パラダイムチェンジ

2006年03月31日(金) 英語三昧の日々、みたび

3月の後半は、仕事で英会話漬けの日々を過ごすことになった。
昨年と同様、父親の元に海外から受講生がやってきて、私は通訳の
人のサポート役を務めていたのである。

父親は仁神術という、整体というか手技療法の日本での継承者であり、
また仁神術は、日本発祥の整体法なのだが、日本で唯一その技術を
継承しているうちが怠けているために、日本ではほとんど知られて
いないのだが、アメリカをはじめとする海外では、代替療法、家庭医学
療法として、まあ知る人ぞ知る位には有名なのである。
この辺については、そのうちにでもまた。

今回は今までとは少し異なり、第1週が父親のワークショップでこちら
はちゃんと通訳がついていたんだけど、第2週にあたる今週は、通訳の
人がいないので、自分で父親の話を通訳しなければならない羽目に
なり。

今回来た受講生の人は、昨年同じ時期に来た人でもあり、時々メール
のやり取りをしている、いわば顔見知りの人なので緊張はしないん
だけど、問題は私の英語能力なのである。

その人には、昨年と比べて私の英語が飛躍的に上達した、と誉めて
もらったんだけど(まあ、大体以前に会った外国人にはそう言われる
のだが)、私の実感としては、一進一退もしくはせいぜい三歩進んで
二歩下がる、という感じであり。

ただね、今回自分で面白いなあ、と思ったのは、私の英会話能力が、
ある事をすることによって、飛躍的に向上する瞬間がある事に気が
ついたのである。

それは、自分自身がその会話相手の施術をしている時。
患者さんとして、その人の身体を触れる前と後とでは、英会話における
言語能力に極めて大きな差が見られたのである。

多分これって、よくメディアのインタビューに慣れていない野球選手
が、ボールを手にしていた方が、上手く話すことができる、なんて話
を聞いたことがあるんだけど、それに近いのかもしれない。

施術中とか、施術後だと、頭の中でちゃんと英語の回路がつながって
いて、自分の言いたい単語が自然と浮かび上がってくるんだよね。
これがただ単に父親のそばに座っているだけど、まるで頭がセーフ
モードになってしまうくらいに、パフォーマンスが落ちるのである。

って事はこの先、少なくともしばらくは、私は自分が円滑に話したいと
思う人に対しては、まずはその人の身体に触れるなり(いやらしい意味
でなく)、施術をしなきゃいけないんだろうか。
それはそれで難儀な身体である。

もう少し楽に話せるようになるといいなあ。



2006年03月27日(月) 新宿上空いらっしゃいませ

月曜日、ヘリコプターに乗ってきた。
東京上空を遊覧飛行するアレである。
いや、やっぱりね、一度は飛んでみたいじゃないですか、東京上空。
そして一度は空から見てみたいじゃないですか、東京の夜景。

ということで今回利用したのは、>> こちら
浦安(舞浜)のヘリポートから、新宿上空まで回ってくるコース。
乗り合いタイプなので、一人20分で14000円ちょっと。
これを高いと思うか低いと思うかは、人それぞれだと思うけど、
個人的には、その価値は充分にあると思います。

予約した飛行時間の30分前までに、ヘリポートに行って受付を済ませ、
自分が呼ばれるのを待っている内に時間が来て、ヘリ倉庫へ。
そこで、手荷物を預け(カメラ・携帯電話は、持ち込み不可。ビデオ
カメラで、ライトをつけない場合のみOKらしい)、簡単な説明を受けた
後で、ヘリの発着場へ。

さて機体に乗り込むと、シートベルトを着用し、すぐに空中へ。
眼下には、東京ディズニーリゾートが見え、次第に小さくなっていく。
シンデレラ城も思った以上に小さくて。

そこから一気呵成に都心へと向かう。
葛西臨海公園の観覧車、お台場を横に眺めつつ、まずは東京タワーへ。
ここで!東京タワーを一周してくれる。
もうそれに大感動。

その後は、右に六本木ヒルズを眺めつつ、渋谷上空、そして新宿へ。
新宿を通り過ぎた後は、一路東に向かい、東京ドーム、秋葉原上空を
通過。そして舞浜へ。
あっという間の20分でした。

それもそのはず、ヘリコプターの飛行スピードは、新幹線のぞみ並の
時速270km.

