パラダイムチェンジ

2005年02月28日(月) 最近ハマっている本

今回は読書ネタ。
最近仕事場で、仕事の合間によく手にとる本がある。
それがこれ。「Say Hello! あの子によろしく」

実はこの本、ほぼ日刊イトイ新聞で連載していた企画 を本にしたもの
で。

1匹のジャックラッセルテリアという犬のお母さんが子供を産み、その
子供たちが成長し新しい飼い主(その内の一組が糸井重里夫妻)に引き
取られていくまでをつぶさに記録した写真集なのだ。
ほぼ日刊イトイ新聞では、今でもその内容を見ることができます。
こちらから

この本を一言でいうなら「ひきょう」である。
だって生まれたばかりの仔犬がかわいいのは当たり前じゃないですか。
でもね、何回も繰り返し見るたびに思うのは、この写真を撮っている
飼い主さんの愛情が本を通じて伝わってくるような気がするんだよね。

なので自宅PCのお気に入りにも登録してあるんだけど、ネット環境の
ない仕事場では、仕事の合間にこの本を手にとってほっこりしている
わけですね。
この本、患者さんの待合スペースにおいてあるんだけど、患者さんにも
おおむね好評で、マジで結構オススメの本です。




2005年02月26日(土) 映画「ネバーランド」

今回も映画ネタ。
金曜日の夜、ロードショーの最終日ということで「ネバーランド」
見に行ってきた。
この映画、一言でいうならば、「言葉で言い表すのが難しい」である。
なので、今回は短めに。

なんていうかね、あの「ピーターパン」の物語の背後にこんな物語が
あったなんて、想像して創作した人がスゴイというか偉いというか。

それに加えて主人公、ピーターパンの原作者であるジェームズバリを
演じているジョニーデップの演技がとってもいい。
すごく静かなんだけど、その内側にはあふれる情熱があり。
彼はおそらく子供の頃からずっと、「ネバーランド」を心の中に宿して
いたんだろうなあ、という説得力にあふれていると思う。

おそらく、すべての人の心の中に「ネバーランド」はあるのかもしれ
ない。
そしてもちろん、私の心の中にもそれはある。

果たしてジョニーデップ演じるジェームズバリにとってのネバーランド
がどんなものであったのかは、この作品を見てもらうとして。
「ピーターパン」は「ダンボ」と並んで私が子供の頃、一番好きな
ディズニー作品だったことを思い出した。
また、もう一度見たいと思わせてくれるような、そんな作品だと思う。




2005年02月25日(金) 雪景色



この写真、ちょっと見た目は北国のどこかのようですが、
実はれっきとした東京のど真ん中です。

朝、通勤の途中で立ち寄っている明治神宮でぱちりと
撮ってきました。
雪の降った明治神宮はいつもよりちょっと静かで神秘的な
感じかも。



2005年02月24日(木) 映画「レイ」

今回は映画ネタ。見てきたのは映画「レイ」
昨年2004年6月に他界した、レイチャールズの自伝的映画。
亡くなる寸前までレイチャールズ本人が監修に立会い、主役の
ジェイミーフォックスもレイ本人の指名で決まったらしい。

さて、この映画を一言でいうなら、「見るなら絶対劇場で見るべき」
である。
つまりそれほどまでに音楽シーンの迫力があるのである。
それは私がまるでタイムマシーンに乗って時代をさかのぼり、レイ本人
が演奏しているライブ会場にもぐりこんでしまったかのような印象さえ
うける。

そしてもう一つ驚かされたのは、彼の大ヒットナンバーの歌詞が、
そのまま彼の人生とぴったり重なり合うこと。
レイチャールズというと、なんか懐メロってイメージがあったんだけど
(失礼)、ちゃんと歌詞を聞いているとその歌の端々に彼の思いがのって
いることに心を打たれる。

だって、不倫でつきあっているバックコーラスの彼女との別れ際に、
「もう二度と返ってくんな」(Hit The Road Jack)とか歌わせて
いるんだよ(多分に映画の脚色はあるのかもしれないけれど)?

