パラダイムチェンジ

2003年03月31日(月) 「本当にうまい朝めしの素」

たまには、最近読んだ本の感想なんてのを書いてみようと思う。
先週、花粉症に関して、個人的な考えを書いてみたんだけど、
最近読んだ本にこんな内容の文章がのっていた。
以下、ちょっと長めの引用になる。


私には有機食品信仰や長命願望や健康志向が全くといってよいほどない。
うまけりゃそれでよいわさ、と単純である。その単純なアタマで考えた
とき、「犯人」はどう考えても「イオン交換塩」なのである。

何の犯人?それは戦前になく、戦後すぐにもなく、昭和の御代もかなり
過ぎてから猛烈な勢いで出現しはじめたアトピーや花粉症をはじめとす
る現代病の、である。

戦後、杉山は確かに増えた。けれども戦前にも杉林や杉山はたくさんあ
り、杉花粉が飛び舞っていた。にもかかわらず誰も花粉症にはならなか
った。アトピーもしかり。

毎日摂取するものの中に犯人がいる。私はこう考えた。水、食品添加物、
農薬、空気、穀類……そして塩。引き算していったら塩が残った。確定
できたわけではないが濃厚な容疑者は塩以外に考えられないのだ。
だから「ヤバい」と思ったのである。ただし理論的根拠は何もない。
それゆえ、極く親しい人間以外には話さなかった。

ところが、はからざりき。JT塩=諸悪(諸病)の根源と決めつける塩
の専門家がいようとは。

阪本さん、かなり憤慨した調子でこういった―。
「要するにJT塩は食べることを考えていないとんでもない塩なんです。
 工業用にはマグネシウムがないほうが歩留りがいいといって最初から
 抜いてしまっている。僕にいわせると塩の中のマグネシウムが腹(腸)
 という土壌を調整し、発酵を促して腹を養なうんです。医学界でも、
 ナトリウムが血液に悪さをするという報告が出はじめましたよ。おっ
 しゃるようなアトピーや花粉症をはじめ、糖尿病も神経痛もにがりを
 薄めて飲めば治るんです。逆に言うとマグネシウム欠乏はそのくらい
 恐ろしいんです」

阪本さんのこの話をうかがって、今や私の犯人=塩説は仮説から確信へ
と変った。
JT塩の入っていないインスタント食品はない。
すべての加工食品や調理済み総菜には塩が使われている。
醤油や味噌、梅干などは塩がなければ考えられない食品である(略)



こんな文章が載っていたのは、川上信定著 「本当にうまい朝めしの素」
という本。そしてその後、この作者は、ある医師に出会う。


阪本さんに、ニガリを水で薄めて患者に飲ませ、著しい効果を上げて
いる医師が山口県防府市にいると聞き、何かがピンときた。
「何という先生ですか?電話は?住所は?お年は?何か著書は?」
血相変えて訊き出した私は、まず著書を取り寄せ、読んでみることに
した。

真島真平『白い塩の恐怖―現代病の原因はニガリ不足だった』 (KKロン
グセラーズ、'96年)―これが名前と書名。(略)

真島医師はまず、人間につながる生命が陸上に進出する前、30億年も海
の中で過ごしてきた事実をあげ「海水、つまりは水と海水に溶け込んで
いるすべての成分が、私たちの生命や生理に重要な意味を持っているこ
とは疑う余地はありません」と述べている。

それゆえ、こと塩に関しては成分一つ一つがどうのこうのというよりも、
トータルに考えて、海のすべての成分をあるがままに、毎日適量を摂取
すればよい―すなわち「自然塩」をそのまま摂るか、「食卓塩」では
不足している「ニガリ」を補給してやればよいという。(略)



あまり長々と引用しすぎるのも、商売の妨害をしてしまうような気がす
るので、この辺で。興味を惹かれた人は、残りはできれば本を手にとっ
て読んでほしいと思う。<フォロー

さて、このことに関して、個人的に思い当たることがある。
自分が花粉症になって以来、特にこの時期は、あまり塩辛いものが食べ
たくなくなった、って事だ。
ポテトチップスなどのスナック菓子やインスタント系食品はもちろん、
おしんこに醤油をたらしているのもちょっと敬遠したくなってしまう。

自分は仕事柄、結構自分の身体の変化には敏感な性質なので、もしかす
ると、過度の塩分に弱くなっているのかもしれない。

ただ、この本を読んでから、周りの花粉症の人に色々聞いてみたり、過
去の事を思い出したりしてみたんだけど、塩分と花粉症に絶対的な相関
関係というか、結びつきは残念ながら発見はできなかった。

自分の周りの花粉症の人って、結構昔から塩辛いのが駄目だった人って
多かったので、体質的に塩分の摂り過ぎに弱い体質(これを東洋医学的
には、腎系が弱いとみるんだけど)の人が、もしかすると花粉症になり
やすいかもしれない、位の話で。

自分自身が、そのニガリを薄めたものを飲んでいるわけではないので、
これで大丈夫、と太鼓判を押した訳ではなく、なんかの参考になれば
どうぞ。


で、その上で個人的な思いつきを少しだけ、繰り広げてみる。
引用文中に関連すると、確か人間の体液というか、組織液の成分って
海水の成分に酷似している。

すなわち、人間の体内には地球と同じく、海水があるわけだ。
そして天然の塩は、その海水を煮詰めることで出来ている訳だから、純
粋なナトリウムだけでなく、海水中に存在する様々なミネラルを含んで
いるわけだ。
それは、くどいようだけど人間の体液も同じ。

そこに、様々なミネラルの補給なしに、純粋なナトリウムだけを供給し
続けてしまうと、結局は体液の中のナトリウムの比率が増えてしまうの
で、身体が塩辛くなってしまうような気はする。

で、人間の生理的な反応としては、ナトリウムが本当に極度に濃い状態
っていうのを嫌うから、それを体外に排出するために、腎系統に負担を
強いてしまうのかもしれない。
その結果、身体の中の必要なミネラル成分も大部分は再吸収されると思
うんだけど、流れ出てさらに薄くなってしまうという一種の悪循環を起
こす可能性はあるかもしれない。

で、そこで話を一段、飛躍すると、もしかするとナトリウムの濃度が
人より濃い人、なんていうのがいたとしたら、その人は水太りしやすい
んじゃないかなぁ?<この辺はただの思いつきだけど。

ただ、一応断っておくと、人間っていうのはそういうのも含めて、自動
調節する機能は備わっているので念のため。あまり真に受けすぎないで
下さいな。
ただ、出来れば天然塩に近いものを摂取しているほうがいいような気は
する。


さて、話がいきなり難しくなってしまって申し訳ない。
そういう難しい話を抜きにしても、この「本当にうまい朝飯の素」って
本は面白いのである。

この本は、卵、米、鮭、味噌など、いわゆる標準的な和食の朝ごはん
メニューの素材に、とことんこだわってみたという料理エッセイである。

そうだなあ、イメージとしては某番組の「本日の特選素材」なんて感じ
かもしれない。例えば米なら米、醤油なら醤油作りにこだわっている
生産者への取材がメインと言えるかも。

で、その部分でこの本のいいところは、それらの生産者への問合せ先が
記載してあること。
だから例えば「美味しんぼ」を見て、そんな事いわれても、どうしよう
もないじゃん、って事はないのである。
読者が読んで、本当に欲しくなったらちゃんとお取り寄せもできる。

そして、もう一つ、この本の面白いところは、それぞれの素材に関して
の、作者の思い入れや、思い出に関して綴ってある部分。
ちょっとだけ引用すると、


コメのワインで思い出した。いいことをお教えしよう。日本酒が世界最
高の調理用酒でもあることを示す二分料理だ。

丼に七分程度の飯をよそっておく。フライパン、少量のサラダオイルと
バター、酒、醤油、上質の牛薄切り肉の5cm角切りを用意する。弱火で
バターを溶かし、オイルをひく。肉を入れ、軽くソテーする。裏がえす
必要はない。火を強め、大さじ3、4杯の日本酒(上質なものが望まし
い)を回しかけ、フランベする。火を再び弱め醤油を大さじ2杯。

この間、2〜3分。でき上った極上のソースを飯にかけ、肉片を美しく
乗せ、紅生姜を中央に置く。食べてごらん。あまりの美味に卒倒するか
ら。

日本酒の代りにワインでやってみたこともあるが、味は月とスッポンで
あった。この丼、唯一のコツは、上質の肉を使うことである。(略)
《米》


知る人ぞ知る、の事実として「中華料理屋のカレーライスはうまい」が
ある。味のよいスープ(湯)で煮込まれているからだ。豚肉もたっぷり。
鰹ダシや煮干のきいたソバ屋のカレーも悪くないが、評判のよい中華料
理屋がカレーをメニューに載せていれば、まずハズレはない。

その、うまいカレーライスの中でもAの上クラスを出す店の一つとして
神田神保町交差点角の「新世界菜館」があげられる。

同店のカレーには、ゴロ、ゴロリという感じで玉ネギが大量に入ってい
る。カレーは辛く、玉ネギは甘い。玉ネギ好きにはこたえられない取り
合せだ。

玉ネギ好きとはどんな人か、答えは簡単、玉ネギを「料理の脇役」と考
えず「主役」と考え、実際に主役として遇する人のことである。不肖小
生もその一人。(略)
《玉ネギ》


ね、ちょっと心惹かれるような気がしません?
引用した牛肉の薄切り丼とか試したくなるし、中華料理屋のカレーは
一回食べてみたいと思うもの。
この本には、他にも思わず引用したくなるような文章が結構あるのだ。

この本、実は友達に借りた本なんだけど、あまりに面白いので自分でも
買ってしまった。
で、仕事の行き帰りなんかに、何の気なしに読めるので重宝しているの
である。

ついでに言ってしまうと、今年から、料理を覚えるぞ、なんて思ってみ
たのも、この本が影響しているかもしれない。
そんなわけで、退屈しのぎにでも<失礼、よかったらどうぞ。
個人的には結構おススメ。



2003年03月29日(土) トライ&エラー(3) 傷つくこと


さて今回はトライ&エラーに関して、思いついたこと。
多少の自戒を込めて書くと、人がトライ&エラーを恐れる理由の中に
はもしかすると、他人を傷つけることよりも、ミスをすることで、自分
自身が傷つくことを恐れる気持ち、なんてのがあるのかもしれない。

誰だって、自分がある種の勇気を絞ってトライしてもそれが結果に
結びつかず、無駄にしてしまった、と思えば傷つくだろうし、
何も始めから、自分から傷つきたいと思う人はそんなにいないだろう。

