ミドルエイジのビジネスマン
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2005年11月27日(日) 紅葉狩りはゴルフ場で

11月26日の土曜日は予定外の「いやいやゴルフ」が宇都宮郊外のゴルフ場であった。合同コンペがあるからとその他大勢の一員として出掛けていったら、メンバーはヒラ集団ではなくお偉いさんと元お偉いさんばかりだった。

とは言え、一緒にラウンドしたのは、知っている人ばかりで、青空に映える絶好の紅葉を堪能しながら、広々としたゴルフ場の雰囲気を楽しんできた。
内容?柳の下のドジョウを狙って、さらに5千円を投入したスプーン(3番ウッド)は火を噴かないどころか、空を切るばかり。おまけに人のボールを打つは、スコアは過少申告するは、途中にクラブを何本か置いてくるはで大騒ぎの一日であった。

宇都宮往復といえば、一日がかりの立派なドライブだ。愛機W31S(携帯電話のこと)からFMトランスミッターで愛車のスピーカーに音を飛ばし、平原綾香や懐かしのジェットストリームを聞きながら一人旅を堪能した。




2005年11月20日(日) 高橋尚子東京国際女子マラソンで優勝

高橋尚子が東京国際女子マラソンで優勝した。2年前の同じ大会で失速してしまい、アテネオリンピックに出場することがかなわなかった。あれから2年か。2年前は偶々仕事で会社に出ていたので、見物に行って目の前をピューッと駆け抜ける彼女を直接見ることができた。

今日は、スタートからテレビにかじりついて見ていた。解説の増田明美やアナウンサーは37キロから始まるあの坂をどのように走るのかと心配していたが、実際にはその手前の35キロ地点で、あっさりとスパートをかけて抜け出してしまった。カメラはスパートの少し前に、ギュッと口を結び、そして上唇をなめ、「やるぞっ」という彼女の表情を捉えたが、肝心のスパートの瞬間は後に続くグループを映していて生では決定的な場面を放送することができなかったのが惜しまれる。

レース後のインタビューでは「小中学生ばかりでなく、中高年の人も暗闇の中でも希望を持って、一日いちにちをしっかりと送ることで目標達成につなげてもらえたら」などと、やたら饒舌だった。そんなことを今のあなたが言わなくても日本中の人々が感動し、賞賛している。レース後の、あちこちからの講演依頼を待っているようにも聞こえ、どうかと思ったが、ご本人はそれこそ、どん底の中から全てのリスクを自分に背負ってこの栄冠を勝ち得たのだから、本当に素晴らしい。

首にかけていたファイテンのネックレス、どういう原理でどんな効果があるのか会社のホームページを見ても判らなかった。きっとチタンはイオン化傾向が強いということ以上は言えないのだろう。


2005年11月13日(日) 2005年は日本の社会が変わった年

「かまやつ女」を知りたくて名付け親の三浦展(あつし)著「下流社会」を買ってきた。ミリオネーゼ系、お嫁系やギャル系も写真つきで載っているので、よく理解できた。階級社会というほど明確な分化ではないが、今、既に中流社会が上流と下流に分裂し始めているという。エッセンスを孫引きすれば、以下のとおり。

「下流」とは、単に所得が低いということではない。コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生への意欲が低いのである。その結果として所得が上がらず、未婚のままである確率も高い。そして彼らの中には、だらだら歩き、だらだら生きている者も少なくない。その方が楽だからだ。

若い女性を分類したのはセンセーショナルで目を引くからであって、電車の中で居眠りをしたり、駅の階段に倒れ込んでいたり、パチンコ屋さんの前で力なく座り込んで開店を待つ若い男性も写真つきで描写されている。

