たそがれまで
DiaryINDEXpastwill


2003年11月16日(日) ガラスの靴 2




それからの10年、お互いにいろいろなことがあった。
音信不通であったから、お互いのことはわからなかったけど、
突然の夫からの年賀状が二人を再会させてくれることになった。

母を亡くなったのが12月半ば、半月後に10年ぶりの夫の声を聞いた。
10年間にあった様々なことを一気に話した。
結婚をして子供を二人もうけたこと、
元夫とのいざこざ、シングルマザーの忙しさ、
母の介護、そして
母の旅立ちとこれからの人生と、

最後は泣きながら喋っていた。
受話器の向こうで夫が声を殺して泣いていた。
私の為に泣いてくれていた。


その時の私は、昔望んでいたように一人で立っていた。
ようやく自分の足で立っていた。嫌が追うにも立つしかなかった。

だから夫と再会できたのだと思う。
寄りかかるためでなく、二人で支え合うために。

  これが最後だからな

そう言ってもう一度だけガラスの靴を作ってくれた。
病床の母がいつも言っていた、「あの人と結婚していたらねぇ」の
あの人がまたガラスの靴を作ってくれた。
あの頃のようにヒールが高く履いていて足が痛くなる靴じゃなく
ヒールが低く、履きやすい靴だった。
本当に本当のFinal Countdownだった。
(実を言うとその靴はすぐに割ってしまったのだ。
 それで泣きを入れてもう一足作ってもらった。
 なんだかんだ言ってもやっぱり私の本質はそのままだった)




  24年目だねぇ

その夫の言葉にはいろいろな意味が含まれているのだろう。
一番大きな思いはきっと
これまでつき合ってこれた自分を大いに褒め称えたい気持ちだと思う。

夫か帰ってきたら感謝状を渡しておこう。
そろそろガラスの靴を磨いて貰わなきゃいけないし(笑)

24年目おめでとう。
24年もありがとう。







2003年11月15日(土) ガラスの靴 1




入院中の夫に小さなケーキの差し入れをした。

  はいこれ、お祝いのケーキ

一瞬考えたようだけれど、すぐに返事が返ってきた。

  24年目だねぇ


女という生き物はとかく記念日好きと言われるが、
私も例に漏れず、記念日というやつに心が躍る。
24年目の今日、夫と初めて出逢った。

姉がバイト先の人達と遊びに行くのに、急に友人がキャンセルしたものだから
誰でも良いから取り敢えずと、私に白羽の矢が立った。
それはただ「スケート」という人参をぶら下げれば
一も二もなくOKするのが私だけだったからでしかない。

高校生だった姉(当時は姉だということは知らなかった)と、
バイト仲間は大学生ばかり、その中に14才の誕生日を迎えたばかりの私が居た。
私はメンバーがどうだろうと、タダでスケートが出来るのが嬉しくて
構ってもらわなくとも充分だったのだ。

 一緒に滑ろうか?

そう声をかけてくれた夫、だけどスケートは上手じゃなかったなぁ。
競争したって私の方がう〜んと早かった(笑)


当時の私達には24年後の今日と云う日が想像できなかった。
運命の人に出会うと頭の中で鐘が鳴り響くなんて聞いたこともあるけれど
そんなこともぜんぜんなかった。
おそらく二度と逢うこともないだろうと、そんなふうに感じたんだ。

それから勉強を教えてもらったり、遊びに連れて行ってもらったり
私が高校に入学した後にはつき合ってるふうにはなったけど、
私の中ではずっとお兄ちゃんだった。

悩みを相談すれば、きちんと道筋をたて一つ一つ解決する方法を教えてくれたし
時にはその手筈を整えてくれたこともある。
だからというわけではないけど、もがいてもがいて道を見つける年頃を
私はもがかずに過ごしてしまった。
それが後で大きなしっぺ替えしとなって自分に降りかかってきたのかもしれない。
自分一人では何も解決できない弱い自分の下地が出来上がってしまっていた。

自分が養女だったと知った時も、一番に泣きついたのは夫だった。
割り切れない気持ちをぶつける私に、「両親が二組いて幸せだ」と宥めてくれたのも夫。
9才の年齢の差は絶対的な関係を生む。
夫がそれが正しいと言えば、私に反論の余地などない。
私はただ感情論だけで夫と向かい合うしかなかった。
実はそんな関係が今でも続いているんだけれど。


高校を卒業したら、夫と結婚するだろうと皆が思っていた。
私もそうなるのかなぁと思っていた。
だけど、バイトを初めて違う世界を見たとき思った。
このまま結婚してしまうのは嫌だと。
ハメを外そうとすると先にダメ出しをする夫、
堅実だけれど面白くなかった。

