ミドルエイジのビジネスマン
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2004年07月25日(日) 同級生とのゴルフの後は

「今日、ここに集まっているのは、中学の頃にいい思い出があって、今も幸せな人たち」

何気なくつぶやく同級生の女性の言葉に、既に酩酊状態に陥りつつある頭で一生懸命相槌を打ち、そうだねと返事をする。

同級生とのゴルフの後は場所を変えて表彰式兼懇親会だった。そこは郊外の工業、流通団地の真ん中にある居酒屋。同じく同級生だった4人ほどの女性も新たに加わって賑やかに挙行された。テーブルに載せきれないほどのおびただしい品数の料理が一斉に並べられ、楽しい時間もあっという間に過ぎ、当然のようにカラオケに向かう。

その時も、また今もって不思議に思うのは女性陣がお酒を飲まずに車での送り迎えの役を務めていたこと。表彰式も、その後のカラオケ大会も十分楽しんでいたようには見えたのだが、果たして本当に満足していたのだろうか。次の機会に直接聞いてみよう。

汗まみれになった部活の休憩時間に、薄暗い体育館の脇の出入口から、まぶしく輝く屋外テニスコートを見やると、アイドルのように思われていた女の子がボールを追いかけている姿があったものだ。みんなで順番に歌いながらカラオケは進み、その子の番になるとデュエットを歌いましょうかと言ってくれた。それで歌ったのが「銀座の恋の物語」だ。眼と眼を見つめあいながらのデュエットは良かったのだが、う〜ん、おじさん風のその選曲に悔いが残る。しかも、しばらくすると、その子が別の男とまた歌っている。その歌は「居酒屋」。負けた、悔しい、大部長もアイドルの子と「居酒屋」を歌いたかったよ〜ん。

もう一人の女性は最近統合されて廃校になった小学校の話をしてくれた。地元に残った私たちは自分の子供を小学校に上げ、今度は親として母校を訪れることになった。大廊下に蛇口の並ぶ水飲み場の前に立つと、あれから何十年も経つから、水盤や蛇口はきっと取り替えられているだろうけれど、水飲み場が小さかったなと思うのではなく、自分がまさに、あの頃の小学生の女の子に戻ってしまうのだと。そして、あの木の床の大廊下は歩くと昔と同じ音がするのだと。校舎はまだ建っていて今でも間に合うから、行って歩いてみなよ、昔と同じ音がするよと。

同級生たちの中には、早くも人生のピークを過ぎた者もいるだろうし、まだまだこれからという者もいるだろう。あれから数十年の間に、お互いの身に何が起こり、そして何を思ったか、そういうことはきっとこれからおよそ10年位かけて次第に明らかになっていくに違いない。

今日、ここに集まっているのは、中学の頃にいい思い出があって、今も幸せな人たち。テニス部のアイドルに、10年後にそう言ってもらえるように練習しよう、♪絵もない 花もない 歌もない そんな居酒屋で〜。


2004年07月18日(日) 二日続けてゴルフとは

1〜2年に一度しかやらないはずのゴルフに二日続けて行ってきた。一日目は会社のジェントルマン諸氏と。翌日は中学校の同窓たちとだった。しかも、クラブ担いで新幹線に乗って。ゴルフも毎日コースに出ていれば上手になるかと思ったが、結果的には、前の日の方がスコアは良かった。というより、二日目はみんなに笑われた(そんなに上手くないよと初めから正直に言ってるじゃないか)。

それでも練習の成果が出て、ティアップするドライバーショットはあまり曲がらなかった。にもかかわらず、デリカシーのない同級生たちは、「なに縮こまって打ってるんだてぇ」と臆面もなく指摘するのであった。確かに人々に比べて飛距離に問題があるとはかねがね思っていたので、この当たりに原因があるのかもしれない(一方でクラブへの投資金額の差だと固く信じているのだが)。

しかし、「ゆったり打て」というアドバイスは「うまく仕事をしろ」という指示と同一レベルではないかと思うが、どうかな。



2004年07月11日(日) すいかの成長を願う

梅雨は明けたのか明けないのか。例によって気象庁は責任逃れをしているので、自分としては大阪に出張して大変暑かった7月7日を梅雨明けの日と定めた。

本日は参議院の選挙。朝投票に行き、その後は夏空の下ですいかに水をやり、草取りをした。よその畑では既に直径15センチくらいになっているのに、こちらはまだ2センチくらいの赤ちゃんだ。スクスク育ってもらいたい。夜は例によってチャンネルをクルクル回しながら選挙速報を見て疲れた。






すいかの赤ちゃん


2004年07月04日(日) 「24」続編

具合の悪いことに「24」の続編が出ている。土曜の夜から日曜の明け方まで見続けたが、外が明るくなり始めても終わらなかった。

今度はテロリストがロサンゼルスで核爆弾を爆発させるという。どんどん話が大きくなってついて行くのも大変だ。

アメリカの映画では危機管理のために大統領を初めとして、閣僚が議論する場面がしばしば出てきて、多分現実にもこのようにやっているのだろうなと思わせる。振り返って日本ではどうだろうかと考えると、意思決定がディスカッションを経て行われないために、特定の結論を意図した報告というのはあっても、自由に議論するという形はあまりないのかもしれない。だから、言葉の重みに対する信頼がなく、重い言葉を平気で軽く使ってしまうのだと思う。






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