そして言う、フリーターの年収はせいぜい2百万円、所得が3百万円では結婚できないのが現実だと。5百万円で可能性が出てきて、年収7百万円の男は取り合いになる。

本当は若者だけの話ではない。社会のあらゆる年代層で、階層分化が始まっているのだ。この夏、株式市場が大幅に上昇、小泉自民党の圧勝した2005年という年は年齢に関係なく相当数の豊かな階層を生んだはずだが、乗り切れなかった多くの中流層が「下流」に流れていくことだろう。「ロハス」というような価値観を纏(まと)いながらも、階層分化は止められまい。

「下流社会」の中でも指摘している衝撃的な事実。かつてトヨタの高級車クラウンのキャッチフレーズは「いつかはクラウン」という希望に満ちたものだった。今はまだ買えないが、一生懸命働いて、いつかはクラウンに乗れるようになろう。今年、巨額の広告宣伝費を費やして大々的に売り出している高級車レクサスでトヨタは言っているだろうか、「いつかはレクサス」と。

ミリオネーゼ系やかまやつ女系のインタビューも載っているので、最愛の妻に、いくつかのエピソードを話していると、昔「マル金、マルビ」という本があったわね、という指摘を受けた。あの当時は笑い飛ばすことができたが、「下流社会」の本を床に叩きつけないで最後まで読める人は、日本に10%位しかいないのではないかと思う。大部長もまた、読んでいて冷静さを保つことはできなかった。

社会全体の問題としては、「だらだら歩き、だらだら生きている意欲のない者」を誰が支えていくかという問題が将来不可避的に発生してくるだろう。それが、若いときに一生懸命働いた老人ではなく、あなたと同じ世代の若者や中年の男なのだとしたら、支援の手を差し伸べたり、社会保険を適用したり、生活保護をしたいと思うだろうか。






2005年11月06日(日) 立体視

先週、休みの日に本屋さんにフラリと立ち寄ると、ワゴンに立体視(3D)の本が積まれていたので買ってきた。「視力回復によく効く」とか、「どんどん目が良くなる」というキャッチコピーに弱い方だというのは認めなくてはならない。

ドットではないが、色盲検査のようにカラフルな模様が規則的に並んでいる絵を見つめていると土星や恐竜が浮き出て見えるというやつだ。誰でも小さい頃から、寄り目にして物が二重に見えるのを楽しんだり、にらめっこでわざと寄り目にして遊んだりしたと思う。そうして焦点距離を手前にはずすのをクロス法(交叉法)といい、それは以前からできたのだが、別の方法として、焦点距離を奥にずらすパラレル法(平行法)というのもあると書いてある。実はこれが実感できないでいたのだ。

クロス法で見るべき絵をパラレル法で見ると、飛び出てくるはずの絵が引っ込んで見える。パラレル法で見たほうが良い絵をクロス法で見ると、飛び出すはずが、へこんで見える。

買った本の半分しか楽しめないでは損をしたような、あるいは不完全で達成感がないような気がして、休みの日にパラレル法にチャレンジしてみた。本の上の縁から覗き込むように30秒ほど数メートル先の一点に焦点を合わせたまま、二重に見える絵に「さりげなく」意識を向ける。何度やっても、意識を向けたとたんに焦点が絵に合ってしまって元の木阿弥だったが、二重になっていた絵がなんとなく一つに見えたような気がしたときに絵を見るとこれまでボヤッとしていた模様が色鮮やかにクッキリとし、大きなハートが浮かび上がった。

自分の能力が2倍に高まったようで、これは嬉しいことだった。目が良くなるというのは、遊びながら焦点距離を奥に持って行ったり、手前に動かしたりして目を動かす筋肉の体操をするという意味だ。良くなるかどうかは、判らないが、しばらく試してみることにしよう。

それにしても不思議なのは、立体視で見ると、色彩が鮮やかに見えることだ。顔料を使ったインクの印刷を見ているのに、万華鏡を覗いているように透明感にあふれた明るい光の世界が広がるのだ。右の目と左の目で別々に見ている画像を脳の中で合成しているためなのだそうだが、立体視で見ている世界は虚構の世界であって、脳がだまされているということなのだろうか。


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