2004年02月29日(日)  カステラBABY。
 
そういえば僕の彼女。僕が太ることを過度に心配していて、間食の類は全く駄目。彼女は気管支炎を持っているので、彼女の前では全く喫煙しない。1日中一緒にいるときは1日中喫煙しない。愛する彼女と一緒にいるわけだから禁煙なんて屁でもないんだけど、喫煙しないかわりに腹が減る。
 
先日など後楽園の駅前で売っていたベビーカステラをどうしても食べたくて、食べたくて食べたくて、おいあれ食べようぜ。僕は食べたくないんだけど、キミが食べたそうな顔してるから買ってあげるよ。おいあれ食おうぜ。ベビーカステラ頬張ろうぜ。露店侮るなかれ。きっと美味いんだぜ。おい350円だってよ。高いのか安いのか、わかんねぇや。
 
などと話していたら彼女の表情が曇り出し、といってもベビーカステラ云々の件以前からなんか彼女の表情が曇り始めたのは気付いていたのだが、さしたる理由も思いつかないし、生理でも始まったのだろうと楽観していたら「勝手に食べればいいでしょ!」と突然の怒り表明。青天の霹靂の僕は、青天の霹靂状態に置かれながらも、じゃあ買おうかしら。と考えていたのだが、彼女はベビーカステラの露店の前を通り過ぎ、僕のことなど気にも留めずに駅の方角へ歩き出す。
 
結局、怒りの理由がわからないまま彼女は地下鉄丸の内線に乗って帰ってしまいました。しかし、その日は彼女が料理を作ってきてくれて、それはタッパーに入っていて、そのタッパーは彼女のバッグに入っていて、このまま彼女が帰ると僕の晩飯がなくなってしまう。というわけで駅のホームで狼狽えながら「ねぇ、おかず。ねぇ、今晩のおかずください」などと間抜けなことを訊ね、タッパーを投げつけるように僕に渡し、地下鉄に乗って帰っていった彼女を僕は愛しています。
 
2004年02月28日(土)  なんかフォルダに入ってたやつ。
人間的とは一言でいうと機械的ではないということであるが、対義語だけでは説明できないほと人間的という言葉の意味は広い。例えば小さな白い花を見て、それを小さいと捉えるか、白いと捉えるか、綺麗だと捉えるか個人によって感じ方に差ができてしまう。このように個人差があるということも人間的だということができる。
 
先日、妻の承諾を得て首を絞め殺害したとして承諾殺人罪の罪に問われた77歳の老人男性の判決公判が行われたが、充分な手だてを尽くさず、人の命を奪った責任は重いが、妻とともに自殺しようとした経緯には同情すべき点があるとして懲役2年が言い渡された。
 
このニュースを見てとても人間的だと思った。もし裁判というものが機械的だったらどうなるのだろうか。おそらく殺害という犯罪は種類を問わず死刑となるだろう。しかしこの場合、裁判官は「同情すべき点がある」と人間の心に基づいた見解を述べている。裁判が機械的ではないところはこの情状酌量という言葉によって理解することができる。
 
通り魔などの衝動的な無差別殺人は人の命を軽率した機械的な犯行といえる。しかしこの承諾殺人の事件の場合、被告が知らないうちに妻が約600万円の借金をしており、妻本人「殺して」と求めるようになり、被告は妻を殺し自分も死のうと考えて犯行に及んだという経緯があり、葛藤、苦悩、悲哀など実に人間的な感情が渦巻く犯行で事件全体が人間的であったともいえる。
 
これら一連の経緯には決して機械では理解することのできない意味が込められていると思う。小さな白い花を見て小さいと捉えるか、白いと捉えるか、綺麗だと捉えるか、また冷酷だと捉えるか。個人によって感じ方に差があり、多種多様な意味を見出せることが人間的ということではないだろうか。
 
2004年02月27日(金)  やっつけ感想。
 
僕はクラシック音楽について詳しい方ではないので、聴いたことがない音楽も多かったですが、このモーツァルトのトルコ行進曲はクラシックを聴かない人でもよく耳にする音楽だと思いました。
 
トルコ行進曲は他の音楽と何かが違うと思い、聴いていましたが、その違いは、あまりヨーロッパ風の音楽ではないような気がするのです。トルコ行進曲という題名ですから、トルコ風の音楽だと思いますが、そのリズムやメロディーが、ヨーロッパ風の音楽とは違うエギゾチックな感じを受けました。
 
最初の短くて歯切れのよい主題が、とても心地よく、その後のややゆっくりとして、勇壮さを感じさせるそのギャップも、この音楽が魅了される一因だと思います。
 
始めの軽快な主題が2つ繰り返された後に、行進曲風と感じる音楽になりますが、おそらくこれがトルコ的ではないのかなと感じます。やはりピアノだけではなく、打楽器が加わってこそ、行進曲という名にふさわしいような気がします。
 
この局の中間部は、演奏の部分が鮮やかに変化して、目を閉じると勇壮な景色が目に浮かぶようです。そして最後に再び最初の軽妙な主題が流れると、華やかさを取り戻し、聴く人を様々な方法で魅了する素敵な曲だと思いました。
 
2004年02月26日(木)  頑張れ長男。
 
というわけで先日妹に子供が生まれまして、長男。僕長男なんだけどね、何やってんだと。長男は何やってんだと。肉親親戚隣近所地域の方々が二十七歳の青年に対して冷たい視線を送ると思うので実家に帰りづらい。3月に帰らずに4月に帰るのは、3月の勤務表が既に完成していたということと、4月は航空会社のバーゲンがあって、格安のチケットで帰れるという実に現金な理由。
 
一刻も早く甥の顔が見たくて、もう一人の妹に「おい、写真送れ」という高慢なメールを送ったら「はじめまして」という件名のメールが届き「パパに似ちゃったかもデチュ」なんて滅茶苦茶な文体の本文と共に、甥の写真が送られてきた。まだ幼さが残るその顔は、幼さが残って当然で、このコは昨日この世に出てきたばかりなんだと思うと不思議な気持ち。
 
で、長男はというと、このコが生まれた昨日の午後2時30分。妹が陣痛に耐え、母親に感動の言葉を投げ掛けていた時に何をしていたかというと、彼女とセックスをしていました。
 
「実に因果だよなぁ」
「何が因果よ」
 
彼女がウフフと微笑む。僕はワハハと笑う。頑張れ長男。
 
「結婚でも、する?」
「いやよ」
 
彼女即答。頑張れ長男。
 
2004年02月25日(水)  2月25日。妹、母になる。
 
>元気な男の子です。早く帰ってきてね。
 
妹に、子供が生まれた。切迫流産で1ヶ月程入院していて、一時は危険な状態だったそうだが、今日、無事に、元気な赤ん坊が生まれた。嬉しくて嬉しくて、メールの返信よりも先に、ベビー服売場で新生児用の服を買った。まるで僕がお父さんになったように店内を走り回った。
 
しかし、妹に子供が生まれたという実感がいまひとつ沸かず、ただこの目で赤ん坊を見てないだけなのかもしれないが、それとは確実に違う、妹が、僕の妹が子供を産んだという事実。僕より2つ下の、看護婦で、生真面目で、頭が良くて、大きな瞳の妹が、子供を産んだという事実。
 
「私、お婆ちゃんになっちゃった」
 
母からの電話。悲しそうな口調に、何ともいえない嬉しさが滲み出ている。母は涙混じりに、入院生活がどんなに大変だったか、どんなに心配したか。そして陣痛が始まり、分娩に立ち会ってどれだけ感動したか。普段口数の少ない比較的冷静な母が興奮して受話器の向こうの僕に話し掛けている。涙声になっている。僕は子供をあやすような口調で微笑みながら、うん、うんと頷き返す。
 
「あのコがね、分娩室に入る間際に私に向かって叫んだ言葉が忘れられないの」
 
母の言葉は涙に浸食され、語尾の方はもう何を言っているかわからなかった。初めての陣痛、初めての分娩。想像を絶する激しい痛み。母は妹の手を強く握り、励まし続けた。私もこの痛みを我慢してアナタとマーとルリを産んだのよ。子供を産むって素晴らしいことなの。この痛みを忘れちゃ駄目よ。妹は歯を食いしばり、涙を流しながら喉の奥の方からうめき声を挙げる。そして分娩室のドアが開く寸前に、妹は、母に向かって目を見開いて、叫んだ。
 
「お母さん、私を産んでくれてありがとう」
 
母は、あまりにも唐突なこの言葉を耳にし、立ちつくしてしまった。そしてその場に泣き崩れてしまった。「私を産んでくれてありがとう」男である僕には考えられない言葉だった。おそらくこれからも心の底からそう思うことはないだろう。妹が子供を産む間際に叫んだ言葉は、どんな美しい比喩や綺麗な表現よりも美しいと思った。その言葉には何物にも汚されていない真実の言葉だった。
 