話が多少脱線すれば、例えばいわゆるSM関係のマゾ、の人だって、
自分が傷つくことだけが喜びなんじゃないだろうと思う。
多分、そこには自分が傷つけられる事の代償として、そうしなければ
得られるものがあるからこそ、傷つけられても平気なんじゃないだろ
うか。
いや、自分はマゾじゃないんで本当のところはよくわからないけれど。

でも、人間が他人と人間関係を築いていく上で、自分も、そして他人も
傷つかない関係でいられるって事のほうが稀だろうと思うのだ。

例えば、ただの友達だとか、ただの知り合い、なんて関係だったら、
お互いに傷つけあうことは少ないかもしれないけど、やっぱり時には
どっちかが我慢することはあるかもしれない。

もしも、本当に自分が一切傷つけられない世界を望むのなら、それは
引きこもるか、もしくは極端なマザコンのような親子関係に閉じこもる
しかないのかもしれない。

でも、おそらく多くの人はそういう、お互いに傷つけあわないですむ
関係でいることにある種の快適さを感じている部分もあるのかもしれない。

でもその反面、だからこそ本音を語り合える親友っていうのが、でき
にくい世の中になっているし、そしてだからこそネット上で、自分の
本音を聞いてくれる他人、という存在を求める人が増えているのかも
しれない。

でも、一方でお互いに傷つけあいたくない、というある意味ライトな
関係を望みながら、もう一方ではそんな関係にどこか空虚さを感じて
しまう自分がいたりもする。


人間関係で、トライ&エラーを行えば、そこにエラーがある限り、
自分も、他人も多少は傷つく。

でもその場合、大切なのはどう傷つくのかって事と、そして傷ついた
後、どうするのか、って事のように思うのだ。

どう傷つくのか、って事に関していえば、前向きに傷つくのか、それ
とも後ろ向きや、及び腰で傷つくのかが問題になると思うし、
そして、傷ついた後どうするのか、って事に関して言えば、傷ついた
事に対して自分で何とかできるのか、それとも他人に癒してもらわな
ければならないのかって事だと思う。

で、少なくとも個人的にはこう思う。
結局は、エラーがあって、多少相手や自分を傷つけたとしても、
それを引き受けるというか、なんとかしようという覚悟を持つことが
必要なんじゃないかな。

そのためには自分が傷つく時に腰が引けているよりは、前向きに傷つく
方がいいだろうし、傷ついたり傷つけてしまった後、何とかしようと
思うのなら、傷つくにしても、その傷をできるだけ小さくしようという
知恵が必要になってくる。

そういうのが落とし前をつけるって事なのかもしれない。
で、話をいきなり現在の国際情勢に振ってしまうと、例えばアメリカ
政府やアメリカの国民や日本政府に、それだけの覚悟が本当にあって
武力介入に踏み切ったり、そのことに賛成したんだろうか、なんて
気になるのだ。

もしもそれだけの覚悟があってイラクを傷つけたとしても、その当初の
見積もりが本当に甘いものだったら、その傷はどんどん大きくなって
しまうし、どうにかしたいというその思いも、相手にとって説得力を
全く持たないか、ただの余計なお世話になったりもする。

それは結局、ただの無駄でしかないのかもしれない。

話を、人間関係のトライ&エラーに戻せば、
結局、自分が傷つくことに対して、何にも対処のできない人が、他人の
傷を癒すことは難しいんじゃないかな、って気がする。

だから、少なくとも自分が傷つくことは恐れず、それを何とかアジャス
トしていけるような人間でいたいと思うのだ。
多分、前向きに傷つける人だけが、傷つく事によってしか得られない
ものを手に入れる権利を持つんじゃないかな。

そしてその覚悟を裏付けるものは、傷つく事を何とかするための、
小手先のテクニックではなく、そこに居続けるという意志なんじゃ
ないかな、なんて思うのだ。



2003年03月28日(金) 「シカゴ」

今日、治療した患者さんに聞いた話だと、昨日だか一昨日の突風は
黄砂ではなく、TV映像でバグダッドあたりを吹き荒れていた、あの
砂嵐なのだとか。本当なのかな。本当だったらビックリである。

さて、そんな話も聞けた3月28日は、まさに日記のネタになりそうな
出来事がわんさかあった日だった。
プロ野球開幕、サッカー日本代表戦、そして予告まで書いたドラマ、
IWGP放送日。

ただし、今回取り上げるネタはそのいずれでもない、映画「シカゴ」。
何のことはない、試写会を見事に引き当てた友達のご相伴に預かる事
ができたからである。
ちなみに見たのは銀座、ヤマハホール。

さて「シカゴ」 。ついこの間行われたアカデミー賞で、作品賞、助演
女優賞など、見事6部門を制覇した今話題?の映画。
一言でいうとすれば、お洒落で、むちゃくちゃカッコイイ映画だった。

映画を見る前は、ミュージカル映画ぁ?しかも役者がキャサリンゼタ
ジョーンズはともかくとして、レニーゼルウィガーとリチャードギア?
それって一体どうなのよ?と、期待と不安が入り混じっていたんだけ
ど、オープニングナンバーが流れ出したら、そんな不安は吹き飛んで
しまったのである。

なんか一本の映画、というよりは一本のちゃんとしたミュージカルを
見た気分だった。
とりあえず、台詞の途中でいきなり歌い出したらやだなあ、なんて思
ってたんだけどそんなことはなく、ミュージカルシーンに入っていく
時のカットインが、無茶苦茶カッコイイ。

イメージとしてはそれこそ劇場の観客席で、登場人物たちと並びの席
で、これから始まるショーを楽しみにしている感じ。

で、そのステージも本当に様々な趣向に富んだ振り付けで、見ていて
飽きないのである。
例えば(もしかするとネタばれ?もし気になる人は見ないで下さいな)、
犯行現場での、ロキシーの歌に台詞というか現実のシーンがうまく絡む
ところとか、刑務所に収監された初めての夜とか、
初めての記者会見のシーンとか、そしてビリーのタップシーンとか。


一つ一つのミュージカルシーンが、巧みに私たち見る人をひき付ける
ので、見ていて飽きさせない。

これは、今回初の監督作品でありながら、今まで数々のミュージカルの
演出を手がけてきた監督、ロブ・マーシャルの手腕によるところが大き
いと思う。
なぜなら画面構成というか、舞台の作り方と明かり作りが、
とにかく上手いのである。

これは本来なら、平板なスクリーン上の映像を見ているだけだから、
あんまり広さというか奥行きは感じないはずなのに、映画という事で
逆にステージの大きさや、カメラのアングルの制約を受けずに自由に
撮影できていることが大きいのかもしれない。

しかも基本的にはその目線の高さを、観客席からの光景に合わせてい
るような気がするのだ。
だからこそ映画を見ているはすなのに、まさに目の前で生身の人間が
アクトしているかのような、臨場感が得られているのかもしれない。

で、もう一つの懸念事項だった、出演者たちのダンスと踊りに関して
も全然問題なし。
もちろん個々の踊りは、かつてはダンサーの経験を持つ、キャサリン
ゼタジョーンズにしたって、キレといい、姿勢といい、どんなに頑張
ったって、現役バリバリのトップダンサー達にはかなわない。
もしもこれが生の舞台だったら、ちょっと失望したかもしれない。

でも映画の画面を通して見ると、やっぱりその踊りには華があるのだ。
それは、レニーゼルウィガーも一緒。金髪のちょっと頭の足りない
ファムファタール?を上手く演じている。

リチャードギアにいたっては、初老の気のいいおっさんにしか見えない
し、歌う声も細いとは思うんだけど、やっぱり存在感がある。
歌っているときの顔の表情や、手の表情のつけ方が上手いと思う。

そしてそれは他の脇役の人たちも一緒。
なんかみんなで一つの舞台を作り上げていくような、一体感あふれる
感じが、見ていて気持ちいい。

肝心のストーリーも法廷サスペンスというか、先が読めないからドキ
ドキしながら見られる展開なので、あっという間に見れてしまう。
かといってシリアスではなく、まるで一つのおとぎ話を見ているよう
な、そんな気分にさせてくれる内容だった。

最後、幕が閉じた後、カーテンコールがほしかった位、一つのショー
としての完成度が高いと思う。
これはアメリカ人は手放しで好きだろう。作品賞をとったのも頷ける。

昔「ショウほど素敵な商売はない」って曲があったけど、ブロードウェ
イの底力を見たような、そんな映画だった。
DVD、安かったら買っちゃうかもしれない。
ついでに今度、舞台も日本でやるんだよね。ちょっと見てみたいかも。

あ、ちなみにリンクしている公式サイトを開くと、オープニングナンバーの
”All That Jazz”が流れますので、ご注意を。



2003年03月27日(木) 明日はIWGP、の回

そんなわけでこの日記では珍しく?予告の回。
IWGPといっても、プロレスの話ではない。
「池袋ウェストゲートパーク」 というドラマの話である。

とりあえず、何も言わず、見てほしいと思う。
多分、面白いはずだから。
ここで白状すると、このドラマがOAされてた当時から、はまって見て
いた訳ではない。

OA当時も見てはいて、あー、面白いなあ、なんて思ってはいたんだけど
その当時の私にとっては、数ある連ドラの、単なる一番組だった。

私がこの作品を面白いと思ったのは、むしろその後、石田衣良の原作本、
「池袋ウェストゲートパーク」 の文庫本を読んだ時だった。
一つの小説として、話が思っていた以上に面白かったのである。
で、その後すかさず第2作「少年計数機」 を買って読みふけり、そして
第3作「骨音」 にいたっては出版直後、書店に平積みされているのを見た
途端に買ってしまった。

で、昨年暮れ、深夜帯ながら「IWGP」再放送開始。
再び見てみて、その作品の豪華さにビックリしてしまった。

長瀬智也、窪塚洋介、加藤あいあたりが出ていたのは、もちろん覚えて
いたんだけど、脇を固めるキャストも今となっては凄い豪華な顔ぶれな
のである。

例えば、チンピラのサル役が妻夫木聡、鼻ピアスしてるドーベルマン山井
にあのさわやかな坂口健二。風俗嬢役で矢沢心、絵がとても上手いシュン
役が、個人的にはジャニーズでは一番好きな山下智久。
そして第一話で殺されてその後出演しない女友達、リカ役で酒井若菜。
今、この面子でレギュラードラマをやるのは、すなわちスケジュールを
押さえるのは絶対無理でしょう、って顔ぶれ。

