2003年12月31日(水)  父への手紙。
 
まさしく激動の1年でした。環境の変化は精神的に多大な影響を及ぼすというけれど、そんなことはなく、どちらかというとその状況を楽しんでいたようで、結構刺激的な1年だったように思えます。
 
4月に仕事を辞めて、東京に出てきました。東京は家賃が高いので家賃が若干東京より安い東京に近い埼玉に住みました。6畳のワンルームだけど、そこは好きな本や、音楽に囲まれて決して住みにくい場所ではありません。隣の部屋の中国からの留学生の女の子が僕と同時期に引っ越してきて、挨拶代わりの洗剤1個が今では晩ご飯を作ってもらう仲になりました。
 
辛かったことといえば、雇用保険をもらっている間がいちばん辛かったでした。働いてはいけない。一日を廃人のように過ごすようになって、このままでは腐れてしまうと思い、ハローワークのタブーを侵してまでバナナ工場に行ったり、営業の仕事をしたりしました。これらの仕事は、今まで医療畑しか知らなかった僕に衝撃的な経験をもたらしました。
 
彼女もできました。もう別れてしまったけど、久々に自分らしい恋愛ができました。何年か振りに喧嘩もしました。喧嘩ばかりしていました。あれほど感情を表に出した恋愛は、もう二度と訪れないというくらい、感情的な恋愛でした。
 
書く仕事も除々に増えてきました。いろんな原稿を書きました。朝に寝て夜起きる生活が続きました。東京に来た当初の目的を忘れてしまうくらい、書くことに没頭しました。その結果、また一人になってしまったけど、後悔はしていません。
 
看護師の仕事も始めました。バナナ工場や営業の経験は、今の仕事のどこかの部分できっと役に立っていると思います。今は毎朝満員電車に揺られて、白衣を来て、笑顔を振りまき、満員電車に揺られてうちへ戻り、原稿を書く毎日です。
 
母にとって僕は、いくつになっても子供のようで、時々ダンボール一杯の食料を送ってきます。上の妹は10月に結婚しました。僕の家族も、少しずつ変化しています。母は東京の人を嫁にもらうなというけれど、そもそも僕は結婚なんてする気はまったくなく、しかし、故郷へ戻る気も今はないのです。
 
来年は決して今年の延長ではなく、また新しい出来事が始まると捉えた方がいいかもしれません。新しい人と出会い、新しい仕事に就き、新しい壁にぶち当たり、新しい方法でそれを乗り越える。新しい恋をして、新しい思い出を作る。まだまだソワソワした人生がこれからも続くでしょう。
 
僕は僕の人生を自分で作ります。誰からも指図されません。自分で決めて自分で進みます。自分の選択した道を後悔せずに、振り返った時のその顔はきっと穏やかに懐古できるように、来年も自分らしく生きようと思います。失うものも多くはないけれど、得るものは確実にそれを上回ります。
 
来年もいい年でありますように。お父さんもお元気で。
 
2003年12月30日(火)  過失機能。
 
遂に買いました。ハロゲンヒーター。うちのエアコンは20世紀に製造されたやつだから、電気代はかかるし足元はちっとも冷えないしで、全然使えなかったのであります。
 
足下が冷たいと、なんかこう、創造力が沸いてこないというか、行動力が減退するというか、倦怠感が増大するというか、何事にも集中できない。集中できないので原稿が書けない。原稿が書けないまま〆切が目前に迫る。〆切が迫ると出版社の人がヤミ金のお兄ちゃんみたいになる。精神的に追いつめられる。追いつめられると文章が支離滅裂になる。そんな文章書いてると「もう少し読む人に優しい文章を書いて下さい」などと言われる。僕だって誰もが感動する文章を書きたいけど足元が冷えるので何も書けない。どうしよう。そだ。ハロゲンヒーターを購入せしめよう。
 
というわけで池袋。某大型家電量販店。ハロゲンヒーターといってもいろんな形があるんだね。扇風機の形のやつは冬の情緒をぶち壊しにするのでどうしても避けたいと思っていたところなんだが、これなんてどうだろう。長方形。なんかいいね。これいいね。格好いいよね。これにしよう。これ下さい。
 
え? 在庫ないの? 展示品のみ? じゃあまけて下さいよ。東京の心が冷たい人たちが暖を取る為に困った人には差し伸べようとしない手でベタベタ触ってるんでしょ。やだよ。原価じゃ買えないよ。僕まで心が冷たくなっちまうよ。まけてくれたら買ってあげる。暖房器具は買い手市場なんでしょ今。僕の方が偉いんだ。おい、まけろよ。まけてくれなきゃあっちのお店に行っちゃうぞ。へへ。5980円を4980円? あともう一声。ダメっすか。まぁいいや。これ下さい。
 