「お母さん、僕を産んでくれてありがとう」
「やぁねぇ。そういう言葉は子供一人産んでから言いなさい」
 
母は、涙にむせびながら笑う。僕は今日買った新生児用の洋服を広げ、4月に帰るよと告げる。早く帰ってきなさい。あのコもお兄ちゃんを待ってるんだから。それから何度もお婆ちゃんになっちゃったと嬉しそうに呟きながら、母にしては珍しい長電話は終わった。
 
お母さん、私を産んでくれてありがとう
 
妹は、きっと立派な母親になるだろう。
 
2004年02月24日(火)  レフトオンリー。
 
新しい物を身に着けると、それがどのような物であれ気分が晴れ晴れするものです。パンツ。新しいパンツ。ズボンじゃなくてパンツねパンツ。僕はブリーフ派でもトランクス派でもない穏健派なので、今日のような小春日和は朝から鼻歌を唄いながら仕事へ向かうのですボクサーパンツを履いて。
 
今日は新しい物を身に付けているというのに散々な日でした。「ヨシミさん、これ昼休み中に仕上げて!」なんて婦長さん、昼休みなのによー飯食ってねーんだよータバコだって吸いたいしさーって思ったけど即答。「15分で仕上げます」なんていつものように軽薄な発言。されど実行。普通15分では到底無理な書類を15分で仕上げる。できました。って意気揚々と婦長さんの元へ。あぁありがとう。って婦長さんさしたる感嘆の言葉もなくガックリ。がっくし。パンツが食い込む。
 
そう、この新しいパンツ。朝から食い込んでばかりなのだ。今日初めてわかったんだけど、パンツが食い込むとなんか生きてることがどうでもよくなる。食い込むくらいならこの仕事辞めてしまいたい。誰もいない無人島でノーパンで暮らしたいと思う。
 
ナースステーションの端の方へ、看護婦さん達の死角になるような場所へそっと移動し、尻の食い込みを直す。へへっこれで自由に動けるというのもつかの間。へへっこれで自由に動けると思ってるうちに既に食い込んでいる。再び尻を掻く振りなどをして食い込みを直す。また食い込む。直す。食い込む。食い込む。更に食い込む。
 
という具合に、パンツが尻に食い込んでない状態を0とする。食い込むと−1。それを直すと0に戻る。しかしこの馬鹿パンツ。食い込んだ−1の状態の時にほっとくと更に食い込んで−2となる。それでも我慢してると−3になる。もう我慢できねぇって食い込みを直す。しかし−3の状態を直しても−2の状態にしか戻らない。よって蟻地獄。尻地獄。仕事が終わったころには−12くらいの食い込み地獄。余裕でTバック。Tバックつーかこの馬鹿パンツ左尻の方ばかり食い込むのでレフトオンリーTバック。肛門から発する厭世観。
 
2004年02月23日(月)  僕のお仕事。
 
先月書き上げた原稿のギャラが振り込まれましたので、ここは何かでかいものを買ってやろう。新車でも買おうかしら。それともマンションの頭金にもしようかしら。それとも実家をリフォームしようかしら。なんて考えてはみるが、そんなことができるようなギャラではない。CDのアルバムと洋服何点か購入してウキャキャと喜ぶのが関の山。
 
でも趣味が高じて、こうやって現金が発生するのは素晴らしいことよなぁ。それなりに苦悩はあるけれど、通帳にギャラが振り込まれてるとそれらの苦悩は一瞬にして消えてしまうんだものなぁ。しかし僕はこれからも書く仕事を続けていくのだろうか。
 
もともと僕は、本を読むのは好きだけど、書くのは苦手で、「歪み冷奴」なんてサイトを運営してるが、その前身「歪乃瓢駒」というサイトではそれほど文章に重点を置いてなくて、重点どころか、語尾に(笑)(爆)(核爆)(泣)(号泣)を多用する文章を書いていて本人もそれで満足。俺って面白い(笑)俺のセンス素晴らしい(爆)なんて思っていて、そういう誇りというか、根拠のない自信を全て捨ててしまおうと思って、タイトル一新、「歪み冷奴」なんて意味のわからないサイトを始めるにあたり、根拠のない自信を捨ててしまうと、考えることがどうも内面的なことになる。自分の殻に閉じこもり、内向的になる。ということは自ずと粘着質、執着的、厭世観が根底に流れるような文章になる。
 
このようないきさつで、文章にそれなりの個性を獲得し、この技術を現金に換金できませんかと思い立ち、なんか面倒臭い手続きとか付き合いをいっぱいして、現在の、看護師兼フリーライターというわけのわからない僕がいて、原稿の報酬を貰ってずっと探してた洋楽のアルバムを池袋の中古CD店で発見。松屋で豚めしを食らい意気揚々と部屋へ戻り、コンポにCDを挿入して間違えた。これ持ってたやつだった。
 
2004年02月22日(日)  過去と幸福。
 
深夜にキーボードを前にするとどうもいけない。考えることも書くことも陰湿になってくる。ある種の告白をするのなら、この時間帯がいちばんいいのかもしれない。内省的で罪悪感に満ちた深夜の告白。今夜は誰に宛てるメッセージではなく、自分の為に書いてみよう。
 
僕は、今までの人生の中で3人の女性を不幸にした。もしかすると恋愛なんてものは別れた時点で全てが不幸になるのかもしれないけれど、そんなもの数え始めたらきりがないし、意味がない。出会った瞬間に不幸は始まっているのかもしれない。しかし、別れたから幸福になったというケースもあると思う。結婚したあの人や、僕の知らない遠いところに行ったあの人。
 
だけど、僕は、3人の女性を、確実に、不幸にした。4人のような気もするけど、あの人は、結果的に幸福を手に入れたのか、不幸に飲み込まれたのか今となってはわからない。
 
時々、僕は過去に対する罪悪感に苛まれて、悲しみに打ちひしがれることがある。取り返しのつかないことをしてしまった。取り返しのつかないことをしてしまった。取り返しのつかないことをしてしまった。と。
 
人は人生でどのくらい取り返しのつかないことをしてしまうのだろう。戻りたくても戻れない。戻れないとわかっていても戻ろうとする。新しい彼女ができるたびに、今度こそ、今度こそこの人を幸せにしてみせようと思う。今までの僕とは違う、これからの僕としてこの女性と向き合おうと思う。僕はいつも全力でその人を愛してみようとする。だけど空回りする僕の意志は相手に冷酷と伝わったり無関心だと思われたりする。
 
スタートから全力疾走してゴールした場所がスタート地点だったような。
 
例え、過去の女性ともう一度会う機会があったとしても、僕は謝らない。そんなことしたらお互い惨めになるし、謝ったからといって崩れたものが再構築されるわけでもない。過去はどんな形であれ、過去として、それはもう完結されている。取り返しのつかない過去は、そのまま冷却され、いつまでも、当時のまま、僕の胸の中に保存されている。それは現在のあらゆる可能性や希望という類のものを使ってみても、決して溶かすことはできない。
 
全ての過去を踏まえた上での幸福なんて、存在するのだろうか。
 
2004年02月21日(土)  お姫様。
 
そりゃあ僕だって毎日豚めしばっかり食っているんじゃなくて彼女とデートだってします。待ち合わせ時間にだって余裕で遅れます。待ち合わせ時間に覚醒します。
 
彼女は僕より年下ですが、全てにおいて僕より秀でています。そう、全てにおいて。
 
回復だって早いです。僕なんてまだ筋肉痛です。お姫様抱っこが大好きな彼女をベッドの上でお姫様抱っこしている僕は王子様ではなくて召使い。関節が軋み、筋肉が悲鳴をあげる。彼女はとても小さくてスレンダーな身体をしているんだけど、僕は彼女の身体を支える筋肉ならびに骨格を生成・構成する食物を豚めしのみでしか摂っていないので、非常に偏っているのです。
 
これまで「愛している」という言葉を何人の女性に何回呟いてきたでしょうか。確かにその言葉を呟くとき、相手を、愛しているのです。だけど、その「愛している」という形が、人それぞれ違うのです。前の彼女に囁いた「愛している」が今の彼女では通じない。今の彼女に呟く「愛している」はきっと昔の彼女には聞き取れない。
 
出会いがあれば別れがあって、今の彼女とも、いずれ別れるときが来るのでしょうが、でも、別れたくない! って叫んでみても、非情なのは僕ではなくて彼女でもなくて時間なのであって、この1分1秒が愛惜しいと思ったのは初めてで、僕が「別れたくないよ」と言うと彼女は「私もよ」と言う。僕は見えない形をいつまでも求めてしまう。「だから僕は別れたくないんだよ」と言うと彼女あ「だから私もよ」と言う。
 