ちょっと例えが古いかもしれないけれど、日本版ジェネレーションX
(だっけ?ウィノナライダーあたりを指して言われてた称号)みたいな
感じのTVドラマだったのだ。
これらのキャストたちが。そろってその後脚光を浴びて行った事は
記憶に新しいと思う。

そして若者たちを取り巻く大人たちもまたいい顔ぶれ。
母親が森下愛子、署長が渡辺謙、そのほかきたろう、阿部サダヲなどを
始めとして、個性派俳優てんこ盛り。

そして脚本が今をときめく、宮藤官九郎。
宮藤官九郎の脚本は、今は出版されているんだけど、原作とはまた一味
違った魅力あふれる作品になっているし、原作本にはないストーリーまで
作っていて、それがまた面白かったりするのである。

元々の素材(原作)が面白い上に、これから花咲きそうな華のある役者を
そろえて、そこに力のある脚本と、そして斬新な堤演出。
それを一つの皿の上で料理してあるんだから、今から思うと贅沢きわまり
ない作品だったと思う。

そしてあえて推測をすれば、この作品がなければ、あの日本アカデミー賞
総なめだった映画「GO」はなかったような気もするのだ。

明日放送される作品の内容はわからないけれど、多分見て損はない出来
だと思う。つっても、明日は多分ビデオ録画なんだけど。
その前はサッカー日本代表戦だし<延長はないっすよね?
でも個人的には今から放送内容を見るのが楽しみで、しょうがない。
ということで勝手ながら、そのウキウキ感のおすそ分けをしてみた訳だ。

もしちょっと気持ちが惹かれたら、見てみておくんなまし。




2003年03月26日(水) 花粉症対策

以下の話は、明白なエビデンスに基づく話ではなく、あくまで私個人の
体験を基にした一種の仮説である。

たまにははりきゅう師らしく、真面目に?健康や身体について考えて
みたいと思う。
今回取り上げるのは、花粉症である。

最近は電車に乗っていても、マスクをつけている人も結構あたりまえに
見るような季節になった。
かくいう私も、花粉症持ち。

2月あたりから、だんだんもぞもぞと、花粉のありかを鼻や目の粘膜が
感じるようになっている。
せっかくだから、この潤んだ瞳で、だれか恋に落ちないかなあ、なんて
アホらしいことも考えられるくらい、この時期の瞳は潤んでいる。
でも基本的に、生活に困るほどではなかったりする。

私自身が初めて花粉症の症状を自覚したのは、今から3年前。
仕事の勉強会で、3日間くらい連続して講習会に参加していたときの
3日目だった。

3日目だけ、場所が違っていて、横須賀の病院だったんだけど、
とりあえず最寄り駅に降りた段階で、もう空気が黄色いのが見てとれる。
つまりは花粉が舞っているのだ。
あー、これはさすがにやばいかも、と思ったら案の定発症してしまった。


さて、花粉症。
なんで花粉症になるのか、とかどんな治療法があるのか、とかはたまた
どんな食品がいいのか、なんて話は、結構情報として巷にあふれているし
TVの健康情報バラエティ番組や、夕方のニュースなんかでも取り上げられ
ている。

最近聞いた話だと、甜茶は結構いいらしいし、ヨーグルト、ナツメ、
そして鹿児島産の純度100%の葛、なんてのもいいらしい。
でもこれら全てを食べたからって、症状が治まるかどうかは、
わからない。

一体、なんでそんなことになるのか、ここではあくまではりきゅう師の
立場で花粉症対策を考えてみたいと思う。


さて、まずは簡単に?花粉症が起こるわけを考えてみよう。
元々人の身体には、免疫系といって、外から入ってくる異物を排除しよう
する機能が存在している。

免疫系にも色々なレベルが存在していて、各々機能は違うんだけど、
この中に特定の抗原に対して反応する、抗体というものがあり、イメージ
としては、ミサイルなんかに例えられることが多い。

で、この抗体は何にでも反応するわけではなく、特定の物質のみを攻撃
する仕組みになっているんだけど、なぜかスギ花粉が特定の細胞(肥満
細胞)にとりついてしまうと、抗体が攻撃をかけてしまい、結果として
鼻水やら、涙やらを出すように刺激をしてしまう物質(ヒスタミン)を
出してしまう。

その結果として、頭はぼーっとするし、涙は止まらないし、鼻水も出る
というアレルギー反応をおこしてしまうのが、花粉症と呼ばれるものの
正体らしい。

だから、元々は身体の中の防衛反応なので、花粉症に対する、根本的な
治療というのは行いにくく、考えられる手段としては、アレルギーを起こ
す原因、すなわち花粉になるべく会わない様な生活をするか、もしくは
身体の中に花粉が入ってきたときに、いかに過剰反応をしないように
するか、という対策法になるわけだ。

減感作療法や、レーザーメスによる、鼻の粘膜を削る、なんてのも
後者の対策法に含まれるんじゃないかな、と思うし、薬を飲むのも
基本的には感受性を抑えようとしているみたいである。

さて、それでははりきゅう師としては、どんな風に花粉症に立ち向かう
のか。
個人的に対策法として考えられるのは、花粉症の症状をより悪化させる
素因をなるべく排除する、という方法である。

花粉症に自分がなってみてわかるのは、必ずしも飛んでいる花粉の量だけ
で、症状の重さが変わるわけではないかもしれない、ということだ。
どういうことかといえば、その日その日の体調や、またはその人の体質に
よって、出てくる症状には違いがあるということ。
これは、自分の患者さんで、花粉症の人を見ていてもそう思う。

例えば、
・冷え性である。

・消火器系の調子がいまいちである(自分の舌をみると、白や黄色の
 舌苔があるか、舌の横に歯のあと(歯痕)がある。)

・左右の背中の筋肉のなかで、どこか特定のいつも凝っている場所がある
 (例えば、肝臓やすい臓の真裏にあたる場所など)

・足がつりやすい

・首や肩、特に肩甲骨の間の筋肉が凝りやすい。

・肘の内側に、押されると痛い場所がある。

・普段から疲れやすい

・便秘しやすい

なんていう自覚症状があって、花粉症に悩まされている人がいたら、
まずはその自覚症状を取り去ることをおすすめする。
なぜなら、これらの症状は花粉症の症状を悪化させる要因となるものの
サインだから。
なんでそんなことが言えるのか、というと、自分自身が花粉症の症状に
悩まされているときは、大体こういう症状を伴うことが多いからである。

逆に言うと、あくまで自分の場合はであるが、花粉症の症状がひどい時
これらの症状を取り去ってしまえば、花粉症の症状は、少なくとも我慢
できるレベルに抑えることができるのだ。


では、なぜそうなのか。
人の身体には元々、よく自然治癒力と呼ばれる、自己調整能力が備わって
いると、東洋医学的には考えられている。

ここでちょっとだけ飛躍すると、つまりは血液の循環をよくしていれば、
身体に取り込んだ、異物も段々と無害化して排泄する機能が伴っている
と考えているわけだ。
それは、例えば花粉であっても、実は変わらない。

で、元々人間にはそんな機能が備わっているんだけど、それが現代人の
場合、上手く働かないのは、その自然治癒力が機能的に働こうとするのを
阻害する因子があるからだと考えられるからである。

例えば、肩こりや便秘がなんで花粉症と関係あるのさ?という質問は
当然出てくると思うんだけど、その辺を説明するには更なる行数がいる
ので、それはまた別の機会に。

ただ、人にはそれぞれ固有の体質というものが存在していて、例えば
さっきの例、全てが当てはまる人って言うのは稀だと思う。
おそらくはいくつかだけ、当てはまったりするんじゃないかな。

で、その固有の体質には、その人にとってのトラブルが起こりやすいと
いうか、身体の変調を訴えるサインみたいなものがある。
その一部が、先ほどあげた例であるわけだ。

で、東洋医学は、そうしたその人の身体に出てきた症状で、その人の
体質を判断し、その体質にあった治療法を行っているわけである。
それは、はり・きゅうのみならず、漢方薬などでも基本は同じ。

また、医食同源なんて話も時々聞くとは思うけど、食べ物も体質と
大きな関係があったりする。
例えば、自分の場合、消化器系にトラブルが起こりやすい体質なので、
この時期、ヨーグルトを食べ、肉食を抑えるだけでも、実は花粉症に
対して効果があったりする。
ただし、自分の体質にとって、甜茶やナツメが効果あるかは、試して
みないとわからない。

そんな風にして、自分の身体に現れるサインを目安として、自分の体質に
あった治療法を加えていくと、花粉症の症状は結構抑えられている様な
気がする。

で、ここで極論してしまうと、花粉症の症状って、完全に症状を取り去る
ことはできなかったとしても、実は自分の健康度をはかるバロメーター
として付き合っていくこともできるんじゃないかな、って気もするのだ。
もちろん、こんな事を言ってしまうと、花粉症のひどい症状に悩まされて
いる人からは、非難の嵐だと思うのだけれど。

自分の友達は漢方医院で、自分の体質に合った煎じ薬を飲むことで抑えて
いるみたいだし、その方法は、色々あると思うのだ。
もちろん当院でも、花粉症対策の治療法はできるんだけど、いかんせん
保険外治療なので、治療費はかかってしまう。

一回あたり5千円の治療費が惜しくないと思える人がいらっしゃいました
ら、よろしければご相談にのります。<宣伝?



2003年03月25日(火) トライ&エラー(2)例えば、相手に告白するとき

今日は前回の続き。
特に人間関係のトライ&エラーについて、個人的に思うことなど。
さて、人間関係におけるトライ&エラー、最も大切なことは、
そのエラーをいかにして致命的なものにしないか、って事だと思う。

例えば、ここに好きになってしまった人に告白しようとしている人が
いるとする。
そして、その人がその告白しようとしている人とどれだけの関係なの
か、ここでは本人もわかってないものとする。
この人にとって、最も効果的なトライ&エラーとは、一体どんなもの
なのか、これはあくまで個人的な意見だけど、考えてみる。


さて、冒頭に書いた前提に立てば、この場合問題になるのは、一回相手
に告白したとして、振られてしまって関係性が壊れたらどうしよう、
って事だろう。

そのためには、自然と相手に告白できるような雰囲気であるとか、相手
がその告白を受け容れやすいシチュエーションなんてのを、事前の準備
として練り上げる必要はあるかもしれない。

ついでに言えば、いきなり挨拶しか交わしたことのないような相手に、
いきなり告白したって、それは可能性は低いわけだから、もうちょっと
親しい間柄になっておく必要はあるだろう。

でもトライ&エラーという意味で大切なのは、実はこういう事前の予測
段階ではないと思う。
っていうか、これじゃあ恋愛マニュアルそのまんまだし。

もちろん前回書いたとおり、事前の予測として、ある程度こうなりたいと
思う方向性や、最低限の準備は必要だと思うけれど、この段階でどれだけ
頭の中でシュミレーションや、告白のイメージトレーニングを繰り広げて
いたって、そんな事に大して意味はない。

だって自分の予想と彼女の反応が違っていたら、結局はお手上げでしょ?