上空から東京を眺めて思ったのは、高度の問題もあるんだけど、それぞ
れの街は意外に小さいなあ、ということ。
もう一つは、それぞれのランドマークがわかりやすいので、あ、あの
明るいところは銀座だ、とか、向こうに見えるのはもしかして池袋?
みたいに、すぐに場所がわかること。

そして、やっぱりネオンサインが光るところは、上から見ても華やか
というか、綺麗なんだよね。
歌舞伎町とかは、意外に地味だったけど。
帰路、秋葉原上空を通過したときは、新しくできたヨドバシカメラの
大きさにビックリしたり。

ヘリコプター自体は、地上の構造物がよく見えるように、右に左にと
傾くので、乗り物酔いしやすい人は、ちょっときついかもしれない
けれど、やっぱり空中の浮遊感というか、単なる空撮映像とは違い、
本当に眼下に夜景が広がっていることの興奮は、他では変えられない
ものでした。

いつかまた、乗ってみたいなあ、と思います。



2006年03月22日(水) 歌舞伎デビュー

水曜日、生まれて初めて歌舞伎を見に行ってきた。
見てきたのはコクーン歌舞伎の「東海道四谷怪談・南番」
いやー、頭をガツーンとやられた位に面白い舞台でした。
もう、恐れ入りました、という感じ。

四谷怪談については、詳しいことはWikipediaに頼るとして。
かいつまんで書けば、顔の形が変わってしまう毒薬を飲まされたお岩
さんが、非業の死を遂げて、自分を捨てて再婚した亭主、伊右衛門と
その家族を呪う、というお話なんだけど、歌舞伎版ではそこに
「仮名手本忠臣蔵」の話が微妙に絡むようになっているらしい。

というあらすじは置いといても、一つの舞台作品として、素晴らしい
出来だと思うのだ。
舞台?は二幕構成になっているんだけど、後半では舞台の一部に水が
張ってあり、この水が後で大活躍をするのである。

物語の途中、中村橋之助演じる伊右衛門が、舞台では水の張っている
川べりに来た時に、水の中からザザーッとお岩さんの幽霊が戸板と共に
出てくるんだけど、これが中村勘三郎その人なのだ。

それだけではない。
その状態で、同じく戸板にくくりつけられた、小兵衛に早変わりした
かと思えば、その数分後には、まっさらな着物を身につけて、今まで
水の中にいたとは思えない位の時間で、一人三役を演じるもう一人の
人物、与茂七へと早変わりをする。

また、場面変わってクライマックスの大立ち回りの場面では、捕り物姿
の追っ手を、伊右衛門がバッタバッタと水の中に叩き落して水しぶきが
あがり(最前列の観客は、カッパに防水シートでその水しぶきをよけ)、
最後に、伊右衛門と与茂七の立ち回りでは、二人とも水の中に落ちた
だけではなく、わざと水しぶきを観客席にかけたりして、やりたい放題
なのである。
最前列からはその度に悲鳴が上がるし、私たち後方の観客はそれを見て
歓声を上げる。

現代演劇でも水をうまく使った演出は数々あると思うけれど、ここまで
悪乗りしたのって、初めてなんじゃないだろうか。

その他にも、焼け落ちた提灯からお岩さんが飛び出してきて宙乗りに
なるとか(元々のオリジナルの演出は、江戸時代の初演時からあった
らしい)、観客席のあちらこちらから、幽霊姿のお岩さんが奈落から
突如出てきて、その度に悲鳴が上がったりとか。

なんていうか、その豊富なアイデアといい、サービス精神ぶりに
脱帽したのである。

でね、そういう演出の意外さにも驚いたんだけど、同様に驚いたのが、
中村勘三郎、橋之助をはじめとする歌舞伎役者さんたちの、所作振舞い
で。

例えば何気なく花道を歩いていく、その姿だけをとっても、絵になる
歩き方をしているのだ。
また、今回女形として、お岩さんを演じている中村勘三郎は、たとえば
薬を飲むときの、動きの一つ一つに気が配られているのがよくわかり。
おそらくは、それが何代も演じ続けられている内に、身体に染み込んだ
「型」なんだろうなあ、と思うのだ。

ノンフィクション作家、小松成美による中村勘三郎のインタビュー本、
「さらば勘九郎」の中で、中村勘九郎時代の勘三郎はこう語っている。


「肚(はら)だな、肚。役者は肚から演じて、その人間になりきっていく
しかない」

「四十代になってようやく思えるようになったことだけど、まだダメ
だ、まだ足りない、と思って稽古を続けていると、自分じゃない誰か
がすっと体に入ってくる瞬間がある。これは技術論じゃありません。
テクニックじゃない。言ってみりゃあ、憑依ですよ。体に憑き物がいる
状態。それは、別の人間になりきるってことなんだけど、小手先じゃ
あ、そこまでは持っていけない。肚を据えてこそ、初めて役にのめり
込めるんです」

「役を演じ分ける作業は、物理的には筋肉の反応ですよ。筋肉が伸びた
り縮んだりして、違った人間に見せるんだ。でも、肚ができていな
きゃ、この筋肉も動かないですからね」

「これは僕が六代目(尾上菊五郎)の孫だから言えることかもしれない
ですけど、おじいさんは歌舞伎役者が型にはまってしまうことなんて
求めていませんよ。想像力を持って舞台の上で生き生きと演じること
を望んでいますよ」

