たそがれまで
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2002年10月24日(木) 人それぞれ



幸せってなんだろうね。

人それぞれに違うから

やっかいだよね。

でも

だからこそ掴まえて

正体を暴きたくなるよね。







随分前に友人と話した時の会話

しみじみと感じた一日でした。



2002年10月19日(土) 教えると云うこと 2




新規オープンのヘルプを何回もこなすうちに、段々と要領が掴めてきた。

始めに、相手の気持ちをグっとこちらに引き寄せることがコツだと思った。
「怖くない人」だと云う第一印象を持ってもらえばこっちのもの。

面白い話しの一つでもして、クスっと笑わせる。
その時の小さな笑顔に
「それよ、それ、その笑顔よ〜!」
自分でもオーバーだと思うくらい褒めちぎってあげちゃう。 
もうこれで笑顔はOK。
時間が経てば、だんだん笑顔が大きくなっていく。

だけど最初の頃は、これで失敗した事もある。
「怖くない人」と思われて、すっかり甘く見られてしまった。
「怖くない人」と「厳しくない人」は違う。
締めるところは締めないと、後々が大変になっていく。



仕事は最高のレベルを教える。

これは先輩の信条だった。
人間は慣れてくると、少しでも楽をしようとするから
自分のやり方、手の抜き方を考え、実行する。

そう云われれば、そうなのだ。
仕事に慣れてくると、どうやって楽に終わらせるか、省けるものは何かを考える。
たちの悪いことに、それが結構無意識だったりする。

だから、要領なんて教えなくていい。
あくまでも基本に忠実に、正確に。
なぜそうしなければならないかも、説明する。
その時は解らなくても、後で必ず必要な時がくる。

特に既存の店舗で仕事を教える時ほど、要注意だと彼女は言った。

「本当はこうだけど、みんなはこうやってるよ」
などと教えてしまうと本人は???の連続になる。
即戦力が欲しいならば、敢えて基本に忠実であるべき。

要領やコツは、その人が時間をかけて見つければいい。
なぜそうしなければならないかを聞いているから、
どこまでなら手を抜いていいか自分で考えて実行できる。


私は先輩にたくさんの事を教わった。
話してくれた事もそうだけれど、私に話すその話し方、
バイトの子に教えるその姿。
私はそれすらも見逃さなかった。


なんでも自分に置き換えてみる。
どんな事からも勉強はできる。


「教えると云うことは、自分自身が成長できること。
 もっと成長したかったら、どんな事からでも学ぶこと。」


私は先輩のようになれたのだろうか。
でももう、10年以上も前のお話し。




2002年10月17日(木) 教えると云うこと 1



ある新規オープンのヘルプに出かけて
新人女子社員が先輩に言った。

「担当のバイト、覚えが悪いんです・・・・
 もう毎日クタクタ」

先輩女子社員が鼻で笑う。

「あのねぇ、それは禁句だよ。
 覚えが悪いんじゃなくて、教え方が悪いの!
 自分は無能ですって言ってるのと同じことだよ。」

決して意地悪ではない言い方で、ズバリと核心をつく先輩女子社員。
二の句が継げない後輩は、バツの悪い顔した。

新規オープンの店舗では、普段バラバラに勤務している女子社員が
一同に顔を揃え、短期間でバイトに仕事を教える。
僅か1週間と云う時間で、全ての仕事をたたき込むのだ。
一人が何人かのバイトを受け持ち、基本から応用までの流れをたどる。

何度同じ説明をしても、しどろもどろのバイト達。
もう時間が無いと云うのに、新人社員はあせりだしつい感情的になっていく。

あははっ、新人社員はこの私。
仕事にやりがいを感じ突っ走るだけの頃の話し。
そしてそのやりがいが、空回りしてることに気がついてない。


「人に教えると云うことは、まず自分が勉強しなくちゃ」

夜の宿舎で先輩にアドバイスを受ける。

「何か質問されたらどうしょう、なんて、ドキドキしながらじゃ
 教えられないでしょう?  自分に余裕がないとダメなの!
 余裕がある人は素敵に見えるじゃない?
 あんな人になりたいと思われなくちゃ〜ね。」

う〜ん、確かに自信満々のこのアドバイスに私はすっかり乗せられた。
「こんな社員になりたい。」
目標決定の瞬間だった。

次の日の研修時間から、私はちょっとだけ胸を張った。
今まで自分が勉強してきたことは、間違ったことじゃないんだから
無理矢理「余裕」をかもしだし、・・つまりはハッタリだったのかも。

人に何かを教えると云うのは、いい加減にできることじゃない。
いい加減なことしか教えられなければ、いい加減な仕事しかしてもらえない。


教え子の質は、教師の質
つまり、部下の質は、上司の質。
鏡なんだよね。


2002年10月15日(火) 伝えることの大切さ




私が勤務していた店舗は、ショッピングセンターが隣接していたので
そこの従業員の方達が、いつも休憩時間に立ち寄って下さっていた。

ある日、顔なじみのお客様がコーヒーを飲みに来店された。
砂糖もミルクも使わない、いつものブラックで提供した。
いつもと同じ、いつもの風景。

そのお客様が帰られた後、トレーの上に1枚のメモが置いてあった。

「いつも笑顔とコーヒーをありがとう。
 今日限りで移動になるから、もう来られないのが淋しいです。」

ほんの2行だけの手紙。
すぐに追いかけたけれど、見失ってしまった。
あまり話したことはないお客様だった。
だけど毎日来て下さっていたから、席もオーダーも覚えていたお客様だった。

