の味覚をこれからも満足させつづけたいためばかりだったと思う。ひどい話だ。それまで料理のことなど何一つ教わろうとしたことのない孫娘が突然そんなことを言い出して、そのとき祖母がどう思ったかは今はもうわからない。

ただ、祖母が教えてくれたとおりに私が煮ていった花豆を、病室の彼女はとても喜んで食べてくれた。


旅行先で地域特産のみやげ物として花豆が麗々しく売られているのを見るたび、小奇麗なお鉢に盛られて金箔なぞあしらわれている花豆の甘露煮を見るたび、私はかなしいほどに考えなしだった自分の稚い頃のことと、それでも優しかった祖母のことを思い出す。


2007年10月07日(日) 暮らしの中に歴史あり

兄宅に遊びに行く。
というか明らかに子供さんがたにこっちが遊んでもらった一日。
詳しくはtimutaんの日記をご参照のほどを。 

実はtimutaんが帰った後、兄宅に今度は母方の叔父&叔母&その息子夫婦とその嫡男3歳児、という最強な人たちが入れ替わりで訪れたのだった。
まあ、それからがまた、輪をかけて賑やかだったのなんの…

甥っ子1号(男子9歳)とそのはとこ(男子3歳)が、おもちゃの取りあいっこやら追いかけっこやらお馬のけいこやらでもう遊ぶ遊ぶ遊ぶ。そしてそれにスキあらば赤ちゃん(男子1歳半)も参入しようとする。君らは何がそんなに楽しいんだ、一体何が君らをそんなに笑わせるんだと真顔で訊ねたくなるようなはしゃぎぶりの男の子たちなのだった。今からこんなでは、あと2〜3年も経ったらいったいどんなことになるのやら、と大人たちはみんな顔を見合わせて笑っていたけれど、笑いながら私は心の中で(ああだけどその頃にはもう甥っ子1号なんかは中学生とかになるわけで、そうすると子供同士のじゃれあいの風向きもまたいろいろ変わってくるわけで、そのうち盆だの正月だので親戚が集合した時はムズカシイ年頃の青少年男子諸君が居並ぶことになるのだな、うわあ)などとひそかに萌え…もとい考えていたりもしたのだった。
叔母バカですらなくて単なるバカなオバだ、これじゃ。

ところでだ。

あんたたちが子供の頃もこんなもんだったわよなどと言って笑っている叔母から昔話をいろいろと聞いているうちに、現在カビとの闘いの舞台となっているかの実家の押し入れの場所は、その昔、井戸(!)だったことが判明して軽くショックを受けた私だった。

もちろん今では井戸は埋めてあって床下の地面になっているわけだけど、けどでも、

…井戸か!

ハハハそりゃどんなに私が除湿剤の鬼になっても端から湿気ていくわけだよなハハハハハ(棒読み)


2007年10月06日(土) どこまでつづくぬかるみぞ

本日、快晴。おお、なんて嬉しい青空よ。もしもこの連休中の天気が悪かった場合、この勝負はかなり分が悪くなるのだ。頼むぞお天道様。
というわけで、この秋もかびるんるんとの戦いの日がやってきた…

今年の夏は例年に比べ湿気が多かった、のかどうかは知らないがとにかく9月半ばに実家の例の押入れ本棚をチェックしてみたら、例によって例の如く合板の裏という裏がこれすべて白カビ緑カビ達の楽しい集会所と化していたのだった。
かくてはならじ。というわけでこの3連休はこれすべて湿気との戦いに当てるつもりで帰省。

押し入れから本棚を引き出して覗けば、奥の壁に10枚ほど貼り付けてある湿気取りシートには私が書いた今年の5月の日付が入っていて、すべて完全にゼリー化していた。梅雨と夏場の湿気を吸うという使命を果たし終えた彼らの姿はなにやらもの悲しくも健気であった。5月の同じ時に押し入れ内にこれでもかと投入したその他の湿気取りグッズも、総員液状化した屍を晒している。

思い返せばカビとの戦いが膠着状態に陥って数年、払拭に使用するハイターの調合濃度は濃くなる一方である。果たしてカビの胞子を吸入するのとハイターの塩素を吸入するのとどちらが身体に悪影響を及ぼすのだろうか。嗚呼。

…。

ええええい、怯むな俺、臆するな俺、この俺がカビるんるんなどに負けるものかよ!<発作的にイデオン口調


2007年10月05日(金) 気分は平隊士

timutaんの日記を読んでふと思う。

私は今現在とりあえず表向き「土方さん」て書いてるだけで実は決まった呼び方とか全然してないんだった。
「土方さんてやっぱりカッコイイ…(はぁと)」
「歳さんはあれで結構照れ屋なとこあるかならあ」
「まあね、いいんだよヒジカタはそれで本望だったんじゃねーの」
「トシちゃん可愛いよトシちゃん」
どれも私的にはアリでその時々の文脈で適当に使い分ける感じ。

でも本当のこと言うと

「副長〜!」

てのが自分的にいちばんしっくりくるのかもしれない。

やっぱりどうしたって私の、土方歳三に対するスタンスは「平隊士その1」。できることなら箱館までしぶとく生き残ってついていって、いつまでも副長副長って呼んでは「俺ァもう副長じゃねえ」って怒られて、そんでもやっぱり事あるごとに副長って呼んじゃってはひえーって思ってる元・平隊士その1を土方さんは呆れたように苦笑いして放っておいてくれる、というようなそんな平隊士どりー夢みたいなのを心ひそかに温めていたりするのだった。


2007年10月04日(木) ユメノヒジカタサン 2

『銀魂』のコミックス20巻、真選組動乱編・最終話を読んで泣く。

「てめーら全員
 士道不覚悟で

 切腹だあアアアアアアア!」

って土方さんがバズーカ持って戻ってくるあのページ見た時はもう嬉しくて泣けて仕方ありませんでした。
あの瞬間、私の心は完全に「平隊士その一」になっちゃってましたから。
うわー!やったァァァ!!副長が戻ってきたぞォォォーーー!!(泣きながら駆け寄る)。

これでオールオッケーなんだと思います、少なくともいち土方ファンの私としては。
多分これ以上望むことは何も無くて、これからも副長は副長のまま近藤さんの傍にいて、総ちゃんに笑われて、平隊士たちに恐れられながらも愛されて。ああ。


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その昔幕末史に耽溺していた頃の私というのは即ち、己の歪んだ自我を妄想の空に広げるだけ広げて勝手にいい気になっていた激痛バルンガ時代とも呼ぶべき自分でありましたので、その頃の記憶というものはほぼすべて自らの心の中の海深く投棄済み、今更引き上げたところでそれには恥という硬いフジツボが一面に付着していてもはや修復は不可能と思っていたわけですが、なぜか今この『銀魂』を読んでいるとそんな完全石化し果てたはずの記憶からフジツボがところどころはがれ落ちて、その下にかろうじて残っていた心の柔らかいところがつかのま潤いやがて海中に溶け去っていくような、そんな言わば浄化作用(カタルシス)のようなものを感じます。

『銀魂』は、いいマンガだと思います。


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