たそがれまで
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2003年03月31日(月) 桜の想い出 2




今朝起きて、ケイタイをチェックすると
悪友からのメールが届いていた。

私達と見たサクラは、良い思い出ではないんかい?

一言だけのメール。
結構、グサっときた。
そうだよそうだよ、忘れていたよ。
楽しいサクラも沢山見たね。

悪友達と一緒に仕事をしていた頃、
職場の近くに立派なサクラの木があって
少し長めの昼休みを取って、皆で出かけたりしていたんだ。
持参した弁当を食べるヤツ、
ポット持ち込みでカップラーメンを食べるヤツ、
横でバーベキューしていた家族連れから、
お肉を差し入れてもらった事もある。
5年続いた勤務内花見、お腹を抱えて笑い転げたね。


いつの間にか楽しかった事は忘れてた。
悲しい事ばかり自分の中でクローズアップされて、
笑い転げたことは、すっかり忘れてた。

辛い時もいつも笑いがあったよね。
無理をすることもなく、とても自然に笑えたよね。
そんな小さな笑いが、私を支えてくれてたんだよね。

あなた達と過ごした時間は、プライベート的には一番きつい時期だったけど
一番大笑いできた時間でもあったんだ。
何に媚びることもなく、何も気遣うこともなく、
体中の力を抜いてつき合えた悪友達。

思い出させてくれて、ありがとう。
本当に、良い思い出のサクラだったよ。

花が終わらないうちに、早く遊びにおいで。
また、楽しい花見が出来るよね。

サクラは散ってしまっても、
他にもたくさん花はあるんだよね。






2003年03月30日(日) 桜の想い出





本当ならこの週末は、故郷から悪友が訪ねて来る筈であったのだけど
ドタキャンされたので、ぽっかりとヒマができた。
母は明日から来るのだが、身内だもの、片付けに身が入ることもなく
家族で花見に行くことにした。

自転車で20分ほど走った場所に、桜の名所があると聞き
夫を先頭に、4台の自転車で風を切って走る。
日差しは初夏を思わせるほど、空は雲一つない青空。
絶好の花見日和だった。

天満宮の境内に、咲き乱れる
サクラ・サクラ・サクラ

家族連れや職場仲間達がビニールシートを広げ
境内はブルーに染まっていた。
特設ステージでは、カラオケやバンド演奏、
和太鼓などで盛り上がっている。

こんな人混みの中で、花を見るのは久し振りだった。
こんな賑やかな花見の中にいる自分が、ふと場違いな気がした。


桜の花は好きだけれど、あまり良い思い出が無い。
桜の花はどちらかと云うと、悲しい気持ちを呼び起こす。

養父が亡くなって、丁度、初七日の日
養母と私は花見に出かけた。
不謹慎かもしれないが、塞ぎ込んでる母に気分転換をして欲しかった。
賑やかな花見客の横を、沈み込んだ二人が歩く。
それはそれで迷惑かもしれないが、誰もお構いなしである。

満開の花。風で揺らめく花びら。
今まで見た花の中で、一番綺麗で、一番悲しい花見だった。


そして、私がまだ若く、「新婚だね」と言われていた頃
すれ違う夫との関係で悩んでいた時、丁度季節が春だった。
夜中に一人で車を走らせ、桜並木の中を走り抜けると
花びらがフロントガラスに貼り付いて、それがとても悲しくて
泣きながらハンドルを握っていた。

桜は綺麗だけれど、散り際が悲しすぎる。
だから花見は、盛りの前に、いつもそう決めていた。
満開になると、後は散りゆくしかないじゃないか。
それがとても悲しい。



桜の名所は沢山あるし、有名な桜の大木も沢山あるけれど、
私が一番好きな桜の木は、30年以上住んだあの街にある
小さな小さな公園の1本だけしかない桜。

ブランコと砂場しかない公園の、隅で季節をじっと待ってる。
毎日車で前を通るけど、一度も降りて見たことはない。
あの木の下で花見をする人もなく、
夜は街灯がぼんやりと照らしてくれるだけ。



でも、あの公園のあの桜。
今年も綺麗に咲いていてほしい。
来年は「ただいま」って、
家族で見に行くつもりでいるから。

もう、悲しい桜は見たくない。







2003年03月28日(金) もう一人の母のこと 5




あなた達親子は、なんか不思議だ

そう友に言われたことがある。
「あなた達親子」とは、養母と私、実母と私、
その両方に向けられた代名詞だ。

「不思議」と云う言葉で表現された意味の中には
「変わってる」や、「おかしい」と云うニュアンスもあっただろう。

養母がいて、実母がいて、
その両方とつき合いがあって、
ある時は一人っ子、ある時は四女、
そんな関係が腑に落ちないんだろうと思う。




確かに私は、物心ついた頃には既に養女になっていたけれど
そんなことは全く知らないまま、いつも姉達と遊んでいた。
電車で二駅ほど、逢おうと思えばすぐ逢える場所に住んでいた。