つまりトライ&エラーにおいて大切なのは、事前の予測やイメージでは
なく、その予測と、実際の結果の間にどれだけの誤差があったのかを
判断する能力と、そしてその誤差を修正、すなわちフォローする能力
なんだと思うのだ。

これを別の言い方で言えば、臨機応変とか、アドリブがきく能力、なんて
言い方もできるかもしれない。

そしてもしも、相手に告白するという精神的なコスト、なんて数値が
あったとしたら、その振り分ける割合としては、大部分をその臨機応変
にさいておく必要があると思う。


そしてもう一つ、そのエラーを致命的にしないために必要なのは、トライ
を1回で終わらせず、次につながるような余地を残しておく、という事だ
ろう。

例えば、相手に告白するとき、「好きです、つきあってください」と、
一時に言ってしまうのは、個人的にはあまりおススメはできない。
もちろん、その場で「はい、よろこんで」って言われれば、万事OKな
訳だけど、万が一にでも振られてしまった場合、次にトライする可能性
はなくなってしまう。
まあ、もちろん、その場合は次の相手を探せばいいだけだろうし、
その方がむしろ男らしい?と言えるのかもしれないけれど。

それよりは、「好きだよ」と相手に告げることと、「よかったら付き合
おうよ」って言葉に間をあけておく方が、まだまだ次のチャンスにつな
がるような気もするのだ。

ついでに個人的な好みの問題で言えば、「好きです」って言葉は、
他にゴテゴテとデコレーションをつけてしまうよりは、ただシンプルに
好きです、と告げたほうが相手の心に響くような気もするし。

まあ「好きです」と告げた瞬間に、気持ち悪がられてしまう場合もある
かもしれないけれど。
その意味では、相手との間にトライ&エラーができる余地のある関係や、
環境を作っておくことを普段から心がける必要があるかもしれない。
これは告白に限らず、普段の人間関係でも必要なことだろう。


そして最後、大切なのはその言葉が人の心の隅々にまで響くのには
時間がかかることもあるって事だろう。

もう十分に、お互いに相手のことが好きだってわかっているような間柄
だったら、その言葉が響くのは早いかも知れないけれど、そういう関係
であったとしても、いざそういうシチュエーションになったら、その言
葉が身体にしみ込むというか、そういう気持ちを受け容れられるように
なるまで2ヶ月や3ヶ月の時間が、平気でかかる場合もあるかもしれない。

その場合大切なのはその間、変にあせったりはせず、同じような距離感
を保ち続けることかもしれない。


で、もう一つ大切なのはどんなに頭でシュミレーションを行ったとして
も、それよりは1回の実践のほうが勝る、という事だよね。
トライをしない限りエラーは起こらないけれど、逆に言えば何も始まら
ない。逆にトライを重ねていけば、以前の日記で 触れたとおり、その経験
値は、べき乗に増えていく可能性もある。

でもなー、こういう風に書いてても、いわゆるストーカーと紙一重に
なっちゃう可能性もあるんだよね。
だから、やっぱり告白のトライ&エラーを行う上で最も大切なのは、
その場の雰囲気が読めるという現状認識と、駄目だったら素直にあきら
める、という勇気かもしれない。

なんか意気込んで書いた割には、単に大切の大安売りになってしまった
かも。ボキャブラリーが不足してること、この上ない。
また、本当にこれでうまくいくの?とか、これを書いている当の本人は、
ちゃんとうまくいったの?とか聞かないように。
これはあくまでたとえ話ですから(笑)。



2003年03月24日(月) トライアンドエラー

ここ最近、トライアンドエラーとか、若さなんて事を日記に書いていた
訳だけど、今日コンビニで漫画雑誌「ヤングマガジン」17号をパラパラ
と読んでいたら、なんか自分の言いたいことを言い当ててくれたような
文章が載っていて、ビックリしてしまった。
で、わざわざ引用したいがためだけに普段は買わないのに<オイ、思わず
買ってしまった訳である。

ビックリしたのは漫画「湾岸MIDNIGHT」の中の台詞。
現在発売中の漫画なので普段は興味ない人も、もしもちょっと惹かれ
たら、手にとって見てほしい。
ということでちょっとだけ引用。ただし、もともとが漫画のフキダシ
だから読みにくいかもしれない。

―ちょっと前サ 未来予想図って歌あったろ(略)
―つまり未来図ってコトだろ、自分達の未来の形
 こうありたいとかそうでいたいとかそーゆうの
 思い描くわけだろ。けっこう違うと思うのヨ。
 そーゆー先への明確なイメージがあるのとナイ
 のとじゃ。(略)

―でしょうね。生き方(方向)が見えていれば大きく
 ブレないし。たとえブレても修正しやすいでしょうね
―チューニングも同じなのヨ。ちゃんと未来図を描けて
 いないチューニングはツライのよ。コレをすればああなる
 アレをすればそうなっていく。そーゆーのがわからナイと
 とりあえずやってみるってわけだから。

―結果が先に見えないのは理解力や想像力が足りないコトだろ。
 つまり知識や経験をベースに考えられナイってコトだわナ。
 もともと考えてもわからないのか、それともめんどうくさいから
 考えないのか

―こうなるであろうと仮説を立てて結果、失敗するのと、とりあえず
 やってみて失敗したのは全然ちがう。
 わかろうとする努力もせず、とりあえず、やる。それはトライ&エラー
 じゃない。ただの無駄だ。
 未来図が描けない者ほど無駄が続く。そして無駄ほど人の気持ちを
 削ぐものはナイ(略)

―いっけん意味のない行為と、本当に意味のない行為は全然ちがうよナ。
 無駄な行為と無駄に見える行為もまたしかり―
 同じに見えてもそれは全然ちがう。



うん、そうだよなあ。予測が先に立たなければ、どんなにトライしたって
元々の予想した値とどれだけ違っているか、なんて事はわからない訳で。
人は、エラーした経験が薄い場合、エラーすることすら恐れてしまう。
その事によって何がどうなるか、予測もつかないわけだから。

また、エラーするのは当たり前だと思っても、何かを始める前から、
その起こりうるかもしれない事態に備えているのって、実は結構大変な
事なので、ついつい億劫になってしまったりもするのかもしれない。

でもそれって、実際にやってみるとそんなに大変なことではなかったり
もするかもしれない。
少なくとも、自分が進みたいと思う方向性を見失いさえしなければ、
そこで起きた失敗は、経験に置き換えることが可能になるし、次回の
トライの方向性も、おのずと見えてきたりする。

それに対してエラーに何も学べない人って言うのは、元々予測している
というか、視野が極端に狭かったりするから、自分の失敗の原因が何で
あったのかわからなかったり、そこから何をどう組み立てればいいのか、
わからず途方に暮れてしまうのかもしれない。

で、これは例えば仕事や勉強に限ることではなく、例えば人間関係でも
同様のことは言えると思うのだ。
というより実は人間関係こそ、トライアンドエラーが必要なんだと私は
思う。

人間関係でトライアンドエラーを行うこと、それを別の言葉で言い換え
れば、人間関係をアジャスト(適応)させるって言い方もできると思う。

それはある意味面倒くさく、一見無駄な行為のように見えるけど、
その関係が親子であれ、夫婦あるいは恋人であれ、そんな感じで
色々な局面で小さなトライアンドエラーやアジャストを繰り返している
関係が一番長続きしていくような気がする。

そしてそれこそがその関係性を強固にし、それぞれが居心地のいい関係を
作る上で、実は大切なことなんじゃないかなあ、なんて思うのである。

元々「湾岸MIDNIGHT」は好きな作品で、特に最近のシリーズ
(おそらくは今度の26巻に収録予定)は、個人的にそうそう、なんて
思う話が多かったんだけど、こんな風に自分の考えとどこかリンクした
ような話が出てくるとちょっとうれしかったり。

「湾岸MIDNIGHT」についての個人的な思い入れは、今後26巻が
刊行された時にでも書いてみたい。



2003年03月23日(日) 若さって

さて、今日は日曜日なので、できるだけ短めの思いつきで。

いきなりだけど、若さってなんだろう?
昨日の日記を書いてみて、あー、でもこう言う意見っていわゆる
大人的な考え方とは相容れないというか、青臭いとか思われる
んだろうなあ、なんて気がしたのだ。

そんな事言ったって大人には大人の事情があるんだよ、そんな事も
いまだにわからないの?みたいな。
もしかしたらそんな風に思う人もいるかもしれない。

うん、でも個人的な感覚で言えば、若さと大人らしさっていうのは
決して対立する願念ではなく、むしろ本当はいい相性なんじゃ
ないかなあ、なんて気がするのだ。
ということで、冒頭の問いに対する個人的な思いつきを書いてみる。
若さとは一体なんなのか。

若さとは、おそらくは自分の未来に楽しい事がやってくると思い続け
られる力、の事なんじゃないだろうか。

おそらく大人になってしまった人間が、年下の、例えば学生や新入
社員あたりにまぶしさを感じてしまうのは、彼らがまだ何も染まら
ず、自分の将来が明るいと信じきっているからなのかもしれない。

そしてその一方で、まだ何の疑いも持っていない彼らの前途には、
様々な障害が待ち受けているはずで、それを前にした時に彼らは
一体どうするだろう、なんて事を考えてしまったりもする。


でも、そんな事を思っている当の大人だって、例えば恋に落ちて
しまった時は、突然開けてしまった相手との明るい未来を期待して
しまう自分がいたりする。
すなわちその瞬間に、その人は自分の中にある若さという要素を
再び見つけだしているような気がするのだ。

そしてその若さという要素は、実は年齢に関わらず、誰もが潜在的に
持っているものなのかもしれない。

だから70歳になっても、なんらかの生きがいや、自分の行く先は
明るいと思っている人はいつまでも若々しさを保っていられるのかも
しれない。
逆に、中学あるいは高校の3年間は死んだようにしてればいいんだ、
なんて思っている10代の子供たちには、そう思っている限り、
若さではなく老いが目立ってしまうのかもしれない。