 
そりゃあ僕だって毎日豚めしばっかり食っているんじゃなくて彼女とデートだってします。待ち合わせ時間にだって余裕で遅れます。待ち合わせ時間に覚醒します。
 
彼女は僕より年下ですが、全てにおいて僕より秀でています。そう、全てにおいて。
 
2004年02月20日(金)  魯鈍の母、白痴の店員。
 
今日も今日とて仕事帰り豚めし松屋の豚めしカウンターで豚めし小言を呟きながら豚めしセットを食しておりましたら、隣でガチャンと物音。
 
何事かと首を伸ばして見ますれば、女幼児がグラスを倒してる。混乱のあまりサラダの皿まで引っ繰り返す。年の頃三歳。母親二十八歳。母親らしからぬミニスカートに養親らしからぬ厚化粧。焦燥する幼児、息巻く母親。
 
「バカじゃないの!」
 
豚めし松屋の豚めしカウンターの何処から罵声が飛ぶ。豚めしの箸を置き、声の主を探す。「バッカじゃないの!」もう一回。声の主は、大根脚を露出したミニスカート、厚化粧では隠し切れない憮然とした表情の母親。
 
「ゴメンね」
 
養親に謝罪する女幼児。御手拭を手に取り、豚めしカウンターに散乱した日本茶、キャベツ、玉蜀黍などを不器用な手付きで払拭する。豚めしカウンターを払拭しつつ母親の顔色を伺う悲しい眼差し。「ゴメンね」もう一回。
 
「やだ」
 
憮然とする養親。どっちが子供かわからない返答。女幼児の不器用な後始末に手を貸そうともせず、豚めしカウンターで豚めしを貪っている。「ほんとバカじゃないの!」三度目の罵声。
 
僕は箸を置いたまま、阿呆の養親を睨む。魯鈍、白痴、低能、無能の女養親は僕の目線に気付かず、相変わらずの阿呆面で豚めしを食している。女幼児は半べそをかいている。涙を流すか流さないかの瀬戸際で、流したら敗北とでも思っているのか、唇を固く閉め、豚めしカウンターを御手拭で払拭している。
 
僕は、僕は本気で、このとき、僕は本気でこの女幼児を誘拐しようと思った。こんな厚顔無恥な母親の元に置くより、そう、「躾のためにやった」と虐待の言い逃れをするような母親の元に置くより、僕が誘拐して、身代金の代わりに、母親としての役割の徹底を条件に女幼児を返してやろうと思った。
 
それが不可能ならば、この女養親を犯してやろうと思った。消えることのない傷を、必要以上に残してやろうと思った。僕は、子供のためなら、例えそれが人様の子であっても、子供のためなら、それくらいできる。犯罪者になってもいい。犯罪者になっても僕は考えることができるし、その後の自分の道も、自分で決められる。子供は、可哀想だ。いつも、力に屈するしか方法がない。そして、産んでくれた親を、憎むことができない。
 
代わりに僕が憎んであげよう。すっかり食欲を失くした僕は、御手拭も取らず、これみよがしに、豚めしカウンターに散乱したキャベツと玉蜀黍を素手ですくった。
 
「あぁ、すいません」
 
店員と母親が同時にひ弱な声を挙げる。僕は聞こえない振りをして、ずっと女幼児に困った笑みを投げ掛けていた。お互い悲しい表情で、誰にも聞こえない会話をしていた。
 
2004年02月19日(木)  世界の中心でパーマ落としたいと叫ぶ。
 
こωは〃ωゎ∋シミτ〃す★今日もぉUこ〃とτ〃とっτも⊃かれちゃッナニ♪ とギャル文字を駆使しつつこωは〃ωゎ。
 
そもそも僕の周りにはギャル文字どころかギャルの知り合いもいない始末で、唯一のギャルだった友人も年明けにできた新しい彼氏に感化されたのか洗脳されたのか、アメコミ調のデカいキャラ物プリントのスウェットを着て外出するようになったのでもう駄目だ。あのコもう駄目だ。
 
そういえば最近、ギャル文字で書かれた迷惑メールが届くけど、普通の人は基本的に読めないので、あれは迷惑である。ん? しかし迷惑メールというものはその存在自体が迷惑なので、その詳細まで迷惑だとしたら迷惑の中の迷惑。タランティーノ監督が「『キル・ビル』は映画の中の映画であり本当の世界ではない。色んな要素があっていいと思う」と言ってたことを何の脈絡もなく、あるのかもしれないけど、思い出した。
 
いきなり話は飛ぶけど、あなたは恋人と一日何回くらいメールをやりとりしますか? さっき計算したら1日約8回だった。それが多いのか少ないのか。僕はメール1通にしてもすごく言葉や構成を考えてしまうので、「なにしてるの?」というメールが届くと「夜空の星とキミとのキスの回数を考えていた」なんて意味もなく気障、もしくは「カップラーメンとカロリーメイトのカロリー数を足して愕然としていた」なんて意味もなく阿呆なメールを返すので、彼女疲れてしまうような気がする。
 
今、「世界の中心で、愛を叫ぶ」を読んでいるんだけど、帯に書いてある「なんでこんなに涙が出るんだろう」と書いた人に素直に聞いてみたい。どうしてそんなに涙が出るんですかって。だけど買った本は最後まで読まないと気が済まない性質なので、何か悪いことをしたとき、例えば部屋に溜まったビールの空き缶を出勤途中のコンビニのゴミ箱に捨てるとか、寒さに怯え、取り入れるべきの洗濯物を取り入れなかったときに、この本を罰として読んでいます。
 
2004年02月18日(水)  後。
 
看護には「記録」という大切な仕事があり、というのも近年、「記録の開示は患者の権利の保障として位置づけられるものである。現在、医療現場において患者のおかれている立場を考えれば、法律に記録の開示を明記し、患者の自己決定の権利を保障する必要がある」などと日本看護協会が訳の分からない見解を表明したお陰で、来月の休日予定を婦長に却下された。しかも今日のお昼に売店で買った牛乳を飲んだので帰りの電車の中でずっとウンコしたかった。
 
で、記録の話なんだけど、今日カルテに看護記録を書いていたのです。で、「食後」という漢字を書こうとしたとき「後」という字が思い浮かばなくて途方に暮れてしまった。「ぎょうにんべん」までは思い出せるのだが、その右になんて書いていいのかわからない。
 
確か婦長さんのデスクに漢字辞典があったはずなんだけど婦長さんとこまで行って「ちょっと辞書借ります」って言うのが面倒臭いというか気を遣うというか何というか、ただ単に今記録を書いてる机からちょっと遠いだけの話なんだけど、「後」という漢字くらいこれまで数え切れないくらい書いてるわけだし、そのうち思い出すだろうとペンを止め、ペンを鼻と唇の間に挟む、耳腔に挿入する、陰部を突くなどして脳内を刺激していたのだが一向に思い出せない。
 
手元のメモ帳に「ぎょうにんべん」の右にいろんな漢字を書いてみるが、「菱」だの「系」だの一向に的を射ない。あぁもう「菱」でいいやと思って看護記録に書こうとしたが、この記録は僕だけの記録ではなく他の看護師も見るので、「ヨシミは漢字検定持ってるくせに『後』の字も書けない」だの「今日昼休みに売店で牛乳買ってたから帰りの電車できっとウンコしたくなるよ」だの言われそうなので、あぁもうホント面倒臭いけど婦長さんの机に行って、婦長さんは不在だったので机に向かって一礼して辞典を借りた。
 
辞典を開くと、「うしろ」というところに「後ろ」って書いてある。「ご」というところには「後」と書いてあり「あと」というところには「後」と書いてある。なんかおかしい。「うしろ」ってこんな漢字じゃなかったような気がする。なんというか、僕の脳がまだ正常だった1時間くらい前の世界では「後」という漢字はこんな字じゃなかったような気がする。
 
よって僕の脳ではなく、その世界全体がなんだか変なことになってしまって、「うしろ」という漢字に「後」などという変な字が当てはめられてしまったのだ。神様が世の中の全ての書物、辞書の「うしろ」という字を「後」というヘンテコな文字に変えてしまったのだ。昔はこんなんじゃなかった。納得いかない。
 
えっとこれどうやって書くの? ぎょうにんべんにー、糸っていう字を途中まで書いて、って、ほら、途中まで書いて投げ出して、その下に夕方の夕のなんていうか飛び出しちゃった字を書いて「後」おかしな字だなぁ。こんなんじゃなかったはずなんだけどなぁ。もっと凛とした字だったような気がするんだけどなぁ。
 