養母もよく連れて行ってくれたし、家では遊び相手がいないので
母のお友達であるおばちゃんちに行くのが大好きだった。
そう、子供の頃の私にとっては、そこは「おばちゃんち」だったのだ。

節目には必ず訪れたおばちゃんち。
七五三のお祝いも、おばちゃんちの玄関前で撮った写真が残ってる。
小学校入学の日も、おばちゃんちの前で笑っている私の笑顔。

今ならわかる、養母は子を育てているという責任感を
おばちゃんちの前で形に残したかったのだ。
いや、実父母にこれだけしていると見せたかったのかもしれない。


亡くなった母の姉から聞いたことがある。
親戚中が、私と実父母、姉妹達とのつき合いを止めさせなさいと
反対したにも関わらず、養母は聞く耳を持たなかったのだと。

確かに、つき合いをさせない方が養父母はずっと楽だったろう。
我が子であって我が子でない子を垣間見る瞬間に、
両親の心に苦痛が伴ったと察する。

だけど、養父母はつき合いをさせ続けてくれたのだ。
それは、私の将来を考えてと云う他ない。

時が来れば、親は先立つものだ。
その時に頼れる姉妹が居るのと居ないのとでは、大きく違う。
それに、もしも、真実を知る日が来た時
心が受けるショックを少しでも軽くしてくれる為に。


実父母も姉妹達も、今思えばいつも、姉妹の一人として接してくれていた。
特に長姉と次姉は、私が養女に貰われた頃には物心がついていたから
初めから真実を知っていたのだ。
それでも何も言わず、だからと云って特別扱いもせず
他の妹と同様に、私には接してくれていた。

だから、私が養女だと知った時に、一番に相談したのは姉だった。
その時点ではまだ、姉妹だとは知らない頃で、
ただ私が「養女」だったことが判明した時だった。

「あんた、本当に今まで知らなかったの?
 私達、姉妹だよ。 
 呑気だなぁ、こんなに顔がそっくりなのに、本当に気がついていなかったんだ。」

そう言って大笑いする姉を見て、私も大笑いするしかなかった。

周りは皆、知っていた。
年子で当時は2才だった三姉も、妹も、皆が知っていた。
おまけに、誰もが私も知っていると思っていたようだ。
そんなのあり?という感じだったが、狐に摘まれたような展開だった。

だけど、そう思えるのは
養父母が痛みを堪えて、つき合いをさせてくれていたからだ。
養女になった理由は、聞く人それぞれに説があり
どれももっともらしく聞こえるし、どれも私を納得させるには不十分だった。
自分の子供を手放す理由、その心境は昔の私にも、今の私にも理解できない。
結局のところ、未だに実母には確かめたこともない。

ただ、当時の実母は1才の姉と、11ヶ月の私に手いっぱいで妹を早産してしまった。
妹が生まれて3ヶ月くらいという約束で、養父母の家に預けられたという。
子供ができなかった養父母夫婦にとって、それはそれは大事件であったらしい。
養母は私につきっきりであれこれと世話をやき、
3ヶ月が過ぎてからも帰したくないと思ったようだ。



いつか実母に問いただす時が来るのだろうか。
訊いたら答えてくれるのだろうか。
だけど今さら、訊いてどうする。
泣いて抗議するとでもいうのか。




この世で切っても切れないものの存在を、教えてくれたのは養父母だ。
だから私は「母」と呼ぶ。
おばちゃんではなく、母である。
それだけじゃないけれど・・・
それがすべてじゃないけれど・・・






2003年03月27日(木) もう一人の母のこと 4





週が明けたら、実母が来る。
私が作った食事を食べる。
当たり前のことが、実は初めてだったりする。


一つ屋根の下で寝たことも、数えるくらいしかないけれど、
私が長男を出産した時には、1ヶ月ほど実家で母の世話になった。
その時はしみじみ思った。
物心ついて、初めて一つ屋根の下で一緒に生活をしているんだと・・・。

母の作った食事を食べ、母に洗濯をしてもらい、
片手にのるほど小さい孫を、お風呂にも入れてもらったりもした。
具合の悪い養母に変わって、実母が名乗りを上げてくれたのだが、
横から姑まで出てきたりして、それはそれで大変だった。