社員に成り立ての頃だった私にとって、その手紙は宝物になった。
仕事専用のファイルに挟み、いつまでも大切に持っていた。


時々、とても嬉しい言葉をかけて頂くことがあった。
「美味しかったよ」「元気がいいね」「又、来るね」など・・
その度に気が引き締まり、一層仕事に力が入る。


良いお客は 良い店員を作る

まさにその通りだと思う。そして逆も真なり。

悪いお客は 悪い店員を作る。のだ。

いつも悪態をつくお客様が居た。
そのお客様が来店されると店内の従業員がピリピリする。
今日は何を言われるのだろうと考えると、接客にあたるのが嫌になる。
接客しても笑顔が強ばる。いつもならしなくていいミスをする。
悪循環である。



私はプライベートでも、あちこち食べ歩きをした。
美味しい食事も楽しみだが、職業柄、店員の接客態度ばかりが気になった。
アラを探してやろうとする私は、正しく悪い客であった。

みだしなみ、笑顔、清掃の具合、提供時間。
まるでその店を採点するかのように、アラ探しをして回った。
でもそんな事をしたところで、美味しい食事にはありつけない。

ある時、レポートを書くためにファイルを開いた。
あの時の手紙がまだ入っているのに気が付いた。
手紙を貰った時、凄く嬉しかった。だからこそずっと持っていた筈だ。

私も良いお客になろうと思った。
アラを探すのではなく、良いところを探して自分の店にも役立てよう。
そんな気持ちになった。

それから店に備え付けの「お客様カード」には積極的に感想を書くことにした。
勿論、良い点を少しだけオーバーに誉める。
誉めた方がこちらの気持ちも良いのである。これは病みつきになった。


ある日、繁華街で待ち合わせをしていた私は、少しの時間を潰さねば
ならなくなって、洒落たコーヒーサロンに入った。
色とりどりの可愛いケーキが並んでいた。
お冷やのグラスを持って来てくれたウェイトレスは、まだ会話がぎこちない。
多分、新人さんなのであろう。

ケーキセットを注文し、ケーキはあなたのお薦めを持って来てほしいと告げた。
一瞬、たじろいだ彼女であったが、すぐに裏へ引っ込んで行った。

彼女が持って来てくれたのは、チーズケーキ。
私は好き嫌いなどないので、喜んで頂き、コーヒーを飲み時間を潰した。

ふと自分が貰った手紙の事を思い出し、コースターの裏にメモを書いた。

「美味しいケーキを選んで下さってありがとう。
 とても笑顔も素敵ですね。又来ます。」

店を出てすぐ、後ろから呼び止められた。どうやら店の支配人の方らしく
深々と頭を下げられて、丁寧に手紙のお礼を述べられた。
こちらの方が恥ずかしかった。

自分のしたことを誇示するつもりはないが、これから彼女はきっと
自信を持って仕事をしてくれるだろう。
もしかしたら、とっても良い店員を私が作れたかも・・
これは少し自画自賛か


伝える事が大切なんだと思う。
嬉しかったこと、感謝したこと。
伝えなければ、きっと届かないから・・・・


良いお客が 店員を作る。
そして、良い店員が 良いお客を作るのだろう。



2002年10月13日(日) ミスから学ぶこと



アルバイトと社員の大きな違い
それは「責任」である。
アルバイトに責任が無いと云わないが
社員とは雲泥の差だ。

店舗内ではお客様から様々なクレームが出る。
商品そのものへのクレーム。
提供時間へのクレーム。
接客した者へのクレーム。

中には明らかに、お客様側に落ち度があるものも混じってはいるのだが
忍の一字でぐっと堪える。

ある時、アルバイトが間違った商品をお客様に渡してしまった。
明らかに店側のミスである。それも初歩的な恥ずかしいミス。
帰宅途中に気が付かれたお客様は、再び来店され、ミスを指摘された。
商品を渡したバイトの子がまだ勤務していたので、すぐに詳細は把握できた。
バイトに謝罪させ、私も責任者として頭を下げた。


まずクレーム処理の第一歩は謝罪である。
それもバイトであろうがなかろうが、当事者の謝罪から始まる。
お客様にとってはバイトも社員もない。
店内にいる制服を着ている従業員は全て同じ店員なのだ。

次に社員が謝罪する。例えどんなに小さな出来事でも、必ず報告して貰っていた。
明らかにこちらに落ち度が無い場合でも、まずは謝罪が原則だ。

そして、お客様の主張を最後まで聞かせて頂く。決して途中で、話しの腰を
折ってはいけない。最後までじっくり聞かせて頂く。
その上でこちら側にも主張があれば、やんわりと主張する。




その時はこちら側の主張などない。明らかに他のお客様に渡すべき商品を
お渡ししてしまったのだから。丁重にお詫びを述べ、商品を取り替える。
お客様は一頻り苦情を述べられて店を後にされた。

だけど忘れてはいけない。納得して頂いたとは思ってはいけないのだ。
本当にお客様が納得して下さるのは、次回以降の来店にかかっている。

次に来店された時、又同じミスを犯してしまうなんてもっての他であるし
通常に受け渡しを行って当然な行為なのだ。

しばらくした頃、あのお客様が来店された。
前回のご来店でミスをしたバイトの子も私もすぐにピンときた。
別のバイトが接客にあたっていたので、私は前回ミスをしたバイトの子に
お客様から見えないところで耳打ちをした。

「あのお客様には○○さんが商品を渡しに行ってくれる?
 そして、先日は申し訳ありませんでした。と言ってくること。
 もしも又怒られるようであれば、私も行くからね。
 行ける?」