「ジョージア・オン・マイマインド」にしても、結果的にこの歌にこめら
れた思いっていうのはすごいんだなあ、と思うし。その辺は実際に映画
をみてもらうとして。

この映画の中のレイは、人生に成功したタフさとその裏返しの弱い部分
を余すことなく私たちに見せてくれる。
そしてその背景には、彼の幼児体験と目が見えないことのハンデと、
ドラッグや女性がそばにないといられないというさびしさが潜んでいる
とこの映画は語っている。

でも、そんなレイを内側で支えていたのは二人の女性だと思う。
強い視線を持ち、決してレイを甘やかさず、働きすぎで死んでいった
母親と、レイに対して唯一?きつい事を言うことのできた妻、ビー。
特に奥さんに関しては、彼女がいたからこそ、レイはなんとかバランス
をとってこられたのかもしれない。
だからちゃんとした家庭生活はできなくても、彼女とは別れなかった
のかもしれない。

この映画の中で特に印象に残ったシーンは、
レイ役のジェイミーフォックスが照れながら?女性の手首をさわって
美人かどうかを判断するシーン(レイ本人がそうやって判断していた
らしい)と、今までずーっと世話になっていたアトランティック
レコードから去るとき、今まで一心同体で頑張ってきたプロデューサー
アーメットとの別れのシーン。

この映画に出てくる登場人物すべてがまるで本物もそうであったかの
ような迫力と、説得力に満ちた演技をしていると思うのだ。
つまり本物になりきっているように見えるのである。
ジェイミーフォックスにいたっては、ピアノの演奏も含めてまるで
レイチャールズが乗り移ったかのようであるし。

もしも、彼がこの映画の完成まで生きていたとしても、盲目の彼に
この映画を観る事はできなかったかもしれない。でも、彼の魂は確実に
このフィルムの上で息づいていると思うのである。



2005年02月22日(火) 願いは叶う

さて、前回ほりえもんについて思っている事を書いてみたわけだが、
返す刀でじゃ、おまえ自身はどうなんだ、と言われると立つ瀬がない。
お笑い芸人のギター侍ではないけれど、切腹!ものである。
なんて話はおいといて。

ほりえもんについて一つすごいなと思うのは、彼の実行力だろう。
10年前に学生企業家としてホームページ作成ビジネスを始めてから
たった10年足らずでニッポン放送を買収するところまで会社を大きく
することに成功したのである。

今回の買収が成功するにせよ、失敗に終わるにせよ、現時点で
800億円もの転換社債を発行できるだけの力をつけたというのは
やはりすごいことなんだと思う。

ひるがえって私の場合、自営業なので、一応、超零細企業の経営に
携わっているわけである。
ま、吹けば飛ぶようなものではあるが、一応私の今後の人生は、
この仕事の成否にかかっているといえるかもしれない。

そしてほりえもんほどではないけれど、私にも将来自分がこうなって
いたいと思うビジョンはある。
今までは、えーでもそこまで到達するのは自分ひとりの力では無理かな
あ、なんて半分あきらめかけていたところもあったんだけど、今年に
入って、やっぱりできるだけのことはやってみよう、という気持ちに
なったのである。

そして、そのためにはそのビジョンをより具体的なものにしていけば、
自ずと道は開けるかもしれないと思うようになったのである。
ただし、これにはきっかけがある。

それがこれ。作家の田口ランディと、内田樹が対談していた内容の中に
願いは必ず叶う、という箇所があったのを読んだというのもひとつの
理由なのだ。
という事で、以下引用してみる。詳しくはリンク先を参照してもらう
として。


内田 私の合気道の師匠の多田先生がいつもおっしゃるのだけれども、強く念じたことはかならず実現する。逆に言えば、強く念じないと、思いは実現しない。未来図をもっていない人間は生きづらいです。それって設計図なしに家を建てるようなものだから。自分はどうなりたいのか、どういう生き方をしたいのか、明確なビジョンを持っている人は強いです。(略)

