パラダイムチェンジ

2007年02月28日(水) Direction

先々週の金曜日、TVをつけっぱなしにしていたら日本アカデミー賞(本
場のアカデミー賞ではなく)の番組をやっていて、見るとはなしに見て
いたら、ふと、自分にとってのいい映画っていうのは、監督ないし製作
者側の方向性が感じられる映画なんだなあ、という事に気がついた。

すなわち、監督のこういう映画が撮りたかったんだ、という気持ちの
ようなものが素直に感じられる映画っていうのは、印象に残りやすいが
逆に、○○製作委員会が権限を持っちゃって、ああしろこうしろと
ちょっかいを出してきて、なおかつ監督自身が雇われ監督の場合には
その映画の制作費の大小にかかわらず、見た後の印象が薄く、記憶に
残りにくい。

ついでにいえば、それは監督だけでなく、現場のスタッフや演じる
キャストも同じ方向を向いて作られたんだろうな、と感じさせる映画の
方が、見た後の印象は強くなるのかもしれない。

具体的な例であげると、例えば「踊る大捜査線」の第1作では、脚本、
スタッフ、キャストともこういう映画を作りたい、という方向性が
定まっていた気がするけれど、それに対して2作目では、そのスタッフ
キャストの方向性がまとまらなくなってしまった印象がある。
興行収入的には、第2作の方が上で、プロデューサーをはじめとした
製作委員会の方々はウハウハなのかもしれないけれど。

また、ベタな例であげれば、アニメ「機動戦士ガンダム」の第1作と第2作
以降では、やはりスタッフ同士の方向性のまとまりが違う分、今でも
第1作は強い印象があるのかもしれない。その後のオリジナルビデオ
作品ではいい作品もあるのかもしれないけれど、やっぱりスタッフの
まとまりという意味では、第1作が一番強かったんじゃないのかな。

でね、多分○○組という形で称される事のある名監督、例えば黒沢明
であるとか、小津安二郎であるとか、の場合って、その監督の考えた
方向性にスタッフキャスト共に浸透し、皆が同じ方向を向いている事が
多いから、評価が高いのかもしれない、と思うのだ。

監督を意味する英語のディレクター(Directer)だって、元々は方向を
指示する人、転じて指揮官、監督という意味になったわけだし。

最近の作品でいうなら、「ゆれる」とか「明日の記憶」などは
そんな感じで方向性が感じられて、見てみたいなあと思ったし(劇場公開
中にもそう思ってはいたんだけど)。

今後自分が映画を見て行くときの指針として、面白い/面白くない、
人気作かそうではないか、以外に、いい意味でも悪い意味でもその作品
の方向性が感じられるかどうか、っていうのを基準にしてみるのも
面白いかもしれない。

もしも、個人的にこの方向性はイヤなあ、と思う作品であっても、作品
の完成度は高い場合もあるわけだし。
そういうことを考えながら映画を見ていくと、自分の好き/嫌いの方向性
みたいなものももっとハッキリしてくるのかもしれない。

で、この方向性、という概念は映画に限らず、いろんなものに応用でき
るんだろうな、と思うのだ。

安倍政権や、教育基本法の改正に対して、なんかどうでもいい、という
感じが漂ってくるのは、○○製作委員会的な、船頭多くして船、山に登
るではないけれど、誰にも正解がわからず、皆がてんでバラバラの方に
向かって方向性が定まっていないせいもあるんじゃないかな、という
気がするし(それは民主党も同じわけだが)。

また、自分個人についても、この方向性って結構重要なんだよな、
と思うのである。
多分、自分の中で考えがまとまらずに右往左往している時って、どっち
の方向を向いていいのかわからない、というよりも、自分の心の中に
自分がどっちを向いているのかを感じる方位磁針みたいなものがある
って事自体を忘れているんじゃないかな、という気がするし。

まあ、そんな感じであっという間に2月が過ぎていってしまったので、
今年の残りの時間は、自分の方向性というか、こころの方位磁針が
どっちを向いているのかを感じながら行ってみたいと思います。