彼女は気が進まないだろう。でも、ここで逃げちゃいけない。
今日逃げてしまうと、次回からあのお客様が来店された時
裏に逃げ込んでしまうかもしれない。だから、今日のこの時が大切なのだ。
一応、彼女の気持ちを優先させたつもりだ。
もしも断られたなら自分で行くつもりだった。

商品を恐る恐る持って行く彼女。
直接声は聞こえないが、丁寧にお辞儀をして渡している。
お客様が笑顔で何かを言って下さっている。
ふと遠くにいる私と目が合った。私もお辞儀をし、感謝の気持ちを伝える。

後から聞くと、
「覚えていてくれてありがとう。又来るね。」と言って頂けたそうである。
ここで初めて、一つのクレーム処理が終わったのだ。
彼女は嬉しそうだった。私もそう言って頂けたことに感謝した。


ミスは誰にでもある。勿論無いに越したことはないのだが、必ずある。
そして問題はそのミスを繰り返さないように努力すること。
だけど、ミスをした事を自分の負い目にしてはいけない。
そこから何かを勉強しなくては、ミスはただのミスのままである。


それから、そのお客様は来店されるたびに彼女を目で探しておられた。
「今日はお休み?」と尋ねられることもあり、そのお客様のお気に入りの
店員になったようである。
逃げなかったから、そういう関係が築けた。
ついでに私まで目にかけて頂いた。接客業冥利につきると云うものだ。


学校を卒業して彼女はアルバイトを辞めた。
就職先には大手の百貨店が内定していた。
身だしなみも礼儀も笑顔も満点の彼女だったから
良い店員になれるだろう。
そして、「ミスから逃げない」と云うことを学んでいるのだから
彼女の接客業人生は明るいと思う。


2002年10月12日(土) 笑顔の効果


私は高校時代から某ファーストフードでアルバイトを始めました。
いわゆる「接客業」、もしくは「サービス業」と呼ばれる職種です。

まず最初に何を習うかと云えば、
身だしなみと笑顔です。
それから業務にまつわるアレコレを実習していくのです。

私はその仕事が好きでした。自分に向いているとも確信しました。
だから高校を卒業と同時に社員として就職しました。
(第一志望の試験には見事に落とされてしまったと云うのも理由なんですが)

それからは店舗運営に携わる仕事です。
私の一番の仕事は「アルバイト生の教育」でした。
新人アルバイトは勿論のこと、現在働いてくれているバイトの子の
スキルアップも必需でした。

大手のファーストフードやファミレスで働いたことがある人はお解りでしょうが
教育はそれなりにシステム化されていて、ステップを踏んでいけばある程度の
レベルにまで達することができるようになっていました。

だけど、なぜかしら人によって「差」が生じるのです。
その人の持つ特性も、性格もあるでしょう。
でも一番大きな要因は「本人の自覚とやる気」です。


就職して何年か過ぎた頃から、他店舗のバイト生も集めて講習会なるものを
開催させてもらいました。講師は二人、先輩の女子社員と私でした。
そこで徹底的に指導したのが「笑顔」です。
バイトを始めたばかりの新人さんから、勤続10年のパートさんまで
スキルに差がある方の集合でしたが、なによりの優先事項は
「笑顔」を置いては他なりません。

マクドナルドのプライスカードにも「スマイル ¥0」とありますが
(私はマックの社員ではありませんでした)、笑顔は平等にどのお客様にも
差し上げねばならない原価0円の商品です。

人間は喜怒哀楽のある動物で、嬉しい時も悲しい時もあります。
が、どんな状態においても勤務中は「笑顔」で居て貰わなければいけません。
はっきり書きましょう。

笑顔は訓練です。

悲しくても笑えます。これは訓練次第です。
忙しくても笑えます。これも訓練次第です。
嬉しくても笑えます。これは自然と湧き出ます。
そして、怒っていても笑えます。 これが一番難しい。
だけどできます。必ずできます。プロならば・・・

確かに本来の心の底からの笑顔ではないかもしれない。
でも形からでいいのです。まずは笑顔の形を作る。
そして後から心を含ませていく。

鏡に向かって笑って下さい。
口元は「い」いらっしゃいませの「い」
目に力を込める。(最近は目力と云う言葉が流行ってますね)
目尻を下げる。と云うことは頬が自然と上がります。

さあこれで出来上がり。
まずは形からでいいのです。


なぜ笑顔を差し上げるかって
それはお客様が下さる代金が、私達のお給料として支払われている以上
私達は、最高に良い物を良い状態で提供したい。と思っているからです。
いや、提供しなければならないからです。
それはかならず売り上げとして反映されます。
そして周り回って、私達のお給料や志気にも反映されるのです。

笑顔は他人との距離を縮めてくれる効果があります。
安心して頂けると云う効果もあります。
貰った人が元気になると云う効果もあります。
それが原価0円なのです。

お客様に商品と共に心地よさを提供する。
それがサービス業の原点なのです。


だけどそれって、サービス業に限ったことでは無いはずですよね。
自分の生活の中にも、必ず当てはまる場面が有るはずです。
だらしない笑顔ではなく、爽やかな笑顔。
日常生活でも職場でも必需品だと思います。