ただ、大人になって、何か将来にいい事があるはずだ、と何もない
所で待ち続けていたり、そのために投資し続ける事って結構しんどい
事だから、人によってはあきらめるというか、若さと言うステージ
から降りてしまったりもする。
そしてそのステージから降りてしまった途端に老けてしまったり
するのかもしれない。

そしてもしかすると、そう思っている若者たちが例えば集団自殺
なんてことをしてしまうのかもしれない。
だってそこに若さはちっとも感じられず、ただ単に老いがあるだけ、
のような気がするのだ。
つまり、若さって要素は、ちゃんと耕していないといつしか老いに
変わってしまうものなのかもしれない。

で、冒頭の話に戻ると、実は大人らしくある事と、若さとは決して
相反する考えではないような気がする。むしろ魅力的な大人って、
自分の全てが薔薇色ではないにしろ、何かしら自分の行く先には
楽しい事が待っているって事を信じていたり、見つけられる人、
すなわち自分の中の若さの要素を時々にでも刺激し続けている人
なんじゃないのかな。

自分の未来は明るいはずだ、とただ単に盲信する事は、まだまだ
青臭いというか、未熟な若さかもしれない。
でもそれに対して、例えば、たとえどんな状況でも、少しでも未来
を明るくするための知恵を持っているって事は、成熟した若さを
持っている、なんて事になるんじゃないだろうか。



2003年03月21日(金) まずは声をあげてみること

昨日は春分の日、または彼岸の中日。
ただ仏教徒でもない、自営業の私にとっては国民の休日は関係なく、
仕事の日。
ただ、さすがに祝日ということもあって、午後からの重役出勤。

昼ごはんを食べがてら、仕事場に行こうと思い、大塚駅で降りて
仕事場まで歩くことにする。

で、駅を降りてふと気づくと、目の前になぜかピエロというかクラウン
の姿をした親子連れが歩いている。
なんだ?春だからか?なんて多少不謹慎なことを思いつつ、もう少し
よく見ると、背中に「NO WAR」の文字が。
どうやら、どこかの反戦デモに向かう途中らしい。

イラクで武力衝突が始まって、全世界的に反戦デモの機運が更に高まっ
て来たようだ。
フランスで6万人、サンフランシスコ、そしてソウルでは警官隊と衝突
して、逮捕者まで出たらしい。

その気分は日本にも伝染したらしく、日本各地で高校生を始めとして
反戦集会が開かれていたようだ。
その反戦集会、先ほどのピエロ親子だけでなく、いろんな扮装をして
いる人も多いようで、ある意味この時期反戦を唱えることがファッシ
ョンの一部になった気がする。

でも、ファッションでいいじゃん。
人を殺すことに熱狂することがファッションになるのに比べたら、
人を殺すことに異を唱えることがファッションになる世の中の方が
全然マシだと思う。

また、これは様々なところで見かけた意見だけど、どんなに反戦デモを
繰り広げようが戦争は起きてしまったし、反戦デモをしたからって、
戦争を当事者が辞めるわけはないんだから、意味ないじゃん、って
意見をよく見かける。

でも、そんな事はないと思う。
一人一人の力がたとえ無力であったとしても、その声が重なることで
その声は実は力を持ち、直接的にではなかったとしても、どこかで
当事者たちの意思決定に反映するような気がするのだ。

そしてそれはサイレントマジョリティとして、沈黙を続けている限り、
当事者たちには決して届かない。
すなわち、いくらそう思っていたとしても、声に出さない限り、何かを
変えていく力にはならないと思うのだ。

今回、反戦デモに参加した人が、戦争を止められなかったことに無力感
を感じることはないと思う。

大切なのは、問題意識を持って自分で行動した、というその意思、
だと思うのだ。
そして何か長いものに巻かれるわけでなく、そんな風に意思を持って
何かにコミットし続けようとすることこそが、何かを変えていく原動力に
なるんじゃないだろうか。

何も急に何かが変わらなくてもいいんじゃないかな。
自分の意見を通すために、何かを急に変えさせるための、一番簡単な
方法がテロリズムなのだから。
少なくとも、恐る恐る賛成の意を唱えたどこかの国の首脳さんたちは、
さぞかし夢見が悪いんだろうと思うし。

そこにずっと居続けて、違和感をずっと感じていること。
そしてその違和感を言葉として他人に伝えてみること。
そしてできれば、同じような思いを共有すること。
それが今回、この寸劇を見る羽目になった私たちの役目なのかもしれない。



2003年03月20日(木) 「血を流す我々こそ戦争を嫌っている」

とうとう英米軍が直接軍事行動を起こした。
おかげで本日は8年前、地下鉄サリン事件のあった日であるにも関らず、
全てのニュースはイラク紛争一色になってしまった。

このことに関して、今日書きたいと思うのは今朝読んだ朝刊の中の
こんな記事のことだった。

3月20日毎日新聞8面「血を流す我々こそ戦争を嫌っている」

ゆれる気持ちは兵士も同じだ。ある兵士は、
「ワシントンの政策決定者に、われわれの気持ちが分かるはずがない。
 血を流し、命を失う兵士こそ戦争を嫌っている」と明かした。
別の兵士は、
「ブッシュ大統領は、われわれが正しい行動をするための正しい決定を
 下すと信じている」と自分に言い聞かせた。

この殺風景な砂漠にあるのは、死を恐れ、一日も早く家に帰りたがる
普通の人間の姿だけだ。国境の向こうのイラク人は、もっと大きな恐怖
におびえているだろう。(略)

「みんな狂っている」と独り言を言うと、隣に立っていた兵士が「そう
だ。あなたも私もみんな狂っている。狂わずに、どうしてこんなことが
できるのか」と小声で応えた。(略)



例えば私が、自衛隊幕僚出身の軍事評論家、志方俊之あたりにうさんく
ささを感じてしまうのは、軍人出身でありながら、こうした現場の声と
の乖離である。
もちろん、実際の戦場で戦う人たちと、それを後方で指揮、運用する
参謀たちでは、感覚が異なるのは当たり前だろう。

参謀とは、どれだけ自分たちの仲間である友軍兵士の命が失われようと
決して感情的にはならず、数値としてその損害を考えなければならない
という話を、確か司馬遼太郎の話で読んだことがある。
逆に変に感情的になり、例えば包囲されてしまった少数の兵を救うため
に部隊を動かし、結果としてその戦闘に負けてしまっては元も子もない。

でも例えば、湾岸戦争当時の指揮官であり、現国務長官のパウエルは、
今回の武力行使に対して、おそらくは政権内部で一番消極的だった人
である。
それは、自らが指揮した軍隊でそれがいかに最小限の犠牲であったと
しても、自分の掛け声一つで多くの人が死んでいくということがどう
いうことであるのか、よく知っているからのような気がするのだ。

今現在、アメリカも日本も、徴兵制ではなく職業制の軍隊となっている。
つまりは、いざという時には、任務のためには平気で人を殺すことを
職業にしている人たちであるわけだ。

でもだからといって、むやみやたらに誰かを殺したいと思っているわけ
ではないだろう。むしろそういう職業について、自分の命を、そして
他人の命が奪われる瞬間がやってくることは否が応でも意識しなければ
ならない職業であると思う。

であればこそ、できればその瞬間が訪れるのは、遅くなってほしいと思
うだろうし、その行動に対して何らかの迷いの起こるような曖昧なシチュ
エーションに自分の命や他人の命を預けるのは勘弁してほしいと思う
ような気もするのだ。

だって、将来、お父さんは国を守ったんだよ、と胸張って言えるなら
ともかく、お父さんはよその国に人を殺しに行っていろんな国から非難
されたんだよ、とは子供には言いたくないだろう。

いかに戦場の駒だったとしても、せめて誇りの持てるシチュエーション
を、その戦争を企図したものは用意する必要があるんじゃないだろうか。

そして問題は、米国軍隊の最高司令官であるブッシュ大統領の事である。
もしも彼が一兵卒としてベトナム戦争に従軍していたら、一兵士として
戦争の極度の緊張を味わっていたとしたら、果たしてこの軍事行動を
起こしただろうか。

戦場にはかけがえのない命も沢山存在するということを、せめて指揮官
は心のどこかにとめておく必要があるんじゃないかな、と思うのだ。



2003年03月19日(水) 日本的な、あまりに日本的な

今回は前回の続き。日本の立場について。

さて結果として小泉首相は、ブッシュ大統領の記者会見の後、直ちに
国連安保理の承認なしでも、アメリカの武力行使を認めるという、
一見アメリカ盲従の態度表明を行った。

その理由について、党首討論では、相当突っ込まれていたようだ。
でもなー、党首討論って、結局は与野党いずれも結局はスタンドプレー
というか、大いなる茶番の域を抜け出てないと思うんだけど。
あそこでいかに突っ込まれようが、もう日本のとるべき道はこれしかない
とあらかじめ定められているんだと思うし。

3月18日の毎日新聞朝刊の中に、こんな記事 が載っていた。
その中で面白いのは、与党幹部たちの一行コメントだろう。
ちょっとだけ紹介すると、


◇新決議なしの武力行使に対する与党内の反応(上から順に積極的)

 ◆中曽根康弘元首相
 「国連は国の利害関係が結びついている。日米同盟優先が当たり前だ」

 ◆山崎拓自民党幹事長
 「アジアの平和を脅かす最大要因は北朝鮮の核開発。支持以外にない」

 ◆麻生太郎自民党政調会長
 「隣国の脅威がない仏独と日本は立場が違う。頼りは日米安保のみ」

 ◆宮沢喜一元首相
 「これまでの米支持はイラクへの圧力。戦争するしないの議論はして
  いない」

 ◆野中広務自民党元幹事長
 「米の行動を否定できないが、唯一の被爆国として核否定を明確に」

 ◆神崎武法公明党代表
 「武力行使自体に反対の人も多い。ギリギリまで国際協調の追求を」

 ◆古賀誠自民党前幹事長
 「戦争回避に何ができるかを基本に。そのメッセージがなく残念」


これらの意見を見ていて面白いのは、より現場というか、次の総理なり
選挙を戦おうと思っている人たちの意見のほうが、より消極的というか
世論に擦り寄っていることだろう。

いまや国費で名誉職やっている中曽根大勲位なんざ、世論よりは自分の
頭の中の抽象的な枠組みの方が大事らしい。
これら、たった一言の意見に日本が現時点で置かれている立場と
いう物が如実に現れていると思う。

すなわち、北朝鮮情勢もあやふやなこの時期、独自の戦力としては甚だ
心もとない戦力しか持ち合わせていない日本としては、何があろうとも
ここは日米安保を基調とした、アメリカ支持をするしかない。

