パラダイムチェンジ

2004年12月25日(土) クリスマス2題

さて、今年のクリスマスもとうに過ぎ去ってしまったわけだが、
皆さんはどんなクリスマスを過ごされたのだろうか。

私はというと、
24日は映画バッドサンタを見に行き、
25日は温泉ラクーアに浸かってきたのである。

このうち、バッドサンタに関していえば、
おそらく、「子供に見せたくないクリスマス映画No.1」であろう。
いやー、マジで途中で帰ろうかと思ったくらい。

この映画を一言でいえば、「菊次郎の夏 サンタバージョン」である。
主演のビリー・ボブ・ソーントンは、たけし並みにサイテーなダメ人間
を演じるのが板についていると思う。

でもこの映画の本当の主人公は、サンタの相棒の小人役を演じた、
トニーコックスなんじゃないかな、と思うのだ。
彼の存在がこの映画をピリッとひきしめているというか。
聞けばスターウォーズのイウォークも彼なんだそうで。

そして25日の温泉ラクーアは、この日くらい、ゆったりのんびり、
温泉につかって癒されようと思っていったんだけど、ラクーアが併設
されている旧後楽園ゆうえんちは、クリスマスムード一色のイルミネー
ションで、カップルばっかりで、しかもステージ上の電光掲示板には、
彼もしくは彼女からの愛のメッセージがひっきりなしに流れてくる、
という独身者の私にとっては甚だ目の毒な光景が繰り広げられており、
あまりにくやしいので、カップルに頼まれた写真撮影をキッチリ完璧に
こなしてやりましたともさ。ふん。
その後、そういうウサは全てお湯に流してめでたし、めでたし?という
事で。



2004年12月23日(木) コラテラル

今回はちょっと前に見た映画ネタ。
今回見てきたのは、コラテラル
トムクルーズ主演の殺し屋ムービーである。

この映画、一言でいうなら、「思ってた以上に面白かった」である。
ストーリーとしては、L.A.でタクシードライバーを営んでいる主人公が
お客として乗せた女性検事と平和な一時を過ごしたあと(このシーンは
本当によくて、しかも後でちゃんと生きてくるのだ)、トムクルーズを
お客として乗せてしまったところから、物語は始まる。
その後の顛末は、できれば本編を見ていただくとして。

この映画、うまいなー、と思うのはBGMの使い方だろう。
先ほどの冒頭の女性検事とのシーンでは、メロウな?曲が流れ、平和な
一時を表わしているのが、トムクルーズが客となり、そして事件に巻き
こまれるあたりから、曲調がガラッと変わるのが、本当にうまいと思う
のである。
いや、結構マジでサントラほしくなっちゃったり。

そしてもう一つ、いいなと思うのは画づくりであり。
主人公の巻き込まれたタクシーを空撮で追っかけたり、また停電した
ビルの中で、トムクルーズ扮する殺し屋から逃れようとする時の、ビル
の暗闇と外の夜景のきらびやかさ、などなど。
観ていて思わず引き込まれる作りになっていると思うのである。

脚本も伏線がバッチリ効いていて、正直トムクルーズ以外の役者さんは
知らなかったりするんだけど、でもそんなことに関係なく、観終わってあー、よかったと思える映画だと思います。

この映画の中に、特に気に入ったシーンが一つあって。
それは次の現場へと向かう車中で、殺し屋のトムクルーズが、主人公の
タクシードライバーに向かって言うセリフで要約すると、

「お前は今まで夢の実現に向けて、何か行動を起こしてきたのか?
ただ夢見ることに満足をして、何も行動せずに昼間ダラダラとTVを観て
いたんじゃないのか?もしも本当に自分の夢を実現させたいと思うの
なら、まずは手付金を払えよ、その名刺の彼女に電話しろよ」

というセリフがあって。

実際このセリフがきっかけとなって、主人公はある行動を起こすんだ
けれど、同時にこのセリフ、自分の胸にもズキンと突き刺さって。
うん、そうなんだよなー。

全体の少し乾いた感じといい、このセリフといい、かなり気に入った
映画なのである。DVD買ってもいいかも。



2004年12月22日(水) 年賀状

さて、年末も押し迫ってきて、この日記の更新もとどこおっている。
その原因の一つは、間違いなくアレのためである。

アレ、といってもドラクエのことではなく(それも理由の一つには
違いないわけだが)年末になるとやらなくちゃいけない、年賀状の
事である。

最近は仕事場の年賀状を自前で印刷して宛名まで印刷することにして
おり、そのこと自体は半ばルーティン化しているため、特に問題はない
わけだが、今のPCとプリンターがいかに高性能になったとしても印刷
する時間はかかるわけで、仕事中にプリンターをガチャガチャ動かす
わけにもいかず、仕事の合間であるとか、仕事が終わった後に居残って
作業をするわけであるが。