2002年10月11日(金) 母のこと 15  そして、おわりに・・



母がなくなって半年が過ぎた頃、
私達親子は、相変わらずの毎日を送っていた。

私は仕事を増やし時間に追われ、
上の息子は小学生になった。

そんな頃、1枚の葉書が届いた。


その後、皆様お元気でしょうか?
退院された患者さんのその後の調査をしております。
近況をお知らせ頂けたら幸いです。




それはワープロで打たれた機械的な文字だった。
その下に小さく、手書きの文字が書いてある。

「みかちゃん」と呼んで下さった
お母様の声が忘れられません。
お元気であってほしいと願っております。




どうもありがとうございます。
元気ですと返事をしたかったけど
少しだけ遅かったです。

随分と迷ったけれど、返信はしなかった。

関係ないと云われた病院に
近況を知らせる義務などない。


まだ拘っていた自分に戸惑う・・・



心の底から「お世話になりました」と
伝えたかったのに、本当は。
心の底から「ありがとう」と
伝えたかったろう、母も。

看護をしてくださる方々が
感謝の気持ちを求めているとは思わないけど


患者はみんなそう思っている。
家族もみんなそう思っている。







      *************************






拙い文章を読んで頂いてありがとうございます。
「母のこと」は今日で終わりにしたいと思っています。

母が亡くなって時間が経ったけれど
ずっと何かが引っかかっている気がしていました。
そんな気持ちを吐き出す場所を探していたのかもしれません。

医療や看護に対して知識があるわけもなく
記憶に頼って書き始めたので、正確さを欠く記述もあったと思います。
後から後から書きたいことが浮かんできて、最後まで
まとまりのない文章になってしまったことに反省しつつも、
ただ患者の家族としての感情を書きたかったと云うことで
どうぞご容赦下さい。

本当にありがとうございました。
皆様のご健康をお祈りしております。

                 2002.10.10



2002年10月10日(木) 母のこと 14



人生の最後の4年間を、病院と云う空間で過ごした母。
それは母が望んだことじゃない。

娘である私が、看取ってあげることができなかったから。
だけどこの複雑な社会の中においては、よくある状況だと、
自分を正当化させてしまったけれど・・・。

自宅で息をひきとる方より、
病院でその命を終える方が圧倒的に多いと云う事実。、
この高齢化社会においては、致し方ないのかもしれない。




長い「医療」とのつき合いの中で思うことは、
病院と、その中で医療に携わる人と、
患者と、その家族の関係は
綺麗な正方形であってほしい。

患者が、その家族が、きちんと意見を伝えられる場所であってほしいし、
正しい情報を得られる場所であってほしい。
インフォードコンセントが叫ばれてはいるけれど、
母と私にしてみれば、それは事務的でしかなかったし
患者側の出す答えは全て下書きがしてあった気がする。

そして介護を行う場所には、人としての温もりが存在していて欲しい。
介護を受けるのも、介護をするのも血が通った人なのだから。
と思いつつ、患者側は『聖職』としての看護を期待してしまう。
・・・・それは矛盾してますね。








長々と、「母のこと」を綴ってきたけれど、
どうしても誤解してほしくないことがある。

母は感謝していたし、
私も感謝をしていた。
毎日見るナースの方達の仕事は、とても忙しそうで、重労働で
本当に頭が下がる思いなのだ。

「やりがいがあるから頑張ってるんです。」と
みかちゃんが言ってた事を思い出す。
だけど端から見ても、「やりがい」だけじゃ片付けられないほど
大変な労働であることがよく解る。
敢えてその中で仕事をされている全ての方へ
本当にお疲れさまです。そして、ありがとうございます。






母が長い闘病生活を余儀なくされたことは残念だけど
その中で多くの事も学ばせてもらった。
「命」には限界があり、必ず尽きる日が来ると云うこと。
その日とどう向き合えるかは、毎日の積み重ねだと云うこと。



そして、小さい頃から祖母の闘病を目の当たりにしてきた子供達には
「弱者を助けたい」と云う小さな種が心に植わっている。

祖母にお茶を飲ませる為に、楽のみを取り合い
車椅子を押す為に、順番を決めるじゃんけんをし、
自然に腕を支えてあげて、自然に口を拭いてあげる。
まだ小さかったのに、立派に看護ができていた。


先日、親戚のお見舞いで病院を訪れた時
エレベーターの前で車椅子に乗って困っているお婆さんに代わり
ボタンを押してあげていた息子を見た時、
ドアが開き、一生懸命ドアを押さえてあげていた娘を見た時、
祖母の闘病生活で得た優しい気持ちを再確認させられた。


「大きくなったら看護士になる。」っと、6才の息子は言っていた。
テキパキと仕事をこなす、男性の看護士さんがカッコ良かったらしい。
車椅子の押し方を優しく教えて下さったりもしたっけ。
例えそれが本当にならなくても、彼の心には「優しさ」と云う種が植え付けられた。
とても嬉しい。本当に嬉しい。

それは目の当たりにした看護士さん達の暖かさであり、
祖母である母が、孫へ伝えてくれた愛だと思う。



今でもたまに口にする。
「僕、看護士さんになろうかな」と・・・・








2002年10月09日(水) 母のこと 13



母は最後の手術を受けてから、1年半後にこの世を去った。
それは手術のせいではなく、心配されていた腎機能が
著しく悪化したことが原因である。

それでも余命半年と宣告を受けてから、2年半が経っていた。
骨折し入院してから、4年以上が経っていた。

長い入院生活で、母も辛かったろうと思う。
どれだけ自宅へ戻りたかっただろうと思うと、
最期までの親不孝に心が痛む。


最期の日、「今晩がヤマのようです。泊まられますか?」との問いに
「はい」と答え一旦自宅へ戻った。
子供達を預けに行かなければならなかったのだ。
夕食を作る時間も惜しく、子供達と3人で外食をした。
近所に最近できた回転寿司のお店、息子のリクエストだった。