普段は決して表にはでない実母だった。
結婚式の時も、葬式の時も、いつもは裏役に徹してくれていた。
でもこの時ばかりは、実母が強く主張してくれたのだ。

初めてのお産と子育ては、精神的にも苦痛を伴う。
だから、だから、お姑さんのところには行かせたくない。
私が世話をするから。仕事を休んでもいいから。

そんな実母の言葉に、養母は「そうさせてもらいなさい。」とだけ言った。
その言葉が気にはなりつつも、産後、私は実母の家に向かった。

いつも顔を合わせている実母だが、
一緒に暮らすということに慣れていない二人。
なんとなくぎこちなく、お互いになんとなく気を使う。


母と娘の当たり前が、私達母娘には当たり前でない。
そんな微妙な母娘関係だが、それが私達にとっての当たり前だっだ。


私にとってあの1ヶ月間は、愛おしい時間だった。
とても懐かしく思い出される。
養母に後ろめたさも感じつつ、
でも過ごすことができて良かったとそう思える時間だった。

おそらく、もうそんな時間も無いだろう。
今では実母は、次姉家族と同居している。

だからこそ、来週過ごす3日間が
今からとても楽しみで、実は少し緊張している。
料理上手な母の、好みの味を作れるのかと・・・。




2003年03月26日(水) もう一人の母のこと 3


先週、実母の誕生日だった。
実母といえば、実母。
私をこの世に生んでくれた母。

毎年、実母の誕生日には、姉妹でお金を出し合って、
長女と次女がプレゼントを選ぶことになっているのだが
今年はそれから抜けようと思っていた。
事前に姉に連絡をして、その主旨を伝えておいた。

もうすぐ花がいっぱい咲くから、
母にこちらに来てもらいたい。
それを誕生日プレゼントにしたいから、
今年は私だけ抜けるね。

「日本一早い春」と銘打って
県をあげてのフラワーフェスティバルなどが催されている。
それを是非、母に見せたかった。
昔々に「いつか連れて行ってあげる」と約束したままになっていたから。

姉達と話し合った末、皆からのプレゼントとして
私の提案が採用された。
一人だけ良い子にさせてなるものか・・・
なんて笑って言っていたけど、私だけ負担が増えるのを
気にしてくれた結果だと思う。

こんな時、三女以下には発言権が与えられないのが、私達姉妹なのだ。
姉三人と妹一人。
「四女です」と言葉にすると、皆、目を丸くする。

だけど
「四女です」と答える機会は、大人になるまで与えられなかった。
私は、「四女」でもあり、「一人っ子」でもあったから。
臨機応変に使い分けるようになったのは、ここ数年の話しで
やはり養母が亡くなるまでは、その言葉自体に躊躇があった。


養母がまだ元気な頃は、私の運転でよく出かけた。
二人の時もあったけれど、実母を加えて三人の時も多かった。
昔、同じ職場に住み込みで働いていた二人は、
「母」と云う立場以前に、親友同士でもあったから。

どこかで花が咲いたと聞けば、養母も実母もそれとなく私に話しだす。
二人のそれは、「連れて行ってね」と同意語だった。
運転することが苦痛ではない私は、結構な距離を一人で運転をした。
梅、桜、藤、菖蒲、紫陽花、向日葵、百合、秋桜、椿・・・
ありとあらゆる花を見に行った。
日帰りで700劼鯀破したこともあったっけ。

さすがに養母の具合が悪くなり、私も子供を産んでからは
遠出をする機会はめっきり減ったが、ちょこちょこと近場の花見には
連れ出していた。
ペーパードライバーの姉や、仕事が忙しい妹に変わって
姉妹の中では、私がお出かけ係りという役割だったのだ。
まあそれに、私自身も神社仏閣が嫌いではなく
花を見るのも好きだから、喜んでその役を買って出た感もある。

それが、私が400厠イ譴審垢鳳曚靴燭發里世ら、
「どーこにも行けなーい」が口癖になってしまったらしい。
まったく、子供みたいなんだから・・・。

もうすぐ母が来る。
久し振りのお花見になる。
一人の手柄ではなくなったけど、姉妹全員からのプレゼントだ。
母の到着を待つように、花の蕾が開き始めた。
桜もチューリップもポピーもマーガレットも、一斉に花が開く。