「感性の触覚に絶縁体を被せたようじゃ、瑞々しい芝居はできないよ。
心を弾ませていれば、役者の筋肉はその役のためにしっかりと働くもん
です」



これらの言葉の一言一言に、思わずうなずいてしまうような説得力が、
舞台の上の勘三郎をはじめとする歌舞伎役者の人たちから漂ってくる
ような気がして。

これがもしも、ただ単に伝統芸能として、型どおりの演技をしている
だけだったら、古典に対するなんの教養もない、私みたいな観客は
ただ退屈してしまったかもしれない。

でもね、その伝統に裏付けられた所作振舞いを身につけた人たちが、
瑞々しいアイデアを体現するために、舞台の上を所狭しと動き回って
いる姿は、古臭いというより、とても格好よく感じたのだ。

なんか舞台の目の肥えた演劇ファンの人たちが、歌舞伎にはまっていく
理由がわかるような気がするのだ。
そしておそらくは、私にとってはこの舞台がはじめての歌舞伎体験だっ
たのもよかったのかもしれない。
今まで見ないでどこか遠慮していたのが素直にもったいなかったなあ、
とちょっと後悔する気になったし。

コクーン歌舞伎は、今年で12年目を迎えるらしい。
でも12年に渡ってコクーン歌舞伎で現代演劇との接点を探るだけでは
なく、野田秀樹、渡辺えり子などに戯曲を書いてもらったり、NY公演を
成功させたりと、型破りな事を成功させてきた中村勘三郎のプロデュー
ス力、その熱量の高さと、それを周りで支えてきた人たちを、素直に
称えたくなるような、そんな舞台でした。

小松成美が書いていたと思うけど、彼が生きている時代に舞台が見られ
ることが、幸福なことなのかもしれない。
また見に行きたいと思います。



2006年03月17日(金) ホテルルワンダ

今回は映画ネタ。今回見てきたのは「ホテルルワンダ」
1月の公開直後に渋谷の映画館に行ったら満員で見られなかったこの
映画。
見てきた感想は、水野晴郎ではないけれど、「映画の力ってスゴイ」
ということと、「君は生き延びることができるか」である。

ルワンダというアフリカの国で起きた、フツ族とツチ族との民族衝突に
よる大虐殺の話はニュースで知っていたし、またこの映画の冒頭に流れ
る、フツ族の民兵によるラジオ放送や、また映画の中でも流される、
遠景から撮影した、殺人の現場のシーンは、何年か前のNHKスペシャル
で見たことはある。

でもね、それはこの映画の中で、ホアキン・フェニックスが演じる
欧米のジャーナリストが言った言葉のように、「はるか遠い国での
出来事」であり、私自身、ディナーの席ではないけれど、眉をひそめる
事位にしか、感じられなかったのである。

でもこの映画は、そんな「遠い国で起きた出来事」に対して、血と肉を
与え、まるでそこにいたかのような迫力を、映画を見ている私たちに
伝えてくれる。
この映画の中でドン・チードル演じる主人公が語っていたように、
ガシッと手をつかまれたみたいに。

おそらくこの映画を見た人の心には、ルワンダという国で起きた悲劇が
単なるニュース映像としてみる以上に、心の中に刻まれたんじゃないの
かな、と思う。
それだけの力が、この映画にはあると思うのだ。


物語は、大虐殺が始める数日前から始まる。
この映画の背景にある、ツチ族とフツ族の対立に関しては、公式サイト
と、何回もトラックバックさせて頂いている、かえるさんのブログ
詳しいのでそちらを参考にしていただくとして。

ただ個人的には、映画を見ている間は、どっちがフツ族でツチ族か
結局わからなくなっちゃったんだけど。
でもこの映画は、そういう複雑な舞台背景を抜きにしても、主人公と
その家族たちが、どう困難な状況から抜け出すのかということに対して
思わず手を握ってしまうのだ。

物語の主人公、ポールは、ルワンダにあるベルギー資本の四つ星ホテル
の支配人。
彼自身は多数派のフツ族なんだけど、彼の奥さんは少数派のツチ族で。
映画の冒頭に流れるラジオの音声は、ツチ族はゴキブリだから殺して
しまえ、と煽っている。
街の中を漂う不穏な空気。
だけど、ポールはこんなことは長くは続かない、と思っている。

だけどある日、大統領の暗殺を期に突如始まる、粛清の嵐。
自宅にいたポールとその家族と、隣人たちは、いきなり軍人に銃を
突きつけられる。

ポールはとっさの機転で、家族と隣人たちを車に乗せることに成功し、
彼らや軍人たちと共に、ホテルへと向かう。
なんとかその軍人を買収することに成功して、虐殺の危機を逃れる事に
成功する。
彼のホテルには、国連のPKO部隊がいるし、また欧米人の宿泊客もいる
ので、とりあえずの安全は確保されているのだ。
だからホテルには、続々と避難民たちがやってくる。