食べている途中で、病院から連絡が入る。
早く、早く、来た方がいい。


慌てて駆けつけてみると、母はまだ微かな寝息を立てていた。
私が到着して30分程すると、ベッド脇にある心電図が直線をたどった。
先日、ドクターに「積極的に延命をするなら、方法はあります。」と
言われていたのだが、伯母と相談して断っていたのだ。
こうなることは覚悟していた。
もう2年半も前から・・・


母は安らかに眠るように逝った。
最期は苦しまずに眠った。
私は一筋の涙がこぼれたけれど、それ以上は泣かなかった。

まだ暖かい母の頬を撫でながら
「これでやっと痛くなくなったね。良かったね。」と声をかけた。
心の底からそう思った。
居なくなった寂しさより、苦痛から解き放たれたことを喜んだ。

冷たい娘なのだろうか。
泣かない娘を見て、親戚は、ナースは、どう思ったのだろうか。
でも、私は正直にほっとした。
もう母の痛がる姿を見なくてもいい。
何もしてあげられない自分を責めずにすむ。

居なくなったことが寂しく感じるのは、
もっと時間が経ってからだと云うことが後になって解った。
嫌と云うほどに・・・



あれから、一度もあのお店に行けずにいる。
あの回転寿司のお店。
息子にいなり寿司のお皿を取ってあげた瞬間に
私の携帯が鳴ったから。


2002年10月08日(火) 母のこと 12



近所の総合病院で、人工骨頭を抜く手術を受けた。
くしくもこの病院は、骨折した時に救急車で運ばれて
人工骨頭を入れた病院でもあった。

親戚が何人も入院したことがある病院でもあり、母自身も3度目の入院。
勝手はすべてわかっている。
黄色の白衣を着たナースと一緒に、総合病院の門をくぐった。

余談だが、やはり黄色の白衣はとっても目立った。
外来の患者さん達が、いちおうに彼女を振り返っていたもの。
嫌だったろうなぁ、今でも黄色の白衣なんだろうか・・・


ドクターと手術の打ち合わせをし、3日後に決まった。
糖尿病の血糖値や、腎機能にも配慮しながらゆっくりと看護計画が
立てられていた。

私は一人でジタバタしていた。
もしかして、この手術で全てが終わってしまうかもしれない。
そんな不安と闘っていた。



手術は一応成功だった。
ドクターは私の心配をよそに晴れ晴れした顔で説明をして下さった。
確かに、手術は成功だった。
だけど私の心配はこれからのことだった。
術後の経過、それが全てだった。

何事もなく1日が過ぎ、3日が過ぎ、1週間が過ぎ、
ベッドの柵に手を抑制されつつも、傷口は順調に快復していった。
だが術後2週間を過ぎた頃から、微熱が出た。

「きたか」と云うのが正直な感想だった。

あの時のように、ドクターに宣告を受けるのは耐えられない。
そんなふうに、私の思考は悪い方向にしか向かわない。
だが、母の微熱は2週間後には平熱に下がった。
一番ほっとしたのは、きっと私である筈だ。

病院では前にいたナースの方が母を覚えて下さっていて、
何かと私の身体まで気を使ってくれる。
そんな暖かさが嬉しくて、すぐに目頭が熱くなる。
母の長い入院生活で、私の涙腺までゆるくなってしまった。


不安ながらも、3ヶ月間何事も起こらずに入院生活が終了した。


施設の車と黄色い白衣のお迎え付きで、再び、老人医療施設へ向かった。
戻りたかったような、戻りたく無かったような、複雑な気持ち。

だけど母は黄色の白衣を着たナースを見て、ニッコリ笑った。
そうか、視力の低下した母でも、黄色ははっきりと認識できるのか。
だから、黄色なのか。老人医療の施設だからか・・・
そんなくだらないことが頭を過ぎった。

そうか、意味があったのか・・・  
センスとは違う次元の話しで良かった。



2002年10月07日(月) 母のこと 11



転院して1ヶ月、思いもしなかった事態が起こった。



「人工骨頭を入れている周りが膿んでいます。
 痛みを伴っているようなので、いっそのこと取ってしまわれませんか?」



「つまり、それは、手術が必要だってことですよね?
 あの・・手術に耐えられないのではないでしょうか・・・」


「大丈夫でしょ〜。後はSWと相談してね。」


ドクターとそんな会話を交わしたのだった。
私の頭は混乱した。
だって、
体力が持つの?
MRSAだったけどいいの?
本当に必要な手術なの?


だいたいこのドクターは、母がMRSAであった事を知っているのだろうか
転院する時に持たされた、これまでの病状が記載された手紙には、MRSAの
ことが記入されていたんだろうか。
普通なら自分が不利になる記載はしないよな・・・

もしも記載されてなかったとして、知らずに手術なんてしたらどうなるんだろう。
私が「母はMRSAでした」なんて言ったらどうなるのだろう。


その時、私の頭はパニックになった。

冷静になった今、考えてみると、MRSAだったからといって
手術か出来ないと云うことはないのだと思う。
体力的な問題は疑問があったけれど、ここの主治医も
総合病院のドクターもGOサインを出したのだから、それもクリアできてたのだろう。

だけどあの時の私は、平常心ではいられなかった。
誰かに相談したかった。だけど現在入院中の病院には相談できない。
「MRSA」と云う病名を告げていいのかどうかも解らない。
それでも医療の知識は必需・・・