もう春。
やっと春。
あの日約束した「春」を、
やっとみせてあげられる春が来た。






2003年03月22日(土) 父への手紙




お父さん元気ですか?
なんか、とても変な呼びかけだけど許してね。
だって手紙の最初には、お約束の言葉だからね。

もう15年も経っちゃったんだね。
覚えてる?15年前の今日の朝食は、私が作った雑炊だったって。
「こういうのが一番いいよ」って、たくさん食べてくれたよね。
まさかさ、あの雑炊が最後にお父さんに作ってあげた食事になるなんて、
お父さんが人生の最後に食べた食事になるなんて、思わなかったよ。


手紙を書こうと思ったのはね、伝えられなかった気持ちが
たくさんたくさん残ってて、15年経った今でも心残りのまんまだから。
だって、職場で倒れてその日の夜に
逝っちゃうなんて、想像したこともなかったよ。


あのね、私、じっくりお父さんと話したことってなかったよね。
とくに大きくなってからは、いつもすれ違いでどちらかが家に居なかった。
だけどね、大人になって、結婚をして、孫を抱かせてあげられる頃には
そんな時間もあるだろうと、漠然と思ってたから
あんまり気にもしなかったんだよ。

私の夫になる人と、お父さんが一緒に呑んでる風景なんかを想像していたんだよ。
だけど花嫁衣装さえ見せてあげられなかったね。



お父さん、はっきり言うけどさ、あなたは家庭人としては失格だったよ。
優しいお父さんではあったけど、良い父、良い夫ではなかったよ。
お父さんも見たはずだよ、あなたの臨終の時の母の涙。
あれだけ仲が悪いと思っていたはずの母の涙。
「これでやっと私の元に返って来た。」と言った母の言葉。
お母さんはずっとあなたの帰りを待っていたんだ。勿論、私もだったけど。

あなたの葬儀の時に、300人も入る大斎場に並びきれない献花を見た時、
所々から聞こえてくる嗚咽を聞いた時、仕事人としては立派な人だったと
云うことが、初めてわかった。だけどね、
母と私が求めていたのは、いつも一緒に居てくれるあなただったんだよ。

夫でもなく、父でもなく、仕事人のあなたでもなく、
男の顔をしたあなたの横顔がちらつく度に、母は悲しかった筈だし、
私も寂しかった。
もしかしたら私が貰われてきたせいで、そうなってしまったのかと
自分を責めたりもしたんだよ。
私というおもちゃを母に与えたから、あなたは安心して外へ行くのかも
しれないと感じたこともあったんだよ。

そんな胸の内は、いつか話すつもりだった。
もう笑い話になった頃、話すつもりでいたんだよ。なのに・・・

お父さん、ずるいよ。
何もぶつけられないままで、逝っちゃうなんてずるいよ。
そういえば、いつもあなたの遺影に向かってお母さんも言ってたよね。
「あなたは本当にずるい人だ」って。
そのくせ毎日仏壇の前に、何時間も座ってた。
一頻りお経を唱えて、あなたに話しかけていたよね。
それはそれで一つの夫婦の形だろうと、今になればわかる気がするよ。


昨年の春引っ越しをした時に、新居に写真を飾ろうと思って
一生懸命に探したんだ。だけど、二人が一枚に収まった写真は
新婚時代の写真しかなかったよ。
それだけじゃなく、お父さんと私が一緒に写った写真も
私が子供の頃のしかなくて、いやそれよりも、
私の記憶にあるお父さんの顔をした、晩年の写真がまったく無かった。

そうそう、遺影に使う写真も苦心したんだった。
唯一、会社に残ってた証明写真を引き伸ばしてもらったんだよね。
だから、いつの間にか私の中のお父さんの面影は
生真面目な顔をした証明写真の顔になっちゃった。

だからと云うわけじゃないけど、今はいっぱい写真を撮ってる。
子供と夫、子供と私、夫と私、そして、家族の写真。
子供たちが昔を懐かしむ時、笑顔の思い出を残してあげたいからね。


もっとたくさん写真が欲しかったよ。
もっとたくさん思い出が欲しかったよ。
もっとたくさん声を聞きたかったよ。
もっとたくさん叱られたかったよ。





多分報告なんかしなくても、もう解っててくれてると思うけど
幸せにしているから安心してよね。
ずいぶん心配させちゃったかな。
ハラハラしててくれてたかな。
だけどもう大丈夫だから、安心して見守っててね。



今日は特別だから、大好きだったお酒と煙草を供えてあげたよ。
せっかく健康の為にって、晩年は我慢してたのにね。
今日は気の済むまで、二人で呑んでいいよ。
お母さんの愚痴もちゃんと聞いてあげてね。
もう聞き飽きたなんて言わせないから。



あのね、どうしても伝えたかったのは
私のお父さんになってくれてありがとうってこと。
家にあなたがいなくて、寂しい時はあったけど
嫌いになったことはない。
お父さんが大好きだった。それだけは本当。

