たそがれまで
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2002年09月30日(月) 母のこと 4

平成9年の11月に子供達の七・五・三のお祝いをした。
息子が4才、娘が2才。
本当は後1年先に延ばしたかったのだけれど、
母に見せる為に、数え年でのお祝いにした。

その頃にはもう随分と痴呆も進んで、調子が悪い日になると
孫の名前さえ解らなくなっていた。

息子には紋付きと袴、
娘には母に買って貰ったお宮参り着を着せ
近所の神社にお祓いを受けに行った。
本当なら喜んでついてきてくれる筈の母は居ない。
祖母代わりと云うことで、母の姉である伯母が一緒に来てくれた。

伯母はいつも母の代わりをしてくれていた。
子供達にとってはもう一人のお祖母ちゃんである。
そして忙しい私の代わりに、頻繁に病院にも行ってくれていた。

子供達を病院に連れて行くことを、元姑は快く思っていない。
離婚後もつき合いは続けていたので、再三に渡ってそう言われていた。

けれどせっかくのお祝いだもの、私は元姑に内緒で連れて行くことにした。
きっと子供達が話してしまうのは解っていたけれど、敢えて口止めもしなかった。
孫に逢いたいと思うのは、祖母ならば皆同じ筈だ。
寝たきりだからとか、病気だからと云うのは理由にならない。

事前に内科病棟の婦長さんに承諾を得て、是非そうしてあげて下さいと
了解も貰っていたし、準備は完璧に整えていた。





病院へ着くとまず看護士さん達の歓声で迎えられた。
誇らしげな顔の子供達は、わざわざポーズまで取ってみせた。
担当のナースの方に促され、手の消毒を済ませた子供達は
今日だけね、と白衣の着用を免除して貰った。

「せっかくの晴れ着だから、う〜んとお祖母ちゃんに見せてあげてね。
 一緒に写真も写ってあげてね。」

まるで娘であるかのように、彼女はとびきりの笑顔でそう言って下さった。
そして朝から母に、今日は特別なお客様が来るよと告げ、
一緒に楽しみにしてくれていたらしい。

病室に入ると、母はあまり調子が良くないようだったけれど、
背もたれを起こし座らせて貰って、孫達の晴れ姿に目をこらした。
低下している視力では良く見えなかっただろうに、手で触り、頭を撫で、
精一杯の祖母の愛を子供達に与えてくれた。


何枚も何枚も写真に写した。何回も何回もシャッターを押した。
後で考えると、母と彼女の姿を一枚のフレームに納めておけば良かった。
彼女にとって母は、何人も担当している患者さんの中の一人かもしれないが、
母にとってはただ一人の心を許せるナースだった。無論、他のナースの方々も
本当に良くしてくださった。いつの間にかほとんどのナースの方が、母を
「みよちゃん」と呼んで下さるようにもなっていた。
だけど母にとって、彼女は特別な人だったのだ。
お世辞ではあろうけれど、「可愛い患者さんですよ」とも言って頂けた。
だけど母にとって、彼女は特別な人だったのだ。

そして娘である私にとっても、悲しいかな可愛い母になってしまった。

それは個室と云う隔離部屋に入ってから、1年以上たった頃のことである。


2002年09月29日(日) 母のこと 3



丁度その頃、友人から葉書が届いた。
体調を壊し、強制入院させられたと。

奇しくも母と同じ病院だった。
文末に、サナトリウムであることが小さな文字で書き加えられていた。

その病気に対する偏見を身を持って知っている彼女は
小さく小さく書いていた。
彼女の悔しさと淋しさがその文字から伝わってくるようで、
なんとも表現し難い感情が湧きだした。

なぜ、なぜなんだろう。
なぜそこに彼女が居なければならないのか、
なぜ小さな文字で書かなければならなかったのか、
病気だからと云う断定的な答えが欲しかったんじゃない。
それだけははっきりと理解できる。


病気に対する偏見があることは、私も嫌と云うくらい実感していた。
私の母に対する周知の偏見も相当なものであったから。
正しい知識さえあれば、何も怖がることもないのに
その病名からくるイメージが全てを物語ると云う現実。

だから私自身も母の病名を伏せていた。
お見舞いを申し出てくれる親戚もいたが、近しい身内にしか告げなかった。
健康体の人であれば面会はできるのようになっているのだが、
白衣を着用しなければならないと云う状況から受ける心理的な背景を考えると、
おいそれと誰にでも告げられないと思った。