そうなると当然、今までネット上に文章を書くアイデアをひねる時間が
なくなってくるのである。
え、そんなん、プリンターが動いている時にすればいいじゃん、という
意見もあるだろうが、いかんせん、1969年製のポンコツな頭脳にとって
は、マルチタスクは夢のまた夢なのである。

なのでその時間、何をしているかといえば、ほけーっとプリンターが
はき出す葉書を集める、という作業を見つめるのみなのである。
これでコタツにみかんがあれば最高なのになー、と思うのだが、それは
おいておくとして。

とりあえずそっちの作業もひと段落がついたので、これからぼちぼちと
再開したいと思います。



2004年12月17日(金) Mr.インクレディブル

今回は映画ネタ。
見てきたのはMr.インクレディブル

この映画、一言でいうなら、「CGアニメの最高峰」かもしれない。
今までの3Dアニメの歴史って、人間を描くことに苦労し続けたと
思う。

でも今回のMr.インクレディブル、相当コミカルにデフォルメされて
いるけれど、そこで描かれているのはまぎれもなく、人間なのである。
奥さん役のエドナの自由自在にのびる身体なんて、むしろ実写の
CGIだったら、相当無理ありそうなのに、あの画面では当たり前の
ように見えるあたり、リアルな人間らしさの記号と、デフォルメの
バランスが本当にうまいなー、と思うのである。

やっぱり、CGアニメの技術では、ピクサーが頭一つ抜けているのかも
しれない。
そして、そのすぐれた技術を魅せるためのストーリーの作り方もうまい
と思う。

正直、感動できるか、といえばおそらくはニモの方が上だろうし、
笑えるか、といえばシュレックの方が笑えるかもしれないけれど、
スーパーヒーローがアメコミやTVで活躍し続けていた'60年代のテイ
ストをうまく現代にマッチさせていると思うのだ。

たとえば冒頭、"インクレディブルカー"に乗り込んでくるバディの姿は
バットマンカーに乗るロビンをほうふつとさせるし、シンドロームの
基地はまるで、007のDr.ノーの基地みたいである。

また物語の展開も主人公がピンチになった時に、助けてくれる謎の美女
がいるあたり、よくわかっているなー、という感じ。
自分が小さい頃、007とかを見て、その荒唐無稽さにドキドキした感じ
を直球で味わえたような、そんな感じなのである。

これが実写だと、たとえばオースティンパワーズになっちゃうんだろう
けど、CGキャラクターたちが演じている分、素直に楽しめるという感じ
かもしれない。
うん、とっても面白い作品でした。
できれば続編希望。



2004年12月15日(水) 岩月謙司逮捕に思うこと

先週、東京新聞の社会面を読んでいて、あっ、と思った小さな囲み記事
があった。
香川大学教授がセクハラで訴えられた、という記事である。

そしてその大学教授が、「女は男のどこを見ているか」などの多数の
著作がある 岩月謙司であり、あっと思ったと同時にうーん、と思って
しまったのである。

一応、記事のリンクは貼っておくが、おそらくは消えてしまうので、
一部記事の引用を内田樹のサイト から借用すると

報道によると、「岩月容疑者は02年4月下旬、東京から来た20代の女性のカウンセリングをしたが、その際『今が自己分析をするチャンスだ』などと話し、自宅で一緒に入浴したり、寝室で女性の胸や下腹部を触ったりした疑い」で、岩月教授自身は容疑を否認している。


で、私はこの話のどこにうーん、と思ったかといえば、
でも、この人は臨床心理士でも、精神科医でもなくて、確か動物行動
学者なのに、なんでこんなことをしているんだろう、という違和感の
方が強かったのである。
それは同時に彼の著作を読んでも感じたことであり。

私が読んだことのある「女は男のどこをみているか」を例にとって
あげるならば、彼の書いた本の着眼点自体は、読み物としては結構
面白いと思う。

たとえば、女性が幸せになれないのは、母親が嫉妬して娘が幸せに
なるのを妨げているからだ、という「幸せ恐怖症」であるとか、
ダメ男にしか目がいかない女性がいるのは、その父親の影響が大きい、
であるなどの指摘は、一つの見方としては面白いと思う。