2007年02月19日(月) お伊勢参り

大阪に行った翌日は、大阪から一路伊勢神宮へ。
伊勢神宮には、毎年1回は行くようにしていて、そのことについては
このブログにも書いているので、興味のある方はブログ内検索でもして
いただくとして。

今年は、伊勢神宮の手前にある猿田彦神社というところで降りて、
伊勢神宮の参道というべき、おはらい町、おかげ横丁を歩いてみる
ことに。

で、実際に歩いてみると、期待していた以上にいろんなお店があるのが
楽しくて。
おはらい町の入り口では、地元の伊勢湾で取れた蒸しカキを食べ、
おかげ横丁では、伊勢うどんを食し。



これが、黒いツユなので塩っ辛いかな、と思ったらそんな事はなく。

その後も松阪牛を使ったメンチカツを店頭で食べさせてくれるお店とか
これはもう定番の、赤福本店で、できたての赤福を食べたりとか、
伊勢神宮(内宮)にお参りする前に、すっかりお祭り気分?に浸ることが
できたんでした。

肝心の伊勢神宮の中では、一転、おごそかな気持ちで、今年1年の祈願を
して(本当にそうだったのか、罰があたらないかは今年1年で占うとして)


今度は名古屋へと。

名古屋では、これまた毎年の恒例となった、あつた蓬莱軒のひつまぶし
を食べて帰ってきました。


いい加減、他のお店を探してもいいんじゃないか、と私も思うんだけど
名古屋に行くのって1年に1回、しかも伊勢神宮の行き帰りに立ち寄る
だけなので、1年に1回、本場のうなぎのひつまぶしを食べるのが楽しみ
なのである。

この辺、動物占いでタヌキらしい、好きなものからは浮気しない感じ
なのかもしれないが。

という事で、1泊2日ながらかなり実りの多い西行きの一人旅でござい
ました。



2007年02月18日(日) 司馬遼太郎記念館



先週の日曜日、大阪に行ってきた。
元々は、今年の5月に仕事で大阪に1週間位滞在するので、その下見の
ために行ったんだけど、ついでにどこか1ヶ所くらい観光に行こうと
思い、そういえば東大阪市にある司馬遼太郎の自宅が記念館になって
いるんだっけ、という事を思い出したのだ。

ということで近鉄に乗り、東大阪まで。

駅から記念館に向かう道の途中に、菜の花が並んでいることに気がつく
司馬遼太郎が亡くなった日が1996年の2月12日で、その日を菜の花忌と
呼んでいることにちなみ、近所の人たちが家の前に置いているらしく。



司馬遼太郎が近所の人たちに慕われていたんだなあ、とこの時期にこの
風景を見られただけでも来た甲斐があったかも。

司馬遼太郎記念館は、自宅と、その隣に作られた記念館の建物から
なる。
記念館には、司馬遼太郎が遺した蔵書の一部と、氏の著作が展示されて
いるんだけど、壁一面、高い天井に至るまで本で埋め尽くされているの
は、圧巻なのだ。しかも、ここに展示されているのはほんの一部だと
いうから驚かされる。

でも、こういう光景って、本好きの人間にしてみると、うらやましい、
の一言につきる。

もう一つは、この記念館って、司馬遼太郎の脳へのインプット(蔵書)と
アウトプット(著作)という、脳の活動の象徴みたいな場所なんだなあ、
と思ったのだ。

かといって、この蔵書全部を持っていたって、誰でも司馬遼太郎に
なれる訳じゃく。
逆にいえば、それだけこれだけ人の心を動かした作品を作り出すことの
できた司馬遼太郎という作家のかけがえのなさ、みたいなものを感じた
のである。