ありがとう
ありがとう

何べん言っても足りないけれど、
大好きだったよ。
ありがとう。











2003年03月21日(金) 祈り 2



連日の爆撃映像に心を痛めつつも、ふと考えた。

みんな「戦争反対」だと口々に言葉にしているけれど
何かが違う気がする。

遠い場所で、直接的には大きな被害を受けることもなく
(原油価格が上がるとか、不況が長引くといった間接的な影響はあるが)
「平和」というキーワードが、一人歩きしている気がしてならない。

いや、実際に自分の身の上が危険に晒されたことなどないから
ファッション的思考で「戦争反対」と言っている人もいるはずで、
母の世代のように、戦争を身近に知っている人が口にするソレとは、
言葉の重みが違う気がしてならないのだ。



もしも、もしも、この戦争が私達が住む日本という国から
近くて遠い国、北朝鮮が相手だったら・・・
皆、今と同じ気持ちで「戦争反対」と言えるのだろうか。


突き付けられた刃が
今にも喉元を掻き切ろうとするその瞬間に
後ろから助けてくれようとしている人に向かって
「暴力は反対だから話し合う」と言えるのか。

それだけの勇気を持ててこそ、口にして良い言葉なのかもしれない。

アメリカでの街頭インタビューで、戦争も止むなしと言っている人を見たとき
彼らの心の中には、『9・11』の記憶が、焼き付けられているんだろうと感じた。


だからと云って、この戦争を肯定もできない。
でも、私に真の勇気があるかと問われれば、それも肯定ができない。





人の命は重い。
それはどの人種も平等。

刃を突き付けた国の住民も
刃を突き付けられた国の住民も
皆、同じ重さの命がある。
それだけは確かなこと。


だから、
刃を突き付ける前に
突き付けられる前に
もっとすべきことがある筈だ。
ある筈だった、今回も。


毎日、思考がクルクル変わる。
あの映像こそが悪である。
だけどその悪の中に、なんとか光りを見出したい。














昨日、今日と、この話題を書いてはみたけれど
私は、本当のところ何も分かってはいない。
ということだけが、真実であるようだ。




2003年03月20日(木) 祈り 1




TVを見ながら息子が言う

「爆弾って花火みたいで綺麗だね」

私が子供の頃に母から聞いたことがある。
母が子供の頃にあった戦争で
空から降ってきた焼夷弾は、花火みたいで綺麗だったと。
生死がかかったその瞬間でも、綺麗なものは綺麗に見えるのだよと。

だけど
どれだけ綺麗でも、もう二度と見たくないねと・・・。





子供たちにどう説明してよいのか解らない。
的確に説明ができる人がいたら、教えて欲しい。
なぜ戦争をしなければならなかったのか。
なぜ殺し合いをしなければならないのか。
いや、自分自身でさえ、納得できるほどの理由なんて見つからない。






      祈り

  悲しい蒼さの 広い大空を
  小さな鳥が一羽 海を目指してる
  鳥を撃たないで 約束の町へ
  ひたむきに羽ばたく 夢を消さないで

  誰もが時の流れに 傷つき疲れ あきらめそして
  いつしか生まれた時の 溢れる程の愛を見失う

  この町がかつて 焼え尽きた季節(とき)に
  私達は誓った 繰リかえすまじと
  生命を心を 奪い去ってゆく
  ちからも言い訳も 総て許せない

       私は祈る以外に 知恵もカも 持たないけれど
       短い花の生命を ささやかなこの愛で染めたい

                              M・Sada





2003年03月12日(水) ステップファミリー 3 幸せの味




今日の夕方、宅配便が届いた。
通販も頼んでないし・・・などと思いながら玄関に出ると
大きな包みを渡された。

差出人を見ると、義父である。
夫の実家からの荷物だった。
2日ほど早い、ホワイトデーの贈り物だ。

先月、我が家に滞在されたときに
少し早めのバレンタインチョコを渡した。
私と娘から、ほんの心ばかりのチョコだった。

なのに、お返しにとどいた物は
お人形やら、レースのハンカチやら、勿論お菓子もたくさんあった。
気を使わせてしまったようで、恐縮すること然り。

すぐに娘に電話をさせた。
しばらく娘が話していたが、私に代わることなく切ってしまった。

「何を買うか迷ったって。
 1時間もウロウロしたって。」

娘は簡単に1時間と言うが、夫の実家からその店までは
所要時間1時間半。
そして店内で1時間。
なんて想いの籠もった贈り物だろう。
勿体なくて、食べられない。
勿体なくて、使えない。

