たそがれまで
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2002年12月31日(火) よい明日を・・・



突然私の前から居なくなった友人との
想い出を綴ろうと思い、用意したスペースでした。

でも書こうと思えば思うほど、
失った彼女の存在の大きさが身に染みて
書いては消し、消しては書くの繰り返し。

そんな頃、ある女性の日記に出逢いました。
看護士のお仕事をされているその人の日記は
私の胸の奥底に響いてきて
封印していた筈の気持ちが、押し寄せました。

それが「母のこと」でありました。
無我夢中で書きました。

あの日記に出逢わなければ、
言葉として残ることが無かった母への想い。
書いて良かった。書けて良かった。

そしてその言葉を通じて、たくさんの方に出逢わせて頂きました。

同じ境遇でお母様を見送った方、
看護をして下さる立場の方、
いつか向き合う「死」に、恐怖や不安を感じている方、
読んで頂いてありがとう。
出逢って下さってありがとう。

この縁は偶然なんかではないと思います。
本当に本当にありがとう。



今年ももう終わりです。
でも私達には明日が来ます。
どんなに泣いていたって、
ふてくされていたって、
明日は平等にやってくる。

その明日を笑顔で迎えたい。
あなたにも笑顔で迎えてほしい。

どうぞよい年を
よい明日をお迎え下さい。





平成14年12月31日  東風


2002年12月30日(月) ガンダーラに行きたかった



年末になると、こぞってTVから懐かしい映像が流れてくる。
今夜は子供の頃に毎週見ていた「ザ・ベストテン」が一夜限りの復活をしている。

昔の曲を聴くと、その当時の自分をありありと思い出す。

柏原芳恵の「ハローグッパイ」
石川ひとみの「まちぶせ」
松本伊代の「センチメンタルジャーニー」

中・高校時代の物真似のレパートリーだった。
あの頃の私は、まだ怖いものなどなくて
世間知らずのお嬢ちゃんだった。
未来は、望むように開けていくと信じていた。

初めて自分で買ったアルバムは
「世良正則&ツイスト」だった。確か小6のお年玉で買ったのだ。
街にはゴダイゴの「ガンダーラ」や「マンキーマジック」が流れていたし
私自身にとって、とても平和に時間が流れた時期だった。

あの頃のあどけなく笑う自分を
なんの駆け引きもなく泣けた自分を
思いっきり抱きしめてあげたい。


高校生になり、浜田省吾を聴くようになった。
それからの思い出のシーンには、必ず浜省の曲がBGMになった。
「片想い」で泣き、「あばずれセブンティーン」に頷いた。
めいいっぱい背伸びをしていた頃、自分の存在を確かめ始めた頃。
滑稽なほどに直向きで、滑稽なほどに不器用で・・・。


父が亡くなった時、買ったばかりのCDがバッグの中に入っていた。
浜省の「FATHER’S SON」
『親子』がテーマの曲で、聴いて凹んだ。泣いた。泣いた。泣いた。

いつの時代にも、想い出と曲がリンクする。
泣ける曲、笑える曲、その時々、その曲それぞれ。



今年流行った曲を聴いて、10年後にどう感じるのだろう。
「あの頃は幸せだったのに・・・」ではなく
「あの頃からずっと幸せだよね」と思えたらどんなにいいだろう。

今年一番の我が家のお気に入りの曲
くずが唄った「生きているって素晴らしい」


 太陽に手を伸ばし 思い切り背伸びして

 空気いっぱい吸い込んだら よ〜しまた歩きだそう

 思い切り生きてやろう





10年後、又、家族で唄えたらいい。
今の気持ちを忘れずに、明日からも頑張ろう。



2002年12月10日(火) 12月の憂鬱 3

この「12月の憂鬱」には伏線があって、
今日は「休養」という名の有休中の出来事を書きたいと思います。



自宅療養をして2、3日した頃私はある人に電話をかけた。
昔つきあっていた人。当時は仕事の都合で在京だった。

突然の泣き声の電話にびっくりしたようで
それでも長々と話しにつきあってくれた。

そして、「気晴らしに東京まで遊びに来ない?」と提案してくれた。
母がどういうかと心配になったけれど、「あの人のところならいいよ」と快諾。
私は次の日の早朝から飛行機に飛び乗った。

東京は仕事の研修などで何度も訪れていたし、彼が仕事中は
ウィンドーショッピングをしたり、舞台を観に行ったりと一人で過ごした。
夜になり彼と落ち合い、美味しい食事をとりながら
これまでのことを機関銃のように喋った。

不思議な人だけれど、彼に話しを聞いてもらうととても落ち着く。
それは今でも変わらない。
何度もプロポーズされたのだけど、仕事に情熱を燃やしていた私は
「そのうちねぇ」などとのらりくらり