そしてそれがあてはまる例は多いのかも、しれない。
でも、あてはまる例が多いのと、それが全ての人にあてはまるの間には
大きな開きがあると思うのだ。
彼のものの見方がバッチリあてはまる人もいれば、その一方でそれが
あてはまらない人も多いはずである。

そして彼の見解は、おそらく何人かの人々の事例から彼がつむぎとった
物語なんだと思うのである。
で、あるならば、彼の物語をすんなり受け入れられる人は治るだろうが
受け入れられない人とはこじれるしかないと思うのである。
そしてどうやら今までにも、こじれた結果、ストーカーされたり、自殺
をはかられたりしているようなのである。

おそらくは彼の場合、自分が自分なりの法則を見つけ出し、そして
目の前に困っている人がいるならば、それをどうにかして自分の手で
立ち直らせてあげたい、と願っていたはずである。

でも教育欲と同様に、自分が何とかしてと思い、一つの方法論にしがみ
つけばつくほど、場合によってはその関係性はこじれてしまうんだと
思うのだ。

私は本で読んだ知識しかないが、いわゆる一般的な心理療法の場合、
創始者であるフロイトの時代から、その治療は料金を支払うことで
1回リセットされる。

逆に心理療法家、カウンセラーは無料奉仕ではなく、必ず時間と料金を
決めて行なわなければならない、と決めているのは患者との転移(恋愛
感情を相手に持つこと)をそれ以上には踏み込ませないため、という面
もあると思うのである。
ただし、その結果、ぱちもんのカウンセラーが法外な料金を請求して
いることも多いのかもしれないわけだが。

その意味で今回の岩月教授の事件は、専門家ではない人が不用意に
地獄の釜を開けてしまったことによって起きた事件といえるのかも
しれない。



2004年12月14日(火) 紳助事件その後

TVで島田紳助を見なくなってもう1ヶ月以上経つ。
最初の頃はいなくてさびしいなあ、と思っていたのが、だんだんと
紳助がいないことが当たり前に感じられたり、もうTVでは見られない
のかなあ、という感覚にさえおちいってしまう。

彼の代役を吉本興業の人気タレントが勤めていて、何人かはこれで
チャンスをつかんでレギュラー番組も増えるのかもしれないし、また
何本かの番組は紳助がいないまま、終わってしまうのかもしれない。

一応、刑事事件の方は、刑が確定し、その上で被害女性の方は民事の
損害賠償を請求していく予定であるらしい。
紳助から暴行を受けた彼女には、その権利があり、そして彼女が受けた
精神的な被害の大きさに関しては、第三者である私たちが推し量ること
はできない。
それは私がどんなに紳助がTVに復活することを待ち望んでいるのかを
他人が推し量ることができないように、その思いはトレードオフする
ことはできない。

この問題に関する解決法は、彼女と紳助側が和解することなのだろうし
その糸口が見えない限り、紳助がTVに復活するのは当分の間、お預け
なのだろう。

これらのことを含めて、暴行事件を起こした島田紳助が一番悪く、
その被害女性が彼の復帰を望まず、そしてTV業界に多大な迷惑をかけた
のだから、紳助は引退すべきだ、という意見もあるだろうと思う。

でも、できればもう一度、TVで紳助の事を見たいと思う人間の一人と
しては、その結論は正論ではあるが、つまらないと思う。
なぜなら、彼が引き起こした事件と、私がTV画面を通して得られる彼の
面白さとは、全く別物であるからである。

もちろん、暴行事件を引き起こした島田紳助に罪がない、といっている
のではない。
民事の裁判で和解、すなわち件の女性が納得するまで、この事件の方は
終わりにはならないと思うのである。
でももしも、この事件が一件落着をして彼がTV画面に復帰することが
できたのなら、私は再び、彼の事を応援するだろう。
笑いのキレは少し落ちていたとしても、私は彼が自分の全身を使って
語る彼の話のファンなのだから。

その一方で、これはあくまで推察だが、件の被害女性の気分を逆撫で
しているのは、島田紳助が引き起こした暴行事件だけじゃないんじゃ
ないのかな、という気もするのである。

彼女が紳助に殴られたというのは、一つのきっかけにすぎなくて、
おそらくはそういうことも許されてしまうような、なあなあで事が
済んでしまう日本の(特に昔の吉本的な)芸能界の体質自体が、彼女に
とっては、気に食わなかったんじゃないだろうか。