と、通りかかった看護婦さんに「ちょっと、『うしろ』って漢字書いてください」と頼んだら、その看護婦さんも時すでに遅し。神様に洗脳されていて「後ろ」っていう字を書いた。とても可哀想だと思った。だけどここで同情すると僕がおかしな目で見られかねないので、僕はすごく慈悲深い人なので、ヘンな字を書く人に対して白い目で見るような真似はしないので、愛と優しさを込めて「わぁ。看護婦さん、すごいキレイな字を書くのですね」などと、キレイな字を書かせるために「後ろ」という字をなぜ書かせたのかと突っ込まれたら御仕舞いなことを言ってしまい、実際それを突っ込まれてしまったので、僕は人を憎まず神を憎んだ。
 
2004年02月17日(火)  泡銭とウレタン枕。
 
昨夜は電気灯したままテレビつけたままハロゲンヒーター入れたまま入眠してしまい、彼女からの電話にも目覚めず、怒ってないのに「怒ってるの? ゴメンなさい」というメールと悲しい回数の着信履歴が入っていて、朝起きて驚愕。目覚ましテレビを見て歯を磨いて、今日も天気が良さそうなので洗濯をしてぞうきんでフローリングを磨く。
 
外が明るくなったら顔を洗ってちょいとお洒落をして、お洒落をする意味など何もないのだけど、小さな自転車に乗って各種公共料金の支払いに出掛けた。使わないお金は郵便局に貯金した。余ったお金でパチンコをした。
 
「パチンコする人 キライです」という彼女のメールにうろたえながら、千円で大当たり。以後二時間を要して三万円の泡銭。臨時収入だ。へへ。ビギナーズラックというものはね、パチンコにしても競馬にしても一ヶ月何もしなかったらビギナーに戻ってしまうのだよ。だから一ヶ月に一度しかパチンコに行かなければ永遠にビギナーズラックにあやかることができる。ギャンブルなんて毎日行くから駄目なんだよ。そして彼女ゴメンなさい。と、早々と換金し、小さな自転車に乗って近所のファッションセンターしまむらへ。主婦主婦主婦。主婦の嵐。
 
泡銭で靴下と下着を大量購入。僕は昔から自分で汗水流して働いた金では靴下と下着は買いたくないと思っている。なんか損した気分。なんでパンツの為に働いてんだよ。と自分を責めるので。だから今日のような臨時収入が入った折にまとめて購入する。
 
突如輝く瞳。視線の先には低反発ウレタン枕。買っちゃおうかしら! これ買っちゃおうかしら! 前から欲しかったんだけどなんかいかがわしいんだよなこれ! ホントにぐっすり眠れるのかしら! いや、これじゃなくても普通に眠ってるんだけどこれだったらもっと気持ち良く眠れるのかしらー! かしらー!
 
なんて一人で舞い上がって、激安衣料品販売店ファッションセンターしまむらの枕の中で最も高価な、たって3980円なんだけど、低反発ウレタン枕を購入。意気揚々と我が家へ戻り、窓の外を眺め、一日千秋の思いで陽が落ちるのを待つ。
 
2004年02月16日(月)  お茶漬けサラサラ。
 
数日前に書いたように、最近新居を探してる。で、駅前の不動産屋からフリーペーパーなどを貰った際、その中に住宅販売の広告も入っていて、買うわけないのだが、ご覧の通り暇ばかりの人生を送っているのでつい関係ない記事も読んでしまう。
 
9980万円の家なんて宝くじでも当たらなきゃ買えないのだがつい読んでしまう。ローンの支払い方法も書いてあって月々9万円。やっぱり都内は高いんだなぁ。で、ボーナス払いはいくらかしらと思って調べてみると「ボーナス時500,000円のお支払い(年2回)」と書いてある。なんだ5万円か。月々のローンより安いじゃん。と思ったら50万。しかも年2回。とても払える値段じゃない。あわわと泡を吹く。頭金はどのくらい支払うのかしらと懲りずに調べてみると「頭金5000万円の場合」と書いてあり卒倒。
 
で、この広告、値段の設定のおかしさもさることながら、物件一つ一つに書かれているその家のキャッチコピーのような言葉もなんだかおかしい。おかしくないやつもあるんだけど、例えば「お日様が大活躍」こういうのはわかる。おそらく日当たりがいい家なんだろう。「歌1曲で駅に到着〜♪」これも突っ込んでいいか静観していいか微妙なとこだけど、理解しようと思えばできる。まぁ駅まで徒歩4・5分って意味なんだろう。その他「大型地下車庫がすごい!!」「おじいちゃん達と一緒に住めるネ」「念願のひとり部屋だ〜い♪」などという、まぁありがちな言葉が続き、やがて
 
「長生きするゾー!!」「公園デビューにピッタリ♪」「夏になったらプールに行こうね!!」
 
などと、直接その家に関係ない事柄が増えてきてちょっと首を傾げ始めたところで更に読み進めて行くと、このキャッチコピーを書いている人物が何も思い浮かばなくなったか、それとも疲れてるのか、もしくは狂ってしまったのかと思わせる言葉が物件に割り当て始められている。
 
「おまわりさん! こんにちは〜」
 
まるで意味がわからない。2580万円の物件に書かれているのだが、お巡りさんに関する事項は特に書かれていない。交番の近所なんだろうか。仮に交番の近所だとしてもこのキャッチコピーで誰かが惹かれるとは到底思えない。
 
「パパのYシャツは隣の隣へ」
 
もう頭の中が?マークだらけである。だからなんなんだ。隣の隣ってなんなんだ。パパのYシャツがどうしたんだ。もう全てに突っ込みたい。なんか言いたいことだらけでどれから言っていいのかわからない。
 
「布団も吹っ飛ぶよ」
 
!!! 吹っ飛ぶらしい。少なくとも宣伝文句ではない。異常に風が強いのだろうか。そういう欠点は隠すべきではないだろうか。駄洒落なんて言っている場合ではないような気がする。
 
「夜食はお茶漬けサ〜ラサラ」
 
もう何も書きたくない。
 
2004年02月15日(日)  好色三人女募集します。
 
今年のバレンタインデーは、1個。しかも婦長さんから貰った義理チョコのみ。去年の日記を読み返してみると、小学生から貰っている。やっぱり年齢には勝てないなぁ。彼女とも会えなかったので気持ちは屈託するばかり。バレンタインデーから1日経った今日、近所のスーパーでバレンタイン用のウィスキーボンボンが3割引で売っていたので買って食ったら美味しさと寂しさで涙が出てきた。バレンタインデーなんて糞食らえだよ。あぁ、汚い言葉を使ってしまった。バレンタインデーなんてウンコ召し上がれだよ。
 
だけどあれだね、日記でも書かないと去年の今頃何をしていたかなんて思い出せないね。だけどこの日記は日記であって日記にあらず。嘘大袈裟紛らわしい。誇張したり萎縮したり。何の役にも立たない。彼女が読み返すと皆一様に不機嫌になる。よって僕の人生にあまりプラスにならない。えっと、いつ頃だっけな。去年、じゃないや。一昨年の彼女がこの日記を読了して一言呟きました。「あなたのことがわからなくなりました」と。い、いや、これはね、ほら、不特定多数の人が読むんだから、ある程度は、なんつーか、エンターテイメント? 一種の娯楽? そんな感じでほら、見て、流れ星。という具合に、焦燥、狼狽。
 
最近はこの日記さえも億劫になってしまいまとめて更新。厭世観リニューアルなどと銘打って、意欲・活気の低下。生活自体が無為・自閉。しかし新コンテンツを目論んでおります。知る人ぞ知る「好色五人女」を復活させようと思っております。後日予告と五人女を募集しますが、好色五人女を知らない方に説明しますと、えっと、去年、じゃないや。一昨年か知らん。井原西鶴の「好色五人女」の名前をそのまま拝借したそのコンテンツは、五人の女性が日記を書くという、なんていうか、ほら、私も日記書いてみたいけど、自分でサイト作ったりサーバー借りるの面倒臭いしー。折角書いたんだから誰かに読んでもらいたいしー。という女性のニーズと、更新面倒くさい。食器ならびに洗濯物が多量に溜まっている現状、更新なんてできる暇がない。だけど更新しなければ皆このサイトから離れていってしまう。よって第3者の力を借りて更新しようという僕の汚いニーズによって成立するコンテンツなのです。
 
というわけで五人女を募集します。あ、やっぱり三人にしよ。ちょうど良くない? 三人募集します。我こそはという方はメール下さい。詳細を教えます。三人以上集まったらどうしよう。んー。どうすればいいですか。僕の彼女は書かないかしらー。でもエンターテイメント? 一種の娯楽? そんな書いてることなんて気にしないでよ。なんて笑顔で言われたらちょっとへこむかもなぁ。
 
