パラダイムチェンジ

2006年07月31日(月) 現代霊性論

土曜日、朝日カルチャーで行われた内田樹と釈徹宗和尚の対談講座、
「現代霊性論」を聴きに行ってきた。
このお二人の話を聞くのは、昨年ジュンク堂で聞いて以来の2回目で
ある。

お話は、新作映画「スーパーマン」が実は○○だという話に始まり、
「嫌われ松子の一生」は宗教性あふれる映画だとか、何故私たちは
韓国映画に感情移入できるのか―アジアでは他の地域と異なり、
宗教的な対立はない―など、現代の霊性というか、宗教性についての
お二人の考察が面白かった。

その中で、一番印象に残った言葉は、お二人が「霊性」という言葉を
使うとき、そこには「関係性」とか、「つながり」という意味を込めて
いる、という言葉だった。


でも、そうだと思うんだよね。
以下、誤読というか勘違いを覚悟で、自分なりに掘り下げてみると、
人が「霊」とか「魂」とか「スピリチュアル」なものについて語ろうとする
時って、そこには関係性の問題があるんじゃないのかな、という気が
するのである。

最近は、江原啓之をはじめとして、スピリチュアルな癒しという物に
対する関心が高まっているように思える。

でも、そこで「魂」の問題、「霊魂」の問題にされる時って、関係性が
過剰になっているか、足りていないのか、のどちらかなんじゃない
のかな、という気がするのだ。

妖怪や怪異研究家でもある、京極夏彦の妖怪小説に出てくる、怪異や
妖怪も、普通の論理では片付かない、関係性の問題によって現れて
くると思うし。

つまり例えば自分では納得できない、何か不条理なことが起きた時に
その現象を説明するために生み出されたのが妖怪である、というのが
京極夏彦が妖怪や怪異を扱うときのスタンスだと思うんだけど、これ
って、つまりは、関係性が上手くいっていない理由の説明として、
例えば何かが「足りない」場合、その理由の説明として、ベタな理由で
いうならば、水子の霊で説明されたり、また「過剰」な場合、例えば
それを何かが憑り付いている、という物語で説明している様な気が
するのである。

そして説明された方は、その例えばその不条理なことの理由が、現世
にあるのではなく、時空を超えてつながっている「前世」だったり、
この世のものではない何かによって起きているんだ、という因果を
知ることにより癒される、というのが現在のスピリチュアルブーム、
癒しの仕組みなのかもしれない。

で、本来はそういう物を扱うのって、伝統的な宗教によって取り扱わ
れていたんだと思うんだけど(だからこそエクソシストの様な悪魔
祓いは牧師だか神父の役割だったんだと思うし)、現代の特に日本で
は、伝統的宗教の力が弱まってしまったからこそ、そこに霊魂や、
前世を語ることの出来る、スピリチュアルカウンセラーのような人
に惹かれる人が増えているんだと思うのだ。

もしくは、今回も釈和尚がちらっと話題にした、現在問題になって
いるらしい新興宗教とか、カルトとかね。
それこそが「現代霊性」の問題として、釈和尚がなんとかしたいと
思っている、というのが今回の対談を貫いていたテーマなんだと思う
のである。


魂と関係性ということに関連するならば、臨床心理学者の河合隼雄と
哲学者鷲田清一の対談本「臨床とことば」の中にこんな一節があるの
を思い出した。
以下引用すると、

鷲田 僕、先生と向かっていろいろじっくりお話しさせていただくの
   は今日が初めてなんですけど、実は、先生の次男でやはり心理
   学者の俊雄さんとは面識があります。あるとき彼がもらした
   言葉に目からウロコが落ちました。と言いますのは魂の話で、
   僕はずっと、心とからだの関係を哲学史の中でいろいろ勉強し
   て来たわけです。

   心とからだの関係があって、魂はからだと別のところで考えて
   いたんですけど、彼がボソッと変なこというんです。これは
   ユング心理学の理論に入っているかわからないんですけど、
   「からだが魂ちゃうか」と。で、その中を私というのが出入り
   しているんちゃうかと。今までそういう発想をしたことがなか
   った。

   自分と魂をくっつけて考えるけど、自分と魂を離し、魂と身体
   をくっつける。その河合君の言葉と、ミシェル・セールという
   哲学者の言葉が、僕の頭を本当に切り替えてくれました。

   デカルト以降、ものには大きさがあり広さがありかたちがあ
   る、でも心にはそれがない、だから心には場所がないのだ、
   昔から心はハートにあるとか、のどにあるのか目にあるのかと
   やってきたけど、本当はそんなのないんだ、という理論です。

   それに対してミシェル・セールは、皮膚と皮膚が合わさるとこ
   ろに魂があるといいました。僕らが思うに、それは考えている
   ところにある。足を組んでいたら太ももにある。目をぐあーと
   あけたら、目にある。唇をかみしめたら唇にある。魂というの
   は、からだの折り合わさった、自分と自分が接触するところ、
   そこにあって、たえず身体のいろんなところに移動しているん
   だと。

河合 面白いね(略)

鷲田 河合君の言葉と、ミシェル・セールの言葉は、今まで僕は魂を
   避けていたんですが、こういう言葉だったら、魂という言葉を
   リアルに語れるかもしれない。それ以来少し気が楽になりまし
   た。

河合 それはすごく面白い、魂を求めているんだけど、何をしていい
   かわからない者がセックスするんですよ。皮膚と皮膚が接する
   こと。だから、セックスは意味が深いのだけれど、皆それが魂
   のことだとわからんから、皮膚と皮膚の接触でどんなに気持ち
   いいかと、全然話が別のところに行く。(以下略)



この「魂とは、皮膚と皮膚の合わさるところにある」というのは、私の
様に人の肌に触れる仕事をしていると、よくわかる気がするのだ。
それはすなわち、相手の身体に触れているときに、なんというか、
相手の魂みたいなものに触れていると考えて仕事をしている方が、
こっちの感受性も増すし、仕事の成果も上がる気がするのである。

まあ、それがプラシーボ効果だと言われれば、反論できないけど、
でもそれで成果が上がるならいいんじゃないかな、という気も
するし。

そして、その事を除いたとしても、例えば、私が私の心を意識する
時って、自分の感覚器官が何も働いていない、無意識の時ではない
と思うんだよね。

つまり、心っていうのが、脳内での神経伝達物質による、スパーク
というか、脳細胞の興奮の蓄積であったとして、その脳細胞の興奮
っていうのは、何か感覚器官を経て得られた情報に対するリアクショ
ンなんだろうと思うし。