そう思う横で、娘はお菓子の袋をバリバリ・・・。
いつの日か、いつの日か、
娘にもきっとわかるだろう。
この贈り物がどれだけ価値のある物か。

当たり前のようで当たり前でない、
どれだけの愛が含まれているか。

私が義父母の立場になった時、
同じことができるかどうか、わからない。
ただ思うことは、
あなた方のように、いつまでも仲の良い夫婦でありたい。

我が子を信じ、我が子の選択を黙って受け入れ
そして愛を注げるほどに強い母になりたい。


娘のお菓子を一口貰った。
ふわっと甘くて、幸せの味がした。




2003年03月10日(月) ステップファミリー 2





ステップファミリー支援組織の、お悩み掲示板に書かれた
もう一つの多くの悩み。

それは、連れ子とセメントベビーの折り合い。
子供同士の場合もあるし、親と子供の場合もある。

家族を結びつける(固める)という願いから
セメントベビーと云うネーミングになったのだと思う。
でも、絆になってくれれば良いのだが、亀裂になることもあるようだ。



私達が再婚する前に、子供の件は何度も話した。
もしも、夫が自分の子を望んだら私は産むつもりだった。
いや、血の繋がった子供を抱かせてあげたいと、
産んであげたいと思っていた。

だけどそれはなんと云う傲りだろう。
『産んであげる』とは嫌な言葉だ。
子供はおもちゃじゃない。
産んだら終わりじゃない。
そんなこと、解りきってた筈なのに。


夫は自分の子を望まなかった。
この事は、何度も何度も確認をした。

「自分の子供が欲しくないの?
 自分の生きた証をこの世に残したくはないの?」と尋ねた私に、

「自分の子供なら二人もいるよ。」それが夫からの返事だった。


しばらくして同じことを問いかけると、夫は静かにこう話してくれた。

「確かに、自分の子、自分の血が繋がった子供が欲しくない訳じゃない。
 でも、『血の繋がり』だけが『自分の生きた証』だとは思ってない。
 それに・・自信はある。自信はあるけど、自分も人間だから・・・」

夫の言葉はしばらく止まった。そして、ゆっくりと言葉を選んで

「自分も人間だから、もしかしたら、もしかしたら、
 二人の子供と、俺達の子供の、可愛さが違ってしまうのが怖い。」

その話しはそこで終わった。
夫なりの誠意だと感じた。「大丈夫さ」と安請け合いしない夫の誠意。
だけどもし、私達に子供が授かったら、喜んで受け入れる覚悟はできている。
それはきっと、お前達なら大丈夫だよと、授かる子供だと思うから。



私達家族はステップファミリーだ。
でも、それを日常生活で痛感する瞬間は少ない。
それがどれだけ恵まれて、幸せであるか。
ちゃんと認識して生きていこう。
ちゃんとちゃんと生きていこう。








2003年03月09日(日) ステップファミリー



先日、ネットを徘徊していたら
ある言葉に撃ち当たった。

「ステップファミリー」と云うその言葉
つまりは、子連れ再婚をした我が家のような、家庭を指す新語だそうだ。

勿論、父方の連れ子の場合も双方の連れ子の場合も当てはまり、
再婚後に生まれた子供は「セメントベビー」と呼ぶそうである。

その言葉で検索をかけると、まあ実に様々なサイトがある。
ステップファミリー支援組織まであり、会員制で会報なんかもある。
正直、びっくりした。


先日も「歳時記」で書いたのだけど、
NHKみんなの歌でも『ママの結婚』という歌が唄われていたり
これだけの離婚率増加だもの、当然再婚率が上がっても不思議ではない。

いろいろサイトを巡回していくうちに、
皆の不安や苦労を次々と目の当たりにした。

ふぅ〜ん、大変なんだなぁ

と、よそ事のように感じる自分に
改めて、自分の現在の幸せを実感した。

私達夫婦は、というよりも私は、とても恵まれた再婚ができた。
夫にも義父母にも恵まれて、現在の生活がある。
再婚を反対されることもなく、再婚後も大きな問題に直面してはいない。
だから子連れ再婚というのが、それほど大変だという認識が無かった。

勿論、これから子供たちが大きくなるに従って
問題点も見えてくるのだと思う。
子供が大きくなれば、悩みも大きくなるというけれど
夫婦で乗り越えていけると思う。

それは多分、再婚とか初婚とかの問題ではなく
その家庭の問題で、夫婦のあり方や、家族のあり方が問われている。
ということだと思うから。
例え初婚で、実の父母だって夫婦の向く方向が違えば
家庭は崩壊するということだろうから。