2004年02月14日(土)  越すか帰郷か。
 
昨日は引越するということを書こうと思ってたんだけど、日記を読み返してみたら引っ越す理由ならびに決意みたいなやつは2行くらいで終わっている。あとは朝のなんでもないできごとを書いて実に投げ遣りな1行で終わっている。だから今日書く。僕は引っ越す。4月に都内に引っ越す。
 
でもね、あのね、3月に妹の子供が生まれるんですよ。妹の、子供が、生まれる。なんなんだこの事実は。何やってるんだ長男は。妹の旦那は僕と同じ歳で、帰郷する度に酒を交わすような仲なので、「子供の名前は僕に決めさせて下さい。亜子夢なんてどうですか」「なんだいお兄さんその妙な名前は」「いや、僕にとっては初めての甥で、キミにとっては初めての子供でしょ」「うん。だからどうした」「はじめてのアコム」「あぁ、嫌な兄を持ってしまったなぁ」
 
とまぁ、なんつーか、実はかなり嬉しいわけで早く甥の顔が見てみたい。同時に親の顔も見てみたい。甥の親は僕の妹。なんなんだこの事実は。小さい頃からその成長を見てきた妹に子供なんて産めるのか。産めるんだろうな。女だもんな。だけど僕は子供を産めない。産み方は知ってるんだけどね、中学生の頃に知ったんだけどね、家庭を持つ意志とコンドームが寸前のところで邪魔するんですね。
 
というわけで3月に帰郷したいところだが、子供というものは予定日ぴったりに産まれるものではないらしい。予定より早いかもしれないし遅れるかもしれない。好い加減なんだなぁ。好い加減なのは予定日を決めた医師か子供を産む母体なのかわかんないけどさ、はい帰郷しましたー。あれ、子供は? あぁちょっと遅れててね、3日後くらいに産まれるんだって。なーんだ3日後かぁ。3日後は東京に帰っちゃってんだよなぁ。ん? どこに行くかって? ちょっと予定日を決めた医者を殴ってくる。という事態になるかもしれず、僕だって無闇やたらに人を殴りたくはないので、確実に産まれているであろう4月に帰郷しようと思っているわけだが、冒頭に記した通り、僕は4月に引っ越しを敢行したい。
 
それではどちらを優先すべきかという問題になるのだが、子供といっても僕の子供じゃないし、僕の子供じゃなくても僕の妹の子供だし、引っ越しといっても頑張れば1日で終わるものだし、でもその後の部屋の整理整頓、隣人への挨拶、商店街の把握、町内会への加入、PTAの参加、公園デビュー、公園引退など一連の作業を終えるのに数ヶ月を要するわけで、さてどうしようと考えるジャージー牛乳プリンを頬張りながら。
 
2004年02月13日(金)  オハヨー。
 
4月に都内に引越そうと思ってるんだけど、というのも今の職場は電車で40分の距離にあって、電車が空いていれば読書をする絶好の場所となるのだが、朝。朝がね、まず6時起床。前の職場じゃ8時に起床してたのに。8時に起床して8時30分からの仕事に間に合ってたのに今は6時起床。普通に目覚ましテレビとか見れる。
 
で、コーヒーを煎れる。といってもインスタントコーヒーでお湯沸かすの面倒臭いからカップにインスタントコーヒーと水入れて電子レンジで2分。その間にハロゲンヒーターの電源入れるとブレーカーが落ちて朝から鬱屈した気分になるので寒さを我慢して菓子パン箱。
 
菓子パン箱というのは、僕は万が一のオイルショクだかキューバ危機だかの、なんつうか国のピンチを傍観できる立場にいたいが為にはまずどうすればいいかと考えた場合、どうしても飢餓だけは防がなければいけない。だから菓子パン箱。腹が減ったらすぐ菓子パンが食えるようにプラスチックのケースに菓子パンを常に5個くらい置いているのだが、その箱から菓子パンを1個チョイス。朝からカスタードクリームとかうぐいすあんなど甘ったるいものを食べると、電車に乗っているときに胃がもたれるもしくはウンコに行きたくなるので、淡泊な味のやつ、例えば食パンに事前にマーガリンやイチゴジャムが塗布してあり法外な値段で売っているパンや、10時くらいには必ず空腹になるチーズ蒸しパンなどをチョイスしている間に電子レンジがチンと鳴る。
 
コーヒーと菓子パンと目覚ましテレビ。午前6時。なんか寂しい。仕事とか辞めたくなる。いったい今日で何日仕事に行ってるんだっけと考えたら昨日休んだばかり。ハロゲンヒーターはすぐに暖まるんだけど、ヨドバシカメラの馬鹿が温度調節ができないハロゲンヒーターを僕に売り込んだので近くに座ってると火傷しそうなくらい熱い。そんな陰惨たる朝に光明をもたらしてくれたのが「オハヨー」という会社が製造、販売している3個で180円くらいの「ジャージー牛乳プリン」
 
食べたことがある人は僕が説明しなくてもその味の素晴らしさはわかるし、食ったことない人のことなんてしらない。
 
2004年02月12日(木)  戦慄パーマネント。
 
髪の毛も伸びてきたのでパーマネントをアテマシタ。「どういう風にします?」と美容院のお姉さん。僕は「どうにでもしてください」となぜか自暴自棄な応答をして、「そうですか・・・」なんて困っていたけれど僕はお構いなく眠ってしまって、それを起こされてしまって僕の前に雑誌を広げる。「どういう感じかだけでもいいので教えてくれませんか?」と本当に困った顔をして言うので、じゃあこれにして下さい。この豚めしみたいな頭にして下さい。と言って再び眠ってしまったのは夜勤明けに美容院に行ったからであって、休日の日にでも行けばいいんだけど、どうも何ていうか休みの日は外に出るのが億劫で、外に出るにはまず歯を磨いて顔を洗って髭を剃ってという一連の作業を行わなければならずあぁ億劫。休日くらいゆっくりさせてくれと神様に手を合わながら布団の中で時を過ごす。
 
ふと目覚めるとパーマネントは終わっていて、何ともいえないヘアスタイルになっていた。「あ、えとですね、ワックスとかで、ほら、こうやって指で伸ばして、この伸ばし方なんですけど、あぁ、もみあげは少しクセがあったので、このクセに合わせたっていうか、ねじってーのばしてーみたいな。えっと、8000円です」と明らかに狼狽している。なんだこの髪型は。つっぱることは男のたった一つの勲章みたいになっているではないか。
 
意気消沈。ちゃんとオーダーすればよかった。しかしだね、もしキムタクみたくして頂戴と言った場合、店員は口にこそ出さないものの「ハッ、何がキムタクだよ」と思うことは当然であって、僕だって美容師だったらそう思うもの。だからそういう風に思われるのがイヤなのね。しかも「〜のようにして下さい」って言った時点で、個性が抹消されている。模倣なんてものは政治家がするものだ。しかしこんな頭になるんだったら模倣でも誇張でも何でもすればよかった。
 
部屋に戻り、今一度鏡の前に立つ。夢の中へ夢の中へ行ってみたいと思いませんか。と今訊ねられたら是非とも行ってみたいと思った。もう帰って来たくないと思った。混乱、憔悴。「どうせ僕は豚めしです」という意味不明のメールを彼女に送ったら3分後「あなたは豚めしなんかじゃありません」と慈悲に溢れたメールが返信されたので、「こんな頭でも愛してくれるかしら」と写メール添付で送信したら「んー考えときます」と現金な感想が帰ってきたので再び消沈。ベッドの中でETのぬいぐるみを抱いて就寝。
 
2004年02月11日(水)  車内での通話に関して。
 
電車内で携帯電話での会話はおやめ下さいとアナウンスが流れいるにも関わらず、車内で通話する奴は馬鹿としかいいようがなく、その馬鹿も自分は馬鹿と自覚しているのか開き直った態度で大声で通話しているのであるが、今日の仕事帰り、僕の隣に立っていた中年男性。周囲の冷たい目線に気付いているのか気付いていないのか携帯電話を用いて会話。
 
「あ、あぁ、いいよ。味噌汁なくてもいいよ。コンソメスープあるでしょ。あれでいいよ」
「恵子は今日は帰ってきているのか。あぁ、そうか。よかった。いや、だからコンソメスープでいいよ」
「うん、うん。わかってる。明日誕生日だろ。うん。お見舞いにも行かなくちゃな。うん。コンソメスープね」
「あぁ、ローンがね。こればっかりはしょうがないよ。一生なんだからさ。うん。味噌汁なくてもいいよ」
 
延々と家庭内の事情について話している。なんだか許せるような気がしてきました。コンソメスープで我慢する人生を送っているのであれば、車内で携帯で会話してもいいと思いました。
 