「結婚しようか」
その時言ったのは、私。
生涯で一度だけした自分からのプロポーズだった。
彼の即答はなかったけれど、なかなか好感触だと思った。

そして次の日、私達はディズニーランドへ遊びに行った。
私にとっては何度か目のディズニーランドだった。
仕事の研修の帰りには必ず立ち寄っていたし、その状況をレポートにして
会社に提出していたりもした。
サービスを学ぶならここ以上の場所はない。

二人で居るのに、私はそんな事ばかり考えた。
楽しむつもりで行ったのに、ちっとも楽しくなんかなかった。


そんな私に気付いてか、彼が帰りのバスで言った。

「結婚は無しにしようね。逃げてこられても幸せにはなれないから」

そう、私は彼に逃げようとしていた。
仕事から逃げ出したのと同じように。

あの時彼と結婚しなくて良かった。
彼が断ってくれたことに感謝している。 今は・・・。



自宅へ戻り、母に事の顛末を告げた。
「そう」とだけ言った母だったが、事はそれだけで納まらなかった。

数日後、彼から自宅に電話があった時、受けたのが母だった。
母は凄い剣幕で彼をなじったらしい。そして、最後に
「もう娘には電話しないで!」と。

母にとっては、私は宝物。
娘のプロポーズを断るなんてと思ったに違いない。

母と私は共依存の関係だった。
母は子離れができずにいたし、私も親離れができていなかった。
私の結婚の条件はずっと、親との同居が一番先の項目だったし
何より母がソレを望んでいたからだ。

だから本来なら彼との結婚は、娘を手放すことになるのだから
断られて喜ぶのかと思ったけれど、そう簡単なものではなかったようだ。
手塩にかけて育てた娘が、今、目の前で泣いている。
自分のしてきた事が否定されたと思ったに違いない。


それでもその後の私の人生を見て、
「あの人と結婚してたらねぇ・・・」と呟く事もしばしばだった。


結局、母は子離れできずにこの世を去った。
それを皆は幸せだと言った。
私が最期まで傍にいたから
最期の最期まで傍にいたから。

そして私も、母が亡くなるまで親離れができなかったのだ。
語弊があるかもしれないが、
3年前の今日が、私自身の人生のスタートだった。

母を送りすぐに迎えたお正月に、
あの彼から突然送られてきた年賀状で、二人は再会することになる。
お互いに別々の人生を歩いて、また巡り逢った。

あの時の彼が、現在の主人である。
母が巡り合わせてくれたのだろうか・・・・。


今日、母の大好きだったイチゴを仏壇に供えた。
あれからもう3年。
私の新しい人生がスタートしてまだ3年。

私達の笑顔を、母は喜んでくれているだろう。


2002年12月09日(月) 12月の憂鬱 2




店に入ることができなかった私は、そのまま自宅へ戻った。
母に嘘の言い訳で欠勤の電話をしてもらった。

布団をかぶり泣いた。
人員が少ないことは承知している筈なのに、
出勤できなかった自分を責めた。
だけどそれ以上にあの時の恐怖感が蘇る。

どうしていいか分からなくなって、ただただ泣いて過ごした。
次の日もその次も、私は仮病で欠勤を続けた。

思いきって店長の自宅へ電話をして、今の自分の状態を伝えた。
店長の返事は「わかった」とだけ、
すぐ本部長から電話があった。

「辞めたい」と言う私に
しばらく自宅休養をしてはどうかとの提案。そして、
少し落ち着いたら違う店舗若しくは、違う業種で勤務しても良いからと。

当時、私は社内で「希望のルーキー」と言われていた。
少ない女子社員とはいえ、その中でも昇格は早かった。
今考えれば、ただ単におだてられていただけの話しだけれど
その時は本当に、女子社員のパイオニアになるつもりだった。

とにかく、答えは1週間後まで出さないと約束をして本部長との電話を切った。
1週間は「研修」という名の有給休暇で、休養に充てなさいとのことだった。



結局、1週間後に辞意を伝えた。
再び土曜日になると恐怖感に襲われたのだ。
「土曜日」が怖かったのか「お客様」が怖かったのか分からない。

でも私は逃げ出した。
責任を放り出して逃げた。逃げた。

今更どんなに偉そうな事を書いても、逃げたという事実は消えない。




仕事を辞めてほどなくした頃、アルバイトの口を見つけた。
それは同じ客商売ではあったけれど、暇を持てあます程の職場だった。
バイトをしながらいつも頭を過ぎったのは、逃げ出したあの職場のことで、
どんどん近づいていく街のクリスマスムードが、自分自身を責め立てた。