今現時点で、日本が考えられるオプションは、結局はこの一つしかない
のかもしれない。
何より、日本ほど国際的な駆け引きの下手な国はないのだし。

でもね、個人的に思うのは、政治は結果よりも、どういう経緯でそう
いう結論に至ったか、というプロセスの透明性こそが大切なんじゃない
かなあ、と思うのだ。

なんでそう思うのか。これはちょっと前の、やはり毎日新聞に連載され
ているTVコメンテイター、岸井成格のコラム を読んだときのこと。


「なぜ日本はアメリカにハッキリ物が言えないのか、いまCMの間に岸井さんの説明を聞いて分かりました」(略)
 
「日本政府は一貫して国連中心の平和解決を望み、一方でアメリカに
自制を求め、他方で国連が一致してイラクに圧力をかけ続ける必要性
を説いてきた。この姿勢は間違っていないと思う」

問題は、なぜ政府はそうした経過を国民に分かりやすく説明しないのか、
またアメリカの自制でなく武力行使反対と言えないのか、ということだ。

「仮に自制でも公式の場で要請すれば、アメリカ側はどう反応するか。
特に米政府、議会の保守派、強硬派を刺激して『自分の国も自分で守
れない国が生意気なことを言うな。北朝鮮の脅威が現実になって、
急に助けてくれと言ってきても助ける義務はない』となり、全く次元
の違う日米同盟の危機を招く」(略)



政府としては世論もあり、国連の承認を得ていない、アメリカ単独の武
力行使という事態を、簡単に肯定することはできない。
できれば、武力行使をするならば国連の承認下という枠組みで追随した
かったんだと思う。
外務省をはじめとする日本政府と与党の主要幹部は、まさか国連決議を
アメリカが取り下げる事態にまでなるとは夢に思わなかったのかも
しれない。

だから水面下ではアメリカに対して自制を求めつつも、旗色を鮮明には
ある時点まではしようとしなかったし、そして自分たちの発言力もある
程度あると自信を持っていたからこそ、国連で率先してアメリカ支持の
スピーチを行うという、かつてない事までしてみせ、国内的には、小泉
首相が「戦争がいいなんて、誰も思っていない」という言葉で何とか
かわしつつ、国連で承認がなされれば、それを錦の御旗にすればいい。
おそらくはそんな筋書きだったのかもしれない。


でもね、ここで一番問題にしないといけないのは、外向きには
「本当はいけないことだと思っているのに、表立ってそれをいうとアメ
 リカの機嫌を損ねるかもしれないから言えない」という弱腰の姿勢と、
「国民はだまってお父さんたる自分たちについてくればいいんだ」という
内向きには強気の姿勢だろう。

この二つ、きわめて日本的な態度だと思うのだ。
前者は、まるでいじめられっ子の考えかただし、後者にいたっては、
まるで時代遅れの父親像である。

しかもこの二つが、組み合わさっているのが情けない。
まるで、内弁慶だけど会社ではその立場がからきし弱いリストラ寸前の
サラリーマンのお父さん、そのものじゃないかと思うのだ。

このままだとやばいなあ、と思いつつ、例えば会社ぐるみで輸入牛肉の
ラベルを冷凍庫で張り替えた人たちと、一体どこが違うというのか。
それで家庭内では虚勢を張っていたって、そんなの家庭はますます閉塞
感が増して荒れるだけですぜ、旦那。


「世論に従った政治を行うと間違うこともある」
確かに世論が間違うこともあると思う。でも、それならば自分が間違っ
ていたとしたら、一体そのことに対してはどう責任というか落とし前を
つけるんだろうか。

問題はただ単に政治家の首を切ればすむ問題ではなく、むしろその背後
で、失敗を失敗と認めないが為に、歴史や失敗に学ぶことができないで
いる官僚機構にあると思う。

そのためにこの国では、建設的な総括、すなわち効果的なトライアンド
エラーができないでいるような気がしてならない。
そしてそれこそが、この50年間で日本が失ってしまったもののような
気がするのだ。



2003年03月18日(火) パンドラの匣

パンドラの匣

今日は仕事は休みで、自宅待機中。
なんでかっていうと、自宅のマンションの排水管の取替え工事中
だから。
なので、せっかくの休みなんだけど、自宅にいるしかないので
こうして日記を綴っているわけだ。

で、工事中の自宅にいて初めて気づくのは、とりあえず、すっごく
うるさいって事である。
今回は、階下の天井を通っている排水管に直接排水溝を通すために
基礎のコンクリートに穴をあけている。
って事は、結局自分のうちで道路工事をやっているようなもの。

いやー、こんなにうるさいとは思ってもみなかった。
これだったら、歯医者さんに通っている方がマシかもしれない。
その意味で、日々こういう環境で働いている工事関係者の方々には
本当、頭が下がる思いである。


さてついにというか、とうとうブッシュ大統領が、イラク攻撃に
ついて、国連安保理での承認案を取り下げ、イラク政府に対して
最後通牒をつきつけた。

これで、武力行使に対して、当事者以外が何かをする機会は失われ
あとは、米国、英国がいつ、武力行使を行なうのか、そしてそれに
対して、イラク政府がどうするのか、というフェーズに移行したこ
とになる。

イラク政府と、それをとりまく米・英・西(スペイン)の多国籍軍。
91年の時と、状況は変わらないはずなのに、何故今回はこんなに
違和感を感じるのか。

湾岸戦争と、今回の武力紛争と、違うのは国連安保理の承認をもら
ったか、どうかの違いしかないのに、自分の心にはどこか棘がささ
ったように感じるのは、一体何が原因なのか。

おそらくそれは、今回の武力行使の理由に大義、というか説得力を
多くの人が感じないから、なんじゃないだろうか。

あの9.11以降、アメリカという国が、猛烈に怒っているのは
わかるけど、残念ながらその怒りは、国際的に共有されるものでは
ない。

もちろんアメリカには、アメリカなりの大義があるのかもしれない。
でもね、傍目にはその大義って結局は、史上初めて自国領土を攻撃
されて、初めて自分たちが標的にされたという怒りだけなんだと
思うのだ。
石油利権やら、イラクにアメリカ好みの民主的な政府を樹立するって
いうのは、あくまで後付けの理由であって。

ただ、問題なのは、そこに国民のナショナリズムを刺激する装置が
付随していることだろう。
超大国が、ナショナリズムに目覚め、物事をシンプルに考えてしま
う事ほど、厄介な事はない。

そして、今この時点でイラク政府という独裁国家をつぶすことより
は、アメリカが孤立し、独走してしまう事の方が実は大きな脅威に
なるような気がする。

つまりアメリカ政府としては、いかにイラク政府が危険であり、今
武力行使をして、イラク政府を打倒すべきであるかを力説したとし
ても、その理由に周囲の人間の納得がいかない限り、それはただ単
にキレてナイフを振り回している、そんじょそこらのガキと変わら
ない。

むしろ、世界で一番の大量破壊兵器を持っているのはアメリカであ
るわけで、そんな武器をむやみやたらに振り回す、あなたの方が危
ないでしょ、なんて事になるような気がするのだ。

英国を除く常任理事国、フランス、中国、ロシアが修正決議に対して
拒否権を発動しようとしたのは、何も平和を希求したという単純な
理由ではなく、もちろんそこには自分たちの発言権というか、存在
感を主張したかった、っていうのもあるんだろうと思う。

できればアメリカの突出に対して、国連安保理という枠組みで
抑えたかったって気持ちはあるはずだ。

でも、特にフランス、ドイツがアメリカの行動に対して強硬に反対の
意を唱えた訳は、もう一つあると思うのだ。

それは20世紀の前半、大国がナショナリズムを行動規範として
行動することがどれだけ迷惑な事なのか、加害者と被害者として
身にしみてわかっているからなんじゃないだろうか。

ヨーロッパであれだけ反戦の機運が盛り上がったのは、もしかする
と60年前の悪夢の記憶が、まだまだ色濃く残っているからなのか
もしれない。

そして、同じことは、60年前同じくナショナリズムに振り回され
た、この国にも言えるはずなのだけれど。
それは、「あやまちはもうくりかえしません」と、形だけ謝って、
歴史教育を怠ってきたせいなんだろうか。
今回の日本の対応については、またの機会に考えるかもしれない。

ただ、個人的に思うのは今回の決定が契機となって、アメリカに
限らず、国際的な抑止力から外れて独走する国が今後も出てくる
可能性を増やしてしまったような気がするのだ。

それはまるで、パンドラの匣を開けてしまったようなものなのかも
しれない。
そしてあえて推論に推論を重ねれば、この状況こそ、あのオサマ
ビンラディンが、思い描いていた世界なのかもしれない。

せめてブッシュがパルパティーンではないことを願うのみである。




2003年03月15日(土) 「チョコレート」

ということで、今回は前回の続きで「チョコレート」。

この映画、見終わると、まるで一本の小説を読み終わった感じのする
映画だった。例えば、山田詠美の小説のように。

主演は、ビリー・ボブ・ソーントン、ハルベリー。
ビリー・ボブ・ソーントン演じる、ハンクは、刑務所の刑務官。
介護が必要な父親と、同じく刑務官である息子と一緒に暮らしている
んだけど、ある日喧嘩をした息子が目の前で、自殺をしてしまう。

ハルベリー演じるレティシアは、殺人囚の妻。
夫が処刑され、一人息子と暮らしていくために、働きにでるんだけど、
ある日、その息子が目の前で交通事故に遭ってしまう。

前回も書いたけれど、この映画、「喪失」がテーマになっていると思う。
失ったものがあって初めて人は、失ったものの大きさを知るのかもしれ
ない。

そして自分が失ってしまったものの大きさに、途方もなくくれてしまう
時、人は誰かそれを埋めてくれる人に、側にいてほしいと思うのかもし
れない。

この映画を見ていて思い出した文章があった。
それは、北村薫 「六の宮の姫君」 の中の一節。

「(略)空気の違いや水の違いみたいなものをね、自分と同じ方向で
 感じる人、そういう男の人の側にいられたらどうか。きっと、くす
 ぐったいように嬉しいというか幸せというか、そんな気持ちになると
 思うのよ」
「女じゃ駄目なの?」
「抱きしめてもらうには、男の方がいいでしょう」
 
 正ちゃんは、口笛でも吹きそうな格好にしてから、
「今夜は随分いうじゃない。でも、《方がいい》というのは、アブナイ
 なあ。次善の策として、襲われたらどうしよう」
 
 私は微笑んで、それから元の顔に返り、
「これは違うのよ、いわゆる《抱いてもらう》とは。大學先生のお話の
 中に、与謝野晶子のことが出て来るんだけれど、彼女は死ぬのをとて
 も恐がっていたらしい。子供のお嫁さんに頼んでいたそうよ、《あな
 たは力が強そうだから、私が死ぬ時はギュッと押さえていてね》って。
 晶子の場合は、鉄幹が先に逝っちゃったけど、そうでなかったら、当
 然彼に頼むところでしょう」
 