で、あるならば、逆に言えば例えば目隠しされた状態で、自分の皮膚
が何かに触れた時、それが何であるのかを注意深く探ろうとしている
私の指先には、魂があるといえるのかもしれないし、また、何かを
凝視している時には、視神経の興奮しているところに魂(の一部)が
あると考えてもいいんじゃないのかな。

で、人間の場合、皮膚と皮膚の接触だけでなく、それは言葉を聴き
取ろうとしている時にも当然、魂はそこにあるんだと思うのである。
だからこそ、言葉の呪力っていうのは、強いんじゃないかなあ、
なんて思ったのでした。

で、その霊性や、魂という「関係性」や「つながり」の問題がこれほど
注目される現代社会っていうのは、逆に言えばそれだけ「関係性」や
「つながる」ということが大変だということなのかもしれない。



2006年07月30日(日) 朝まで生テレビ

金曜日の深夜、夜更かしをしたついでに「朝まで生テレビ」の、
「靖国、A級戦犯合祀問題」を途中まで見た。

その中で感じたのは、司会の田原総一郎をはじめとして、靖国問題や
東京裁判の問題を論じるときに、どこか、「あの時敗戦しなかった
日本」もしくは、「そもそも戦争を起こさなかった日本」という、もう
一つの日本というものを思い描いているのかな、という気がしたので
ある。

つまり改憲論や、「普通の国」を目指せという人たちにとっては、
今の日本のおかれた状況というのは、未だ占領下の日本であり、真の
独立というか、日本の歴史をやり直したい、という欲望が隠されて
いるような気がするのだ。

ただ、そこには一つ、抜け落ちているものがあると思う。
もしも61年前、日本が敗けなかったら、もしくはその時、戦争放棄を
うたった第9条を持つ日本国憲法を、連合国の言いなりで制定しない
日本がいたとして、その日本が、現在の様に同じく繁栄しているか
どうかはわからない、という事である。

内田樹が以前、9条に絡んで書いていた話に、もしも戦後の日本が
普通の国として、朝鮮戦争、ベトナム戦争に出兵し、現地で沢山の
現地人を殺していた場合と、今のように9条があるが故に世界の中で
は例外的に一滴の血も流さない「特殊な国」であることと、どちらが
日本の国益にかなっていたか、という話があったと思う。

日本が今のように繁栄できたのは、冷戦構造の高まる中、隣の朝鮮
半島で戦争が起こり、アメリカの核の傘の下でアジアにおける米軍の
戦略拠点、前線基地の役割を果たしながらも、日本はいっさい戦争に
巻き込まれず、経済発展にいそしんできたからだと思うし、その経済
発展にしたって、日本の敗戦を目にした日本の国民たちが、物の豊か
さこそが幸福なのだ、とある意味転向したからこその様な気がするし。

すなわち、日本が今日経済発展を遂げられたのは必然ではなく、様々
な要因が絡まったが故にこうなれたんだと思うのだ。


今現在は、かつての冷戦構造はすでに崩壊し、今まで極東アジアでは
戦争が起きずに済んでいたのが、確かに段々ときな臭くはなってきて
地域間紛争が将来起きるかもしれない、という可能性は増してきて
いると思う。

その時に、現在の政府は日本が「普通の国」になって、国連や世界に
対して金だけではなく血も流せるが故に、自立した国として発言権を
増したい、という気持ちがあるのは、まあわかる。

ただ逆に言えば、少なくとも中国にとっては、それであるが故に、
日本が普通の国になるのは好ましくない、と感じるのだろうと思う。
だって、この先自分達も実力をつけてきて、イニシアチブを取りたい
と思っているときに、日本の発言権がアジアや世界で増してくるのは
好ましくないだろうし。

だから、という形で今がラストチャンス、みたいな気分を盛り上げて
日本を普通の国にしたい、戦後の日本をやり直したい、と思うのは、
わからなくはないが、でもちょっと待って、という気もするのだ。


私自身が、改憲だったり、日本が普通の国になることに、今違和感を
感じるのは、日本で60年前の反省と総括がなされていない、と思う
ことに関係がある。

この話題は、今回の「朝まで生テレビ」でも取り上げられていて、
戦争を始めた責任は、いったい誰にあったのか、という形で取り上げ
られていたんだけど、そこで印象的だったのは、ハルノートがつき
つけられた時、日本の資源量からいって、日本が戦争を起こせば敗け
るのは自明の理だったんだけど、その時、政府も軍の上層部も、軍の
下部組織や、国民の好戦論という雰囲気を抑えることができなくて、
日本は戦争に突入したのだ、という意見だった。

もしもその時、アメリカの要求どおりに、満州をあきらめることが
出来れば、戦争に突入することはなかったとしても、とてもそれが
出来る雰囲気ではなかった、というのが、この番組に出ている政治家
および元外交官の一致した意見だったことにビックリしたのである。

確かに、日露戦争で日本が有利な条件で講和した時でも、新たな領土
を獲得できなかったとして、それを不満に思った民衆によって、日比
谷で焼き討ち事件が起きたのは知っている。

もしもハルノートを受け入れたら、当時の日本の政権は持たなかった
のかもしれないし、クーデターが起きていたのかもしれない。
日本国民自体が、結局痛い目を見なければ、わからなかった事なの
かもしれない。
それにしてはあまりに多くの血が流されたと思うのだが。

でもね、本当の日本の国益を考えるのなら、あそこで踏みとどまると
いうか、時代の雰囲気だけに流されない事ができなきゃいけないと
思うし、それについてあの時は仕方がなかったでは済まされない問題
だと思うんだよね。

その結果として、どこに責任の所在があるのか明確にならないまま、
陸軍と海軍ではそれぞれ別の方向を向いていたずらに戦線を拡大した
挙句に、敗戦を迎えてしまったのが戦前の体制だとするならば、
もしも、今の日本で同じ状況になったとしても、同じことが繰り返さ
れるんじゃないのかな、という懸念をどうしても拭い去ることが、
(今回の国会議員や元外交官の意見を聞いていても)できないのだ。