あんなに少ない人員で、繁盛期の12月を、
クリスマスをどう乗り切るのか。
教えきれなかったアルバイト達、
伝えきれなかった店長への感謝の気持ち


逃げたのだ。逃げたのだ。
アルバイトから
店長から
その狭間での居心地の悪い空間から
仕事の重圧から
責任をすべて放り出して、逃げたのだ。


そして

本当ならあのイルミネーションの真ん中に居る筈だった自分。
戦場の最前線に立ち、皆を指揮する自分。
戦いが終わった後の充実感、それを全員で分け合う心地よさ。

自分から捨ててしまった物が、とてもキラキラ輝いて感じた。



いろんな事を考えて、自問自答して責め続けた。

その年のクリスマスイブのことは思い出したくもない。
でも忘れられずに10年以上がとっくに過ぎた。
今年もクリスマスソングが流れてくると、また思い出している自分が居る。


今でもクリスマスは苦手だ。
今でもまだ、言い訳を探している。
自分に非があることは分かっているのに、
それでも自分を許すための理由を・・・。






2002年12月08日(日) 12月の憂鬱 1




街がクリスマスのイルミネーションで彩られる12月は
心が浮き足立つ人が多いと思う

でも、私はそうじゃない。
12月はつらい。

母の命日がやってくる。そして、
自分を許す為の言い訳を探す作業が待っている。

ここでも何回か書いてきた職場を、
逃げ出したことを思い出させる。



私が勤めていた会社は、12月が一番の繁盛期だった。
それもクリスマスイブは戦場と化した。(そう書けば想像がつくかしら?)




その年の2月に店長の交代があり、同時に私は副店長に昇格した。
少ない社員の店舗では、社員同士の相性がとても重要になる。
決して店長と私がうまくいかなかったわけじゃない。
でも、人と人の狭間でクッションになるのに疲れてしまった。

仕事に対して、人と人との上下関係に、とても厳しかった店長は
アルバイトから恐れられ、次から次に辞めていく。
新しく入ったバイトがやっと仕事を覚えてくれたと安堵した時、
店長に怒鳴られて次の日には出勤しない。そんな事はざらだった。

その怒鳴り方は、確かに恐怖感を植え付けるのに充分だった。
私自身何度も怒鳴られ、恐怖に身体が震えたほどだ。
だけど、プライベートではとても優しい人だった。
正義感の強い、男気のある人だった。

店長と社員、そしてバイトとの潤滑油になるのは私だと思っていた。
店長の優しさ、厳しさ、人間性を下に伝える。
そうすれば滑らかに店舗運営ができる。


だけど二十歳そこそこの私に、その役目は重すぎた。
どんどん辞めていくアルバイト、社員からも脱落者が出た。
少ない人員での店舗運営に、通し(8:00〜0:00)でのシフトもざらだった。
そんな状態なのに、どんどん12月が近づいていた。

11月のある土曜日、早番の私はいつものように仕事をしていた。
当時の土曜日は、学校が休みではなかったから学生アルバイトも少ない土曜日。
厨房には古株のバイト1名(何度か掲示板にも登場してくれていたりする)、
カウンターにはバイトを初めて1週間の女性1名と私。
午後2時まで堪えれば増員という強行シフト。

なのにそんな少人数の日に限って、お昼のラッシュは想像を超えた。
次から次へと商品が切れ、こなしてもこなしてもお客様はやって来た。
お客様一人当たり、1分30秒がマニュアルでの制限時間である。
二人待ちなら3分、三人待ちなら4分30秒。
だけどマニュアル通りになんていかない。こちらの体勢が整っていないのだから。

どんどん重ねられていく伝票、ウェイティングがかかる商品、
フライヤーとカウンターとパッキングテーブル(商品詰め用のテーブル)を
右往左往しながらふと顔を上げると、外が見えなかった。
全てがガラス張りの店舗なのに、外が見えない。
お客様が二重にも三重にもなっていて、外の景色を遮っていた。


足が震えた。
恥ずかしい話しだけれど、足がガタガタと震えだした。
店長に怒鳴られるより、より強い恐怖感に襲われた。

今でもその光景は忘れない。
お客様の冷たい視線が突き刺さる。
一人ではない。二人でも三人でもない。
その場に居たお客様全員の視線が、私に突き刺さっていた。
正直、その場から逃げたいと思った。
本当に逃げたかった。だけど逃げることはできなかった。


後から出勤した店長に、泣きながら報告した。
副店長としては失格だろう。だけど泣かずにはいられなかった。


それから1週間が経ち、また土曜日がやってきた。
私は午後からの出勤だったのだけれど、
店の駐車場まで行ったのだけれど、
とうとう店に入れなかった。
土曜日が恐怖だった。




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