自宅部分では、庭先から司馬遼太郎が執筆活動を行なっていた、書斎の
風景を眺めることが出来て。


彼が腹部大動脈瘤破裂という病気に倒れる直前まで執筆を続けていた
その時のままに保存してあるらしい。

その書斎の中での司馬遼太郎の息づかいといったものが感じられた気が
して、少し勇気をもらった気がしました。



2007年02月15日(木) 映画「墨攻」@新宿バルト9

先日2月9日にオープンしたばかりの映画館、新宿バルト9に行ってみた。
同じく新しくできた○l○lの上にあるシネコンである。
ここは、以前東映シネマパレスという映画館があった場所で、
新宿通りを伊勢丹のある明治通りを越えた先にある。

と書くと、新宿駅から遠い印象があるけれど、新宿駅南口から、甲州
街道をのぼっていくと、駅からは結構近い。
もしかすると、新宿東口から歌舞伎町の映画街に行くよりも近いかも
しれない。

内部は最近のシネコン、って感じで全部で9つのスクリーンがあり、
椅子も、頭をのせることができるヘッドレストがついていて心地よい。
難点を何点か挙げると、飲み物の値段が高いと思うことと、20時以降
でもレイトショー割引(他だと1200円とかになる場合がある)がなかった
のが想定外だったけど、これは六本木ヴァージンシネマなどの他の
シネコンでも同様だし。

新宿の場合、いいシートのある映画館が少ないことを考えれば、ここは
結構貴重といえるかも。
割引はないけれど(しつこい)、平日でも夜遅くまで上映しているので、
時間の都合もつけやすいし。

また、ここだけの企画として、現在劇団☆新感線の演劇を撮影した、
「ゲキシネ」を上演(現在はメタルマクベス)していたり(ただし、チケット
は通常の映画より高め)、「私をスキーに連れてって」とか「銀河鉄道999」
などの昔の映画を上映していたりと、色々とやっているのも面白そう。

オープン直後だから混んでいるかなあ、と思ったら全然そんなことが
なかったし。
(まあ、この辺は観た映画によるのかもしれないが)


という事で今回、この映画館で何を見たのか、というと「墨攻」という
中国の時代劇映画である。
ただし、原作は日本の小説、マンガの「墨攻」

酒見賢一による小説版も、またその小説を基にした森秀樹によるマンガ
版も、今から20年近く前の10代に読んで以来、面白かったという印象が
強く。

特にマンガ版は、ビッグコミック誌に連載されている時から好きだった
作品なので、今回映画化されるにあたり、是非とも見たいと思っていた
のだ。

という事で、見に行ったわけだけど、見た感想は、「やっぱり戦争もの
は、見られないカラダになってしまったのかなあ」というもの。

いや、物語自体は、結構原作に忠実に描かれているし、梁という国の
城を取り囲んだ10万人の兵との攻防戦のくだりで、主人公の革離が、
知恵をしぼって戦い抜くあたりは、とても手に汗握る感じで面白く。
また主人公の革離を演じるアンディラウも格好いいし。

という風に、作品的にはいい出来だと思うんだけど、見ていて楽しめ
ないのだ。
というより、最近、戦争映画って本当にあまり見ようと思わないんだよ
ね。

最近の作品って、CGなどの発達によって、戦闘シーンが本当にリアルに
作れるじゃないですか。
で、作っている側としては、やっぱり見ているこっち側にその戦闘の
臨場感に訴えかけるような作りになっていて。

そうすると、その映像が実際に「痛く」感じられちゃうんだよね。
なんかわざわざそういう場面を見たくないというか、そういう所に
行きたくないというか。

もしも、自分が実際に戦場に行かされたとして、自分が生き残るか
どうかっていうのは、運によるだろうし、人を殺したくない、と思って
いても、目の前に敵がいて、相手を殺さなきゃ自分が死ぬんだと思えば
相手を殺すのかもしれないし。

そういう日常とはかけ離れた場所の事っていうのは、どんなにリアルに
描こうとも、想像を絶するものじゃないかなと思うし、その一方で、
戦場において八面六臂のヒーローを描かれても、自分がヒーローになり
たいと思うよりは、多分そのヒーローに殺されちゃう名もなき人の方が
自分に近いだろうなあ、と思うし。