たとえば彼女の件に限らず、女性ADなどが、セクハラ被害にあってたり
するのは、想像に難くないわけだし。

そしてだから今までどおりの芸能界の慣例に染まった業界人は、島田
紳助を擁護するし、逆に外部にあって現代の倫理・価値基準(それは
多分にアメリカナイズされたもののようにも思えるが)に染まった人は
その犯した罪の大きさを言い立てるために議論は平行線をたどる。

だから今回の事件が一つの契機になって、悪がはびこる?芸能界の
仕組みが少しでも是正されるのであれば、それはそれでいいことなん
じゃないかな、と思う。

でもその一方で、私はこうも思うのである。
でもさ、その猥雑さこそが、面白い何かを生み出す原動力になることも
あるわけで。
芸能の世界って、もしもと人々の欲望が集まって(それは出世欲だった
り、金銭欲だったり人気欲だったり)成り立っている世界だと思うので
それが一切合財否定されてしまっては、面白みも半減してしまうんじゃ
ないのかな、と思うのである。

そしてそれは視聴者の立場で言えば、一番つまらないことなんじゃない
のかな。

今回の島田紳助の事件に関して言えば、どうひいき目に見ても島田紳助
のやりすぎだろう。
でもその一方でいえば、少しはお互いなあなあで成り立つグレイゾーン
を残していかないと、息だけがつまる世界にしかならないと思うので
ある。

そこではお互いにここまではOKだろうという一種の線引きというか、
共通認識が成り立つ世界でもあり。
そしてそういう領域がどんどん失われてしまっているのが今の日本なん
じゃないのかな、という気もするのである。



2004年12月12日(日) パソコンの再インストール

この前、マウスを買い換えようと思い、思いきって高性能なマウスに
した途端、パソコンの調子がおかしくなった。
我が家の自宅用パソコンは、もうすでに4年物の98Meなので、あまり
に高級そうなソフトを入れたとたんに調子がくるったらしい。
まるでフグを食べて下痢をするようなものである。
ってちょっと違うか。

でも、今年は五黄のせいか、パソコンの調子もあまりよくなく、
今年に入って実は5、6回目の再インストールなのである。
つまり2ヶ月に一度は再インストールをしているわけですね。

で、これだけ再インストールを繰り返していると、いちいち再イン
ストールすることは朝飯前になるわけである。
というより、事前にすぐに復帰できるように色々とリスクヘッジを
しているわけだ。

パソコンの達人の方には当たり前の話かもしれないが、一応私の
対処法を書いておくと、以下のようになる。

1)マイドキュメントの保存フォルダ(ターゲット)をDドライブに変更。

2)同様にメールソフトのメールの保存先をDドライブに変更。

3)メールアカウント、アドレス帳のバックアップをDドライブの
バックアップフォルダに保存

4)同様にインターネットのお気に入りをDドライブに保存

とりあえず、最低限これだけをしておけば、自分の大切なデータや
ネットにつなぐ上での必要な設定は簡単に行なえる。

ちなみに一応、防備録代わりにどのように作業をするのか書いておく
と(詳しくはそういう情報サイトを参考にしてもらうとして)

1)に関しては、マイドキュメントフォルダを右クリックして、プロパ
ティ→ターゲットフォルダの場所に事前に作成したDドライブ内の任意
のフォルダを指定すれば、現在のマイドキュメントにあるデータも
移動できる。

2)の場合は、同様にあらかじめ作成したメールデータ用のフォルダを
ツール→オプション→メンテナンスタブをクリックして、「保存フォル
ダ」をそのフォルダに指定すればOK。

3)に関しては事前にファイル→エキスポートしておいた、アドレス帳や
ツール→アカウント→エキスポートしておいたアカウントを、それぞれ
同様にインポートすればOK。

4)に関しては、エキスプローラ→WINDOWS→Fevorite内のお気に入りの
フォルダをDドライブ内のバックアップ専用フォルダにコピーしておけ
ばよい。

本当はもっと簡単で便利な方法もあるのかもしれないれど、とりあえず
これだけ行なって、あとはソフトを順次インストールしていけば、
元の状態に戻ることができるわけである。

おかげで今現在の自宅用PCは快適なのだ。
ちなみに高級無線マウスに関しては、ユーティリティソフトをインス
トールしなくても、とりあえずマウスとしては使用できるので、今の
ところ、ただのマウスとしてだけ使用している。
本当は横スクロールなどもできるはずなんだけど、今のところはただの
マウスとして便利に使用しているのである。
でも、だったら、買い換えなくても良かったんじゃ?というのは内緒の
方向で。