確かに、子連れ再婚は問題山積であることに違いはない。
我が家では無かったが、両家の反対も然り。
だけど何よりの問題は、再婚した者同士の子供として
自分達の子供としての思い入れのギャップだろう。

血の繋がった親、血の繋がらない親、
血の繋がらない親子の温度差をどこまで埋めることができるのか。
それが上手く出来なかった家族は、虐待や再びの離婚にさえ発展する。


支援組織のサイトの悩み掲示板には、様々な悩みが書き込まれていたけれど
この問題が大多数だったのも事実。

現に(ステップファミリーの先輩だった)私の友人も、
そのことが原因でバツ2になった。
子供が思春期を迎えた時期に、突然の家庭崩壊だった。
「思春期」特有の心の揺れを「血の繋がり」の一言で結論つけてしまった友人。
上手くいかなかった義父と娘の間で、疲れ果ててしまったのだろう。

でも、違う。絶対違う。
もっともっと家族が一つになって、時間をとって解決しようとすれば
解決できた筈なんだ。
友人の壊れていく家庭を目の当たりにしながら、もどかしくてもどかしくて
何度も熱く意見もしたのだけれど・・・

それぞれの家庭には、それぞれの事情と、それぞれのやり方がある。



血は水より濃い

だけど、血だけじゃない。それだけじゃない。
一緒に過ごした時間が、家族に、親に、してくれる。
私と父母がそうだったように
夫と子供たちがそうであるように

私はそう信じている。
今までも、これからも。







    **************************


興味のある方の為に、ステップファミリー支援組織にリンクしておきます。


ホームページにおいて、「母のこと」を独立したページでアップしました。
よろしければご覧下さい。


2003年03月07日(金) 友のこと 誕生日




先日、花ももの鉢植えを買って来た。
本当は庭にでも植え替えをしてやらなければいけないのだけど
花が終われば少し大きめな鉢に、植え替えてあげるつもりである。

雛祭りの当日はまだまだ蕾も堅くて、
花を開く気配もなかった。
一日、一日と蕾が大きくなり
今朝一輪の花が開いた。

幾重にも重なったビンクの花びらが
大きく大きく広がった。

ああこれは、陽子ちゃんだ。
花を見た瞬間にそう思う。
娘の為に買ってきた鉢植えだけど
この花は絶対に陽子ちゃんだ。

今日は『陽子』と云う名の友人の誕生日
おめでとう。
おめでとう。

5ヶ月前に誕生日を迎える私を
いつも年寄り扱いしていた彼女。
でも今日からは同じトシだよ。
お互いに良いトシになったねぇ。



彼女とは中学1年で同じクラスになった。
あれから23年のつき合いになる。

実は彼女が居てくれたからこそ、
私の子供たちが、この世に存在している。
そして彼女が居てくれたからこそ、
夫との再婚に踏み切れた。

連絡を取り合わなくなった時期もあったけれど
三十路を過ぎてからの方が、いろんな話しが出来るようになった。

悲しい事実だけど、愛息を亡くしてからの方が
彼女は心を開いてくれるようになった。
あれからの彼女は、俯きそうになる顔を
一生懸命上げて生きていた。
小さな躰から信じられないほどのパワーを
感じることもあったのに・・・


平成14年6月20日
享年35才でこの世を去った。
棺の中の彼女はとても綺麗で、小さくて
まるで出逢った頃の彼女みたいで・・・


自分だけもうトシを取らないなんてずるいよ。
私達の記憶の中では、ずっと今のままなんてずるいよ。
毎年、ちゃんとお祝いしてあげるから
一緒にトシを取ろう・・・。
だって、いつか再会したときに
私だけがお婆ちゃんじゃ悲しいからさ。


そう再会。
私達は再会できる。
彼女に教えて貰った本に、そう書いてあった。
その来るべき日に向けて、私は一生懸命生きてなくちゃ。

辛くて苦しい毎日に
二人で精神学の本を読みあさった。

『私達って、なんか繋がってるよね』
いつも彼女がそう言ってくれていた。
うん。私もそう思うよ。

戯言だと思われても構わない。
私達はまた来世で出逢う。
彼女とも、夫とも、勿論子供たちとも。

次に生まれてくる時は
私が陽子ちゃんの為に生まれてくるよ。
私が陽子ちゃんを守るよ。
私が陽子ちゃんを倖せにするよ。

少なくともそう信じていられるだけで、
現世では勇気も湧いてくる。
そうだよね。
そうだよね。


陽子ちゃんに向けてシャッターを切った。
綺麗に咲いてくれてありがとう。

お誕生日おめでとう。













2003年03月04日(火) 目立たぬように・・




子供が指先に怪我をした。
ほんの少しの擦り傷なのだけれど
本人は大袈裟に騒ぎたてる。

バンドエイドを貼りながら、ふと思った。
心に傷を負った時にも、
手軽に貼れるバンドエイドがあればいいのに。
いや、オロナイン軟膏のように
優しく塗り込むクスリの方がいいか・・・