と、戦争を描かれると、見終わった後に暗澹たる気持ちになってしまう
のである。
私が「硫黄島からの手紙」ほか、最近の評判のいい映画を見に行かないの
も、多分そういう気持ちが強いからなのかもしれない。

じゃあなんで今回そんな戦争映画を見に行ったのか、といえば、
原作が面白かったという記憶があったのと、時代劇だったら大丈夫かな
と思ったんだけど、さにあらず。

これが小説だったら、誰々が殺された、という記述だけだから、自分の
想像力もそんなに働かないんだけど、映画でなまじリアルに作られて
いると同じ場面でも、うへえ、こんな大変なのか、と思い知らされ。

やっぱり、いつの時代でも戦争っていうのは、やりきれないものなん
だよなあ、と思いました。
この作品でも、戦争を通じて幸せになった人って誰もいないわけだし。

その意味では、たとえ今日本で下流社会にいたとしても、戦争のない
時代に生きていられる(自分の命が明日どうなるかわからないという
不安におそわれずに済む)という事だけでも幸せなんだよなあ、と
つくづくと思いました。

その意味では見てよかったのかもしれないけれど、ズーンと重い気持ち
になったので、あまり人に勧める映画ではないかも。
この映画を見るんだったら、マンガのほうをオススメします。
(でもマンガもそんなに明るい結末ではなかったような…)

余談ながら以下どうでもいいネタなので、見たい人だけドラッグで
反転していただくとして。
梁の国の国王役の役者さんが、さまーずの三村に見えてしょうがなくて
最後の方では、三村、お前がいなければよかったのに、とまで思った
のは、内緒の話。(さまーずの三村は全く関係ないのにね)


新宿バルト9には、近々また行きたいと思います。



2007年02月10日(土) 身近な人を感動させること

先週の土曜日に放送された、日本テレビの番組「シャルウィダンス」に
私が習っている社交ダンスの先生が再び登場した。
今回は、漫才コンビ、ブラックマヨネーズのブツブツじゃない方、
小杉さんのパートナーとしてタンゴを踊り、見事予選2位の成績で
予選を通過したのだ。

今、ちょうど私がタンゴを習っているということもあり、一部振り付け
も同じなので、いつも以上に注意して見ていたんだけど、今回の小杉
さんのタンゴは、ダンスをかじった私から見ても、綺麗に踊っている
なあ、と感心する感じだった。
いつもは辛口の審査員の先生の評価も結構高かったし。

放送後、初めてのレッスンで先生におめでとうございます、と言い、
その後の休憩時間に放送の舞台裏の話を面白く聞くことが出来たん
だけど、先生によると、本当にダンスが出来上がったのが、最後の
最後の練習前で、本番でもこれくらい踊れたらいいね、と話していたら
本番ではそれ以上に踊ってもらえたので、余計感動した、と言っていた
のだ。
本番の採点の後では、先生が感極まって涙を流していたし。

あの番組では本番の前にメイキングと言うか、練習風景が流れるん
だけど、その時の感じでは、確かに今回は厳しそうだな、という感じ
だったし。

本番での小杉さんは、上半身がスッキリと見えていて、それが踊りと
して成立したんだろうな、と思うのだ。
逆にいうと、あの番組の構成上仕方がないとはいえ、たった1週間、7回
のレッスンで、踊るときの姿勢を維持させるのって、結構大変だろうな
と思うし。


でね、ここからは個人的な勝手な憶測なんだけど、本番での小杉さんの
踊りを見ていて、この人はいい成績を出そうとか、奇麗に踊って周りに
評価されたい、みたいな気持ちではなく、多分一番身近で自分を教えて
くれた、パートナーである先生を驚かせてあげたい、と思いながら踊っ
ていたんじゃないのかな、と思ったのである。