だから私の職場でも伏せたままだっだ。
本当に理解してくれる友人にしか打ち明けられなかった。
媒介などする筈もないのだが、そう疑われることも嫌だった。

恐らく彼女も同じだったのだろう。
その気持ちが小さな文字として表されていたのだ。

私にはそんな気兼ねなど必要ないのに・・・


次に病院へ訪れた時、彼女の病棟へ先に向かった。
面会できるのであれば、少しでも顔を見たい。
少しでも話し相手になりたい。ほんの少しでも励ましたい。
例えそれが自己満足でしかないとしても・・・


彼女は普通だった。いつも見ていた彼女となんら変わりない。
ただパジャマ姿でいるだけのように見えた。

彼女は6人部屋を一人で占領していた。
病状が悪かったわけではない。ただその病棟に患者さんが少なかっただけのようだ。

たくさん話しをした。
たくさん笑った。
そしてたくさんの本を差し入れしてきた。
私以上に活字中毒の彼女にとって、本は暇つぶしと好奇心を満たす格好の材料だ。
自分が途中で挫けた「ソフィーの世界」を、たった二日で読んでしまったと後から聞いた。


母の病院へ行っているのか、彼女の病院へ行っているのかわからなくなりつつも、
静かにゆっくり季節は流れていった。

でもその間にも白い壁の病室の中で、確かに二人は闘っていたのだ。
病魔と、自分と、その病気に対する偏見と。

だけど彼女達の本当の敵は、なんだったのだろう。
今思えば、もしかしたら「恐怖」ではなかったかと・・・・  そう思う。








友人のことは、また別の機会に書いていこうと思ってます。
本当はこのスペースは、彼女の為に用意したものだったのだから・・




2002年09月28日(土) 母のこと 2  



母が個室に移ってから、MRSAに関する本を読みあさった。
少しでもその病気に関する知識が欲しかった。
と同時に、何故母が感染してしまったのか、理由が知りたかった。
「免疫力が落ちていたから」と云う理由ではない、他の理由が知りたかった。

だけどどれだけ本を読んでも、その病気に関する知識を得たとしても
原因をはっきり断定することはできない。
なぜなら、私がドクターに訊きただせなかったから。
そして恐らく、聞きただせていたとしても、前回と同じ説明でしかなかっただろう。

「病院側に落ち度があるのではないですか?」
なんて言える筈がない。
もしも病院を追い出されるような事になったら、母も私達親子も
途方に暮れることが目に見えていたから。
たださえ老人を長期に渡って入院させてくれる病院は少ない。
ましてやMRSAの患者など、どこの病院も「うん」とは言わないだろうから。



個室に入っている母、いや隔離されている母は淋しいからラジオが欲しいと言った。
視力が落ちているのでテレビも見られないから、ラジオが聴きたいと・・・

一日中ラジオを聴き、時々一緒に唄い、時々もらい泣きをしていたらしい。
週の3日をフルタイムで働いていた私は、週の3日しか病院には行けない。
母を担当してくださったナースの方が、いつも様子を教えてくれた。
とても優しく話される方で、私より5〜6才年下だったと思うが
母も私もとても彼女が好きだった。
今まで母を担当してくださったいろんな病院のナースの方々の中でも、
彼女が一番好きだった。


私が母を「みよちゃん」と呼ぶので、彼女も同じように呼んでくれた。
「みよちゃ〜ん、身体を拭こうね」「みよちゃ〜ん、ご飯だよ〜」っと
母も嬉しそうに返事をしていた。
勝手に彼女の名前を「みかちゃん」だと決めつけて・・
「みかちゃん、みかちゃん」と返事をする。
なかなか訪れない娘より、「みかちゃん」と呼びかける方が多かっただろう。

改めて彼女にお礼が言いたい。
伝わらないかもしれないけれど、隔離されていた2年間、
少しでも母を元気つけようとしてくれた彼女に私は頭が上がらない。
それは同時に、全ての看護士さん達へ頭が上がらないと云うことなのだ。
とても大変なお仕事だ。何年間も目の当たりにした。
ほんとうにありがとうございました。



その頃から、母の憎まれ口が減ってきた。
代わりに私への感謝の言葉を言うようになった。
不思議なことに、感謝の言葉を受けても嬉しくもなんともない。
かえって憎まれ口の方がほっとする。いつも凛としていた母、
弱みなど見せなかった母、その母が私に「ありがとう」なんて言っている。
なぜか母の「ありがとう」が淋しかった。


