ミドルエイジのビジネスマン
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2005年04月24日(日) 息子たちのスナップ(写真)

残雪の中で戯れているのは息子たちだ。雪に覆われた斜面を競争で駆け上り、「ああ、冷てえ!」と言い合っている。3月に学生服姿の次男を母親に見せるために連れて行ったときに撮った何気ないスナップ写真である。

週末に偶々NHKスペシャル「日本の群像・再起への20年」という番組を見ていて、息子たちは「プラザ合意」やその後起きた「日本のバブル経済」を知らないのだなと改めて思った。ソニーや三菱地所という巨大企業もその波に巻き込まれ、6千億円でコロンビア映画を買収してその後の大赤字に苦しんだり、ロックフェラーセンターを2千億円で買ってしまい結局売り払ってしまったりと大きな教訓を得て、新たな出発をした姿を描いた良質の番組であった。今このような番組が編成されたのは日本経済が悪戦苦闘の上、ようやく「バブル」を清算し、私たちは既に新しい別の時代に生きているのだということが社会的なコンセンサスになったということだろう。

プラザ合意の1985年、まだ若かった大部長は、ロサンゼルスに数ヶ月滞在していた。プール付きのアパートに入り、月極めのレンタカーに乗って海岸までジョギングに出かけるようなバブリーな暮らしをしていたとき、日本人の若夫婦がやっている行きつけのラーメン屋で、円高になってドルで稼ぐ資産が目減りしていくのをどうしようかと相談されたときも「こんな急激な相場はいつまでも続かないですよ」などとのんきなことしか言えないオバカさんだった。

「時代」というのは目に見えるものではないので、日々暮らしに追われている状況下では、その「時代」が変わったことを認識することすらできない。目に見える街の風景は昨日と同じものだし、自分の仕事の内容も昨日と変わらぬ同じものだから。その中で、先日の「ホリエモンVS日枝会長」のニッポン放送買収劇は、結果としては茶番に終わってしまったが普通の市民も時代が変わったことに気がつくきっかけとなったエポックメイキングな出来事だったと思う。

息子たちは新しい時代に生きている。ただ、学校でどのような環境教育を受けているのか、地球の温暖化には恐怖さえ抱いているようで、このままでは世界と自分の明るい未来を描けないのではなかろうか。子供たちを教育する者、脅かすばかりでは教育者とは言えないぞ。


2005年04月17日(日) 1キロのリバウンド

お天気も絶好、春爛漫の週末は畑に植えてあるラッキョウに味噌をつけてビールのつまみにしたり、コーヒーを飲みに出かけたり好きなように過ごした。

先週はちょっと気が緩んだせいか、想像したとおり体重が増えた。普通だと、週末に2日続けてスポーツクラブに行けば戻るのだが、今回ばかりは走った後でも自分で決めた体重より1キロオーバーだ。

急に頑張らないで、来週以降2週間で1キロ減という目標に挑戦しよう。


2005年04月10日(日) 家族写真を撮りに行く

桜満開の日曜日、次男の中学校入学記念の家族写真を撮りに写真館に行ってきた。ここのところ忙しくて心に余裕もなくなっていたせいか、卒業式や入学式の様子も話を聞くだけで、あまり実感が伴わなかったが、さすがに兄と弟が揃って詰襟姿で立っているのを見ると、頼もしくもあり、いささか寂しくもある。

肝心の写真は、家族が替わりばんこに目をつぶってしまい、何度も撮り直した挙句ようやくのことで「OK」を出してもらった。

大体、ここまでたどり着くのも大変なことで、昨日は半強制的に散髪屋に連れて行き、寝ぐせと妙なこだわりで厚ぼったくなっている髪を梳(す)いて少しだけまともにするのにエネルギーを使い果たすほどだったのだ。

今年は桜の見ごろが週末とぴったりと合い、天気も上々であった。こいつが大人になったら、写真を見ながら、最高の桜が咲いている日に写真を撮りに行ったのだということを思い出させてやりたい。