なんでそう思ったか、と言われると、何となく、としか言いようがない
んだけど。

でもね、普通の人って、綺麗に踊りたい、とかいい成績を出したい、と
思った場合って、肩に力が入りがちになって、カウントを外したりする
んだよね。

小杉さんの踊りにはそういう感じがなく、いい感じに肩の力が抜けて、
一生懸命に踊っている感じがしたのが、真面目な、というか好印象に
結びついたような気がするのだ。

多分ね、練習を積んできた段階で、小杉さんは自分が優勝できる位の
レベルではないと思ったんじゃないかな。
だからいい成績を出したい、というよりは、とりあえず自分のベストの
踊りをして、レッスンに付き合ってくれたパートナーである先生を
喜ばせてあげたいと思ったんじゃないかな、と思うのだ。

と、まるで見てきたかのような事を書いているんだけど、踊りって、
その人がどう考えて踊っているかっていうのが、割と筒ぬけというか、
わかりやすいと思うんだよね。
それは、おそらく審査員の先生たちにの評価からもそういう感じが
するし。

加えて、小杉さんの場合、元々コンビ芸人というのも大きかったのかも
しれない。
コンビの人の場合って、多分普段でも相手のテンションの高さっていう
事に対して敏感なんじゃないのかな。

それは、いつもと同じネタをやっていたとしても、相手のテンションが
高くなれば、お客の反応も大きくなって、その瞬間に大化けする、とい
う感じがわかるだろうし。

だから今回の場合、一番身近な存在であるパートナーを感動させること
が出来たら、そのパートナーの感動が周囲に伝わる、というのが経験で
わかっていたんじゃないのかな、と思ったのだ。

それに、大御所やベテランではない、売り出し中の若手芸人の場合、
この一瞬を逃したらTVに映る機会がなくなる、みたいな時の集中力って
すごいんじゃないかな、と思うし。

芸能人のダンス大会で、少ない練習時間にも関わらず、本番に強い人が
多い理由も、もしかするとその辺にあるのかもしれない。


で、そういうのって、いろんなことに応用が利くんじゃないかな、と
思うのだ。

私たちは(というか少なくとも私の場合)、ついいい成績を出したい、
とか、たとえばいい表現をして他人からほめられたい、とか目先の事
よりも大きなものを目標にして、何かをやろうとする傾向があるのかも
しれない。

でも、本当に必要なのは、まずは身近にいる人に小さな感動(もしくは
小さな変化)が起こせるかどうかが、重要なのかもしれないな、と思う
んだよね。

それは例えるなら、政治の選挙活動で、この国を変えます、とか
大きなことを一生懸命に演説しているのに、誰も立ち止まって聞いては
くれないようなものなのかもしれない。

それよりは、まずは目の前にいる人に話しかけて、その人に振り向いて
もらえるように話している方が、もしかすると大化けするかもしれない
んじゃないのかな。

そしてそれは自分の仕事にもつながっているような気がするんだよね。
やっぱり、目の前の患者さんに、感動とは言わないまでも、小さな変化
を起こすことが、自分の仕事にとって大きな成果なんじゃないかな、と
思うのだ。


シャルウィダンスでの、小杉ペアの次回の放送は、おそらく来週になる
と思うので、次回もいい意味で期待せずに楽しみにしたいと思います。

また、直接は関係ないんだけど、今週放送のシャルウィダンスに
出場予定で前日のリハーサル中に脳出血で入院してしまった宮川大助
師匠におかれましては、早く病状が回復することをお祈りしています。



2007年02月06日(火) 映画「愛の流刑地」

今回は映画ネタ。観てきたのは「愛の流刑地」
知り合いの人から、タダ券を頂いたので見に行くことに。
いや、別に寺島しのぶのヌードがどうしても見たかったとか、そういう
ことではなく(この辺、躍起になると余計怪しくなるのでさらっと流す
ことにして)。
女性だと、豊川悦司の裸と絡みに萌えるとかあるのかもしれない。