2004年12月08日(水) readとブラウズ

ちょっと前、元週刊アスキー編集長F岡さんのブログにこういうエン
トリー
があった。
話のメインは、今現在、雑誌が売れない現状について、ネット環境の
発達と絡めて、読者の志向が読むというreadから、ながめるという
ブラウズに変化しているんじゃないのか、という事である。

そして週刊アスキーが堅調なのは、他の雑誌に比べると、よりreadより
ブラウズ傾向にあるからなんじゃないのか、という分析だった。

この話を読んで私は、別の面でそうかー、と思ったのである。
それは、ネットの画面を通してブラウズするのと、本として活字を読む
のでは、受けとる情報量って違うのかもな、と思ったわけである。


たとえば、 「電車男」は、現在書籍として非常に売れているが、オリジ
ナルはネット上でただで読むことができる。
私が「電車男」の事を知ったのは、今年の夏ごろだけど、その時は
ネット上のログをきちんと読むというよりは、流れをザーッと読んだ
だけだった。
その後本になったものを手にとって立ち読みをしてみて、あ、こんな
面白さがあったんだ、と新たな発見をしたのである。

すなわち、ネット画面上をブラウズすることと、本として読むことでは
脳の活動領域は微妙に違っているんじゃないのかな。
電車男は、本の中でも、その性格上、ブラウズしやすい傾向にあるわけ
だけれども。

でも電車男に限らず、ほぼ日刊イトイ新聞からスピンオフした様々な
本、たとえば「新宿2丁目のほがらかな人々」であるとか、または
内田樹の本の内容のほとんどは、彼のサイトのネタと重複しているから
ネット上でただで読もうと思えば読めるのである。

であるにも関わらず、少なくとも私にとっては、本という形となった
それらの本を読むことで、ネット上では気付かなかった、新たな発見
があったりするのである。

それらは本という形になったことで、より魅力を増したとはいえない
だろうか。
すなわち、ブラウズするだけではなく、読む価値がそれらのコンテンツ
にはあると思うのである。

冒頭のF岡さんの話に戻れば、この先、活字であっても、売れる本は
どんどんreadよりブラウズの傾向になっていくのかもしれない。
(たとえば無料週刊誌のR25なんて、ほとんどブラウザーだし)

でもそれでも、readする価値のあるコンテンツは残ってほしいし、
残っていくんじゃないかなあ、とも思うのである。



2004年12月04日(土) 走れメルス

今日のネタは演劇ネタ。
今回見に行ってきたのは、NODAMAPの「走れメルス」

実はこれ、「生」NODAMAPの初体験なのである。
今まで自分でチケットを取ろうとしても、全然とれなかったんだよね。
今回見ることができたのは、友人に誘われたからである。
ありがとう、友人。

さて「走れメルス」を一言でいうと、
「どこか懐かしい感じのする舞台」である。

なんていうのかな、つかこうへいの「熱海殺人事件」とか初期の
第三舞台みたいなテイストがしたんだよね。
と思っていたら今回の舞台の初演は'76年だそうで。
知りませんでした。

おそらく70〜80年代のいわゆる小劇場ってこういう感じだったんだろ
うなあ、というよりこの辺が80年代の小劇場ブームの幕開けになるの
かな。

でも70〜80年代のテイストだから古臭いか、というとそんな事はなく、
むしろストーリーに囚われることなく役者たちが所狭しとアクトし続
ける姿は、パワフルで素直にカッコイイ。

中でも一番動き回っていたのが野田さんで。
もうあんたそんなところで必要以上に動かなくてもいいのに、と思う
位、野田さんの動きからは目が離せなかったり。

このお芝居、ちゃんとベースとなる物語の筋はあるんだけど、そんな
ことにはこだわらずに、物語なんざ、役者が演技を魅せるという事で
乗り越えちまえ、って感じなのかもしれない。

だから古田新太、中村勘太郎をはじめとして、みんな役に身体が入って
いるというか、伸び伸びと演技しているので、活きている感じがする
のである。
その辺は、その役者の引き出しを野田さんがうまく開けている感じなん
だろうなあ。

でも、表層的な「80年代ブーム」ではなく、昔の80年代って、こんな
風に猥雑さと生きるパワーにあふれた時代だったんだよなあ、と思う
のである。
その頃はまだ10代だった私にとっての80年代とは、背伸びをして、
本当は見ちゃいけないような大人の世界をちょっとのぞいてはドキドキ
する時代だったのかもしれない。

それはデオドラントされてクリーン(に一見見えるが窮屈さもある)
現代に見るから、余計に感じるのかもしれないが。
鴻上さんもこの際開き直って、ザ・80年代なパワフルな新作とか書い
てくれないかなー。


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