だって、国境付近の緊張がどんどん高めておいて、それに呼応して
国民の感情が高まっていった場合に、政府の中枢がそれをコントロー
ルすることができずに、自動的もしくはある一定の確率で暴発して
しまうというシステムに対して、安心して命を預けようという気
には、あまりならないと思うのである。

だったら、今回の番組でも姜尚中が言っていたように、日本が普通の
国になるよりは、立場をはっきりさせるのではなく、まだ曖昧な立場
で、特殊な国でいられる内は戦争を放棄した憲法を持つ特殊な国で
あっていいような気がする。
というより普通の国になるためには、その辺のシステムの瑕疵みたい
なものをまず是正しないとまずいんじゃないかと思うし。


そもそも、戦後の日本って、そんなに恥じ入るほどの悪い国だったの
かな。60年間戦争に巻き込まれなかった国というのが、近代史上でも
稀な国で、敗戦後ゼロの状態から、たった30年くらいで世界第2位の
経済力を身につけた国が他にないとするならば、それは安部晋太郎が
自分の著書の副題に「自信と誇りの持てる日本に」なんて書く以前に、
充分私たちが誇りに思っていいことなんじゃないのかな、と思うので
ある。



2006年07月29日(土) 日本サッカーは、コンテンツを超えられるか

ということで、今まで「コンテンツ」について自分なりに考えてきた。
今までの話をまとめると、私の感じる「コンテンツ」という言葉は、
商品価値のあるもの、だけど消費されてしまうもの、というニュアン
スが強いと思う。
そしてそこには、大手広告代理店が仕掛けるメディアミックスと
いったものが見え隠れする。

でね、そもそも私が「コンテンツ」という事について考えるきっかけに
なったのは、今回のW杯サッカーだった。

今回のW杯、日本は惜しくも予選で敗退してしまった。
まあ、もちろんそこには実力の差もあったのかもしれないけれど、
今回のW杯で一番印象的だったのは、サポーターというか、自国の
チームを応援する国民の熱狂度の違いである。

今回のW杯は、ヨーロッパで行われたこともあって、会場でも4年前の
日韓大会に比べて熱い応援が繰り広げられていたし、会場の外でも、
たびたびサポーター同士のいざこざがあったらしい。

今回、スカパーに入っていたことあり、またうちのTVは2画面に分割
できるので、一方では試合を見て、もう一方では、スカパーの、
サッカー解説者やファンが試合を見ながら映像なしで実況中継だけを
延々と続けるというシュールな番組を時々見ていた。

なんでそんな番組を見ていたかというと、セルジオ越後をはじめと
するサッカー解説者の雑談が意外に面白かったからである。
サッカーの試合自体は録画していることが多かったので、その後また
試合だけを見直したし。

で、そのサッカー実況中継番組で、すげえな、と思ったのは、そこに
いる出演者の出身国の試合である。もうね、阿鼻叫喚というか、番組
であることを抜きにして、大音量で応援しているんだよね。

まあ向こうの人がラテン系の人が多いのは抜きにしても、日本代表の
応援の時とは、やっぱりその温度みたいなものが違うなあ、と思った
し、また、日本代表が本当に強くなるのには、私たちも応援の温度が
上がっていかないとならないんじゃないのかな、という気もしたので
ある。


で、今回の日本代表に対するメディアの扱い方、というのも改めて
見直したときに、でもまだ日本代表や、日本サッカーって「コンテン
ツ」の域を脱していないような気がしたのである。

今、日本代表チームに対して、各メディアが熱狂的に報じているのっ
て、やっぱりそれが視聴率を稼いでくれる「おいしいコンテンツ」に
過ぎないからなんじゃないのかな、という気がするのだ。

今回、第2戦のクロアチア戦の後のインタビューで、ジーコ監督が
日本のTV局の都合で、(日本の放送時間に合わせて)現地時間で昼間の
熱い時間帯に試合を行なった事が敗因の一つだ、という発言をし、
注目を集めたことがあった。

その後、日本代表の試合が現地時間15時、日本時間で22時に決まった
背景には、日本の広告代理店、電通の意向があったのではないか、と
いうことも一部で報じられた。

実際に、どの国がどの時間帯に試合を行うかについては、開催国ドイ
ツやヨーロッパでの人気度、注目度も関係して、サッカー強豪国が
現地のゴールデンタイムに試合を行なうマッチメークが行われた結果
日本の試合が昼間に押しやられた、という見方もあるらしいので、
真偽のほどはわからない。

まあでも、放送する側は、深夜1時、4時の試合よりは午後10時の試合
になって得したり、ほっとした一面もあるのかもしれない。

ただね、今回の一連のW杯における日本代表の各メディアの取り上げ
方だけでなく、たとえば、W杯直前の合同合宿をわざわざ福島のJビ
レッジで行い、それをメディアやファンに公開した分、全体に調整の
遅れが目立ったあたりを考えても、今回の日本サッカー協会自体が、
日本代表を「コンテンツ」だと思っていたんじゃないのかな、という
気がするのだ。

大手広告代理店や、マスメディアはただ単に過ぎ去ればいいのかも
しれないけれど、日本サッカー協会が、今のサッカー人気を盛り上げ
価値を上昇させようと思っているあまりに、本当にしなければならな
い事を読み違えてしまったような気がするのだ。

できれば、今度のオシムジャパン以降では、日本サッカー協会も
サッカーバブルにするのではなく、長期にわたった日本サッカーの
強化策を考えてほしいなあ、と思う。

確かに、これから先も、W杯、日本代表人気に比べて、Jリーグの人気
は、さえないのかもしれないけれど、でもその一方で、国民が注目す
るW杯も3回目を迎えることで、その見方も段々と成熟してきたり、
サッカー人気も定着してきているんじゃないのかな。

それは確かにヨーロッパや、南米の本場と比べたらまだまだ物足りな
いかもしれないけれど、日本という国の中で、サッカーという魅力的
な競技に対する人気が段々と定着していくにしたがって、日本サッカ
ーも、もっと強くなっていくような気もするし。

少なくとも、日本代表やW杯について、ワイドショーでいちいちルー
ルから始めて解説しなきゃいけない間は、日本サッカーはまだ、コン
テンツの域からは脱していないのかもしれないけれど。



2006年07月28日(金) コンテンツ(その2)