──それは弱っているときの基本ですね。実現できることだけをイメージする。

内田 多田先生は吉祥寺に住んでられたんですけど、近くに道場ができたらいいのになと思って暮らしていた。そしたらある日庭で大工仕事をされてた。お風呂を作ってたんですって。そこを通りかかった人が「何をしているのか」と尋ねた。庭にお風呂作ってたら、思わず訊きますよね。「いったい、何してるんですか?」って。で、先生は「明日イタリアに発つので、その前に風呂を作ろうと思って」と答えた。「え、イタリア? それはまたなぜ?」というふうに話がはずんで、垣根越しにずっとしゃべっているうちに、その人が「うちは庭が広いから、そこに道場を作られたらどうですか」という話になった。その方がたまたま吉祥寺の駅前にある月窓寺っていう大きな禅寺の住職さんだったんです。そして、結局先生のために、駅前一等地に百二十畳ぐらいの立派な道場を作って下さった。だから、多田先生は「内田くん、強く念じたことは必ず実現するよ」とおっしゃるんです。そうか、道場が欲しいなと思っていると、あっちから道場がやってくるんだ。というので、今僕は芦屋に百坪ぐらいの道場が欲しいなと強く念じているのです。道場の間取りとか、庭はどうしようとか、駐車場は何台分いるかな……とかそういうことを考えていると、すごく楽しい。なんだか、だんだん現実的なものになってゆくような気がして。

ランディ 神様に絶対に願いを通す、お祈りの仕方をおそわったのです。それはね、神様は言語力。たとえばお金が足りなくてどうしても300万円、明日までに必要だというときには、そのお金がどうして必要で、どんなかたちで自分のところまで来て欲しいのかを具体的に頼まなければダメだというのです。何月何日までに必要だからと。そうするとかならず入ってくる。

内田 願いって、具体的じゃないと、絶対に実現しないですね。

ランディ 欲をかいてはダメなんだって。ぴったり324万円でとか、その内訳もお願いして。

内田 たぶん、その祈っている過程で、324万円をゲットするためにどういう戦略が必要なのか、自分に何ができるか、どんな資源が自分にあるか、ということをかなり詰めて吟味してるんだと思います。324万円は神様がくれるんじゃなくて、自分が手に入れるんです。祈りを聞き届けてくれる神様を想定しておくと、クリアに戦略が立つから、祈るんです。

ランディ 子どものおねしょを治してくださいというのは、神様にはハードルが高すぎるから、おねしょをするまえにトイレに行かせてくださいとお願いをするんだよと言われてしまいました。神様が楽なようにお願いする。

内田 すでに自分が何をやるか答が出来ていること、自分でもう答を出したことしか実現しないです。祈りは具体的かつ簡潔に。よく受験生が「必勝」とか「東大合格」とか壁に書きますけど、文字だけじゃ足りないんです。もっと具体的にイメージできないと。試験の日の天気とか、気温とか、会場に入ってゆくときの足取りとか、次々と問題を解けて、笑顔でスキップしながら家路についている姿ところとか、合格発表で自分の名前を見つけて、周りの人と手を取り合って笑っているところまでイメージできるようになると、限りある自分の人間的資源の無駄のない使い方が分ってくる。そうやって描き出した未来図の実現に向かって、いろんなことがだんだんまとまってくるんです。(略)

──イメージばかりいっぱいあって、実感がついてこないことがいっぱいあるんですけれども。
内田 具体性が足りないんだよ(笑)。

──こうやって、こうなってとシュミレーションを具体的にするのですけれども。

内田 妄想と祈りは違う。でもむずかしいですね、妄想と祈りは紙一重ですから。結婚相手の条件を壁に書き出しておくと実現可能性が高まるといいますね。それはたしかに間違いではない。あたりまえのことですけれども、「身長175センチ以上」と書いておくと、とりあえず視野から175センチ以下の人は全部消えるわけですから。条件を限定すればするほど、力を集中する対象が限定される。手持ちの資源が乏しいときは勝負どころに一点集中。これはビジネスでもなんでも一緒でしょ。

