たそがれまで
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2002年11月27日(水) 教えると云うこと 3 人の器




メールを頂きました。
短いメールでしたが、主旨は受け取れたと思います。
どうもありがとうございます。メールで返信をとも思ったのですが
長文になりそうでしたので、日記の中で失礼します。
「教えるということ」でいろいろ書いてみたのですが
補足という形で、お返事させて頂きます。



教える側がどんなに頑張ってみても、どうにもならない人は確かにいます。
本人にやる気が無いのか、その職業に適正が無いのかどちらかです。

前者の場合はやる気になって貰えばいいのですが、
これも簡単ではありません。
仕事の面白さを説き、、重要性を認識させ、
達成意欲等を刺激するのといいのでしょが、これがなかなか・・・。



後者の場合、やる気はあるけど適正が無い人が実は一番やっかいですよね。
「人の器」の容量を超えてしまったら、教えてもどんどんこぼれてしまいます。
本人のやる気があるだけにフォローも大変です。

それ以上どうしようもないのかと言われれば、そうかもしれません。
「あなたは向いてない」と言ってあげるのがその人の為。
そうアドバイスを貰ったこともありました。


でも、私は言えませんでした。
縁あって同じ職場で仕事をすることになったのだから
その縁を大切にしたい。
その職場で仕事をしていた事を、嫌な思い出にしてほしくなかったのです。
それは店舗を運営していくという立場から考えると、失格なのかもしれません。

器の容量を推測することは大切だけれど、
それを決めつけて、押しつけることはしたくありませんでした。
それでなんとか適所を見つけ、後は使う側の問題だと、
自分の力量が試されているんだと、自分に言い聞かせました。
でも本当は、「教える」ということの壁を
見たくなかっただけかもしれません。



理想論ですか?
おそらくそうだと思います。

現実にすべてが上手くいったわけではありません。
どうして伝わらないのかと、悔しくて、悲しい想いもたくさんしました。
そして、私に教えて下さった方もそう思われていたかもしれません。

「教える」ということは決して形に残る仕事ではありません。
筋書き通りに進むことは皆無だし、でもだからこそ面白い。




仕事を辞めて何年も経った時、偶然にアルバイトをしていた子に逢いました。
名前を、顔を覚えていてくれただけでも嬉しかったのです。
銀行に就職をして窓口業務をしている彼女は、お辞儀の姿勢を誉められると
話してくれました。「バイトしていた頃、しごかれたからですね」と笑って・・

彼女の人生のほんの一部分にでも関われたこと、
その時間の中で何かを吸収してくれたこと、
そしてそれを伝えてくれたこと。
ありがとう。





2002年11月22日(金) もう一人の母のこと  




「もう一人の母」について書き出したはずなのに
なかなか書くことが出来ずにいます。
何度も下書きをし、読み返してみるのだけれど
言葉が気に入らなかったり、内容そのものが嫌だったり。

「母のこと」を書いた時のように、もっとスラスラと書けると思っていた。
胸の中にわだかまっていたものを一気に吐き出した。
でも今回はそれが出来ない。

決してきれい事にしようとは思わないのに、
だから書けないのかも知れない。ね。


昨日、何気なくテレビを見ていたら
ノーベル賞を受賞した田中さんの特集番組が始まった。
それは国営放送で、ひっそりと放送された感がある。

彼は生後間もなく養父母に引き取られたそうで、
18才までその事実を知らずに育ったらしい。
彼のお母様は産後の肥立ちが悪く、彼を産んですぐに亡くなったとのこと。
その母への思いが「医療」への貢献である世紀の大発見へと繋がったらしい。

その事実を知った時、とてもショックが大きかったらしい。
彼はこう言っていた。
「今までの自分は何だったんだろう」
自分の存在を否定されたのだと思う。
自分の存在を自分自身で肯定できなくなったんだ。

ふっきれるのに何年もかかり、大学生活はその為の時間に費やされた。
偉大な発見を成し遂げた彼でさえそうだったんだ。
ふと、嬉しくなった。
失礼な言い方かもしれないが、嬉しかったのは事実なんだ。