ということで「コンテンツ」について引き続き考えてみる。
これは私の勝手な思い込みかもしれないが、最近、「コンテンツ」と
いう言葉が飛び交う時って、ビジネスに結びついていわれる事が多い
ような気がする。

すなわち、魅力的な「コンテンツ」とは、商品価値が高い(人目を引く
事ができる)作品について言われることが多いような気がするのだ。
加えて、ビジネス的には、メディアミックスというか、その魅力的な
コンテンツを核にして、多種多様の商品展開や広告展開ができれば
いうことがない、みたいな感じで。

でも、その一方で言うならば、そうやって商用利用の部分ばかりに
目が行き過ぎて、「コンテンツ」の寿命自体は短くなっている様な気も
するのである。
すなわち、「コンテンツ」として注目された分、消費され忘れ去られる
のも早くなっている気がするのだ。

最近、たとえば消費しつくされた感のある魅力的だったコンテンツと
しては、「踊る大捜査線」シリーズだったりとかね。
まあ、10年近くも引っ張れたことを考えれば、制作した側も御の字
なのかもしれないけれど。


ちょっと前、「水曜どうでしょう」ファンの知り合いの人と、何で
「水曜どうでしょう」は全国放送しないんでしょうかね、という話で
盛り上がった。

「水曜どうでしょう」というのは、北海道の地方TV局で制作された旅
バラエティ?番組なんだけど、全国の地方局を中心に放送されること
で全国に熱狂的なファンを生み出した番組。

この番組のMC?だった大泉洋はこの番組をきっかけにしてスタジオ
ジブリの宮崎駿の目に留まり、声優としてのデビューを果たし、
今ではドラマでもよくみかける様になっている。

で、その「水曜どうでしょう」、それだけ人気のある番組であるにも
関わらず、東京ではほとんど放送されていないのだ。(過去に何回か
放送されたことはあるのだが、レギュラーで放送はされていない)

で、なぜなんでしょうね?という話をしながら、ふと、そこには大手
広告代理店が絡んでないからなんじゃないかな、と思ったのである。

水曜どうでしょうという番組自体には、それ単独のイベントが開かれ
るほど、熱狂的なファンも多いし、おそらくは東京で放送されれば、
今以上に人気を博す力があるほど、魅力的なコンテンツだと思う。

そしてそんなに魅力的なコンテンツをおそらくは大手広告代理店が
見逃すはずはないので、おそらくは魅力的なオファーは、日々制作
サイドにも舞い込んでいるのかもしれない。
だけど、おそらくは制作サイドが、そのオファーには乗らなかった、
というのが、全国放送されない理由の一つなのかもしれない。

私の知り合いの人は「ファンは今のままの水曜どうでしょうを応援し
ているから、制作サイドも裏切れないと思っているんじゃないかな」
と言っていたし。

つまりは、単に人目を引くけれど、寿命の短い「コンテンツ」ではなく
て、見る側も制作される側も愛情を込めた「作品」になっているんじゃ
ないのかな、と思ったのだ。


で、そういう目で見ると、阪神電鉄買収で、村上ファンドのムラカミ
さんが、上手くいかなかった理由も考えられるんじゃないのかな、と
思うのである。

つまり、ムラカミさんにとって「阪神タイガース」っていうのは、
商売上魅力のある、だけど消費してしまう「コンテンツ」に過ぎなかっ
たのに対して、熱狂的なタイガースファンにとっては、それは消費
されないもの、商売抜きにして大切なものだったんじゃないのかな、
と思うのである。

そこをムラカミさんが見誤ったのが一番の失敗だったのかもしれない
なあ、と思うのだ。

後は、昨年起きたエイベックスの「のまねこ騒動」も、コンテンツ(=
消費しちゃうもの)と、モナー(消費されないもの)の争いだった様な
気がするし、また最近だと、亀田三兄弟のメディアでの取り上げられ
方っていうのも、どこか商品価値としてのコンテンツの匂いが感じ
られる気がするのである。


でね、そう考えたときに今、連敗街道まっしぐらの巨人って、親会社の読売新聞や、日本テレビにとっては、果たして単なるコンテンツか
そうでないのか、って結構微妙なラインじゃないのかなあ、という
気もするのである。

今までは、部数拡大や視聴率獲得の原動力という魅力的な商品で
あったことは間違いないと思うんだけど、今のように人気に陰りが
見えてきて、だんだんと少なくとも視聴率で足を引っ張るお荷物に
なってきた時に、彼らの本心があらわになってくるような気もして。

阪神タイガースと巨人を比べたときに、今人気に差があるように見え
るのは、コンテンツとして消費してしまったかしてないかの差にある
ような気もするのだ。
もしくは、単なるコンテンツ、消費されるものを超えられるかどうか
が一つの境になるのかもしれない。

ということで、もう少しだけ続きます。



2006年07月27日(木) コンテンツ

最近、コンテンツということについて、(特に考える必要もないのだ
が)考えている。
ここでいう「コンテンツ」というのは、あのライブドアによるニッポン
放送買収や、その後に起きた「放送と通信の融合」の時に言われていた
「コンテンツ」の意味に近いかもしれない。

あの時、ほりえもんやそして今でも楽天のミキタニさんがTBSの株を
買い占めたのは、結局放送局の持つソフト制作能力と、過去の豊富な
コンテンツが目当てだったのではないか、と思う人が多いのではない
かと思う。
逆に言えば、それだけソフト制作能力や、豊富なコンテンツといった
ものが、ノドから手が出るほど欲しい位に不足している(もしくは
いくらあっても困らない)物なのだと思うのだ。

そしてそれは実は、多チャンネル時代を迎えた放送業界にあっても
同様なのだろう。

で、なんでじゃあそんなに「コンテンツ」が欲しいのか、といえば、
一つには、放送する時間や、オンデマンドで放送するためのサーバー
の隙間を埋めるためなのかもしれないし、もう一つには、目玉となる
ような、人目を引く魅力的なコンテンツ(キラーコンテンツ)が欲しい
からなのかもしれない。

なんて事を思ったのは、最近、スカパーに加入したからなのかもしれ
ない。
スカパーは加入後2週間は、お試し期間として全てのチャンネルが見
放題になる。

で、その2週間の間、スカパーの様々なチャンネルをザッピングしな
がら過ごしたのだが、自分が面白いと思う番組って、意外と少ないん
だなあ、という事に気がついたのである。