前に入院していた病院で、母が「みかちゃん」と呼ばせてもらっていた彼女
彼女が頭を過ぎったのだ。
すぐ受話器を取り、以前母が入院していた病院へ電話をかけた。
彼女じゃなくてもいい。とにかく、あの病棟へ・・
ただ、転医書に「MRSA」の記載があったかどうかだけでも知りたかった。

聞き慣れたナースの方の声、誰だかすぐに顔も浮かんだ。
用件をざっと告げると・・・・・

すごく冷たい声で、冷たい口調で返事が返って来た。

「そんな事はお答えできませんし、もう退院された患者さんですから
 うちは関係ありません。」

彼女にも婦長さんにも取り次いでもらえないまま受話器を置くしかなかった。
頭を強打された気分だった。
それまで抱いていた優しさが溢れていたあの空間のイメージが
一瞬にして私の中で凍り付いた気がした。

無茶は承知で、いや、あの時の私はそれが無茶なことかどうかを
考える余裕なんてなかったか・・。
ただ藁をもすがる一心だった。

それが普通なの? あの3年間はなんだったの?

数多くいる患者の中の一人だと云うことは解ってる。
だけど、だけど、「関係ありません」って言葉は私を打ちのめすのに充分すぎた。







結局、伯母の言葉で手術を決めた。

「流れに乗ることも大切なんだよ・・・

 目を瞑って、流れに身をまかせなさい。

 それで溺れたら、その時はその時。」


最後まで、MRSAのことは、言い出せないままだった。


2002年10月06日(日) 母のこと 10




その病院での主治医のドクターは推定年齢70才。
白衣を着ていなければ、患者さんと見間違うほどである。
おそらく母より年上だっただろう。
それも私を不安にさせた理由の一つだ。

いくつかの病室を通り過ぎ、母の部屋へ着くまでには
嫌でも何人もの抑制された患者さんを見る。
仕方が無いのだ、仕方が無い。
その度に自分にそう言い聞かす。

今のところ、母は大人しくしているけれど
いつ、又、前のように大声を出したり、拭くを脱いだりするかもしれない。
その時は容赦なく抑制を受け、脱げない服を着せられるだろう。
その時の為に、自分に言い聞かす。

仕方が無いのだ。仕方が無い。





その時は案外早くやって来た。
自分の手ではちょっとやそっとじゃ脱げない服を着せられた。
どうもおむつを自分で外したらしい・・・

そう、仕方が無いのだ。

私は付き添ってあげることは出来ない。
だから抑制も、抑制服も文句は言えない。
それが当たり前の場所なのだ。
まるで、ここは、収容所のようだ・・・


私はできるだけ食事の時間に合わせて病院を訪ねた。
食欲だけは旺盛な母の口に、スプーンで食事を入れてあげる。
前の病院ではなんとか自分で出来ていたのに、
転院してからはさっぱりできなくなってしまった。
看護助手の方が食べさせて下さるのだが、担当は一部屋に一人であるから
なかなか思うように食べられなくて、癇癪を起こす母。
私が居ればゆっくりでも、完食させてあげることが出来る。

母は食事が好き。
いや、それしか楽しみなんてない。
テレビも見られない。ラジオもなかなか聴くことができない。
食べる他に何の楽しみがあると云うのか・・・
その食事さえ・・・


「文句があるなら自宅で看護すればいい。」

黄色の白衣を着たナースの背中からは、そんなオーラが出ている気がした。

被害妄想なんだろう・・
きっとそうに違いない。
だって、空きベッドが何年待ちと云うくらいに
人気のある場所なんだから
きっと被害妄想だろう。




壁に貼られていた、院内のお楽しみイベントの張り紙を
なんだか空々しく感じてしまう私が居た。
これは誰の為のイベントなの?
家族を含め看護している側の、自己満足の塊のようで・・

そんなふうにしか受け取れない、自分がとても嫌だった。


2002年10月05日(土) 母のこと 9



母が転院したのは、老人医療施設だった。
病院と決定的に違うのは、積極的な治療は行われないと云うこと。
病状が安定している人だけが、入院できる場所だった。
「老人」と名が付くくらいだから、当然老人ばかりが入所している。
そしておそらくその半数以上が、少なからず痴呆の症状がでている老人である。

もしも容態が急変したりすると、近所の総合病院と連携を取り
医師が往診に来てくれるか、こちらが総合病院に入院するかであった。




病院に到着すると、まずソーシャルワーカーとの面談である。
ソーシャルワーカーとは平たく云うと、患者とその家族の相談相手的存在の人である。

担当のソーシャルワーカー(以下SW)の方は男性だった。
メガネをかけた几帳面な人と云うのが第一印象で、病院の設備、方針などを
事細かに説明して下さった。決して笑顔を見せることなく・・・

前にいた病院では、パジャマ、下着などは家に持ち帰り洗濯をしてくるように
なっていた。使用する大人用の紙おむつも、家族が購入して持参するしくみだった。
だから安売り等を利用して、あちこちの薬局をかけずり回った。
が、今回はとてもシステム化されている。

パジャマ、下着などは専門のクリーニングに出し、
自宅へ持ち帰ることはできないようになっていた。
1ヶ月 2万円也。
紙おむつは、1ヶ月の使用数料を院内の売店で支払う。

確かに家族の行動的負担は軽くなるのだが、なんとなく釈然としない。
とにかく来て下さるだけでいいのですと云われても・・・

最後まで笑顔を見られないまま、SWとの面談が終わり病室へと案内された。
お金を出せば全ておまかせといった印象が拭えないまま・・・だった。



母の病室は3階だった。後で気が付いたのだが、自立して歩行できる人と
痴呆がない人が2階のフロアーと分けられているようだった。
病室はとても広く、普通の病院の6人部屋の広さを4人で使用する。
衣服をしまう棚も木製で、病院らしくないその病室にただただ感心してしまう。