展示品なので、箱には入れてもらえず、好い加減な包装をされて馬鹿でかい紙袋に入れられて、電車に乗ってうちまで帰る。
 
コートも脱がずに早速コンセントに差し込み電源オン。2秒で暖かくなりますと書いてあったが、本当に2秒で暖かくなった。さすがだね。これで僕も人並みの文章が書けるよ。おっ、なんだこれ。わぁ、すごいぞすごいぞ。このハロゲンヒーター、加湿機能も付いてるんだ。湯気出てる。おい湯気出てるよ。ひゃぁ。こんなん説明書に書いてたっけ。まぁいいや。もうけました。加湿機も買おうかなぁって思ってたんだ。いいねいいね。暖かいし、乾燥しないし。ん? なんだ。隣の部屋か? なんだかコゲ臭いぞ。火事かしら。年の瀬だから気を付けなきゃね。っておい! 隣の部屋じゃない! この臭いはこのハロゲ
 
ボンッ
 
爆発しました。加湿機能なんかじゃありませんでした。ただ機械の接触が悪くて煙が出てただけでした。だけでした。っておい! これはただ事じゃないぞ! 加湿機能じゃなくて過失機能じゃないか! しょ、消費者センターに訴えてやる! その前に電話しなきゃね。買ったところに。
 
「すいません。今日ハロゲンヒーター買ったんですけど、爆発しました」
「申し訳ございません。すぐにお取り替えしますので、当店の方へお持ち下さい」
 
え? 持っていくの? 実に理不尽だなぁ。やるせないなぁ。
 
2003年12月29日(月)  むら気。
 
今手元に高橋健二という人物が翻訳した『ゲーテ格言集』という200ページほどの本がある。なぜ手元に格言集などあるのか。それはわからない。だいたい僕の部屋にはいつ、いかなる理由でこういうものを買ったのだろうという本がありすぎる。おそらくこの本も酔った時か人生に疲れた時に買ったのだろう。
 
「愛と女性について」という項目を開き、数多く並べられた格言の一つを読んで僕は目を大きく輝かせる。
 
「どんなことが真理とか寓話とか言って、数千巻の本に現れて来ようと、愛がくさびの役をしなかったら、それは皆バベルの塔に過ぎない。(「温順なクセーニエン」第三集から)」
 
まるで意味がわからない。3度くらい読み返してみたけど、謎は深まるばかり。とにかく愛が存在しなかったら、何も意味がないというようなことなのだろうか。
 
「恋愛と情熱とは消え去ることがあっても、好意は永久に勝利を告げるだろう。(「温順なクセーニエン」第三集から)」
 
なんだかなぁ。と思わせる。永遠に勝利を告げることはいいことなんだろうけど、それが好意だなんて。そんなものを永遠に勝利を告げなくてもいいと思う。僕はしずかちゃんが好きなんだ。イエイ。そしてこれからも! と声を大にして叫んだところで何が得られるのだろう。そんな無意味な勝利であれば、いずれ消え去る恋愛と情熱に身を焦がした方がどれだけ人間らしいことか。
 
「見上げた男! 彼を私はよく知っている。彼はまず妻を殴っておいて、妻の髪をすいてやる。(「格言集」から)」
 
とんでもない男である。まさに見上げた男である。そりゃビックリマークもつけたくなるだろう。恋愛にもアメとムチが必要であるということが言いたいのだろうが、殴ってから髪をすくというドメスティックでバイオレンスな行為は決して現代の時代の潮流には乗れないであろう。現代人が納得するように上記の格言を翻訳します。
 
「見上げた男! 彼を私はよく知っている。彼はまず待ち合わせに遅れておいて、大きなプレゼントを抱えてやってくる」
 
どうですか。現代の男性の弱さが滲み出てるでしょう。だいたい現代の恋愛にアメとムチなんて使ってたら、ふられるに決まってる。現代の女性は忍耐力が欠如して好奇心だけは旺盛だからすぐ他の男に走ってしまうのだ。だから現代の男性はアメとムチなど使い分けずに、アメとガム。そしてケーキ、寝る前に菓子パン。と、もうこれでもかと甘いものばかりで責めるべきである。
 
いずれ女性は愛の糖尿病となって、それが醒めたときにはもう遅い。糖尿病は身体の中から知らぬ間に蝕んでいて、次の恋愛に移行するときはもっと甘い物じゃないとダメになるのである。悪いのは男である。でも女はもっと悪いのである。
 
「ひとりの人を愛する心は、どんな人をも憎むことができません。(「恋人のむら気」第五景)」
 
格言のいわんとすべきことはわかる。しかしここで着目したいのは、この格言を引用した「恋人のむら気」という作品である。いったいこれは何と読むのだろうか。むらき、じゃないような気もするが、むらげ、だと何かマヌケのような感じがする。しかしおそらく「こいびとのむらげ」と読むのだろう。なんだか恥ずかしいね。
 