これが無料だったら別に問題ないけれど、わざわざ金を払ってまで
見るかなあ、というチャンネルや、見たいなあとは思うけど、月々の
料金高いなあ、と思ったりで。

ということで結局うちのチャンネルは、ディスカバリーチャンネルと
いうアメリカのドキュメンタリー番組と、ルパン三世とか元祖天才
バカボンを放送しているアニメチャンネルに落ち着いたのである。
両方とも、月々500円くらいなら、まあいいかなという感じで。

ということで、少なくとも私の場合には、お金を出してまで見たいと
思う魅力的なコンテンツってなかなかないんだなあ、と思う一方で、
でも、コンテンツって、その一方では内容云々ではなく、ビジネス上
一人歩きしている部分もあるのかなあ、と思ったのだ。

ということで長くなりそうなので次回に続く。



2006年07月24日(月) 靖国問題

昭和天皇が、靖国神社でのA級戦犯合祀に不快感を示していたと
される、元宮内庁長官の富田メモが発表されたことが現在波紋を
広げている。

この富田メモの背景については、東京新聞7月21日の核心欄と、
翌日22日の特報欄が詳しく、またわかりやすかった。
この報道が、小泉首相、石原都知事など、靖国神社参拝派?の人たち
の行動を変えることはどうやら無いようである。

今回のメモ後の彼らの行動を見ていると、2004年の園遊会で、当時?
東京都教育委員の米長邦雄が、「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を
斉唱させることが私の仕事でございます」と発言したのに対し、
今上天皇陛下が、「やはり、強制になるということではないことが
望ましい」とご発言なさった後、その発言を「無かったこと」に
しようとしたリアクションを思い出す。

ここまで来ると、これは彼らの信仰の問題であるといえるのかも
しれないし、彼らが靖国神社に参拝するのは、確信犯であるといえる
のかもしれない。

彼らにとって、信仰の対象になるのは、天皇陛下個人ではなく、
2600年続いてきた(と彼らの信じる)天皇制と(もしかしたらありし日
の)日本なのだろう。
そしてそれこそが、戦前も含めて、日本が天皇機関説で動かされて
きたということの証明であるような気がする。
彼らにとっては、天皇陛下は「声も聞けず姿も見えず」位の方が、
勝手に共同幻想をふくらませる事ができて好都合なのかもしれない。

この靖国神社参拝問題、話がややこしいのは、この個人の信仰心の
問題が、政治問題、外交問題になっていることなのだろう。
そこには、個人の信仰心の問題と、国の外交方針の問題がねじれ現象
を起こしているからであって、一筋縄で解決は出来そうもない。

個人的に、この問題でどこか違和感を感じるのは、彼ら確信犯の人
たちが、自分の信仰心に基づいて、靖国神社を参拝することには、
異論を唱えるつもりはないけれど、たとえば彼らの思想や行動が、
日本の代表としてとらえられかねない雰囲気が、国の内外にあるから
である。
少なくとも私は、彼らと同じ思想ではないと思うし。

(と、いう発言が出来るのも、今が平和だからなんだけど。これが
戦前のある時期だったら、こんな事をチラシの裏に書いただけでも
非国民扱いされるのかもしれない。そして私はそんな風潮になる事が
一番嫌いである)

だから一番の問題は、この靖国神社参拝の問題を、政治問題化した
のは、一体誰なのか、という事だと思うのだ。

普通に考えるのはそれは韓国や中国が、騒ぎ立てるからだ、と思うの
かもしれない。だけど、そもそも、TVメディアが8月15日に靖国神社
の前で待ちかまえていなければ、その個人の行動がおおっぴらに報道
されることも無いわけだし。

ついでに言えば、そもそも小泉首相の靖国神社参拝問題を、政治問題
にしたのは、小泉首相本人だと思うのだ。
もしも彼が総裁選で靖国神社公式参拝を公約にしなければ、この問題
がこれほど大きく報じられることもなかったと思うし。
それを騒ぎが大きくなってから、「個人の信教の自由です」と彼が
開き直るのも、場当たり的というか、どうなのかと思うのだが。

ついでにいうと、中国、韓国がこの問題について、これほどヒステリ
ックとも思えるほどに騒ぎ立てるのって、主に確信犯の方たちが、
靖国神社で英霊たちに語りかけるほどにも、現実の中国、韓国政府と
話し合おうとしていないというか、重要視していないように見える
からだろう。

もしも彼らがもっと韓国、中国と対話を行っていたならば、この問題
がこれほど深刻にはなっていないと思うのだ。
逆にいえば、彼ら側から見れば、自分たちを軽視している人たちが
靖国神社という、彼らにとっては侵略の象徴と見なしている所に
参拝しているのを見れば、面白くは思わないだろうし、それを政治的
に利用させる隙をこっちが作っているとも言えるわけで。
その隙につけ込んでくるとはひどい、なんていうのは、ちょっと
ナイーブすぎる気もするのである。


最後に、私個人の靖国神社と、A級戦犯合祀についての雑感を述べて
みる。
今回の騒動でも、そもそも戦犯とは、戦勝国が勝手に開いた軍事法廷
で、勝手に断罪された被害者たちである、という意見がちらほら聞か
れる。

ならばと思う。
そう本気で主張する人たちは、その戦争で、何百万人もの人たちを
死地に追いやった責任は一体誰にあると思っているのだろう。
もちろん、その責任の一端は、昭和天皇にあると思う。
であるが、昭和天皇が、すべての軍事作戦と、外交問題を戦前統括
していた訳では無いことは、当時の資料を見てもわかると思う。

すべての戦犯となって処刑されてしまった人たちに、その責任がある
とも私は思っていないが、少なくとも国を実際に動かしていた人たち
に、その責任が全く無いとは私にはどうしても思えない。

そして一番の問題は、国体の護持(天皇制の存続)の問題と相まって、
その当時から現在に至るまで、その総括と反省が日本国内でなされて
いない事だと思うのである。

ただし、それは責任の所在を明らかにし、断罪を加えれば物事が一気に解決するとも私は思っていない。

彼ら戦犯の方たちは、罪人の汚名を背負って、非業の死を遂げた訳
だけど、でも逆に彼らに罪をかぶせることによって、少なくとも
60年前の日本は上手く再出発することができたと思うのである。
そして一方的に罪人の汚名をかぶって非業の死を遂げたのは、日本史
上、彼らだけでもないだろう。
たとえば新撰組の近藤勇だって、無念だったといえるのではあるまい
か。