先ほど書いたホアキン・フェニックス演じるジャーナリストの手によっ
て撮影することに成功した虐殺シーンを見て、ポールはホアキンに
こう言う。「これで全世界が黙っていないでしょう。国連軍が介入して
きて、これでルワンダも平和になります」と。
それに対してジャーナリストはこう言う。「彼らは見て、眉をひそめる
だけで何もしないだろう」と。

事態は恐れていた通りになる。
やがて国連軍がやってくるが、彼らは欧米人の宿泊客の安全を確保しに
きただけで、撤退することが告げられる。
国連軍、全世界からの支援という望みが絶たれた今、はたしてポールは
家族やスタッフや宿泊客たちの生命を守り抜くことができるのか、
という物語。


外国からの支援が得られないことを知り、ポールは妻にこう嘆く。
「オレは愚か者だ。葉巻や、チョコやスコッチを覚え、すっかり彼らと
同じ人間だと思っていた。とんだ思い違いをしていたんだ」と。
それに対して妻はこう言う。「そんなことない。あなたは愚か者なんか
じゃないわ」と。

ポールは確かに頭がいい。だけど頭がいいだけじゃない。
もしも彼が単に頭がいいだけの人間だったら、望みが絶たれた段階で
絶望し、酒に溺れて、ただ死を待つだけだったかもしれない。

でも彼が一つ違ったのは、守るべき家族と、そしてホテルにいる避難民
という客と、スタッフとホテルの看板があったからだろう。

彼はそれらのものを守るために、あらゆるものを武器にする。
例えば、ホテルのオーナーや、欧米の知人には電話をして、そして
お別れを言えと皆に話す。
彼らが支援の手を伸ばさないことを恥じ入るように、彼らの手を掴む
んだと。もしもその手が離されたら最後、私たちは死んでしまうのだ、
と伝えるのだ、と。

また、民兵や軍に対しては、このホテルが四つ星ホテルだということを
彼らは知っている。だから簡単に手を出すことが出来ない。その価値を
守ることが私たちにとっての命綱なのだ、と皆に伝える。

彼がただ単に、外資系の四つ星ホテルの支配人だったから、人々の命を
救えた訳ではないだろうと思う。
彼はそのために、ありとあらゆる手を尽くしたからこそ、そして最後
まであきらめなかったからこそ、その結果があったのかもしれない。

そして彼の姿を見て、自分のできることをした人々がいたからなんだ
なあ、と思うのだ。
すなわち、彼は決して一人ではなかったというか。
オーナー役のジャン・レノ、PKO部隊の隊長、赤十字の女性。
そしてホテルのスタッフたち。
そんな一人一人に対しても、思わずハグしたくなるような映画でした。

でも、この映画って、もしもこの映画がアカデミー賞を取る事がなけ
れば、そしてその後簡単に日本で公開されていたとすれば、おそらく
は単なる映画として消費されるだけで、ここまで話題にはならなかった
と思うんだよね。

アカデミー賞を取ったのに、日本では公開されなかったからこそ、
そしてその事をおかしく思う人がいて声を上げ、それに賛同する人が
沢山いたからこそ、日本でも公開され、私を含めて多くの人が見ること
が出来た訳で。

だからそれだけの人々を動かしたこの映画の力って、やっぱりすごいな
あ、と思うのである。
そういう人の力に対して、素直にありがとう、と言いたいと思います。
この映画のことは忘れないと思うし。

あ、あと全然関係ないけど、主人公の妻役の人の顔が、微妙に自分に
似ていたのも、思わずのめりこんでしまった理由かもしれない。
いや、マジで結構似てる気が。



2006年03月11日(土) 「視聴率の戦士」

今回は図書館で借りた本のネタ。今回紹介するのは「視聴率の戦士」
もともとは、図書館で三谷幸喜で検索して見つけた本だったんだけど、
それ以外の部分が思いのほか面白くて。

この本は、現代のTVのヒットメーカーとよばれる16人のプロデューサー
脚本家、ディレクターの人たちに、視聴率や、創作について、またプロ
とは何か?ということについてインタビューをした本である。

この本の前書きにはこう書いてある。

「高視聴率の大人気!」
「低視聴率のため打ち切り」
 テレビ番組を語る時に、最近よく使われる「視聴率」という言葉。
どうしてこんなにも力を持ってしまったのだろうか。