 正ちゃんは、じっと私の顔を見た。私は続ける。
「で、それは何も最期の時とは限らない。生きていく上で、中空にいる
 みたいな、人間の孤独を感じたら、理屈じゃなくって文字通り、揺れ
 てる自分を押さえつけてほしくなると思う。そんなの甘えだといわれ
 たら一言もないけれど」

 強い正ちゃんの手前、弁解する口調になったかもしれない。正ちゃん
は、その気配を察したのだろう、小さく首を振り、
「押さえる側とさ、押さえられる側を一組のチームだと考えたら、いい
 んだよ。そうしたら、それも日々の歩みの、大袈裟にいえば戦いの、
 大事な一環じゃないかな」
 正ちゃんは女だから言葉で、しかし確かに、私を押さえてくれた。



この映画の中でハンクとレティシアは、それこそ失ったものを忘れる
かのように、お互いに動物のように求めあう。
そうすることによってしか、自分を押さえつけられないかのように。

でも、その一方ではこうも思うのだ。
人は何かを失うことによって初めて、何が大切なのかに気づき、そして
得ることができるのかもしれない。

この映画、ちょっと見た目は黒人差別問題を色濃く残しているように
見える。
でもそれは、どこか無理して突っ張って生きているせいなのかもしれな
い、なんて気がしたのだ。
そしてそれは、とても寂しい光景のような気がする。
ハンクの場合は、息子を失って初めて自分に正直に、隣人たちと生きら
れるようになったのかもしれない。

そして、同じことは今こうして戦争への道をひた走っているアメリカと
いう国の、病理だと言えるような気もする。

ラスト(ちょっとネタばれ?)、
二人はベランダに腰掛け、チョコレートアイスクリームを食べる。
「俺たち、うまくやっていけるさ」というハンクの言葉を聞いて
レティシアがじっと彼のことを見つめている時、果たして彼女は
何を思ったんだろう。

邦題になった「チョコレート」は、自分の寂しさを埋めるための代用品。
でも、二人は多分、誰かの代用品じゃないと思いたい。
見終わった後、なんか強いお酒が飲みたくなるような映画だった。

でもなんでアメリカの片田舎のレストランの風景ってこんなに寂しく
見えるんだろう。
一人は寂しい、と思う人におススメの映画かもしれない。

公式サイト



2003年03月14日(金) 「ダークブルー」

今日見た映画は豪華?2本立て。
見たのは「ダークブルー」と「チョコレート」。
見た場所は、池袋の名画座「文芸座」。

文芸座は、ロードショーでは見たかったけど見逃してしまった映画を、
安い値段で、しかも2本立てでやってたり、オールナイトで昨年話題に
のぼった映画を一挙上映していたりしたので、自分が学生の頃、よく
通った映画館だった。

そして、もう一つ文芸座の思い出として印象に残っているのは、
コーヒーの香り、である。
せまーいロビーの突き当たりに売店があって、そこでは自動販売機で
なく、ホットコーヒーを売っているんだけど、その香りが建物中に
染み付いているので、ロビーや客席にいるだけでそのアロマに包まれた
ものだった。

そんな名物だった文芸座は、一時閉館し、その後同じ土地に建った
パチンコ屋の3階に復活。
今回は復活して以来、初めて訪れてみたことになる。

以前の記憶が色濃いだけに、新しい文芸座はどんな感じかなあ、なんて
思ったんだけど、以前の雰囲気は残っていたんでホッとした。
コーヒーの販売も、そのまま残っていたし。
ただし、建物がまだ新しいためか、広くなったからか、まだコーヒーの
匂いがロビーに染み付いている、というような感じではなかったけれど。

でも座席はとてもすわり心地がいいし、スクリーンも思っていた以上に
大きいし、これで2本見れて1300円っていうのは、結構お得なんじゃ
ないだろうか。
また見たい映画があったら通ってしまいそうな気もする。


さて、本題の見た映画。
「ダークブルー」 は、宮崎駿のスタジオジブリが劇場公開に際して、
初めて配給をしたことで少し話題にもなった作品。
うん、確かに宮崎ワールドに通じる魅力のある作品だったと思う。

そしてもう一つの作品「チョコレート」は、ハルベリーがこの作品で
アカデミー主演女優賞をとったことでも話題にのぼった作品。

「チョコレート」に関しての詳しい感想は、次回に譲るとして、
この2本、あえて共通のキーワードでくくるとすれば、「喪失」だと
思う。

「ダークブルー」は、第二次世界大戦中、ナチスドイツに祖国を占領され
てしまったチェコスロバキア人が、義勇兵としてイギリスと共に戦う空軍
パイロットたちの話。

人はなぜ自分の生死を賭けてまで、武器を取り、戦うのか。
それは祖国を取り戻すため?大切な何か、例えば彼女を守るため?

最初は、飛行機に乗って戦いたいのに、訓練ばかりをさせられて腐って
しまう主人公たち。

そして念願の出撃。
でも戦闘機に乗り、戦場に赴くということは、歌い、笑いあった仲間や
自分の命を落とすということでもある。

そんな中、一人の熱く純情で、祖国を離れる時から一緒だった若いパイ
ロットが、一人の女性に恋をする。
でも、そんな命を預けあっている仲間が好きだという女性から、本当
に好きなのは、あなたなの、と告げられてしまったら。
そしてどんなに熱く純真に思いつめても、自分の好きな人と、尊敬する
仲間が恋に落ちていることを知ったとしたら、あなただったら、一体
どうするだろうか。

そして、戦争が終わり祖国にも平和が訪れたとして、自分が守りたかっ
たものが、必ず手に入るとは限らない。そして祖国を守るために、必死
になって戦った結果が、必ずしも報われるとは限らない。

戦争について考えるとき、ついつい大局について考えてしまうけど、
どんな戦場にも、兵士の一人一人に、当たり前だけど一つ一つ、私たち
と同じ命があるんだよなあ、なんてことを考えてしまった。

あの純情でいたいけな少年、カレルは今もフランタの後ろを飛んでいる
んだろうか。
彼らには、せめて空を飛んでいるときは、伸び伸びとした気持ちで飛んで
いてほしいなあ、なんて気にさせてくれる映画だった。

「コレリ大尉のマンドリン」と同じく、機会があったらまた見たいと
思う戦争映画かも。



2003年03月08日(土) ダイ・アナザー・デイ

"What's your Name?"
"Bond. James Bond."

今日見てきたのは「007 ダイアナザーデイ」。
ちょっと単純な映画観たかったのもあるし、こういうのは
やっぱり旬を逃すと、なかなか見れなくなっちゃうし、
ということで早速鑑賞。

今回は第一作「ドクターノオ」から数えて40年、20作目に
あたるらしく、記念碑的な作品である。
この映画を一言で言うと、ゴチャゴチャ言わず、素直に楽しむ
べき作品。

最近は、ビジュアルエフェクトの進化もあってか、007シリーズ
以外にも、ジェームスボンドもの、というジャンルが確立している
と思う。
例えば、ミッションインポッシブル、チャーリーズエンジェル、
オースティンパワーズ?、トリプルXなど。

ポイントとしては、世界中を股にかけた大活躍、ハイテク満載の
スパイグッズ、敵か味方かわからない、ボンドガールとのアバン
チュール、そして必ず?世界転覆を考えている敵と、そのための
大仕掛け。
ある意味、大人のためのおとぎ話。

今回も、本家としてその辺のお約束はちゃんと抑えている。
ただ、ピアズナンボンドになってからは、フェミニズム方面にも
気を使ってか?時代だからか?ボンドガールはただ単にエッチして
主人公を助けてくれる刺身のツマではなくなってきている。

今回のボンドガール、ハルベリー演じるジンクス、はそういう意味
で、新時代のボンドガールの進化系らしく、ついにはジェームズボ
ンドと、対等の立場にまで登りつめた。

ある意味で、アメリカの女性版殺しのライセンスを持ったスパイ。
その華麗なファッション、抜群のスタイルも含めて、ボンドとは
気が合うだろう。
外伝的作品として、「ジンクス・シリーズ」ができるのもうなづけ
るようなキャラクターになっている。

ちなみにボンドガールとして?今回は主題歌歌っているマドンナも
ちょっとだけカメオ出演。
ボンドとちょっとだけエッチなシーンを演じている。

そして舞台は、北朝鮮、香港、キューバ、ロンドン、アイスランド
と、今回も見所たっぷり。

今回の敵は北朝鮮の将軍の息子。
でも、あんまり北朝鮮自体は、関係ないような気もするけど。
ある意味では、勘違いしたニホンを舞台にした映画みたいな感じ
である。

偉大なる指導者である将軍様も出てくるので、てっきり眼鏡かけて
増毛しているのがわかりやすい人で、しかもボンドガールとして
悦び組みたいな人まで出てくるのかと思ったら、そんな事はなく。

制作側としては、たまたま舞台にした北朝鮮が、これだけ日本や
世界で脚光を浴びたことで、逆に儲けた感じなんだろうなあ。

んで、実際の映画のあちこちに関しては、ツッコミどころ満載。
書こうかとも思ったけど、やっぱりこの映画の場合は、ツッコミ
を入れることも、映画の作品の楽しみとしては重要だと思うので
あえて書かずにおこう。
実際に作品を見て存分にツッコミを入れてみてくださいな。

でも(以下、ちょっとだけネタばれ)
実際の北朝鮮の、偉大なる将軍様があんなガジェットを手に入れ
ちゃったら、一体どうなるんだろう?