日本の場合、そういう無念の死を遂げた人たちの霊魂を、荒魂として
神社にお祀りして、安置するという伝統が昔からあった。
ただしその場所として、少なくともA級戦犯の人たちを安置する場所
として、靖国神社が適当であるとは私には思えない。

それでは彼らの魂が安らかにはならないというのは、今現在の騒動を
見てもわかるのではないか。

たとえば遺族会の人たちや、戦犯の遺族だった人たちが私的に彼らの
魂を祀る神社を造ったって誰も文句は言わないだろうと思う。
今の議論のように、彼らを靖国神社から「除け者」にするのではなく
彼らが安らかに眠れる為の彼らの為の特別な社を靖国神社とは別の
場所につくればいいんじゃないのかな、と思うのだ。

そうすれば確信犯の方たちも、自分が戦場で最期を遂げた英霊たち
にお参りするのか、それともそうでないのか、自分たちの旗色がはっ
きりして、すっきりすると思うんだけど。

でも本当に一番安らかに眠らせてくれ、寝た子を起こすな、と思って
いるのは、彼らA級戦犯や、英霊の人たちなんじゃないのかな。



2006年07月23日(日) 深夜寄席

土曜日、岩盤浴に行った後、深夜寄席に行ってきた。
深夜寄席というのは、新宿三丁目にある寄席、末広亭で毎週土曜日
9時半から開かれている催し物で、二つ目さんという、若手の噺家
さんの落語を500円というお手軽な値段で聞ける機会なのである。

ちなみに普段、寄席に行こうと思うと、3000円弱かかることを考え
れば、お得なのがわかると思う。

まあ二つ目さんたちという事もあって、内容は玉石混合、良いときも
あれば悪い時もあるけれど、一回もクスリとも笑わずに帰ってくる、
なんて事はなく。

寄席に行って、生で噺家さんの噺を聞いていて思うのは、皆さん
やっぱり声がいいなあ、という事である。
落語って、自分の身一つで複数の人間を演じ分けるだけでなく、
その状況を説明しなきゃいけないわけだけど、その辺は二つ目さん
といえどもさすがに何年も修行してきただけあって、すっと引き込ま
れるのは、流石だと思うのだ。

ということで、岩盤浴行って美味しいビールを飲んだ後、大いに
笑わせて頂いて、元気になった週末でした。
でもその後、元気になりすぎて、ついつい夜更かししてしまった
(全英ゴルフを最後まで見てしまった)のは、まあちょっと余計だった
かもしれないのだが。
果たして今夜は早く眠れるかなあ。



2006年07月22日(土) 岩盤浴

女もすなる岩盤浴というもの、男もせんと思いしてみるものなり。
ということで、岩盤浴に行ってきました。
岩盤浴って、女性専用の所が多いので、いっぺん体験してみたいなあ
と思いつつも、かなわずにいたんだけど、最近、神保町の交差点に
ある岩盤浴のお店が、男性もOKなのを発見。ということで早速
行ってみることに。

ちなみに岩盤浴の料金は2200円で500mlのペットボトルのお水と、
レンタルのサウナ着とタオル2枚付き。

とりあえず初めてだったので、そこの説明に書いてあるとおりに
やってみました。

岩盤浴っていうのは、岩石を下から温めることで遠赤外線を出し、
その上にタオルを引いて寝そべることで遠赤外線で身体を中から
温め、汗を出す効果があるらしく。
室内は低温サウナというか、ホットヨガが出来る位の温度になって
いて。

説明を受けたとおりに岩石の上にタオルを引いて、最初はうつぶせで
15分寝そべり、その後15分、今度は仰向けに寝た後、5分休憩し、
とやってみたんだけど、とりあえず最初の数分ですでに汗だくの状態
で。

私は元々汗かきなので、これ位の汗をかくのは、何も岩石の上に
寝そべらなくても、夏は家で冷房をかけなければかくのになあ、
なんて思っていたんですが、終わった後しばらくして、自分の身体が
結構元気になっていることに気がつき。

普通汗をかくと消耗するって感じなんだけど、やっぱり深部が温め
られたおかげなのか、それとも本当に身体から毒素の抜けたデトック
ス効果だったのか。
終わった後は、結構スッキリするだけでなく、疲れもとれた感じで
心地よかったです。

ま、実を申せば岩石の上に寝そべっている間中、冷えたビールが
飲みたくてしょうがなかったんですが。
ということで、岩盤浴終了後は、近くにある餃子屋さんに直行。
冷えたビールと餃子で生き返りました。
でも、本当にこの一杯がいつもより美味しく感じられた分、得した
感じかも。

またそのうちに試してみたいと思います。



2006年07月20日(木) 茨城ゴールデンゴールズの今後について

所属する某タレントの不祥事によって(しかし、17歳女性に暴行を
したとして任意で事情聴取を受けた○○さん、というのは、日本語
として何か変だと思うのだが)、オーナーによって突然の解散宣言を
されてしまった茨城ゴールデンゴールズ。
個人的には、解散させてしまうのはもったいないと思う。

ついでに言ってしまった萩本欽一監督兼オーナーにしても、あそこ
まで言うんじゃなかった、みたいな気持ちの逡巡もあるような気が
するし。

一番いいのは、地元の人たちやファンの人たちの、やめないで、
という存続を望む声に後押しされて、欽ちゃんが解散を思いとどまる
というのが、一番だと思うんだけど、もしも物事がそう簡単に済まな
かったとした場合。

たとえば、8月のクラブ選手権でゴールデンゴールズが優勝したら
存続可能にする、というのはどうなんでしょう。そうしたら選手たち
も頑張って、もしかしたらもしかするかもしれないし。

でもね、本当はそんなこと言わなくても、茨城ゴールデンゴールズは
クラブチームなんだから、萩本欽一オーナーが責任を取ってオーナー
の地位を辞任したとしても、そこに残ると決めた選手たちで存続させ
ることって、できるんじゃないのかな。