では、いったい僕は車内の通話する人間の何に憤っているというのか。内容如何で許せるものなのか。例えば女子高生。つーかりえないからーまじうざー。なんて会話。これは憤ります。こういう人間は歩きながらマンホールに落ちればいいと思います。例えばサラリーマン。お得意先との会話。これも憤りを感じます。こういう人間はリストラでリストカットで路上生活の挙げ句、歩きながらマンホールに落ちればいいと思います。家庭内の会話。うーん。これはやっぱり許せるなぁ。というのも僕は人情味溢れた温かい家庭で育っていないから、一種の憧れや羨望のようなものを感じているのかもしれないね。
 
2004年02月10日(火)  義務の放棄。
 
看護師という仕事は、例えば僕の場合、1ヶ月に夜勤が7回ほどあります。夕方5時から翌朝9時まで。今日夜勤だった場合、昼前に起きて夕方まで部屋で呆ーっとして、夕方出勤し、翌朝帰宅して、また呆ーっとするのです。夜勤明けの翌日は必然的に休日となっているので、その休日も呆ーっと過ごすことになります。
 
ということは3日間も日中阿呆のような時間を過ごしていることになり、それが1ヶ月に7回、3日間×7回で、1ヶ月21日も、昼間に布団をかぶったり、鼻をほじったり、部屋の中で隣の部屋に聞こえない程度に歌をうたったりしているのです。
 
そして1ヶ月に休日が9日ありまして、夜勤明けの休日を除くと残り2日。21日+2日で23日間、日本人の3大義務である、納税、勤労、教育。その勤労を23日間も怠り、部屋で悶々、駅まで徒歩10分、外出億劫、自転車パンク、氷点下、靴下に穴が開いている、洗濯物溜まっている、昼間からビール飲みたいなどの理由で、1ヶ月の殆どを部屋で過ごしているのです。
 
ということは、僕は満員電車嫌だ満員電車辛い、動けない、寒い、熱い、臭い、どう考えてももう人間が入る余地はないのに、駅に停車して扉が開く度に何十人と入ってくる。肋骨折れる。内臓とかつぶれる。などの理由で忌み嫌っているにも関わらず、朝から出勤する日は1ヶ月に累計7日間ほどしかなく、月曜から金曜まで出勤と国民の義務の全うを余儀なくされているサラリーマンに比べると、非常に甘ったれた生活をしているのであり、この甘ったれた立場で、やれ人生だ、やれ恋愛だ、やれ人間だ、やれ看護だなどと考えているのであります。
 
2004年02月09日(月)  牛めし消えて豚めし現れて。
 
「牛丼屋に牛丼がないってぇのはどういうことだ」なんて当然の理由を声を大にし、顔面を紅潮させ、吉野屋の店内で暴れた37歳くらいの酔っ払いが逮捕されたとニュースが2日ほど経つと流れると思いますが(これは2月9日の日記ですが、2月12日に書いています)、どこの店も牛丼の代わりにカレーや鶏肉や豚肉を調理し、それを白米を乗せるという苦肉の策を強いられているわけでありますが、僕の主食といっても過言ではない松屋の牛めしも販売を中止し、豚めしなるものの販売が始まり、値段こそ変わらないものの味はどうなんだと、仕事帰り、駅前の松屋のドアを開けたのでした。
 
仕事帰りに毎日松屋に寄って食事を済ませるというのは、なにも僕が病的な強迫観念に捕らわれているわけではなく、ただ単に「食事」という概念を軽視しているだけで、ただ「食事を摂った」という形さえあれば僕の胃腸は満足するのであって、形式上というか儀式みたいな感じで、オーダーするとたちまち出来上がった牛めしが運ばれてくるのは、実に僕の精神的なニーズを満たしてくれるのであって、ただ食えたらなんでもいい、290円で味噌汁もついてくるしね、これはファーストフードではなく、立派な食事ではないか、などと自分と松屋を励ましつつ牛めしを、時々カレーライスなんて食べちゃったりして、日々の食生活を遣り過ごしていたのであるが、この牛めしの販売を中止するという。
 
だけど僕は牛めしが食いたいが為に松屋に寄っているのではなく、ただ胃腸を充満させ、翌朝の快便を導き、生命の機能を持続させるために牛めしを食べていたのであって、牛めしなくても何とも思わない。「牛丼屋に牛丼が売ってない」という致命的なジレンマを感じても別段暴れようとも思わない。で、豚めし。見た目は牛めしと大して変わりがない。そもそも今まで毎食のように食べていた牛めしを仔細に眺めていたわけじゃないので、変わりはあるのかもしれないが、その変更点が牛肉から豚肉になったという「認識」がある程度で、見た目は、全く変わらないような気がした。
 
しかし、一口頬張った瞬間! そう、問題は味覚なのであって、いくら見た目は一緒でも食堂という看板を掲げている以上、味覚が重要な問題なのであって! 牛めしと豚めしの決定的な違いが!
 
何一つない。豚肉を使っている感じさえしない。そもそも今まで毎食のように食べていた牛めしを仔細に味わっていたわけじゃないので、変わりはあるのかもしれないが、その変更点が牛肉から豚肉になったという「認識」がある程度で、その味でさえ、全く変わらないような気がした。
 
要するに、狂牛病が流行ろうが、牛丼がこの世から消えようが、豚めしが今後の丼業界のシェアを占めようが、僕にはあまり関係のないことなのでした。
 
2004年02月08日(日)  オフラインで会いました。
 
18歳にしてこのサイトに記された様々な歪んだ思考を理解、共感し、食事に行きませんかと僕を誘ったミズホ君は、ある意味すごい。だいたい未成年はこのサイトを見るべきではないのだ。夢も希望もない。女の尻を追い、捨てたり棄てられたり、真面目に生きているようで実は好い加減。洗濯物を取り込んだ時点で疲労感に打ちのめされ、いつまで経ってもたたもうとしない。仕事にあまり行かないくせに、社会は目糞だの人生は鼻糞だの意味のわからないことばかり呟く。夢と希望と可能性に溢れた未成年はこのサイトを見るべきではない。でもミズホ君は読んだ。僕は嬉しかった。食事の誘いも二つ返事で承諾した。
 
と、ミズホ君。意外と近所。電車で30分くらいの距離。初めて降りる駅、訪れる街。「僕は、うーん、あ、そうだ、ヒゲ、顎髭、たって無精髭なんだけどね、ヒゲ生えてるからさ、駅に着いたらメールするから、改札出たときにヒゲの男に声を掛けて頂戴。それが歪さんです。うん、わいさんでもいいし、ゆがみさんでもいいよ。本名はヨシミです。趣味は盆栽です。間違えた。煩悩です。ん? 趣味が煩悩って何だ。そもそも煩悩とは何ぞや。とにかくもう電車に乗っております」と待ち合わせ。改札を出てミズホ君らしき人物を探す。って目の前にいることはいるのだが確信はない。だって初めて会うのだからね。相手も気付いていない。どうしよう。
 
と、このサイトを閲覧する18歳男性をイメージした場合、まず眼鏡。これは欠かせない。あと文学。あとなんだろう。オンラインゲームもやってるかな。リネージュとかね。僕はあのリネージュっていうオンラインゲームをしてみたいけど、なんだか人生が滅茶苦茶になりそうなので自制してるんだけど、あと何かな。お洒落とかするのかしら。高校生だしな。髪の毛は何だか理解できないような髪型なのかしら。
 
「どうもはじめまして」
 
と僕の目の前に現れた若者。んー。イメージと違う。すごいお洒落かなり男前。駅の改札口から若さが溢れております。んーキミはこれから歪さんになって下さい。ほら、オフ会とかでさ、こんにちは歪ですよなんてキミが行くのね。わー歪さんカッコいぃー。願わくばオフ会終わってから結婚してくれませんか。という具合になるからさ。ん? それだったらあれだね。僕が結婚するんじゃなくてミズホ君が結婚するんだね。それじゃあ駄目だよ。でもモテるでしょ。ん? モテない。わー謙遜しちゃって。僕はモテないのにモテるといいます。謙遜の対義語は傲慢です。さぁ獣肉でもつつこう。
 
実に久々に焼き肉を食いました。店員が皆ローススマイルでした。肉のような笑顔でした。で、どういう話をしたかというと、文学の話とか人生の話とか、山手線のような人生は駄目だとか、相手は僕より9歳も年下で、小学生の頃に僕はビックリマンシールを、彼はポケモンを集めてたというジェネレーションギャップがあるというのに、実に同じ目線で話ができたというのはやはりミズホ君。キミは歪んでるよ。実にいい意味でね。
 
2004年02月07日(土)  あぁだけど。
 
仕事帰り、電車の中。向かいにミニスカートにウェスタンブーツを合わせて履いた可愛い子が座っている。文庫本を読む振りをしながらちらとその子の表情を探る。そしてその子は僕と同じ駅に降りた。同じ場所に住んでるんだと思うとなんだか嬉しくなった。
 