写真館のあるショッピングセンターで家族みんなでそれぞれ好物の材料を選び、夕食は久しぶりの手巻き寿司パーティとなった。拳のような形をした「ホヤ」がそのままの形で売っていたので、お父さんの酒の肴にしようとカゴ入れた。次男が自分で切ってみたいというので、さばき方を教えてやるときれいに盛り付けてきた。こいつは便利でいいやと思ったが、できあがりの量が予想したより少ない。どうやら、さばきながら三分の一も食べてしまったらしい。


2005年04月03日(日) 同僚のお父様の告別式に参列

当人の真剣さとはウラハラにのんびりと響き渡る雲雀(ひばり)の鳴き声を、特急も停まる駅だというのに原っぱが向こうに広がるホームで軽い脱力感に身を任せながら聞いていた。

その葬儀は大分県の小さな地方都市で営まれた。お父様が亡くなられ、同僚が喪主を務めた告別式に、地下鉄、モノレール、飛行機、バス、そして普通列車を乗り継ぎ、あたかも月に向かって発射されたロケットのように捜し求めた斎場に予定通りの時刻にピンポイントで到着するという慌ただしさで参列してきたのだった。みんなから集め、全部合わせれば大金となる香典袋の束を受付に届けて、現金を運ぶ責任を果たした安堵感もあったし、多分、万難を排して東京から駆けつける姿をお見せすることで会社としてのプレゼンスを披露する役回りも果たした。

ちょうど三年前の春に行われた自分の父親の葬儀も同じようにうららかな春の日のことだった。斎場で見上げた同僚のお父様の写真は、どことなく自分の父にも似ているような気がした。戦争の前後に活躍され、苦労もされたご尊父のありし日をしのんだ弔辞が読み上げられ、同僚が故人との交友を謝する挨拶をした。

自分の父はそれほど立派ではなかったし、長生きもしたので人々の涙の数はこれほどではなかったと思うが、いくつで死んでも親の死は悲しいものだったし、他の何ものと比べることもできない。最近、父親のことなど思い出すこともなかったが、駅のホームで暖かい陽の光に包まれて列車を待ちながら、青空に吸い込まれていく焼き場の煙をテレビドラマのワンシーンのような姿で見ていた自分たち家族のことを思い出したりした。

午前中に乗ってきた普通列車は、大横綱双葉山生誕の地や景行天皇ゆかりの木を名所に掲げている駅などを過ぎ、大きな川の河川敷まで菜の花が咲き誇っている風景を眺めていると、ほんのひとときだけ海の傍(そば)をかすめ、発電所らしきプラントを通ってようやく目的地に着いたのだった。

いくつもの駅を通り過ぎた。ビニール袋にコンビニ弁当を入れていた三十過ぎのスーツ姿の謎のお姉さんは、向かいの席では食べにくかったのか持ったまま途中の駅で降りていった。残ったのはいかにも暇そうなおばさんが何人かと表紙に赤やピンクの大きな字が躍っている雑誌をシートからずり落ちそうな姿勢のままひたすら読み続けている専門学校生らしいの女の子だけだった。途中から背中のバッグにバドミントンのラケットを挿した小学生の兄弟が乗ってきて騒々しくなった。駅まで見送りに来たお母さんらしき人の腕の中では置いていかれるのを察知した小さな女の子がピーピー泣きわめいていたっけ。

二度と会うこともないであろう人々の日常生活を垣間見ながらたどり着いた同僚のお父様の葬儀も無事終わり、そのご縁で自分の父親のことも思い出させてもらった。雲雀の鳴くうららかな春の日は、あらかたの人にとってはごく普通の平和な一日だったに違いない。お兄ちゃん達に置き去りにされてビービー泣いていた女の子もお母さんに慰められて、その腕の中で幸せに寝付いただろうか。


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