つまり、選手たちによって自主運営されるクラブチームに生まれ変わ
ればいいんじゃないんでしょうか。
もちろん、あれほどの社会人チームを運営していく上では、スポン
サーだとか、欽ちゃんのネームバリューによって集まっているお金と
いうものもあるだろうし、ゴールデンゴールズの欽ちゃんのマイク
パフォーマンスが聞けなくなるのは、ちょっと寂しい(というか、
その場合、TVなどのメディアで取りあげられる事がないので、わから
なくなってしまう)。

だからその場合、選手たちによって自主運営されている茨城ゴール
デンゴールズの雇われ監督として、萩本欽一を雇ってしまうというの
はどうなんでしょう?
ま、おそらくそんなに高い給料にはならないと思いますが、そうすれ
ば、欽ちゃんも選手たちに迎えられる形になって、丸く収まるような
気がするんですが。

それくらいの洒落がきいたっていいんじゃないのかな。騒動を起こし
た元タレントを含めて、誰も茨城ゴールデンゴールズが消滅すること
を望んでいる人もそんなにいないと思いますし。



2006年07月16日(日) 明日の神話



日曜日、汐留にある日テレまで、岡本太郎の「明日の神話」を見に
行ってきた。
「明日の神話」は、広島・長崎の原爆をモチーフにした、横30mもある
壁画で、メキシコのホテルの為に描かれたのがそのホテルが倒産して
しまい、その後行方のわからなかったらしい、「幻の作品」であり、
なおかつ大阪万博の太陽の塔と並び、岡本太郎の最高傑作である
らしい(以上、日本テレビのWebサイトより)

それが期間限定で、日テレの地下1階に展示されているらしいので、
夏休み前に行ってみよう、と思ったのである。
ちなみにこれが初めての汐留(シオサイト)だったんだけど、新橋駅
から徒歩数分で着くくらい近所でした。

日本テレビは、今年の夏は「Be TARO」をキャッチフレーズに、岡本
太郎をフィーチャーしていて、その裏には糸井重里の影がちらほら
と見えるんだけど、岡本太郎と言えば、私たちの世代にとっては、
「TVで見かける変なおっさん」であり。

だけど、この壁画にしてもそうなんだけど、この色の使い方とか、
構図とかは、岡本太郎にしか描けないものだよなあ、と思うので
ある。
ピカソとはまた別の意味で、迫力を感じるというか。
個人的にはピカソが平面的であるのに対して、岡本太郎の絵は立体的で、浮かび上がってくるように感じるのだ。



かと思うと、絵の端っこの方には、こんな感じの今でいう萌え〜な
絵が描いてあったりするのも微笑ましいというか。


個人的に、岡本太郎のエピソードで一番印象に残っているのは、
岡本太郎のパートナーであった岡本敏子とよしもとばななの対談本、
「恋愛について話しました」の中にあった、こんなエピソードである。

 アナウンサーが男の子に「お母さんとどんな話するの?」と聞いた
のね。そうしたら「話なんかしないよ。言うことはわかっているんだ
から」と言ったの。

 そうしたら岡本太郎さんは猛然と怒り出して、「わかっとるとは
何だ。おまえさんたちがそんな生意気な口をきくようになるまでに、
その一人の女が、どれほど自分の命、やりたいこと、いろんなことを
抑えて、犠牲にして、おまえさんたちのためにやってきたかわかって
いるのかッ。

まあおまえさんたちが、そんな生意気な口をきくようになったのは、
お母さんも悪い。本当に人間として、人と向き合わないで、子供は
子供で、相手はお母さんなんだから、やってくれるのが当たり前だ、
というふうになれ合って、母親は母親で、子供なんだから何しても
いい、自分のものだみたいにしてなれ合って、そういう不潔な関係を
やっているから、そういう子に育ったんだ。

それはお母さんも悪いけれども、もう十いくつになったら、ちゃんと
した一人前の人間なんだ。自分のそばに、一番身近にいる女の人が、
どんな思いを持って、どんな一日、一日を生きているかというのが
見えないはずはない。それを見ていないというのは、おまえさんたち
が鈍いんだ、ダメなんだ。それは母親も悪いけれども、それだけの
男になったら、そばにいる女が、どんな思いで生きているかという
ことをちゃんとわかるべきだ」
というふうにすごく怒っているのね。

 そうしたら、彼らは初めはきょとんとしちゃって、「このおじさん
は何を言ってるんだろう」と思っていたのが、そのうちにだんだん
真剣になってきて、身を乗り出して聞いて、よかったですよ。
 そういうふうに、ちゃんと向き合わなきゃね。


この岡本太郎が怒った相手というのが、小学生くらいの男の子たち
らしいんだけど、その中に一人だけ何故か交じっている岡本太郎の
いるTV番組、しかも至極まともなことをいう岡本太郎の姿というのも
見てみたかったなあ、と思うのだ。

ついでに最近のリセット症状群にかかっている若者たちにも、
真剣に向き合ってくれたらよかったのにね。



2006年07月12日(水) 北朝鮮にミサイルを撃たせない方法

といって、別に専門的な意見があるわけでもなく、単なる素人の
独り言ですが。

今回のテポドン2の発射には、軍部と共産党中央部の対立があるとか
なんか色々な読み方があるようですが、その前後、横田めぐみさんの
夫だった人と韓国にいる家族との再会を演出したり、はたまためぐみ
さんの入院していた病院をそれが真実かどうかは別として公開したり
とか、様々なアクションを海外に向けてしていたことと併せて考える
と、何というか、北朝鮮の政府の人たちは何とかして対話(しかも、
できれば個別に)対話のチャンネルを開いて、各国から経済援助を
引き出したかったのかなあ、と。

で、テポドンにしても、撃つよ撃つよ、と言ってたら皆がなだめて
くれるかと思ったら、結局引っ込みがつかなくなっちゃった、みたい
な感じなのかなあ、と。
ま、だからといって北朝鮮の政策の方針をほめるつもりは全くない
訳ですが。

でもね、もし日本がミサイル防衛に費やす巨額な(しかも本当に充分
な精度があるかどうかはその時にならないとわからないみたいな)
お金を使うのであれば、その代わりに公式であれ非公式であれ、北朝
鮮政府との間に、対話のチャンネルを持っていることの方がはるかに
安上がりな気がするのですが。