 もともとは調査会社が、テレビコマーシャルをうつスポンサー企業や
テレビ局のために、「どのくらいの世帯や人々に見られているか、ひと
つの尺度として」発表している数字だ。それが80年代後半あたりから、
雑誌、新聞のランキングコーナーやテレビ評などでも頻繁に引用される
ようになり、一般視聴者も広く認識されることとなった。その影響力は
次第に広がり、限られたエリアの統計数値のひとつにすぎない「視聴率」
が(現在のところ、全国エリアの視聴率は調査されていない)、あたかも
番組の価値を表す絶対的なもののように取り扱われているのが現状だ。



そしてこの本の中で、視聴率について語られていることで一番興味
深かったのは、"T部長"こと日本テレビの土屋敏夫の意見だった。
以下、引用させていただくと、


「例えば、地上波で番組をやっている時は、視聴率5%取れなかったら
打ち切るなんてことを平気でする。僕も編成部長時代にそういうこと
をやってたわけですけど。人口に直すと何百万人という人が楽しみに
してたりするわけじゃないですか。本が何百万部も売れたらとんでも
なく凄いことでしょう?結局テレビの地上波だけなんですよ、パーセン
テージで量を計ってるのは。(略)今、なんとなく20%を取ったら凄い
ぞって言われちゃいますけど、それも誰かが決めたラインでね。アメ
リカなんかじゃ、20%なんて数字はあり得ない。(略)」

「あと、コンテンツのことを考えて思ったのは、視聴率20%の番組を
観てる人の100人にひとりが買いたいと思うことと、2%の番組なんだ
けど10人にひとりが買いたいと思ってくれることと、結果は一緒なん
ですね。編成的には天と地ほど差があるんだけど。

観てる人の数は少ないけど、刺さるっていうか、人の気持ちの奥に刺さ
る番組っていうのは、コンテンツ的には価値のあることなんですよ。
そうやって立場が変われば、20%と2%が無理なく、一緒に考えられ
る(略)」



土屋敏夫は、「進め!電波少年」などのプロデューサーから編成部長を
経た後、現在はコンテンツ事業部という部署で第2日テレなどに取り
組んでいる。
かつては視聴率競争の真っ只中にいて、今は視聴率、というものから
少し離れた場所にいるから他の人とは違い、少し冷静な見方が出来る
のかもしれない。

でもね、確かに視聴率1%といえば理論上は100万人が見ていることに
なるわけで。
紅白歌合戦の視聴率が40%台か50%台か、というのはいわば見ている
人が数百万人違うかどうか、という話なんだなあ、と思うと、現場の
人間はともかくとして、見ているこっちがその争いに巻き込まれて、
「あの番組は視聴率一桁だからダメだね」なんて話をすること自体が
こっけいな感じがしてくるのだ。

だって、映画でも本やCDでも、動員人数や売り上げ本数100万っていっ
たら、本当に凄いことなのに、TV番組ではたった数百万人しか見てい
ない、ということが(内容に関しては問われずに)問題になるのって、
やっぱりどこか変な気がして。

で、逆に言えば視聴率1%の番組が、本当に100万人の人が見ている、
と言われてもそれが果たして本当なのかどうかは、全くわからない
ことでもあり。
そもそも視聴率って、1世帯あたりの視聴率だから、何人かの家族で
見られているっていうのが前提なのも、今の時代としては何かバーチャ
ルな感じもするし。

だから少なくとも見る側にとっては、この番組の視聴率がいいか悪いか
を基準にして番組を選ぶのではなく、見てみて面白く感じるかどうかを
基準にして見たほうがいいんじゃないのかな。
それに面白い番組って、たとえ視聴率的には悪くても、クチコミや、
今だったらブログなんかで段々と広まっていくような気がするし。


もう一つ、視聴率について面白かったのはTV番組「マネーの虎」のディレ
クター、栗原甚の話で、


「しゃべっていることを全部字幕で入れたら、2%ぐらい視聴率が上がる
よってよく言われるんだけど。それは、あえてやってないですね」

「視聴者の中には、BGV(環境ビデオ)代わりに音を小さくして観てる
人とか、チャンネルをよく変える人って結構いるんです。字幕が出て
れば、それが気になって音を上げたり、チャンネルを止める可能性は
高くなりますよね。だから、字幕を入れるだけで、1〜2%は違うって
言われているんですよ」

という部分。


内容の面白さだけでなく、もちろんその見せ方という演出の大切さって
あるのかもしれないけれど、それでも字幕が入るかどうかでだけで、
見ている人の実数が1〜2%=100〜200万人変わってしまう指数っていう
のもなんか変な気がするのだ。


でも個人的には視聴率うんぬんをいう前に、いわゆるゴールデンタイム
には家にいる事の方が少なくて、最近はあまりきちんとTV番組を見てな
いなあ、という事もあるわけで。

だからどう考えても、私たちの世代を含めた、成人男子向けのTV番組
っていうのは、この先もあまり作られることはないんだろうなあ、なん
て思ったりする。
だって、TVを見られない=宣伝効果が期待できないからスポンサーが
つかないということでもあるわけで。