──私は自分に自信がないから、全然できないのですよ。

内田 自信は関係ないですよ。目標が明確であればいい。とにかくピンポイントにする。それがいちばん効率がいい力の使い方なんだから。(略)

想像力がたいせつなんです。いろいろな状況にいる自分の姿をそのつどくっきりと思い浮かべられれば、誰と会って、こんなことをして、あんなことをしゃべって……といろいろな想像ができて、それが楽しめる人と、未来について何の想像もしてない人とでは、「いざ」というとき臨機応変の柔軟性とか、決断の早さとか、全然違うじゃないですか。

ランディ 私は気が小さいので、そういうことを言われると悪いことを想像しちゃう。こんなことを想像しちゃいけないってことを想像しちゃう。(略)

内田 悪いほうに行く人は悪い想像をするんでしょう。悪い想像が悪い現実を呼び込んでしまうんです。
 バイクはコーナーを抜けた後の体感があらかじめイメージできる人はきれいにラインが取れる。マンホールがコーナーのまん中に見えて、そのときに、あそこでリアがズルッと滑ったらやだな……というようなことを思う人が運転していると、やっぱりリアがズルズル滑り出す。だって、リアが滑っている体感を想像してしまったら、その想像的な体感が設計図になって、それを実現するように筋肉や骨格や腱が無意識的に全部動いちゃうんだから。
 イメージの力はすごく強いですよ。身体がそうやって作った「型」に吸い込まれるように入っていく。合気道の場合だと、技をかけるときは相手に「未来の体感」を送るという術を使うんです。相手を投げ終わって、その人が空中に飛んでいって、畳の上で受け身を取っているところまでイメージして、それを送る。うまく伝わると、ほとんど何もしなくても、相手が自分から宙を飛んで行く、ということが起こる。時間の流れが一瞬狂ってしまうんです。技が終わった未来の状態が「現在」で、技が始まる前の現在の状態が「過去」みたいに思えてしまう。意識のなかで時間の流れが狂って、「俺はこんなところで何をやっているのか……」と、相手から送り込まれた未来図に向かって進んで身体を放り込んでゆくような動きをしてしまうんです。
 バイクのコーナリングのときに、そうなってほしくないのに、リアタイヤが滑るイメージを持ってしまうと、リアタイヤが滑り出すのと理屈は一緒なんです。こっちが「リアが滑る感じ」を相手に送ると、相手は無意識的にその感覚を再現してしまうわけですよ。僕が何かをしているんじゃくて、その人が自分で自分を追い込んでいるわけです。



うん、だから今私は、なるべくシンプルにそうなりたい自分を想像して
次に何をしていこうかと考えているのである。
多分、そうすると自分の望んだ方向へと段々と着実に近づいていくん
じゃないのかな、と思うのだ。



2005年02月20日(日) ほりえもん

ライブドア社長のほりえもんが、相変わらずTVで何かを必死に訴えて
いる。
それがいまいちよくわからない。
というより、別にライブドアが勝とうが、フジテレビが勝とうが、
多少の影響はあるだろうけど、そんなに興味はないんだけど、どうやら
世の中はそうでもないようで。
というより、誰にとってもどっちでもいい問題だからこそ、これだけ
盛り上がっているのかもしれないが。

で、個人的にわからないのは、果たしてほりえもんは本気で、ニッポン
放送の株の35%を取得してフジテレビの公開買い付けを阻止して筆頭
株主になりさえすれば、フジテレビが白旗を揚げて恭順して従うんだと
思っていたんだろうか、という事である。

この一件が彼にとって念願だったことは、今までの彼の言動を振り返っ
てみるとよくわかる。江川紹子とのインタビューでも経済紙を持ちたい
と語っているし、プロ野球参入に失敗した後でも、親会社ごと買って
しまえば自然と球団を持つことになる、なんて語っていたのである。