多分、ビデオのレンタルにしてもお金を払ってまでは見ないだろうと
思ったので、興味半分で見に行くことにしたのである。
(客層とかも気になるじゃないですか)
という事で今回、割と辛口かもしれません。

という事で肝心の?客層は単独熟年男性、もしくは若い女性グループ、
それに熟年男女カップルって感じで。
(この辺は実際夫婦なのか、それともそっち系なのか、などと勝手な
事を思いつつ)

で、実際に映画を観た私の感想を書くと、
「で?」の一言である。

この映画は、不倫経験者とそうでない人では感想が別れると思うし、
また男性と女性でも印象は違うんじゃないかな、と思う。
多分、この映画を一番楽しめるのって、似たような経験をしたことの
ある女性なんじゃないかな、と思うのだ。

映画の中の一シーンで、主人公のトヨエツと不倫をしている寺島しのぶ
演じる主婦が、子どもたちへの晩ご飯の支度を済ませたあと、トヨエツ
に会いに行くために、いそいそと綺麗に化粧をする場面がある。

おそらくは、同じような立場にある女性にとっては、このシーンの
子どもたちに対する後ろめたさと、にも関わらず好きな相手にこれから
会うので浮き立つ気持ちに引き裂かれる自分、というシーンが一番響く
んじゃないかな。

それはもしかすると、不倫経験はないけれど、最近夫に対してマンネリ
感を感じている専業主婦の人たちにとっても、妄想的に萌えるポイント
なのかもしれない。

多分、そういうのって、不倫中の人たちにとっては、わかるわかるって
感じのリアルな描写なんだと思うけれど、不幸にも?不倫経験の全く
なく、しかも男性である私には、そんなに身につまされる訳でもなく。

で、そういう女性側の描写に対して、この作品の中での男性側は、
単に「寝取った男」と、「寝取られた男」が出てくるだけ、って感じなんだ
よね。

で、寝取った男の論理として、寝取られた男(だけど、この人は最愛の
妻を寝取った男に殺された被害者でもあるのだが)は、どこか馬鹿にして
いる様な感じがして、ちょっと居心地が悪いのだ。

でね、個人的にこの映画で一番引いたのは、その寝取った男であるトヨ
エツが、バーのママに対して、「子供を3人生んだ主婦でも、抱かれる事
でそれまで知らないエクスタシーを知ることってあるのかな?」と聞い
た後、「男にも2種類ある。女をエクスタシーに導ける男と、そうでない
男の2種類だ」と、得意満面になって悦に入っているシーン。

あのう、このシーン、格好悪いと思うんですけど。

いや別にね、不倫が悪いとか、いいたい訳じゃないっすよ。
別に結婚してようがしてなかろうが、男と女の二人が出会っちゃって、
そこで関係が始まったのなら、その関係が二人にとってどれだけ大切
なのかっていうのは、よくわかる。

それに、逢瀬を重ねるごとに、二人の中で、どんどん相手の深みを知っ
ていったり、(下世話な話でいえば)開発されて、今まで経験しなかった
世界に導く(かれる)ことだって、自分の経験でもあるし。

だけど、個人的には、そういうのを得意気に自慢するのって何だか
不粋で格好悪い気がするのだ。
っていうか、そういうのって、二人だけの秘密か、もしくは本当に
気心の知れた仲間内だけで話してほしい感じがして、あんまり映画で
見て気分のいいもんじゃないような気がして。

この主人公や、原作者である渡辺淳一センセイの底が見えてしまう気が
するんだよね。
大体主人公もその年になるまで、一見貞淑に見える人妻が、相手に
よっては乱れることもあるって事を知らないってどういう事よ。

だからこの作品を見ていると、逡巡しながら瀬戸際を進んでいる女性に
対して、相手を開発したかどうかで悦に入っている男性の方の覚悟が
足りない気がして。

だからこの映画の中で起こる悲劇っていうのは、その女と男の見ている
視線の、すれ違いなのかもしれないな、と思うのだ。


この映画でのテーマって、「不倫の果てに行き着いた、究極の純愛は、
果たして法廷で裁くことができるのだろうか(いや、ない)」だと思う。
だけど、それでいうなら「そんな究極の純愛を、映画で描ききる事が
できるのだろうか(いや、無理)」の方が近いんじゃないかな、と思う。