プロ野球の視聴率が落ちてきている、なんて言ったって、プロ野球の
放送時間に家にいることが少ない訳だから、ファンに成人男子が多い
だろうと思われるスポーツ番組の視聴率が落ちてくるのはしょうがない
ことなんじゃないのかな。
少子化で、プロ野球ファンの男の子の数も減少しているんだろうし。

それをしてプロ野球はもうダメなんだ、という議論をすること自体が
前提がどこかおかしい気がするのである。
要はTV放送権に頼った球団経営が行き詰まっている、ということと、
放送局としては、スポンサーから多額の広告収入をあてにできるソフト
ではなくなった(からダメなんだ)、というだけのことであり。

そもそも、視聴率がこれだけ幅を利かせるっていうのは、スポンサー
から出る広告宣伝費が、番組の予算に及ぼす影響が大きいからなんだ
と思う。
そのお金があるからこそ、TV局の社員や、タレントの人たちは高給を
もらえていたりする訳で。

ただ、平成不況以後、そのスポンサーから出てくるお金というのは
頭打ちから減少傾向にある今日だからこそ、TV局は視聴率1%の上がり
下がりに今まで以上に一喜一憂していくのかもしれないし、また当てに
いくからこそ、どこもかしこも横並びのような似たような企画が同時期
にぶつかったりしていくのかもしれない。

でもそういう勘定にハナから相手にされていない成人男子層だからどう
かは分からないけれど、最近面白い番組ってやっぱり減っているような
気もするし、みんな横並びにしかならない状況ってつまんないなあ、と
思うのだ。

ワールドカップとか、サッカー日本代表関連の視聴率が最近高いのって
普段は相手にされていない、そういう成人男子層が番組を見るからこそ
かさ上げされて50%とか、60%とかの数字になるような気もするし。
だから、そういう普段TVを見られない層が思わず見たいと思うような
番組が増えれば、視聴率なんて上がりそうな気もするのである。

でもさ、今年からワンセグといって、携帯電話でデジタル地上波放送が
見られるようになって、それが今後普及した時に視聴率ってどうやって
調べるのかな。
また、もしくはこの先、「放送と通信の融合」とやらが進んでいった場合
すべての人が、視聴率調査装置のついたTV受像機やらパソコンを通さな
ければ、正確な数字なんて出ないような気がするし。

もちろん、その時には新たな指標が出てくるのかもしれない。
そう考えると、今の視聴率狂想曲ともいえる現象って、近い将来には
終焉していくものなのかも。



2006年03月05日(日) ナイト・オブ・ザ・スカイ

今回も映画ネタ。見てきたのは「ナイト・オブ・ザ・スカイ」
この映画を一言でいうと、「ノーマークの大穴馬」である。
いやあ、面白かった。

この映画のことは全然チェックしてなくて、あー、戦闘機ものの映画
かあ、位にしか思ってなかったんだけど、ある日映画館で予告編を
見て、この映画の監督が「TAXI」の監督であることを知り。

この映画に関しては、見ても大丈夫な環境にいる人(いきなり音とか
鳴っても大丈夫な人)は、公式サイトにある、トレイラー(予告編)を
見てほしいと思う。
おそらくは、その映像の綺麗さに驚くんじゃないかな、と思う。

そう、この映画の主役は、空撮シーンだと思うのだ。
そして驚くのは、その空撮シーン(俳優がコックピットで操縦している
シーンを含めて)が、極力CGに頼らない映像になっていること。

今までにも戦闘機の空戦をテーマにした映画は「トップガン」をはじめと
して、色々と作られているけれど、この映画は今のところ、個人的には
「空戦映画No.1」である。

戦闘機による空戦というテーマは、カッコよくていかにも映画になり
そうなテーマだと思うんだけど、結局のところ映像作りに限界があった
と思うのだ。
「トップガン」は結構頑張っていたと思うけど、でもクライマックスの
空戦シーンは、正直「?」だったし。

今回の映画では、その撮影方法の工夫もあって、とても迫力のある映像
を撮ることに成功している。
その辺、スピード感と映像作りに対する、監督の愛情が感じられる作り
になっていて。

この映像が全編CGの空撮シーンとどこが一番違うのか、というと、
重たさの表現だと思う。
当たり前の話だけど、実際の戦闘機を使用しているので、ちゃんと質量
のある金属のカタマリが、ジェットエンジンを使って大気を切り裂いて
行くように見えるんだよね。

それは例えば、滑走路から飛び立った後、急上昇して滑走路が背後で
小さくなっていく姿とか、夜の飛行シーンではアフターバーナーが
輝くシーンだとか、雲の中を飛んだときの、機体後方にできるタービュ
ランスのうずまきだとか。
今まで見たことのない、説得力のあるシーンにあふれていて。
なんかそういうシーンを見ているだけでも満足できてしまう。