容態はずっと平行線のまま・・・
いつまで続くのだろう。
このまま外に出られないのだろうか。

外の景色が変わっていくのと同じように、母はだんだん子供にかえっていく。
口ずさむ歌も私が子供の頃に唄ってくれた、童謡が多くなっていた。




2002年09月27日(金) 母のこと

平成11年12月10日

母が亡くなった。
享年65才の早かった死。
でも長すぎる闘病生活と引き換えに、やっと手に入れた安息だと思う。
そうでも思わなければ、自分の決断を許すことができないのだ。
あと一つ手術をすれば、もっと生きていられたかもしれない。
例え寝たきりであったとしても、もっと生きていられたかもしれないのに。


死因は腎不全。
だけどそれがすべてじゃない。
糖尿病からの合併症で母の身体はボロボロだった。
50代半ばで最初の脳梗塞に倒れ、入院とリハビリを繰り返す日々の中で
母は何に希望を見いだし、何に絶望したのか計り知れない。


三度目の脳梗塞で、完全に左半身の麻痺と少しの痴呆が残った。
おぼつかない足取りで自宅のトイレに向かい、転倒、骨折。
足の付け根に人工骨頭を入れても、尚、歩こうと頑張った。

でもその人工骨頭が、母を苦しめることになるなんて・・・・・・

リハビリの為に施設の整った病院に入院した母は、毎日痛みと戦って頑張っていた。
順調に快復している筈だった。

あの日、仕事をしている私のポケベルが鳴るまではそう思っていた。
病院へ連絡を入れると「緊急手術が必要です。すぐ来てください」とのこと。
私は慌てて駆けつけた。

入院している内科のドクターではなく、始めて逢う外科のドクターから説明を受けた。
早急に開腹手術が必要なこと、しかし原因は分からないとのこと。
腹部に激痛を訴える母を見れば、「お願いします」の言葉しか浮かばなかった。

手術には5〜6時間かかっただろうか、もっと早く終わったのかもしれない。
術後室に運ばれた母がぼんやり目を開けたので、心からほっとした。

結局、何もなかった。開腹手術をしても何も原因は見つからなかった。

「ほんの少し腸が癒着していましたが、痛みとは関係ないと思います。」
ドクターはあっさりと事務的にそう言った。
私の反応を待つ間もなく、これからのことの説明を始める。
術後室からでたら一般病室へ移ること、同時に糖尿病の投薬もしていくこと、
傷口が落ち着いたら再び内科病棟へ移ること、そして、
母が結核菌のキャリアであることを告げた。
発病しているわけではないので心配はないが、私と子供達は結核の検査が義務付け
られていると云うこと・・・

結核菌のキャリアでもあるんだ・・・
母は欲張りだった。C型肝炎ウィルスも体内に保持していたのだ。


術後3日目、仕事帰りに母のいる術後室に行ったら「消毒中」の張り紙があった。
母は隣の部屋にいた。明日にはまた元の部屋に戻るからと看護士の方に言われ、
私はその日病院を後にした。

次の日、母は元の術後室に戻っていた。前に隣のベッドに寝ていたお婆さんの姿が
見えない。きっと一般病室に戻れたんだと少し嬉しくなった。

しばらくすると母も一般病室に移ることが出来て、いつもの憎まれ口も戻ってきた。
母の部屋はナースステーションから一番遠い部屋で、廊下の突き当たり。
ずらっと並んだ病室の入り口には患者さんの名札がかかる。ふと一人の患者さんの
名前に目が留まった。術後室で母の隣のベッドに寝ていたお婆さんである。
ふ〜ん、個室とは豪勢だわ・・・

突然そのドアが開き、中から看護士の方が出てこられた。目が合ったので
「こんにちは」っと挨拶したけれど、彼女はドアの横で白衣を脱ぐのに忙しく、
返事がなかった。白衣の上に白衣?と思ったけれど特に気にすることもなく、
私は母の病室に急いだ。当時の私に知識があれば、この時の看護士さんの行動が
その後の母を案じする出来事だと理解できたのに・・・