擦り傷の絶えなかった私の幼少期は、
いつもひざが赤かった。
ヨードチンキをたっぷり塗られ
恥ずかしかった。
まるで、この子はドシなんですよと
宣伝しているようなものだと思ってた。


バンドエイドでもヨードチンキでも
傷があるのがすぐにバレる。
傷の場所まですぐバレる。

心の傷につけるなら
私はオロナインを使うかなぁ。
よ〜く見ないと目立たないから。
意地っぱりな私はオロナイン軟膏。


ヨードチンキやバンドエイドで
心の傷に同情をひきたくはない。




2003年03月03日(月) 誕生日ありがとう





明後日は夫の45回目の誕生日
結婚してからは二度目だが、
一緒に暮らし始めてからは初めて迎える誕生日。

既に夫へは、ささやかながらプレゼントは渡してある。
昨年までの装飾品から、実用品へと様変わりはしたのだが・・・

そして当日に届くように、実家の義父母へ花を贈った。
誕生日は、両親への感謝の日である。
あまり仰々しくはなく、小振りの胡蝶蘭の鉢植えを選んだ。


離島であるがゆえ、タイミングが難しいのだが
先日、我が家へ来て頂いた時の、写真と手紙も同封した。
写真の中の6人は、それぞれが満点の笑顔で
一緒に過ごしたわずかな時間が、ぎゅっと凝縮されている。

血の繋がりは無いけれど、6人はもう家族だね。

その夫の言葉に、心から感謝をしている。
そして、そんな言葉をくれる夫を育てて下さった義父母にも
同じだけの感謝である。

同封した手紙の中に、少しだけ自分の気持ちを綴った。
顔を見ては照れくさくて言えないから、敢えてこの日まで待っていた。

45年間のご苦労に、感謝の気持ちでいっぱいです。
暖かく迎えて頂いてありがとうございます。

そんな言葉をそっと綴った。

これから幾度もの、お互いの誕生日を迎える度に
両親への感謝を込めて、花を贈り続けたいと思う。
なかなか親孝行はできないけれど、
感謝の気持ちだけは、伝えることができる筈だから。


誕生日おめでとう。
誕生日ありがとう。



2003年03月02日(日) 曇ったガラス



晴天の日曜日
ダイニングテーブルに座って、ゆっくりとコーヒーを飲んでいた。

テーブルのすぐ横にある窓から外を見ていると、
近所の子供たちが、薄着で走り回っている。
それぞれの家庭のベランダからは、洗濯物や、布団が干してある。
外はもうすっかり春。

そんな気分に浸っていると、窓ガラスの汚れが気になった。
少し前から気になっていたのだが、外が汚れているのだからと
なかなか手を付けずにいたのだ。

こんなに天気も良いことだし、張り切って窓拭きでもするか。
タオルと洗剤を手に、窓を全開にして拭き始める。
脚立でもだして、外から拭かなきゃダメだよと言う夫も
脚立を取りに行ってくれた。

のだが・・・・・


取り敢えず、内側を先に拭いてみたら
汚れは外ではなく内側だった。
(いかに普段拭いてないかを暴露しているだけかしらん)
いつも外が汚れてる、と思っていたのに
実は毎日の生活の中で、少しずつ曇っていってたんだ。

内側も外側も一生懸命に拭いた。
内と外の汚れの差は歴然で、夫も呆れるばかり。




思い込みって悪である。
私は外が汚れてると思い込んでいた。

もしかしたら、日頃の生活の中にもそんな事が多いんだろう。
自分の心や目が曇っているのに、視界に映る物自体が汚れていると勘違いする。

自分は正しい。
そう思い込むことで、真実にフィルターがかかって見えているかもしれない。

自分の心も自分の目も、内側をそっと拭いてあげよう。
そしたら今まで見えていたものが、もっと違って見えるかもしれない。


曇りのなくなった窓ガラスから外を見てると、
それだけで幸せな気分になった。
幸せって、案外そんな物かもしれない。
本当はそこに存在しているのに、気がつかないだけ。



曇り一つない窓ガラスから見る風景は、もっともっと春になった。
もう一度コーヒーをいれて飲んだら、さっきよりもっと美味しかった。





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