法廷内で、セックスって言葉が飛び交う裁判っていうのが、なんていう
か、不思議な感じで。
(もしかすると実際の法廷でもありえるのかもしれないけれど)
しかも非公開とはいえ、判事、検事、弁護士のいる前で、セックスして
いる最中を録音した、あえぎ声のテープの再現つき。

なんかね、本人たちが真面目にやろうとすればするほど、微妙な空気が
流れるのが面白い感じだったのだ。
特に、その前に「それでも僕はやってない」を見ちゃったせいで、あっち
は痴漢で、こっちは殺人なのに、警察も検察も随分と親切だなあ、と
思っちゃったせいもあるのかもしれないけれど。

個人的には、二人の関係がどうであったのか、っていうのは、二人の
秘め事、秘すれば花にしておけばいい事だと思うし、それとは別に
被告は実際に被害者を手にかけて死に至らしめたのであるから、その
事実認定しか、法廷では争えないと思う。

あとは被告に殺意があったのか、なかったのかが争点になるべきであっ
て、もし、実際にあんな裁判があったら、被害者の女性とその遺族は
可哀相だなあと思うし。

で、同じことはこの映画にも言えることだと思うんだよね。
さっきも書いたように、不倫であれ何であれ、その二人にとっては、
相手を愛していれば愛しているほど、それは「究極の純愛」なんだと思う
し、その事を部外者が、いちいち評価する物でもないと思う。

でも逆にいえば、その二人の関係っていうのは、普遍性のあるものでは
なく、「世界でたった一つの花」みたいな一回性の貴重さがあるんだから
二人の間の秘め事にしておく方がいいんじゃないかな、と思うのだ。

それは二人の間の秘密であるからこそ、かけがえのないものだろうと
思うし、それが白日の下に晒されてしまえば、それは本人たちの意図と
は別に一人歩きしてしまうのかもしれないし。
ついでに言えば、その関係を貴重に思うんだったら、相手は殺しちゃ
ダメだと思うし。

要は個人的には、「勝手にやって下さい」という感じがして、「で?」と
いう感想になった訳である。

この映画の中で、作家であるトヨエツが、自分が作り上げた作品を、
不倫相手の寺島しのぶのイニシャルをとって「この作品をFに捧げる」と
書くよ、と言っているシーンがあるんだけど、おそらくは似たような
事を原作者の渡辺淳一も、どこぞの誰かにこの作品を捧げるという
プレイをしているんだろうな、という辺りも「どうぞご勝手に」という
感じがして。

最後に映画の出来について書くならば、
検事役で長谷川京子が出ているんだけど、あんなに蛇のような目で
見つめて、しかも被告の前でノースリーブ、ミニスカートになる検事は
いないって。
っていうか、あのテンション変。ホラー映画じゃないんだから。

この映画に余貴美子が出ているんだから、余貴美子が検事役の方が
よかったんじゃないのかな。ついでにその上司役も、佐藤浩市がスライ
ドした方が、もっと大人の関係って感じで、淫靡さが引き立ち、制作者
側、俳優側の両方においしい感じになったんじゃないでしょうか。

ついでに、別に裸の絡みのシーンを作らなくたって、主人公二人の
関係をもっと濃密に、淫靡に描けた気もするんだけど、この辺は
サービスというか、営業上の売りだから仕方がないんだろうなあ。

余談ながら、もしも実際に人妻との入水心中を繰り返した、作家の
太宰治が、裁判にかけられたらこんな感じになったのかな。
もっとも、そう考えている私の頭の中での太宰治って、昔なつかしい
相原コージの漫画「コージ苑」の太宰治なんだけど。


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