まだまだ上手く言葉にできない。
「もう一人の母のこと」はぼちぼち更新していきます。



2002年11月13日(水) もう一人の母のこと




私が自分で養女だと知ったのは、高2の夏休み直前だった。

アルバイト先で住民票を持って来るように言われ
そのことを母(養母)に告げた。
みるみるうちに母の顔は険しくなり、強く強くこう言った。
「そんな物を持って行かなければならないバイトなら、しなくていい。」

確かに、充分な小遣いは貰っていたから
何が何でもアルバイトが必要ではなかった。
けれど、学校の教室に私は居心地の良さを感じられなかったのだ。
自分の居場所を探していた。

次の日、「もう住民票はいらないらしい」と嘘をつき
自分で役場へ行くことにした。

初めて一人で訪れる役場
人に尋ねながら提出書類を書き、申請をする。
待ち時間が長かった。と今はそれしか覚えていない。

受け取った住民票を見た瞬間
書かれている事実が把握できなかった。

養女

そう書かれた意味が飲み込めなかった。
現在は戸籍を撮らなければ、そのような記載は無いならしい。
だけど20年前のそれには、確かにはっきりと記載されていたのだ。

母が怒った理由がわかった。
嘘をついて来てしまったことが、悔やまれて仕方なかった。

帰りのバスの中でいろんな事が頭の中を錯綜した。
血の繋がりが無い?
母と?
父と?
いつも優しかった祖母も?
可愛がってくれてる伯母も?

涙が溢れてきた。
バスの中なのに、
一人きりじゃないのに。

私が過ごしてきた16年が
音をたてて崩れていった。




家に戻った私は、部屋に閉じこもった。
母の顔を見られなかった。
泣いた顔を見せられなかった。
そして何よりも嘘をついたということを
気付かれたくなかったのだ。


その時、母には分かっただろう
私が知ってしまったことを。
それでも何一つ言わなかった。
私も何も言わなかった。

遅い夕食を一人ですますと
いつもの母娘になる努力をした。
いつもの家のいつもの部屋が
フィルターがかかっているように思えた。



それからの私は居場所と同時に
自分の存在意義を見つけるという大変な作業が待っていた。




2002年11月12日(火) ありがとう



昨日、故郷で花屋を営んでいる知人に電話をかけた。
「明日、届けてもらいたいんだけど・・・」

選んだ花はシクラメンの鉢植え
色も大きさもおまかせにした。

メッセージはなんて書く?との問いに


「36年前の今日に ありがとう」


そう書いてもらうことにした。
今日は私の誕生日。
36年前に私を産んでくれた母に贈る、シクラメンの鉢植え。




私の手元に母子手帳がある。
36年前の私の物。

母親の名前の欄の全てに、同じ色の紙が貼られている。
そしてそこには養母の名前が几帳面な字で書かれている。


何も疑わずに16年を過ごし
ある日私の信じてきた世界が崩壊をした。

母親の欄に紙が貼られていることが普通だと思っていた16年間
一度も紙を剥がそうなどと思った筈もなく
初めて紙を剥がそうと試みた、17才が間近の夏。

養母の名前の下には、霞んで見えづらくなった実母の名前があった。
あの日から私には母が二人になった。


なぜ?
どうして?


疑問文だけが頭の中に蔓延った。
恨んでいるわけじゃない。
だけど、なぜ? どうして?

考えても答えなど出る筈もなく
あれから20年が経ったのだ。


実母は元気でいる。
逢おうと思えばいつでも逢える。
それは養母がそういう環境を整えていてくれたからに他ならない。

決して表舞台にでることは無い母である。
結婚式も養父母の葬儀の時も、ずっと陰で支えてくれた。
わかってる。 わかってる。

披露宴で晴れがましく花束を渡せなかったから
控え室でそっと渡した。だけど、
ちゃんとちゃんと渡したかったんだ。
あなたに、ずっと・・・。



産んでくれてありがとう。
見守ってくれてありがとう。

今、こうやって幸せを噛みしめていられるのは
あなたがいてくれたからだと思う。

誕生日、ありがとう。



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