余談になるが、母はいくつもの病院にお世話になったけれど、その「病院」によって
その「科」によって随分と温度が違うのだ。 温度といっても室温ではない。
看護士さんの接し方である。比較的、内科の看護士さんの方が暖かみがある。
病棟自体の時間の流れもゆっくりしている。  と思う。
手術や付け替えが無い分、内科の方がゆったりしているのかしら。
口調さえ変わってくるのは不思議。似た性格の人ばかりが集まったりするのかしら、
それともその「科」によって性格が作られるのかしら、未だに疑問。


しばらくすると内科病棟に戻ることが許された。
もしかしたらもう戻れないかもしれないと覚悟して外科に移ったのだ。
その間3ヶ月余り、その期間に外科のドクターと話しをしたのはたった二度。
術後の説明と、内科へ移る時の説明だけ。その時も事務的に必要事項だけを
淡々と説明された。 私自身が一番苦手なタイプだった。


内科病棟へ戻ると、久しぶりに逢うナースの方々が笑顔で迎えて下さった。
嬉しかった。暖かい場所へ戻ってこれた事が一番嬉しかった。

もう少し体調が戻ればリハビリ再開と聞いて、母も私も喜んだ。
だけど母の体調はなかなか良くならない。微熱と嘔吐がしばらく続いた。

当時の私はシングルマザーで、幼い子供を二人抱えて仕事と保育園と病院を
行ったり来たり。今よりも若かったし、気が張ってたからできたのだろう。
時間に追われるように毎日が過ぎていった。そんな中、ポケベルが又、鳴った。
ドクターが話しをしたいとの連絡で、事後報告になるけれど時間を作って下さいと
言われた。そういう時と云うのは、良い話しではない。悲しいけれど勘は当たった。

病院に着くと母の病室が変わっていた。ナースステーションの前の二人部屋。
だけど部屋には母が一人で個室状態である。病室の入り口には濡れたバスタオルが
敷かれ、入室の際には白衣を着用して下さいとのこと・・・

なに?

これが第一の疑問。すぐにドクターがその謎を解いて下さった。

母はメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)に冒されていて、感染力が強いため
隔離が必要であると云うこと。この菌に効く薬は1種類しかないこと、そして特に強調するように、誰の体内にも存在する菌で免疫力が弱まると発病する事がある。
とゆっくり丁寧に、子供に言い聞かせるように説明して下さった。
いわゆる「院内感染」の代名詞ともなっているMRSAであった。

ふと前に外科病棟で見たあの隣のベッドにいたお婆さんを思いだした。
ドアの横で脱ぐ白衣、入り口に敷かれた濡れバスタオル、使い捨て手袋・・・
もしかしたら移った?   瞬時にそう思ったけれど、ドクターには何も言えなかった。

あの時ドクターに訊ねたら、何と云う答えが返ってきたのだろう。
だけど訊けなかった。どうしても訊けなかった。
ドクターに楯突いて、病院を追い出されることが怖かったのだ。
母の体内にあった菌だと云う説明を、鵜呑みにするしかなかった。
それに、腹部の手術をした時に感染したのか、人工骨頭を入れた時に感染したのか
なんて解らないじゃない。と自分に言い聞かせた。
だけど確かにあのお婆さんは、母と同じく隔離されていた。

長い闘いが始まった。もうリハビリどころの騒ぎではない。部屋から一歩たりとも出る
ことはできない。一人で寝返りをうつこともできなくなった。

そしてお約束のように、痴呆が急速に進行していった。


2002年09月26日(木) 黄昏迄

本当は別のことで用意していたスペースだけど
ある看護士の方の日記に感銘を受け、
思い出話しを書こうと思います。

母のこと、父のこと、そして6月に亡くなった友人のこと・・・

いつまでも心の中で感じている、大切な人達へ








黄昏迄  〜たそがれまで〜



海を見下ろす丘の上は
何時でも向かい風が吹いて
空と海の青と思い出とが一列に並ぶ


君が愛していた仔犬は
あれから大きく育って
今僕の側で一緒に海鳴りを聴いてる

黄金色の波の上を帆影がひとつ
ふたつ港へと還ってゆく

  昔君と約束していた
  二人して年老いたならば
  世界中を船で廻ろうと
  飽きる程一緒にいようと


突然海に帰った君を
追いかけて僕の心が鴎になって舞い上がる


  黄昏迄風に吹かれたい
  ぬくもりを懐かしむ様に
  寄せては返す波を見ていたい
  いつまでも漂いたい


  黄昏迄海を見ていたい
  ぬくもりを懐かしむ様に
  寄せては返す君を見ていたい
  いつまでもいつまでも


M.Sada


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