そして・・・
初めて見た。 黄色の白衣を着たナースなんて・・・


今までいろいろな病院を見てきたけれど、何もかもが初めてで、
これが所謂普通の病院とは違うところだと、目を白黒させるばかりだった。

世の中の老人も大変なんだと、ふと感じた。





2002年10月04日(金) 母のこと 8




ドクターの宣告を受けて半年の後、私は相変わらずの生活を続けていた。
仕事と病院、それに保育園の往復。

ドクターの予想を遙かに超えて、母は頑張って生きていた。
心配されていた腎機能は良くなることはないけれど、急激に悪化することもなく
病状は一応、安定しているとの見解だった。

そんな頃、主治医であるドクターの転勤が決まったとの知らせだった。

母が入院している病院は、原則として長期入院はさせない病院である。
その病院にこれだけ長期間入院できているのは、MRSAであったことも
関係するだろうが、この主治医のドクターが強く要請して下さっていた事も
知っていた。そのドクターが移動になる・・・。

つまりそれは、転院を余儀なくされると云うことだろう。

そしてそれは現実となった。
ドクターは転院先を一生懸命探して下さった。そして、今より自宅から近くなる
老人保健施設に転院してはどうかと相談を受けた。

病状が安定している現在ならそれが可能とのことだった。

このままこの病院にいても、次の主治医のドクターがどういう判断をされるか
わからないので、できるなら今、決断された方がいいとも言われた。

それだけドクターは母を庇って下さっていたのだろう。
MRSAに院内感染したのは、内科である主治医のドクターのせいじゃないのに。
あの時の緊急手術で外科病棟に移った時に感染した筈なのに。

私はドクターの申し出に「お願いします」と答えた。
ドクターとしてではなく、人間として信頼していた。


空きベッドがなかなかでないと聞いたその老人保健施設(以下病院)に
まだ65才にもなっていない母が入院する。身障者の1級を認定されているとはいえ
少し複雑だった。そしてすぐ転院できたのは、そのドクターの御人力と、
国立病院からの転院であると云う理由だろう。
力関係とでも云うべきだろうか・・・


病気の全快ではなく病院を出ると云うことは、今まで築いてきたナースや
ドクターとの人間関係が、またゼロから始まると云うことだ。
また始まるんだ。また・・・



転院の日、本当は一度母を自宅へ連れて帰りたかった。
だけど私一人の力では、母を抱えることもできずに諦めるしかなかった。
あの日骨折をして入院してから、3年間で母は一度しか帰宅していない。
親戚の男手を借りて、車から自宅へ、自宅から車へと大変な騒ぎだったのだ。
それも初期の頃だから、2年半は経っている。

しばらく「帰りたい、帰りたい」と言って困らせた母も、
もうその言葉を口にしなくなっていた。
だからこそ尚、一度連れて帰りたかった。

そんな気持ちとは裏腹に、転院先の病院から迎えの車が到着した。
お世話になったドクターとナースの方々に頭を下げ、
私も一緒に車に乗り込む。

この病院に入院した時グレイだった母の髪は、とても綺麗な白髪になっていた。
一瞬だけ太陽の光に当たった母の髪は、キラキラ光って綺麗だった。
母が太陽の光を浴びたのは、この瞬間が最後だ。

振り返えると、母の担当をして下さっていたナースの方が
外で手を振ってくれていた。
最後まで「みかちゃん」って呼んだ母を許して下さってありがとう。


沢山の思い出ができた病院だった。
良い思い出も、嫌な思い出も。
好きなドクターも、嫌いなドクターも。
好きなナースも、嫌いなナースも。
いつも売店のおばちゃんが励ましてくれた。
それだけいつも悲壮な顔をしていたのだろう。



そんな全ての思い出を後にして、車は転院先へ向かった。


2002年10月03日(木) 母のこと 7



一般病室へ移ってしばらくすると、ドクターから再び過酷な宣告を受けた。
いや、私の決断によっての宣告なのだが、この決断は今までの中で一番辛いものだった。


腎機能が著しく低下していて、透析を必要とされる数値を大幅に下回っているとのこと。
人工透析をするには血管のバイパス手術が必要だが、手術に耐えうるだけの体力には
疑問が残るとのこと。さあどうしますか?っと訊かれたところで即答などできる筈もない。

せっかく個室から脱出できたばかりなのに、そう思うと悔しかった。

「もしも、透析ができなければどうなるのですか?」
そう訊ねるのが精一杯だった。ドクターは少し間をあけて静かに言った。

「余命が半年だと申し上げるしかない・・・です・・ね。」

つまり、透析をしなければあと半年の命、だけど透析をするための手術には耐えられない。
もう答えは用意されているのと同じだ。

「親戚に相談してみます。」と答えた。私一人では結論が出せなかった。

私は生後2年で父と母の養女になった。つまり母と血の繋がりがない。
そんな私が、母の命の期限を決定してしまうのに躊躇いがあった。
いや血の繋がりがあったとしても、自分ではない人間の命の期限を決定するなど
荷が重い。 
奇跡が起きるかもしれない。
だけどそうではないかもしれない。