彼のフジサンケイグループ再編に関するビジョンは、この数日間で
様々な形で目にすることができるようになった。
2月19日付の東京新聞にも載っていて、例えば、音楽配信事業をにらみ
業界再編のため、ポニーキャニオンは他社と合併、また産経新聞は、
今のままでも業界5位なんだから経済紙に特化して日経新聞のライバル
にする、などなど。

その意見は、おそらく今後を考えれば妥当なものなのかもしれないし、
しかも彼は業界再編を自分の手で成し遂げたい(結果としてライブドア
のブランド力を増したい)というのが、彼の野望なのかもしれない。

でも、それはフジサンケイグループが全面的にその条件を呑まない限り
単なる画に描いた餠、である。
それがどんなにすぐれたビジョンであったとしても、それを実行に移す
側が彼の思惑通りに動かない限り、実現性は乏しくなってしまう。

という事で最初の疑問に戻るのである。
彼は本気で、ニッポン放送の経営権を握れば自動的に彼のビジョンが
実行される、と本気で信じているんだろうか?
その末端にしてみれば、今までの自分たちの業績を否定されたり、
更なる合併などで職場環境が変わることであるのに。

これが例えば球団消滅の危機にあった近鉄や、今はもう落ち目になりつ
つある地方競馬であるならば、彼の知名度、資金力、そしてIT導入に
よる効率化と市場の拡大に期待をして、諸手をあげて歓迎するのかも
しれないが、フジサンケイグループの場合、経営は多少苦しいのかも
しれないが、決定的に何かがダメなわけではない。

そして人間は、自分が順調に推移している時に、他人からアレコレ言わ
れるのを好まない。そういう場合、大抵の場合は余計なお世話といって
煙たがられてしまう。

つまり、彼がどんなにすぐれたビジョンを持っていても、それが相手と
共有されない限り、思ったとおりに実行されることはないと思うので
ある。
そしてついでに言えば、本当にすぐれたビジョンというのは、そういう
個人の持っているビジョンが全体で共有されることで、誰が生み出した
わけでもなく、もっとすぐれたビジョンへと変化していくんだと思うの
である。

それは果たして今後彼が50%超の株式を取得して、ニッポン放送を
完全子会社化すれば実現できることなんだろうか。
個人的には、金さえ握ればすべてが実現するとはあまり思えない
のである。

もしも、彼のビジョンが受け入れられるとすれば、それは(たとえ誤解
であっても)彼の言うとおりにしていればおお、なんかいいことが起こ
りそうだ、という説得力を持った時なんじゃないのかな。

そして現在の彼にはあまりその説得力があるようには見えない。
どちらかと言うと、大金だけを持った若造が大言壮語を吐いているだけ
に(マスメディアのイメージでは)なってしまっているように思うので
ある。

であるならば、本来彼が行うことはマスメディアで大言壮語をぶち上げ
ることよりも、自分の本来の野望に近づくようにたとえ何年かかっても
フジサンケイグループに彼が素晴らしいと思っているビジョンを浸透
させていくことなんじゃないのかな。
それが彼の本当の望みであるのなら。

人生で何かを成功させるためにビジョンは必要だと思うし、また、
リーダーシップも大切だろう。
でも、それがただ単に押し付けであるのなら、人は動いてはくれない、
と思うのである。

そもそも、彼は自分の会社を世界一にしたくって今回の大博打を張った
らしいけれど、それは誰にとっての世界一の企業なんだろう。
少なくとも顧客や、そこで働く人たちにとっての世界一の企業になれる
とはあまり思わないんだけれど。

つまり、いくら彼が世界一の金持ちになったとしても、それよりは人が
人をよぶ企業の方が、私にとっては魅力的に見える。

でももしも、彼が今回のことで失敗したとしても、それが本当に彼に
とっての願いであるのなら、また復活してくるような気もする。
というより、そこで終わってしまうのであれば彼の野望もそれだけの
ものだったといえるのかもしれない。