物語は、マンガを原作としているらしく、まあ荒唐無稽な展開といえる
のかもしれないけれど、ちゃんと戦闘機を主役にした映画としては、
ラブアフェアも描かれているあたりもちゃんとフランス映画してて。

DVD出たら多分レンタルしちゃうだろうなあ、と思うくらいのオススメ
の作品です。
なんか気分をスッキリさせたくなった時にいいかも。
もしも、メイキング映像がふんだんに入っていたらDVD買っちゃうかも
しれない。



2006年03月04日(土) ジャーヘッド

今回も映画ネタ。見てきたのは「ジャーヘッド」
この映画を一言で言えば、「アメリカ海兵隊として行く、1991湾岸戦争
ツアー」である。

主人公スウォッフは、大学に入ることと軍隊に入る事を悩んだ挙句、
彼女を残し軍隊に入る事を選択する。
そしてここから、この映画を見ている私たちの、2時間弱の戦争体験
ツアーが始まる。

入った早々、まずは手荒い新人歓迎会が開かれ、一歩間違えば死と隣合
わせの中、泥の中をはいずり回る訓練を経験し、やがて一人前の斥侯狙
撃兵として、キリングマシーンになっていく。

そんなさなか、世界ではイラクがクエートに侵攻。戦争の気配が海兵隊
の内部でも濃くなっていく。やがて出兵。
映画「地獄の黙示録」を見て、気分を昂ぶらせていく。

飛行機に乗って、たどり着いた場所は砂漠のど真ん中。
上官からはイラクが使用するかもしれない、神経ガス、生物化学兵器の
恐怖をたっぷりと叩き込まれ、視界さえもさえぎられる毒ガスマスクを
つけたまま、摂氏45度の砂漠の中で訓練を続けていく。

TVもなく、電話さえも通じない砂漠のど真ん中では、彼女の写真を見て
マスターベーションを繰り返す位しか、やることはない。
仲間たちからは、彼女が浮気していると散々吹聴され、やがてそれが
本当なのではないか、と心の中で疑念がわいてくる。

そうして、ようやく始まった戦争。
砲弾が飛び交う戦場で、塹壕に入ることもなく、小便を漏らしながら
ただ立ち尽くすしかない自分…そして彼の戦争が始まった。
というような映画。

この映画は、主人公スウォッフが自身の体験を書いた原作を元にして
いるらしく。
だから、とても軍隊の内部がとてもリアルに描かれている。
現在もイラクに軍隊を派遣しているアメリカでは、この映画の内容の
是非を巡って、公開か製作が延期になったって話も聞いた気が。

そのくらい、実際の軍隊生活や戦争の実態が、私たちの日常生活からは
想像を絶する世界なのか、ということがよくわかると思う。
個人的には、主人公の設定とほとんど同年代ということもあって、
そのリアルさが身につまされるというか。

普通、軍隊生活と聞くと、規律によって支配された、一糸乱れぬ軍隊
行動みたいなイメージがあるけれど、そこにいる人たちは、当たり前
だけど、いろんな人がいて。
中には、個人的にはお友達になりたくないタイプとか、あんまり命を
預けたくはないタイプもいたりして。


この映画の中で特に印象的だったシーンが、3つある。
一つは、砂漠の中、斥侯(偵察)任務をしている時、砂漠の向こう側に
いきなり人影が現れたとき。
その人影が敵なのか、味方なのかわからない自分たちのパーティに緊張
が走る。
もしも、ただの民間人だったとして、英語がわからなかったら、どう
判断すればいいのか、銃を構えながら彼らは悩む。

もしもその瞬間、敵か味方かわからない相手のキャラバン隊が、ちょっ
とでもおかしな行動をしていたら、彼らは発砲したのだろう、と思うと
今でもイラクで行なわれているのかもしれない民間人への誤射は容易に
行なわれるんだろうな、と思う。

二つ目は彼らの訓練中に、メディアの取材に答える時。上官である
兵隊の一人は、アメリカは自由に発言していい国なんじゃないか、と
言うんだけど、軍曹は、お前たちに発言の自由はない、といい無難な
発言をするようにというシーン。

このシーンを見て、個人的に思ったのは、奇妙なことに空気の読めず、
全体の場を乱す発言をした、件の兵隊に対する違和感だった。
でも、本当はその方がおかしいんだよね。

それぞれの思想信条によって、自由に発言する権利はあってもおかしく
ないと思うんだけど、おそらくその場面に出くわしたら、自分ももしか
すると、全体を乱すような発言は自主規制してしまうのかもしれない、
と思ったのだ。
そしてもしかすると、それが戦争という状況の恐ろしさなのかもしれ
ないし、いわゆる従軍報道で私たちが目にしているものには、そういう
無言のバイアスがかかっていてもおかしくはないのかもしれない。