もっと自分の足で立って、いろんなことをやってみたい。
私にはもっといろんな可能性がある筈だ。
そう思った自分を否定はしない。
確かにいろいろな可能性はあったのだから。
でもそれをモノにできなかったのも事実、
それは紛れもなく自分自身のせい。


夫の転勤と同時に私達は別れた。
遠距離恋愛など考えられなかった。
寂しい時にはすぐ駆けつけてくれる人が必要だった。
困った時には隣で支えてくれる人が必要だった。

結局、自分の足で立つことなどできなかったし
本気でそうしようなどとは思ってなかった。
恋がダメになると結局夫に泣きついた。
一度ではなく何度も何度も。


誰かの歌ではないけれど、
夫は私の為にいくつもガラスの靴を作ってくれた。
だけど私はそのガラスの靴が窮屈になると、割ってでも裸足になりたがった。
どこかで脱いで忘れてきたこともしばしば。


いつまでもガラスの靴を作ってくれると思っていたのは
甘えでしかないのだけれど。
「もうお前にはガラスの靴を作れない」と言われてはっと気がついたけど
もう遅かった。
夫は別の女性の為にガラスの靴を作り始めた。


2003年11月12日(水) 誕生日





子供の頃は誕生日がとても嬉しかった。
プレゼントやケーキも楽しみだったけれど
年齢が一つ増えるということが、一歩大人に近づくようで
とてもとても嬉しかった。

早く大人になりたかった。
大人になれば自由に生きていけると思っていた。
思い描いていた「自由」はとても漠然としたものだったけど、
大人へのビジョンは決してマイナスのイメージなどではなかった。


いつの頃からか、
大人になっても楽しいことばかりじゃないことを薄々感じだした。
もしかしたら、大人にならない方が楽かもしれないと思った。

自分の意思で自分の生き方を選択できる楽しみと同時に
自分で選択した以上、つきまとう責任。
それでもやっぱり大人になりたかった。大人に憧れた。


大人になってみると、自分がどれくらいの幸せにたどり着くか
おおよその見当がついた。
幸せがゴールならば、そのゴール付近の風景が見えた気がした。

それは子供の頃に憧れた煌びやかなものではなく
どこにでも転がっているような、ありきたりの幸せのような気がした。
それはほんの少しの落胆だったかもしれない。

だけど、そのありきたりの幸せでさえ手に入れるのは難しかった。

ゴールテープを切ったと思った時、行く手には次のテープが張られた。
次のテープを切ったと感じた途端、急な下り坂を転がり落ちた。
上を見たら、遙かかなたにテープが光って見えた。
だけどゴールテープを切っても切っても、本当のゴールにはたどり着かない。

だいたい、ゴールってなんだ?
何をもってゴールとするんだ?
「幸せがゴール」と云ったって、その「幸せ」の基準はなに?

大人になるということは、自分の都合の良いように
理屈を並べたてる知恵がつくということだとわかった。

そんな大人になりたくないと言う、今時の若者の方がうんと大人かもしれない。
でも、憧れていたのとは随分違うけど、大人って結構楽しい。
というより、生きているってわりと面白い。
喜怒哀楽があるからこそ、面白いんだ、きっと。

そんなふうに思うことができるようになってやっと、
大人の仲間入りができたと感じる37回目の秋。

もうローソクの全てをケーキに差すことが困難になりつつあるけど
やっぱり誕生日って嬉しい。
そして、母へ感謝をする日。
ありがとう、お母さん。





2003年11月04日(火) 憧れてくれた人



趣味で出かけたある場所で、突然後ろから声をかけられた。
一瞬、私じゃないよねぇ〜と思いつつもチラリと後ろを振り向いた。

相手は確かに私の旧姓を呼んだのだけど、
あれ?だれだろう・・

「あ・・の・・・ こちさんですよね・・・」

「はい・・ でも・・ どちら様・・・・」

とっても失礼な話しだけれど、まったく心当たりがなくて困った。
30年暮らした土地で旧姓を呼びかけられることはあっても、
現在の土地で私の旧姓を知っている人など皆無な筈で。

「あの、昔、◇□△▽☆○でご一緒させて頂いたんです。
 私、こちさんに憧れて入社したんです。」


・・・・・自分で書くのもなんだけれど、確かに彼女はそう言ったのだ。
よく話しを聞いてみると、何度かこの日記にも書いたことがある
某ファーストフード店で社員をしていた頃の後輩にあたる人だった。

なんでもバイト時代に私のアルバイト研修会を受講してくれて、
憧れてくれたらしい。
あれから18年が経ったというのに、私を見てすぐわかったとのこと。

時折、各店に散らばっている女子社員が集まって研修があったり
新店のオープンの時には泊まりがけで応援に行ったりするので
たいがいの人は覚えているのだけれど、どうしても彼女の記憶は蘇らない。