いつも母を見舞ってくれる伯母と、すぐ近所に住んでいる叔父に相談をした。
どちらの答えも同じだった。

「お前の思うようにしなさい。」と・・・

そして伯母はとても小さな声で付け加えた。

「ただ・・・・苦しむことはしないであげて・・」




ドクターに返事をする期限は3日。
母のベッドの横で声を殺して泣いた。母は眠ったままだった。
あれほど嫌だった個室が恋しと思った。思う存分泣くことができたから。


ドクターに答えを伝える日、とても事務的に伝える私がいた。

「手術はしません。そう決めました。」

用意されていた答えを用意されていたように伝えた。
他に選択の余地はない。 これで少なくとも、あと半年の時間は与えられたのだ。


泣いた。泣いた。泣いた。泣いた。
子供が寝静まってから、一人で泣いた。
おそらく母が亡くなった時よりも泣いた。

次の日に瞼が腫れ上がって、酷い顔になるほど泣いた。
それでも仕事へ出かける私。
生活の為でもあったし、職場の友人と一緒に居たかった。
友人達は何も言わなくても、優しく迎えてくれた。


私には守らなければならない者がいた。
「母」と同時に「子供達」である。
私の孫を抱きたいと云うのが母の願いであり、私の願いであった筈。
その願いは叶えられたのだから、もうそれ以上は望むまい。
そんな理屈を自分に納得させて、自分の決断を正当化した。


2002年10月02日(水) 母のこと 6



個室に入って二度目のお正月を過ぎた頃、ドクターから呼び出しを受けた。
あれだけ悪さをしていたMRSAが、急激に減少していると云う朗報だった。
このままいけば後少しで、一般病室に戻れるかもしれないと云うおまけ付きだった。

長かった個室生活とも後少しでお別れ。
個室は個室として良いこともあった。気兼ねなく話しができて、
大声で歌を唄えて、悲しくなると泣くこともできた。

けれど一般病室への移動は、一歩どころか十歩前進なのだ。
もしかしたらこのままこの部屋で・・・
と最悪の状況を考えたことがある私にとって
地獄から天国へ浮上した気分だった。


ついにその日がやって来た。
仕事の都合で手伝いは伯母に頼んだものの、就業後ダッシュで病院へ駆けつけた。
ナースステーションの隣とは云え、れっきとした6人部屋だった。
同室の患者さん達にご挨拶をして回ると、皆さん暖かく迎えて下さった。

ただ一人母だけが状況の変化に付いていけず、
相変わらずの大声で独り言を言うのには閉口したけれど・・・


少し希望が見えてきた。
例え寝たきりだって、そこに母は存在してくれていたから。
そこに行けば母が居る。そう思えることがとても幸せだった。

調子が良くなったら一時帰宅も可能だと聞いて
しまい込んでいたポータブルトイレを引っ張り出したりした。

前ほどに病院への足取りが重くなく、
ドクターの顔を見るのが苦痛ではなくなった。
何という単純さだろう。
だけど人間って、そんなに単純な生き物なんだ。




2002年10月01日(火) 母のこと 5



寝たきりの患者にとっての強敵は、病気そのものと床ずれ。
母も例に漏れず、背中と臀部に床ずれ(褥瘡)ができていた。
そしてその患部にMRSAが蔓延っているのだから、悪循環である。

時間ごとに体位の変換などをして、予防はして下さっていたのだが
長い寝たきりの生活になると致し方ないことだろう。

と、娘の私は冷静に考える。だが、母はどうだったのだろう。

何かに擦れたりすると痛いんだろう。
「痛い〜」と力の限り大声を出す。
昼間のざわついた病棟でなら、雑音でかき消されてしまうけれど
夜間のシンと静まった空間での母の叫び声は、
多くの同じ病棟の患者さん達の病室にまで響き渡ることになる。

それが毎晩のこととなると、病院側も苦渋の選択を強いられた。

「少し強い薬を使わせて下さい」とドクターはそう言った。
「使ってもいいですか?」ではなく、「使わせて下さい」と云う言葉の裏には
ドクターの強い意志と同時に、家族への強い協力要請が感じられた。

母が無意識で点滴の針を引き抜いたことや、着ていた衣服を脱いでしまったりして
手をベッドに括られると云う抑制措置を取られた時もそうだった。
24時間付き添えない家族には、いや、私の場合、仕事が休みの日の
半日しか付き添えない私にとって、「はい」と云う答えしか・・・・ない。

だけどそれは私の意志で、母の意志ではあり得ない。
親子とはいえ自分ではない人間の、意志を代弁することは不可能。
そう思いつつも、そう答えざるをえない。

何という矛盾。
何という罪悪感。

ドクターの云う「強い薬」とは、意識のレベルを少し低下させるものとの
説明を受けた。
つまり目は開けているけれど、強制的に眠った状態のように仕向ける薬だった。
この薬は本人、または家族の承諾とサインがなければ投薬できないらしく、
書類が全て整った状態で説明を聞き、サインをした。

他に方法はあったのだろうか・・・
未だに解らない。



少しずつ、病院から足が遠のいていく自分を感じた。
病院へ行くのが辛かった。

あの独特な重苦しい空気。
病棟に足を踏み入れる時の諦めと絶望感。

いつの間にか、病院へ行きたくないばっかりに
休みである筈の日にまで仕事を入れて、忙しい自分を作り上げていく。


病院は母の居る場所ではなく、自分自身の精気を吸い取られてしまう
私にとって怖い場所になりつつあった。
そんな私を伯母が気遣ってくれる。
その労いと優しさに、また自己嫌悪を繰り返す。

病院帰りに寄る喫茶店と職場が
当時の私にとっては心を解放できる場所だった。

いつまで続くのか・・・
1年後の自分、3年後の自分、
いや、1ヶ月後も1週間後も
自分の姿のイメージが浮かんでこなくなっていた。





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