今だと、イラクに駐留している兵士たちがブログで本音を書いている
のかもしれないけれど、でもこれもちょっと前から軍部の検閲が入って
いる、なんて報道がなかったっけ。

そしてもう一つは、これから戦場に向かうという直前に、彼らは神経
ガス対策として、アスピリンを渡され、その薬を飲む代わりに、もしも
副作用があっても一切の権利を放棄しろ、という書類にサインさせられ
るシーン。

1991年の湾岸戦争当時、確かにイラク軍が神経ガスを使ってくる可能性
に関して、日本でも軍事評論家の人たちがやかましく指摘していたのは
覚えているし、スカッドミサイルがイスラエルに打ち込まれた時には、
イスラエルの国民たちが、ガスマスクをつけている、なんてニュースを
見たような気がする。

それほど、現場の人間にとっては、神経ガスに自分達が襲われるという
のは、恐怖だったのだろうと思う。

でもその一方でこの映画で描かれなかった側面として、彼ら米軍は、
劣化ウラン弾をイラク中にばらまいてきたんだよね。それはイラク戦争
でも同様で。

劣化ウラン弾に関しては、Wikipediaでも参考にしていただくとして、
米軍の兵士でも、神経ガスでやられた人間はいなくても、劣化ウラン弾
で被爆した人たちは結構いたらしいので、うまくはいえないけれど、
何となく皮肉に見えたのだ。

で、この映画を見た私の結論としては、やっぱり生身の人間にこんな
緊張を強いるような、戦闘行為は行なうべきではないし、国際問題の
解決方法に武力をなるべく選ばなくてもいい世の中になってほしいなあ
と心底思うのだ。
最近の米軍は、無人で人を殺せる兵器の開発をしている、なんて物騒な
話も聞こえてくるし。

この映画で語られている戦争自体は、時間の都合もあってか、割と
あっさりとしたものに見えるけれど、でも華々しく見えがちな戦闘行為
の裏側には、こんなにも大変なものがある、ということがよくわかる
映画だと思う。

「全ての戦争はそれぞれ違う。でも全ての戦争?戦場?はほとんど同じ
だ」というのは、映画の終盤で主人公が言う言葉である。
その言葉は、今も自衛隊が展開しているイラクや、その他の地球上の
戦場全てに重なるのかもしれない。
今、こうしている間にも、戦場の兵士たちは緊張を強いられているの
かもしれない。

全ての地球上から戦場がなくなる日が来ることを、それがどんなに困難
な事であっても祈りたい、と私は思う。



2006年03月01日(水) 県庁の星

今回も映画ネタ。見てきたのは織田裕二主演の「県庁の星」
この映画を一言でいえば、「現実の地方行政でも、こう話が進めば
いいのにねえ」である。

物語自体は、「もう一つの踊る大捜査線(シリアスバージョン)」と
いう感じになっていて。
原作はまだ読んでいないんだけど、映画の方は、織田裕二成分が濃く
なっている感じだと思う。

踊る大捜査線における、柳葉敏郎演じる室井管理官が、青島刑事を
はじめとする現場の捜査員に触れることで変わっていく様と、この
映画で織田裕二演じる主人公、「県庁さん」が民間交流で派遣された
スーパーの裏店長という異名を持つ、柴咲コウ演じるパートの女性に
出会う事で変わっていく様が重なるというか。

で、おそらくはこの作品の中で織田裕二は、「踊る大捜査線」の青島
刑事では限界のあった、自分で組織を変えていくこと、というのを
目指したかったんじゃないのかな。

その意味では、個人的には、この映画のラストで終わりなのではなく、
この先の続きが見たくなるんだよね。
民間人事交流で変わった「県庁さん」が、地方行政の中枢の官僚の
中でどう悪戦苦闘していきながらも改革していくのか、という辺りを
見てみたいと思うのだ。

そしてそれは、「踊る大捜査線」という作品の根幹を占めていた
けれど、続編では描ききれなかった部分だと思うし。
(室井管理官は戦いに敗れてしまったように見えるし)

なので、出来れば「海猿」みたく、映画→TVシリーズになったり、
もしくはスペシャルドラマにでもなってくれないかなあ、と思うん
だけど、その辺はどうなんでしょう?フジテレビさん。

踊る大捜査線の織田裕二が好きな人には、オススメの作品だと思い
ます。
多分、プレミアステージみたいな、TV放送の映画枠でも気楽に見ら
れる感じだと思うし。

あ、あと柴咲コウはいい味出してました。
こういう役って似合っているよねえ。

あ、あと敵か味方か、いまいちわかりにくい佐々木蔵之介のキャラ
クターに萌える感じ。こっちも似合ってました。


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