どこの新店オープンを手伝ったのかを聞いて、ようやくその訳がわかった。
彼女と私は一度だけ、私が最後に手がけた新店オープンで仕事をしただけだった。
それまでコンビを組んでいた先輩社員が辞め、一人で最初から最後まで
女性アルバイトの教育を取り仕切った新店だった。

あの時の私は自分が所属する店舗内のいざこざで、体力的にも精神的にも
疲れていたけれど、ほんの少しの期間だけでも他店に出られるというので
喜び勇んで仕事をした記憶がある。
スケジュールを組み、各店の女子社員を振り分け、進行状況を把握し
修正し、髪を振り乱して走り回っていたと思う。

後輩女子社員達の協力のおかげで予想以上の出来でオープンにこぎつけ、
上司にも随分と評価して頂いたのだけれど・・・・。
必死すぎて前しか見えてなくて、余裕が無かったんだ私。

「ごめん、やっぱり思い出せない。」

「いえいえいいんです。私、恥ずかしくてほとんど話せなかったんです。
それに、私は人に教えることが初めてで、ほとんどバイトの人と同じ
レベルだったから。
 落ち込んでいたら缶コーヒーをご馳走になったんです。
そのお礼も言えなかったから。」

良かったよ〜。缶コーヒーの1本でもおごっておいて。

記憶に残っていないのがとても失礼なのだけれど、
彼女の話を聞いて嬉しくなった。
と同時に「憧れだった」を連発する彼女に、
すごくすごく申し訳なかった。
もしも私に憧れなければ、違う人生が待っていたのかもしれない。
おまけに「憧れの人」が今はこんなじゃ、
がっかりさせてしまったかもしれない。

18年振りの奇跡と云える偶然は、彼女と私に何を伝えたかったのだろう。
まさか応援している野球チームが一緒ということを、
認識させる為じゃないだろう。
(声をかけられたのは、とあるプロ野球チームの秋季キャンプ場だった)



夫婦で旅行中だというので、お奨めの場所を2・3教えた。
又の再会を約束してメールアドレスの交換をした時、
ふと自動販売機が目に留まり・・
急いで缶コーヒーを2本買って渡した。


あの時のコーヒーとは意味が違う。
慰めではなく、たくさんの感謝。



2003年11月03日(月) 義母からの電話




夕食後に突然の電話のベル
まあ電話のベルというやつはいつも突然に鳴るんだけれど。

「ひさしぶりぃ」

甲高い声の主は夫の母。私にとって姑にあたる人だった。

「今月は東風ちゃんの誕生日だよねぇ。
 プレゼント送るからいつ頃がいい?
 いつもの伊勢エビなんだけどね(笑)」

「いやいやいや、そんなお気遣いは無用ですのにぃ。」

そう云う私の声は言葉とは裏腹にウキウキしていた筈。

いつも思うのだけれど、姑はとても明るくてパワフルな人だ。
最近は近くのプールで泳ぐのが日課になっているとのこと。
話しているとこちらまで楽しい気分にしてくれるから
子供達も受話器の取り合いになる。


姑との会話も嬉しかったのだが、誕生日を覚えていて下さったということが
嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。
おまけに私が伊勢エビ大好きなものだから、舅がわざわざ漁に出て下さる。
実家に伺った時にも、いつも山盛りになった伊勢エビが出てくる。
足の1本1本まで食べ尽くす私を、笑いながら喜んで下さる。


電話の最後に、今月夫が手術を受けることを告げると
息子の心配より私の苦労をねぎらって下さった。

「いやいや、ご自分の息子の方を心配して下さい。」

そう言うと「あらそうだった」
笑いながらそう答えた姑だけれど、本当は心配でたまらないだろう。



高校入学と同時に独り立ちさせた息子を
どんな時にも信じている母。
子連れの人と再婚すると告げた息子を
快く了承した母。


夫は、決して私の愚痴を言いつける人ではないから
舅姑は私を過大評価していそうだけれど、
現在が幸せでいられるのは、あなた方の息子の力です。
そんな息子を育てたあなた方を、私は目標にしたいです。


送って頂く伊勢エビは、夫の退院後にしてもらうことにした。
私の誕生日もありがたいけれど、夫が健康になることの方が嬉しい。
そして、お二人がいつまでも健康で仲良く暮らして下さることが
夫と私にとっても幸せであるんだろう。





こんなふうに言葉で言えたらなぁ。
無理だとわかっているから、文字にしてみた。





東風 |MAILHomePage

My追加