そして仮に彼が再び復活したときには、今よりはもっと魅力的な人間
になっているんじゃないのかな、なんて思うのである。



2005年02月19日(土) 余計な心配はしない

沖縄から帰ってきて、一つ心に決めたことがある。
それは、いろんなことに関して余計な心配をしない、という事である。
というより、東京の、とうか今のマスメディアって、余計な心配が多す
ぎるって気がするのである。

沖縄から帰ってきて早々、父親が私に語った話は、いよいよもう銀行の
キャッシュカードも危ないので、普通預金はなるべく減らして定期に
入れようか?という話だった。

たしかに最近、通貨偽造のニュースはよく聞くし、銀行のカードさえも
スキミングされて知らないうちに預金が引き出されてしまう危険性が
ある、なんてニュースを目にすることも多かった。

うーん、でも冷静に考えてみて、もしも銀行のATMのみでキャッシュ
カードを使っていたとしても、そのカード情報がスキミングされるよう
な事態が起こったとしたら、すでにその銀行の信用は相当失われる事態
なんだから、その銀行とは取引しない方がいいだろうし、逆に銀行側は
そんな風に信用が失われることを何より恐れるわけだから、逆に今後は
万全のセキュリティーを備えるんじゃないのかな。

もちろん、心配ならコンビニのATMは利用しないで、多少面倒でも預金
は分散すればいいんだろうし。
つまり、余計な心配をして一喜一憂しているヒマがあるんだったら、
とっとと手を動かして、自分でできる対応策を考えればいいじゃん、
と思うのである。

また、帰ってきて早々、サッカーW杯予選の北朝鮮戦があったわけだけ
ど、北朝鮮戦が始まる数時間前、TVのニュースでは一体どっちが勝つ
のか、そしてその試合結果が今後の日朝関係に及ばす影響は?なんて
いうのをひっきりなしにやっていたわけである。

そんなもん、試合が終わるまで結果なんてわからないわけだし、たか
だか数時間経てばわかることなわけで(結果的には日本が勝ったわけだ
が)。
なんかね、そういうTVを見ていた自分がヒマだったというか、余計な
心配をするのが当たり前になっていたんだなあ、ということに気が
ついたのである。

もちろん、そういうことについて考えるのが悪いわけではない。
例えば最悪の事態っていうのは心のどこかで想定していた方が対処の
仕方もあると思う。
でも、最悪の事態が具体的にどのように起きるのかばかりを考えていて
実際その時にどう対処すればいいのか、考えていなければそれは何も
考えていないのと同じなわけで。

むしろ、具体的に最悪の事態を想定することに囚われてしまった結果、
その最悪の事態を呼び込んでしまうことだってよくあると思うので
ある。
それだったら、まだ、最悪の事態なんて起こりっこない、と心の中で
思っているほうがいいような気もする。

昔の中国の人は、この状態を指して杞憂といった。
広辞苑によれば、杞の国の人が、天が落ちてくるんじゃないかと心配
しすぎて何も手につかなかったという故事で、いらぬ心配までする
ことである。

そしてたぶん、今の日本って、相当杞憂状態なんじゃないのかな、と
思うのである。
だからまずは余計な心配はしないっていうのを、心に刻んでおこうと
思うのだ。



2005年02月18日(金) やさしさとなんとかなるさーの精神

そんなわけで沖縄から帰ってきたわけだが、沖縄旅行で感じたのは、
人の、特におじい、おばあと呼ばれる人たちのやさしさと温かさで
ある。

道に迷っても誰かに聞けばちゃんと教えてくれるし、東京ほどに
人の気も張っていないような気がする。
その違いは一体何からくるんだろうと考えたりした。

彼ら、特におじい、おばあと呼ばれる人たちは、中には戦争経験をした
人も多いだろうし、その後のアメリカ占領時代も含めて様々な経験を
してきた人たちのはずである。

でもそれらの経験をしてきて心が決してねじまがってはいない。
むしろたくましく生き抜いてきた強さのようなものが、その姿勢から
も伝わってくるような感じさえする。
それだけの経験を経てきた優しさというものに、私は感動を覚える。