建設的に使うんだったら、北朝鮮のエネルギー問題は原子力に頼ら
ずとも解決しちゃうような気もするんだけど、その場合もやっぱり
ボンドさんたちは、破壊しに行くのかなあ。


ジェームズボンドものが大好きで、たまにはスカッとしたい人に
おススメの映画です。
ダイ・アナザー・デイ公式サイト



2003年03月05日(水) 「猟奇的な彼女」

今日は月一回恒例の映画ファン感謝デー。
今日見てきたのは「猟奇的な彼女」。

見たのはシネマスクエア東急。
とりあえずすごい人気で、開始5分前に飛び込んだんだけど、
一番後ろの席が一つだけ空いていたのでそこに座ることに。
でもこの映画館、異様に縦に長い構造だったので、スクリーンまで
結構遠かったんだけど。

さてこの映画、一言で言うと、「メリーに首ったけ」みたいな
ラブコメディの映画である。
間抜けでちょっと下品で笑えるけれど、ちゃんとした恋愛映画。

あ、でも雰囲気としては、メリーに首ったけっていうよりは、
日本の少年漫画誌のラブコメの方が近いかもしれない。
ちょっと古いけど、「きまぐれオレンジロード」とか。

ボーっとしてて、優しい以外何のとりえもない、のび太君キャラの
彼氏と、綺麗だけど性格のきつい女王様キャラの彼女の繰り広げる
ラブストーリー。

なんて感じで終わるのかと思っていたら、途中からちゃんとした
恋愛映画になってきたんでおお?とか思いながら見てしまった。
とりあえず、彼氏の方は間抜けというか、ダメ男過ぎて個人的に
あんまり魅力は感じないんだけど。

以下、ちょっとだけネタばれ?すると
取りあえず彼女が雨の中、泣きながら飛び出してきたら、
追いかけようよ。
あと、彼女の傷が癒えたら身を引こうとか考えんなよ、
自分自身は一体彼女のことどう思ってんだよ、とか
とりあえず後姿で彼女だと気づけよ
でも最後は成長したからまあいいか

と、個人的には身につまされつつも?、つっこみポイント
盛りだくさんだったんだけど。

でも、彼女の気持ちとか、すっごいリアルな感じなんだよね。
見る前の感じだと、すぐにキレて手を出してしまう、エキセントリックな
女の子のイメージだったんだけど、劇中での女の子は確かにすぐに
「チョグレ(殺すよ)?」とか「殺されたいの?」とか劇中でも言い出す
んだけど、ちゃんと一本筋が通っている感じがするし、表情豊かな所も
負けず嫌いな所も含めてキュートなんである。

実は、ヒロインのチョンヒジョンにルックスがよく似た知り合いが
いるんだけど、行動パターンつうか、思考回路も似てる感じで、
あー、こういう子いるよなあ、なんて思ってしまった。
彼女が、というか彼女のだんなさんが見たらいったいどんな
コメントなんだろう、と思ってみたり。
ちなみにその人は暴力的ではないと思いますけど。

結構リアルな話だったなあと思い、うちに帰って公式サイトを
見てみてビックリ。
この話、実話を元にしていて、韓国ではネットが元になった原作本
はベストセラーらしい。
で、映画では原作になかったその後まで描かれているみたい。
でも、延長戦があってよかったなー、って感じなんだけど。

韓国でも彼女の思い出をホームページで綴っている人っているんだ
ー、とか、韓国でも顔文字って使うんだー、とか、変なところで
感心してみたり。
もう、韓国と日本の風俗ってほとんど一緒なんだなあ、なんて
思ってみた。

レンタルビデオで並んでたらもう一回見てしまうかも。
彼女に振り回されるのが好きな?男子と、本当は素直な気持ちになりたい
女の子におススメ?の映画です。



2003年03月04日(火) コンビニリニューアル

私がよく使うコンビニエンスストアは、最寄り駅の改札口を出てすぐの
場所にあるampmである。
駅を出て、本当に目の前にあるので、うちに帰る途中、ついつい寄って
しまうのだ。

そして、もう一つこのお店をよく利用する理由は、うちの近所のコンビニ
では、ここでしか手に入れられない商品があるからでもある。
それは、「やさしいたんぽぽミルクコーヒー」と今の時期だと「スイス
エミーストロベリーヨーグルト」。

「やさしいたんぽぽミルクコーヒー」は、砂糖を使わず、牛乳の自然な
甘みなので、文字通り、「やさしい」味のコーヒー牛乳である。
コーヒー牛乳というと、学生時代や、古くは銭湯の風呂上りの時代から
雪印のコーヒー牛乳や、またはグリコのカフェオレをひいきにしていた
んだけど、最近は「やさしいたんぽぽミルクコーヒー」を買うことが多く
なっていた。

で、もう一つの商品の「スイスエミー」のストロベリーヨーグルト。
まるでジャムにするために煮詰める前のようなイチゴが丸々ごろんと
入っているのが、うれしいのでついつい買ってしまうのだ。
ただ、季節限定商品らしく、この時期を逃すと買えなかったりもする。
逆に言えば、コンビニの棚にこの商品が並んでいると、ああ、春が来た、
なんて実感したりもする商品なわけだ。

さて、そんな感じで愛用していた駅前のコンビニが、店内改装のため、
しばらく休んだ後、開店したので早速入ってみた。
コンビニが改装して、商品の置いてあるところが変わっていると、結構
戸惑った経験ってないだろうか?

コンビニに入るのって、もう習慣化しちゃっているから、ここに行けば
雑誌が読めて、ここで飲み物買って、みたいに一種の生活動線ができて
いるので、模様替えして陳列場所が違っているのに、ついつい元あった
場所に足を運んでしまったり。

そんな感じで、自分のお気に入りの商品を探すのに最初は結構戸惑って
しまう。
で、自分のお気に入りの商品、「やさしいたんぽぽミルクコーヒー」は
見つけられたんだけど、「スイスエミー」のヨーグルトは残念ながら
発見することができなかった。

まあ、こっちは季節限定商品だから、来年になったらまた出会えるのかも
しれないけれど。
もう少し味わいたかったなあ、としみじみ。

で、コンビニを見回すと、なんだかちょっと狭くなったような気がする。
なんでだろう?と思って、よく観察すると、そこにはなぜかシアトル系
コーヒーショップのコーナーが出現していたのだった。

どうやら、ampmと、シアトルズベストが提携をした らしく、この店は
早速その提携店に選ばれたらしい。
で、そこでは専属?の店員さんがいて、コーヒーを出してくれる。
やっぱりこの店員さんのことはバリスタって呼んでるんだろうか?

残念ながら、店内に座るスペースはないので、テイクアウトのみ。
パンは売ってるけど、コーヒー豆は取り扱ってないみたい。
シアトルズベストのWebサイトと比較した感じだと、料金はなぜか
50円引きで、カフェラテのレギュラーサイズ?で230円。
今だと、更に100円引きで130円(税別)。
で、早速買ってしまった。

味としては、あんまりエスプレッソの苦味は強くない感じなのかな。
泡立ちもスタバとかの方が立っている気もするけど、個人的には
全然文句なし。

うちの近所で無性にカフェラテが飲みたくなったときには、ついつい
利用しちゃうような気もする。
当然?24時間飲めるんだろうし。

でも逆に言うと、つい便利で買ってしまうから、コンビニでの出費は
増えちゃうんだろうなあ。
もちろん、お店としてはそれが狙いなんだと思うけど。
ちょっとだけ?セレブな気分も味わえることだし、とりあえずは
このサービス、長続きしてほしいなあ。



2003年03月02日(日) オリンピック最終予選第1戦

当たり前の事だが、お互いに点は取りたいし、相手に点はやりたくは
ない。真剣勝負とはそういうものだろう。
って、一体何の事を書いているかと言えば、サッカーの試合の事である。

日曜日の夜にフジテレビでやっていた、チャンピオンズリーグの
レアルマドリード−バイエルンミュンヘン戦と、昨日の夜やっていた
オリンピック最終予選の日本代表−バーレーン戦を見た訳だ。

ま、スカパーではなく、地上波のフジテレビでたまたまやった
チャンピオンズリーグの試合を有難がって見ているあたりで、すでに
サッカーファンとしては「終わっている」のかもしれないが。

でも、結構いい試合で見てよかった、などと思ったりしているのだ。
少なくとも去年までのTBSよりはいい感じ。もっとやってくれ、フジ
テレビ。

何しろ、最近サッカーづいているのである。
ちなみに日本ラウンドのバーレーン戦を見に行く予定だったりする
のである。

で、話は冒頭に戻る。
U23の日本代表は、パスミスもあったり危ないシーンも沢山あった
けれど、個人的にはこのチーム、連携もあるし、攻撃に戦略もあり、
個々の選手の個性もわかりやすいと言うこともあって、結構好きな
チームである。

で、昨日の試合も相手チームが思いっきり引いていたって事もある
とは思うけど、結構押していて、展開としては悪くはなかったんじゃ
ないかな、と思うのだ。

ただ、一つ残念だったのは、結局ゴールをこじ開けることができな
かった、という事だろう。決定的なチャンスがなかった訳ではない。
ただ、そのチャンスが活かせなかった、という事なんだろうと思う
のだ。
素人目にはすげえな、向こうのGK、とか思っちゃったし。

もう一つは、もしかすると、日本代表が戦術にこだわりすぎている分
相手に研究され尽くして、チャンスをつかむことができなかったの
かなあ、なんて思ったり。

これはサッカーではなく、ラグビーの平尾ジャパンの時の話だったと
思うけど、日本代表が奇策というか、戦術的プレイを行なうと1回は
通用するんだけど、2回目は研究されてしまうので、できなくなって
しまう。だからW杯を勝ち抜くためには何種類もの戦術をぶっつけ本番
で行なわなきゃならないが、それは不可能である、なんて話を、平尾
誠二がしていたことを思い出した。

A代表で、ジーコの采配について、選手達の自由にやらせるのではなく
戦術を確立しろ、なんて話もあるけれど、でも、やっぱり戦術に依存
した戦いには、限界があるのかもしれない。
ま、これはまた別の話。

で、話は唐突にレアル−バイエルン戦に変わる。
レアル−バイエルン戦も前半は膠着した感のある戦い方で、このまま
スコアレスドローなのかなあ、と思っていた矢先、バイエルンが先制
し、おお、もしかしたらレアルはこの後ホームがあるとは言っても
不利なのか?と思っていたときに、ロベルトカルロスがFKで、バイエ
ルンの、というよりGKカーンの扉をこじ開けた。

組織の力でどうにもならない時、例えばロベルトカルロスのように、
その場の戦況をガラリと変えられる選手がいるというのは、やっぱり
凄いことなんだなあ、としみじみ思ったのである。

っていうか、あの地を這うFKがゴールになり、一方で日本代表平山の
打点の高いヘディングシュートや、松井のFKがゴールを捉えることが
出来なかったあたりには、やっぱり運だけではなく、気迫みたいな
ものも関係しているのかなあ、とも思った訳だ。

まあ、この1戦で全てが決まった訳ではもちろんないのだろうし、
逆に言えば今後、彼らが1戦ごとにどれだけ成長していくか、という
事が楽しみになったりするんだけれど。予選で終わってしまうには、
もったいなさ過ぎると思うし。


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