という文章を書いた場合、この文章は僕が書いたんだから僕が感じたことだと思うかもしれない。だけど実際の僕は向かいに可愛い子が座ろうが隣の女性が居眠りして僕の肩に顔を乗せようが大して気にしない。それではどうしてこのような文章を書くのか。
 
文章というものは、最近感じてることなんだけど、自分が考えていることだけ書いていると、どんな文章を書いてもパターン化してくるのである。時に自分が思いもしないことを書かなければいけない。だからこの日記は、日記であって日記でない。時々文章のタッチをがらりと変えているのはその為で、馬鹿、意味不明、馬鹿、真面目、馬鹿、真面目、意味不明というサイクルの日記の内容は、故意に書いているものであって、これは僕であって僕でない。
 
フリーライターという仕事は、書きたいものだけ書けばいいってものじゃない。時にはこんなもの無理だと思う仕事にまで手を付けて自分で自分を苛めなければいけない。趣味でやっているのではなく、それなりの報酬を貰っているわけだから必然的に責任も生じてくるわけで、その責任との葛藤。文章との葛藤。自分との葛藤。締め切り前に発狂するのも自分が蒔いた種であって、その状況に追い込まれた自分自身を客観的に見る目も同時に持たなければいけない。
 
僕は、看護師の仕事も書く仕事も誇りを持ってやっている。仕事の誇りは自分の誇りとなって、それは自らを構成する何かになっているのだと思う。だけどあぁ嫌だもう書きたくないよ〆切明日。
 
2004年02月06日(金)  ゴミの日の新発見。
 
金曜日は何の日かと申しますと、週に2回のゴミの日でありまして、次の日が休日の夜は朝方まで起きているので、朝5時頃にゴミを捨てて寝るんだけど、最近寒いでしょ。早朝5時なんて想像を絶する寒さです。しかも僕の部屋はマンションの3階。ゴミ捨て場は1階。階段降りるのちょっと辛い。出したくないけど出さないとゴミは溜まる。でも寒い。寒いか溜めるか。僕は溜めるを選びます冬だから。でも出さないと隣のコや彼女がうるさいので、僕自身出さなくてもヘッチャラなんだけど、嫌われてしまったら適わないので、渋々朝5時にマンションの階段を降りるわけですが新発見。
 
部屋のドアを開けて、通路があって、その真下。ちょうど部屋の前の通路から見下ろした場所にゴミ捨て場があって、問題は良心の呵責。ゴミ捨て場に向かってゴミを放り投げればわざわざ1階まで降りなくても済む。ここからゴミ捨て場まで何も障害になるものはない。その良心だけが問題なんだけどね。何事も経験でおます。悪事をするからこそ、善行との比較ができるわけで。寒いとか面倒臭いとかそういう問題じゃなく、今後の僕の人生に何かしら役に立つ日が来るかもしれぬ。と自らを説得。その説得に快く応じた僕は何の躊躇いもなく3階からゴミを放り投げる。
 
こら!
 
ほらね。また一つ勉強になりました。こういうことをする時に限って、早朝5時の道路を誰か歩いている。いつもは閑散とした道なのにね。おかしいよ。見張ってたのか知らん。慌てて自室へ戻ろうとしたが、僕を怒鳴った人間がどんな顔をしているだろうと興味があって、薄暗い1階の方を目を細めて見る。誰もいないような気がする。確かに年輩の男性の声が聞こえたんだけどね。罪悪感が産出した幻聴かもしれないね。寒い寒い。部屋に戻ろう。
 
こら!
 
って僕の横に来てました。抜き足差し足忍び足で階段を登ってきたのかしら。吃驚しました。もう、ホントに驚愕しました。見たこともない初老の男性でした。罪悪感が産出した幻視かもしれないね。そういえばもう何年も人に怒鳴られたことってないなぁ。おっかないなぁ。しらを切ろうかしら。何もしてないし何をするつもりでもありません。なんか4階からゴミ袋が落ちてきたような気がしたのでそれを眺めてたのです3階建てのマンションから。
 
と、早朝から一通り説教されました。実にパワフルなお爺さんでした。もう悪いことはよそうと思いました。何号室だ! なんて人のプライバシーに介入するようなことを言われたので即座に「304号室です。もうホントすいません」と言いました。お爺さんは納得して山へ芝刈りに行きました。304号室って初めから存在しない部屋でした。
 
2004年02月05日(木)  殴らない。守らないと。
 
最近小学生が通りすがりの青年に殴られたりカッターで切りつけられたりする事件が多発してるでしょ。あれって何? なんで多発してんの? 全部同一犯じゃないの? とニュースを見るたびに首を捻るのだが、精神医療に携わっている立場上、彼等の精神病理をある程度理解するべきだと思うけど、文献などを調べてみてもなんか考えたら誰でもわかるようなことばかり書いてあるので更に首を捻る。
 
だいたいね、なんでも幼少期の所為にすればいいってもんじゃないんだよ。やれ虐待だーやれトラウマだー。って、今の僕が悪いのはー今の僕の行為が罪なわけではなくー僕の過去が悪いのであってーいわゆる僕は加害者であってー被害者でもあるー。なんてねぇ。もっと今の自分に責任持ちなさいよ。過去なんて持ち出してどうすんだ。つか手前の過去なんて知らねぇし関心ねぇよ。
 
というわけでトラウマという言葉がプチ流行している現代でありまして、僕が精神医療の現場に飛び込んだ頃はまだトラウマなんて言葉は一般化されてなくて、医師さえもその言葉を使うということはなかったのですが、最近は医師も患者も看護師も、主婦も無職もマスコミも、猫も杓子も心的外傷。厭な世の中になりました。
 
んで小学生を殴る青年。トラウマを持ち出して精神分析するよりも、もっと動機は浅いような気がするのです。実際。例えば「なんかムシャクシャしたから」という理由で犯行に及んだとするでしょ。では、どうしてムシャクシャしたのだろう。と偉い学者さんは考えるわけですよ。鼻糞まで脳味噌みたいな人たちがね。で、そうだ。過去を探ってみようなんて痒くもないところ、ほじらなくていいところを掻いたりほじったり。で、犯人は当時父親に虐待されていた! ほらやっぱりね! 脳味噌だか鼻糞だかほじりながら雄弁に語りだすわけであります。
 
僕なんて小さい頃はちょっと強迫神経症っぽいところがあったり、小学生の頃は常習万引きを繰り返したりしてたけど、ほら、僕は小学生は殴らない。ややもすると最近の小学生はやけにでかいので殴られる恐れだってある。そういえばこの前の夕方、夜勤のため駅まで歩いてるとき、帰宅途中の小学生に囲まれてひどく恐ろしい思いをした。突然僕の背後から6名程のガキが僕のコートの裾を掴み、なんだか聞き取れない言葉を使いながら僕を囲んだのだ。
 
眉間に皺を寄せ耳を澄まして聞いてみると「手袋が落ちた」と言う。優しいじゃないか。そのうち2・3人のガキが髭オトコだの足が短いだの僕のことを小声で罵倒してたけど、大人は落ちた手袋なんて拾ってくれないしね。僕たちは大人なんだからこういう少年少女を殴るんじゃなくて守らなければいけないと思いました。
 
2004年02月04日(水)  マンガイチ。
 
日記書いたけど消えちゃったのでなんかもうどうでもいい。自暴自棄の至りです。この日記は自宅のパソコンとは別のところ、えっと、ちっちゃいパソコン? みたいなやつで書いているので、自宅では滅多に書かず、待ち合わせの時間とか夜勤で暇な深夜2時〜3時頃に書いているわけで、ちっちゃいパソコンから自宅のパソコン、もしくは日記のサーバーに転送しなければいけなくて、これが億劫というか、実際の作業時間はほんの2〜3分なんだけど、この転送は僕の生活上の優先順位のかなり下に設定しているらしく、余程暇にならなければやる気が起きない。
 
で、年に2・3回、今回のような転送上のトラブルが生じるわけで、この日記、好い加減なことばかり書いているように見えて、実際は20〜30分程費やして完成させるわけで、この頭を捻らせて書き上げた時間が、パソコンの勝手なる都合で水の泡になるというなんとも人を食った、もとい機械を信用しすぎている自分がいけない。
 
僕はパソコンのバックアップとかとったことなくて、そもそも生命保険にさえ入っていなくて、その共通点は万が一に備えるということなんだけれども、その万が一に備えるほどの心の余裕がないというか、やはり億劫というか。高校卒業してからつい最近まで車の運転をしていたけど、任意保険にすら入ってなかったという始末。
 