普段の私は、人間関係には2種類あると考える。
それは損得で考える関係と、損得抜きで考えられる関係である。

たとえば全ての人間関係を損得抜きで考えようとすれば、その人は
だまされやすい、お人好しになってしまうのかもしれないし、かと
いって、親子関係や恋愛関係まですべて損得で考えるのは寂しすぎる。

だから損得で考えなきゃいけない関係と、損得抜きでもつきあえる関係
というものがあるんじゃないかな、と思うのだ。

でも、沖縄で出会ったおばあたちは、そんな計算を一度括弧にいれた
ところで人とつきあってきたんじゃないか、なんて思うような迫力が
あったと思うのである。
そこには、人を信じるという、東京にいる私が忘れがちになっている
かもしれないものと、そしてなんとかなるさー、の精神があるように
も思うのだ。

そして事実、なんとかなってきたからこそ、今の彼女たちがいるのかも
しれない。
うん、できれば私もそういう優しさを持つ人間になりたいな、と思う
のである。



2005年02月17日(木) 沖縄旅行

長らく放置していて申し訳ありませんでしたが、
実はBlogページのほうで沖縄旅行のエントリー
書いていました。

なので、もしよろしかったらどうぞご覧下さいませ。

あ、こっちはこのまま放置という事ではなく、
また再び更新再開いたします。
という事でどうぞよろしく。



2005年02月05日(土) 携帯機種変

衝動的に携帯電話の機種変更をした。
変えたのは、カシオのA5406CAという機種で、約1年前の携帯である。

今まで使っていたのがINFOBAR という薄型のデザイン携帯で、お気に
いりの携帯なんだけど、ちょっとだけ不満があったのが、バッテリー
の保ちがわるいことと、カメラが35万画素だったことなのである。

いや、別に頻繁に誰かに写メールを送るわけでもないし、あの薄さに
よくぞカメラを仕込んだと思うんだけど、こうして日記に写真を載せ
たいと思ったときにカメラ機能がしょぼいのが、ちょっとだけ不満だ
ったのである。
まあ、どうでもいいっちゃいいんだけど。

で、今回機種変したカシオの5406CAは、携帯なのに320万画素のカメラ
を備えており、なおかつSDカードにデータを移せるばかりか、USBで
パソコンと連携できる(ただし、付属のソフトでは写真データのみ)と
いう機種で、発売当時から一応チェックをしてたのである。

そんな機種が、もう製造が終了し店頭在庫のみ?になったためか、
大幅に値崩れをしており、自分の場合だと約1万円で機種変更できる
ことを知り、何軒かのショップを回って見つけた途端に機種変をした
という訳である。

年末では1万6千円くらいだったし、1万円で携帯つきのデジカメを
買ったと思えば、結構オトクな感じでしょ?
しかも別売りのパソコン連携ソフトを買えば、PIMとしても使用
できる。

で早速友達にメールを送ったり、ゲームをダウンロードしてみたり、
あちこちいじっているわけだが、やっぱり一番気になるのはこれが
折りたたみ型ということだろうか。

実は今まで折りたたみ型の携帯を使ったことがないという今時珍しい
人間であり、なおかつ前に使っていたINFOBARがことさらに薄かった
こともあり、ポケットに入れていてもゴツゴツしたような違和感が
あり。

まあ、もしもどうしても気になるようだったら、通信機能は前の
INFOBARに戻して(その場合は機種変の手数料だけかかるらしい)、
この携帯はデジカメ&PIMとして使えばいいんだし。
(その場合でもUSBかSDメモリーカードでデータの交換はできるらしい)

ということで今は新しいおもちゃを手に入れたときのように、ちょっと
だけウキウキしていたりするのである。
ちなみに新携帯でとった写真がこれ



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