あの、小泉訪朝と、今はもう死語になりつつある日朝国交正常化交渉
と、それに伴う拉致された人たちを北朝鮮が認めたことにしたって、
その裏には、田中均という一個人が、非公式に北朝鮮の高官との間に
外交チャンネルがあったからこそ、実現したんだと思うわけだし。

その陰で、彼が北朝鮮に対して、果たしてどんな交渉をし、はたまた
譲歩や援助を申し出ていたのかは知らないけれど、でも今の北朝鮮が
ミサイルを撃つかもしれないという危険性がある時には、安全保障上
から言っても、一つの外交施策に有り金すべてをかけるのではなく、
もう一つ二つのオプションを持っておくのが普通なんじゃないんだろ
うか。(もちろん、私たちのあずかり知らぬ所で政府はそういう努力
を惜しまず続けているのかもしれないけれど)

ここで国連安保理で、経済制裁動議を無理してかけて、実際に北朝鮮
を実際に経済封鎖したからと言って、それですぐに金正日政権が倒れ
ると言うわけでもないだろうし、またもしも万が一、金正日政権が
もう虫の息で後一押しで倒れるとしても、その後の北朝鮮に対して
どう関わっていくのか、というグランドデザインが、日本政府にある
とも思えないし。

どうせその被害を被ったり責任を取るのは韓国や中国なんだからうち
は関係ないね、なんて思っているんだったら、果たして話はそう簡単
にいくのかな、という気もするのだ。
(むしろその場合、今後中国、韓国の国力が強くなった時には、あの
時何にもしなかったくせに、みたいにまた恨まれそうな気もするし)

と言うわけで、個人的には、日本がどこかで非公式にでも北朝鮮と
対話できるチャンネルを持っていた方がいいんじゃないのかな、と
思うわけですが。

向こうがミサイル撃つよ、撃つよ、と言っている時に、まあまあ、
とりあえず経済援助するかどうかは確約はしませんがお互い話合い
ましょうよ、ね、まあ武器はおいといて。
位の事を日本政府やブッシュ政権が持ちかけて、その上で生かさず、
殺さず、水道の蛇口をこっそり閉めておく位の腹芸をしている方が
もう少し物事も平和に進むんじゃないのかな、という気もするんです
が、以上は単なる印象と言うことで。



2006年07月09日(日) 爆笑問題×東大 〜東京大学の教養〜

昨日、たまたまTVをつけてチャンネルを回していたら、NHK教育テレビ
で、爆笑問題が東大教養学部に乗り込んで、東大生と先生相手に「教養
とは何か」というのをやっているのがとても面白かった。

人は、自分の立場を離れてはなかなか発言できないと思うんだけど、
東大生と教授が、その立場から離れられなかったのに対して、爆笑問題
の太田光は、なんというかお笑い芸能人としてではなく、人間太田光と
して、発言しているように感じられて格好よかったのである。

私は途中から見たので、最初のほうは見てなかったんだけど、
東大の教授が、「教養っていうのは、感動体験なんだ」と言ったときに
太田光が、「でもね、先生、それを授業でやろうっていうのは、大変
だと思いますよ。感動を押し付けちゃったらそんなの感動でも何でも
ない訳だし」
と言ってたのが、印象的だった。
細かなニュアンスは違うかもしれないけれど。

そうなんだよね、人間、何かに感動するかどうかって、多分「お勉強」で
は難しいような気がするのである。
で、出てきた東大生の人たちの印象って、どこか「お勉強」としての教養
って感じがしちゃうというか。

太田光が言っていたことで印象に残ったフレーズがあと2つある。
一つは、「東大生の人たちには、東大の授業ですら、全てを疑うという
感覚を持ってほしい」ということと、
もう一つは、ただ単に全てを疑えばいいという訳でもなく、「たとえ
どんなに高尚な素晴らしい事を考え出したと思ったからって、それを
周囲の人にわかる様な言葉にできなければ意味がない」というニュアン
スの事を言っていたような気がする。

そしてその例として、太田光は「レオナルドダヴィンチ」と「ピカソ」を
挙げる。
いわく、レオナルドダヴィンチとか、ピカソがすごいって言うのは、
彼らの業績を、何百年後の人間でさえ、この作品はすごい、といって
ちゃんと見るように残っていることだと。

そして、なぜそれでは彼らの業績が今でも参照されるのかといえば、
彼らの表現していることなら、たとえそれが幼稚園児の落書きの様で
あったとしても、彼らなら何かあるに違いない、と周囲の人や現代の
人が作品に耳を傾けるからだと。

それはつまり、彼らにはメディアとしての力があるということであり、
逆に言えば、現代、どんなにすばらしい業績を残していたとしても、
それを周囲の人に伝えるだけのメディア力がなければ、それは単なる
独りよがりか、もしくは象牙の塔の中だけの出来事であって、世の中に
なんら影響を及ぼさない。だから教養というものは、そういう高尚な
立場から日常の世界に持ってくる必要があるんじゃないかと。

でも、それは東大や大学の教養に限らず、全てのことに当てはまる気が
するんだよね。

個人的に、教養っていうのは、神棚に飾って有難がるものではなくて、
いかに自分が物事を考えるときのものさしや、参考にできるか、って
いうことのような気がするのだ。
それがなければ、それは単なる教養という名の、トリビアルな豆知識
とか、うんちくにしかならない訳で。

またそのためには、ただインプットするだけでなく、自分なりの感覚と
いうか、言葉に翻訳できて初めてその教養が身につくというか、物に
できるような気がする。

もちろん全ての教養が簡単に飲み込めるわけではなく。
ただ、そういう歯ごたえがあり、消化しにくいものも、ペッとすぐに
捨ててしまうのではなくて、ある日それがおお、わかったという日が
来るまで保留しておく忍耐力のあるなし、みたいな物も必要だと思う
し。

そうやってお勉強における感動体験って初めて生まれるんじゃないの
かな。
つまり、何かを疑い、そして異物を飲み込んだり、消化できる様に
なるって事は、以前の自分とは変わるって事だと思うのだ。

で、自分が変わるって体験のない教養は、単なる「お勉強」やうんちく
なんじゃないのかな、なんて思うのである。

ちなみにこの番組、7月15日(土)深夜に、再放送の予定もあるらしい
ので、興味のある方は是非どうぞ。


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