まぁそういうわけで今回、職場で総婦長に呼ばれて入職3ヶ月にも関わらず、近いうちに管理職になっていただきたいという有り難いのか迷惑なのか、そういうお言葉を頂いて、その葛藤の課程を日記に記したのだが、周知の通り、転送の課程でぶっ飛んでしまったので、もうほんとどうでもよくなった。管理職っていうことは看護部長になるってことだけど、もうそんなのもどうでもいい。まだそんな器じゃないしね。僕はいつまでも現場で働きたいのです。
 
2004年02月03日(火)  ポテトとテリヤキと楕円形。ほんの少しの思い出と。
 
駅の前には楕円形のロータリーがあって、ロータリーの中には枯れた池や放置された自転車や、冬なのに鬱蒼と茂った大木や、「駅前ロータリーは皆様の誇りです 違法注輪がなくなる様にご協力ください」と書かれたのぼりや、吸い殻、眉と髭の濃い外人、ダボダボのパンツをだらしなく履いたヤンキーなどが無作為に配置されており、問題なのはこの楕円形。綺麗な円形ならば外観もそれなりに保たれるような気がするのだが、やはり機能性を求めた場合、このように楕円形にせざるを得ないのだろうか。しかし外観と機能性を同時に求めたが故に、このような荒廃とした風景に成り果てている。
 
と、このロータリーを一望できるオーストラリア産の獣肉を扱っている全国チェーンのハンバーガー店の二階からてりやきマックバーガーを貪りながら眺めているのであるが、セットメニューは、ポテトのサイズがMであって僕はMサイズのポテトを完食するという意志が欠けているのか、半分くらいポリポリ食べていると間もなく飽きてきて、残りの半分はポテト完食我慢大会のような様相を呈してきて、なぜ金を払っているのに我慢しなくちゃいけないんだ。と不毛な感覚に支配されながら対応策に思案を巡らしていたところ、あ、そうだ。Sサイズでいいじゃん。Sサイズだったら食べれるじゃん。と店員に打診。
 
「セットのポテトはSサイズにしてください」
「しかしレギュラーサイズのお値段になりますが」
「じゃあさ、こうしようよ。てりやきマックバーガーと、ブレンドコーヒーと、ポテトのS。それぞれ単品で」
「かしこまりました。お会計450円になります」
「セットの値段って幾らだったっけ」
「450円になります」
「一緒じゃん」
「一緒ですね。ですからセットメニューの方がお得になりますよ」
「お得も何も僕はポテトが多いからSにしてくれって頼んでいるんでおます。阿呆」
「それではそれぞれ単品で450円でおます」
「得したような損したような」
「それでは今日は特別にサービスします」
「サービス? なんだよ。何ニヤニヤ笑ってるんだよ。阿呆」
「スマイルでおます」
「それって無料じゃないのかよ」
「今日は余分に笑っております」
「染之助染太郎かよ」
 
という問答の末、結局Mサイズのポテトを前にポテト完食一人我慢大会が目下開催されているわけであるが、ポテトのことなど実はどうでもいい問題なのであって、このてりやきマックバーガー。これをどうにかしなければいけない。
 
というのも僕はこのてりやきマックバーガーの食べ方が日本で六番目くらいに下手糞で、飛び出したレタスだけ口に入る。上の方のパンだけ食ってしまい、残された肉についたタレで包装紙がベタベタする。もしくは肉を先に食ってしまい、最後の方はただのレタスバーガーになる。食べ方が下手なので、てりやきのタレやマヨネーズが口の端に付着して子供みたくなる。よって何の効果があるのかかじりつくタイミングを見計らって勢いをつけてハンバーガーを頬張る。しかし結果は同じで多量のタレとマヨネーズが口の端に付着する。それはとても恥ずかしいことなので一刻も早くナプキンを用いて口元を払拭したい。ナプキンを手に取り口元へ持っていく間も、口腔内ではてりやきバーガーの咀嚼が開始されており、ここは味わうべきだが、味覚よりも羞恥心の方が大きいので、慌てて口の端を拭き終えた頃にはもうハンバーガーは嚥下されており、どんな味がしたのかさえ覚えていない始末。
 
しかも最近のてりやきマックバーガーのラッピングときたら酷くぞんざいで、昔は、昔っていうと僕は看護学校の頃、一年程マックでバイトをしており、マックのバイト仲間とキャンプに行って、バーベキューでなぜか首筋を火傷して、その火傷を即座に治療してくれたバイトの後輩からややあって告白されて、僕は痛みでそれどころじゃなかったし、何よりも当時は彼女がいたのでゴメンなさいと断ったら終始泣きっぱなしで散々なキャンプになった挙句、その娘は翌日バイトをやめてしまって、バイト連中に私はヨシミさんにヤリ逃げされましたと吹聴して火傷と冤罪で散々な思いをしていた当時、てりやきマックバーガーのラッピングは今のように薄っぺらい紙一枚ではなく、もっと凝った作りになっていて、ちゃんとハンバーガーを収納するポケットのようなものがあり、そのポケットのお陰でてりやきマックバーガーを食っても反対側からレタスや肉が飛び出すという悲劇を未然に防止できたが、なんだい今のぞんざいなラッピングは。と憤りながら駅前の楕円形のロータリーを眺めながら。
 
2004年02月02日(月)  動悸。
 
僕は時々耐え難い不安に襲われることがある。それは動悸という症状で現れ、僕の過去を責め未来を憂う。
 
その動悸は半日で終わってしまう場合もあれば三日続く場合もある。本を読んでも食事を摂っても音楽を聴いても落ち着かず、小さなベッドの端の方で丸くなって横になる。それは僕が孤独と向き合っているときで、これからも絶えず襲い続けるであろう孤独に恐怖する時でもある。
 
僕は誰も幸せにすることができない。それは充分理解している。だけど僕は懲りもせずに誰かに触れることを望み、その人に大きな傷痕だけを残してその関係に自ら幕を降ろす。
 
「別れ」という言葉の意味に、少しでも幸福に似た意味が含まれていたら僕はどんなに救われることだろうかと、利己的な思考を巡らすこともある。「別れ」という言葉の中に、一筋の希望? 愛憎の慟哭? 完遂の屈辱? 潔癖の証明?
 
人生の中で別れというものは一種の宿命で、人は何かしらの形で誰かとの別れを繰り返さなければならない。しかしどういう形であれ、自分の中に別れの耐性ができるということはない。別れの度に多大なる辟易と多少の挫折。人は別れの度に大きくなるようで小さくなるようでもある。
 
僕は小さくなる。別れの度に、自分の殻に閉じこもる。別れの前から殻があったとしたら、その殻はより屈強となる。暗い部屋の中で考える。一筋の希望? 愛憎の慟哭? 完遂の屈辱? 潔癖の証明?
 
絶え間ない動悸と向き合いながら。
 
2004年02月01日(日)  ジャージ。ジャージはどうだろう。
 
お洒落。人と会うときはそりゃあお洒落するけど、仕事に行くときは何を着ていけばいいんだ。職場に着くと白衣を着なければいけないから、出勤にお洒落など必要ないように思われる。
 
しかし周囲の人たちは僕が出勤途中か帰宅途中かデートに行くのか判る由はないし考えてもいないのだから、ジャージ。ジャージはどうだろう。上下お揃いのウィルソンのジャージで出勤はどうだろう。どうだろうって駄目じゃないか。体育教師でもジャージでは出勤しないと思う。
 
それではお洒落って一体何よ。と問われた場合、僕はワンポイントが効いてこそお洒落だと思う。例えばマフラーだったりリングだったり靴だったり、ジャケットのポケットの形だったり。一見、お洒落には興味ないように見せかけて、実はデザインの優れたパンツを履いてたりする。
 
そもそもお洒落というものは自己満足の世界なんだから、要するに周囲の人はそんなに他人に対して興味がないわけだから、何を着ようが脱ごうが実のところあまり関係なかったりする。思い浮かべてみなさいよアナタの恋人が昨日のデートで着ていた服装を詳細に。
 
だから穴が開いた靴を履こうが、裾が短いジャケットを着ようが自分が満足すればそれでいいのである。しかしジャージは駄目だ。ジャージは満足しない。だけど出勤にお洒落をする意義も感じられない。じゃあどうするか。考えることが煩わしいのでとりあえずお洒落をして出勤します。だけど僕はあまりそれを良しとしていない。
 
機能性を求めた場合、極端な話、遠足はうちに帰るまでが遠足の法則に則って、仕事の日は起きた瞬間から仕事が始まっているのだ。だから今日は何を着ていこうなどと朝から考えること自体ナンセンスで、そんな時間があるのなら今日の看護計画でも考えていた方がいい。よって出勤に着ていく服装も、職場に着いてから即座に白衣を着れるように機能性と敏捷性の高い服装を選ばなければいけない。
 
ジャージ。ジャージはどうだろう。上下お揃いのウィルソンのジャージで出勤はどうだろう。どうだろうって駄目じゃないか。体育教師でもジャージでは出勤しないと思う。
 

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