むら気とは、女心と秋の空のような、むらがある気持ちという意味なんだろうか。むらげ。
 
「恋愛を醒めさせる要因には鼻毛、胸毛、わき毛という微少なる問題が発端となる場合が多い。これらのことをむら気という」
 
なんてね。
 
2003年12月28日(日)  駆け込み乗車はものすんごく危険。
 
人間は合理性を求め、快適に過ごせるように進化し、文化を築き上げたというのに、この世には未だに無数の無駄が蔓延している。
 
マンションのポストに投げ込まれる寿司の宅配やエロビデオのチラシ、生命保険の案内や東南アジアの女性の案内に至るまで、そこには無駄なものが無数に蔓延している。
 
ビックカメラの異常にでかいレシート。あれも無駄である。なぜあんなにでかいのか。
 
テレビショッピングの冷静に考えてみれば大して日常生活に役に立ちそうではないオマケ、例えば高枝切りバサミに今回はどんな果物も一瞬でジュースになるミキサー。電子レンジで肉が焼けちゃうプレートを今回だけあと2枚おつけします。一体その無駄を享受した人々は毎日のように果物を一瞬でジュースにすることが、肉が焼けるプレートが2枚も3枚も存在することが有益だと考えるのだろうか。
 
そして我々が毎日利用する駅にも重大な無駄が存在する。あ、もうすぐ電車がホームにやってくるよ。
 
「間もなく、急行池袋行きの列車が10両編成で参ります。白線の内側まで下がってお待ち下さい。駆け込み乗車は大変危険ですからやめましょう」
 
毎日聞くこのセリフに、重大な無駄が存在するのである。10両編成で参ろうが、自分が乗る車両は1つに決まっておるのだから、ぶっちゃけ何両でも構わんだろうが。と考える人もいるだろう。これも無駄なことは無駄だが、重大な無駄ではない。問題はその後のセリフ。
 
「駆け込み乗車は大変危険ですからやめましょう」
 
これである。なぜこのセリフが無駄なのか。そもそもこのアナウンスは決まって車両がホームに入る2分前くらいに流れるのである。もうそろそろ電車がホームに入るから急ぎなさんな。落ち着いてさ、深呼吸でもしてさ、あんたがたどこさ、ほら、白線の内側に入ってさ、ほら、もう来るよ。と、ホームで待っている乗客に説明する為にわざわざ2分前くらに流しているのである。だのに。だのになぜ。ここに「駆け込み乗車」という言葉が出てくるのだろう。
 
駆け込み乗車をする乗客は、ホームに電車が入ってくる2分前はまだ駅に向かって走っている、もしくは駅の階段を駆け上がっている、転げ落ちているなどして、アナウンスなど聞いているはずがないのである。
 
駆け込み乗車など絶対にしない客に対して、駅のアナウンスは駆け込み乗車を禁止する旨を伝えているのである。なんという無駄であろうか。
 
ホームに立って電車を待っている客は「駆け込み乗車は大変危険ですからやめましょう」というアナウンスを聞いていつも思うだろう。
 
いや、しないけど。
 
って。そこにこの世の無駄と、その無駄を強制的に思考させられる煩わしさが存在する。何十年たっても一向に駆け込み乗車が減少しないのは、駆け込み乗車をする客は「駆け込み乗車は大変危険」というアナウンスを聞いてはいないということに、JRならびに私鉄各社は早急に気付くべきである。
 
2003年12月27日(土)  「あなたならどう思う?」
 
人間関係を円滑に進める為には実に多様な技術が存在する。学校や職場の人間関係に悩んでいる貴女に必見の今日の日記。
 
「あなたならどう思う?」
 
職場で意見を求められる。自分の答えとしては、そのことなんてどうでもよかったりする。だけどここで「どうでもいいです」なんて答えてはいけない。質問した相手にとってはどうでもよくない問題が発生しているのであって、ここで「どうでもいい」なんて答えては、冷酷人間もしくは無関心な奴、果てには更衣室や食堂の隅であいつは馬鹿だ思考が停止した阿呆だなどと言われる恐れがあるので気を付けなければいけない。
 
では自分的にはどうでもいいことなんだけど、相手の質問を尊重して、その意見に関して考えを巡らした結果、「私は〜だと思います!」と声高々に宣言したとしよう。しかしこれも間違いである。
 
そもそもどうでもいい事柄に関して考えを巡らした結果なんて、どうでもいい答えが出るに決まっている。そんな好き加減な意見など言わない方がましである。その意見が今後何らかの事象に影響されるのであれば事は重大になってくる。職場で無責任な答えに責任が生じてしまうほど煩わしいことはない。
 
それではどうする? 質問した相手はどう思っているのかを見抜くのだ。「あなたならどう思う?」と問い掛けられた時、逆に「あなたならどう思うだろう」と考えを巡らすのだ。だいたい反対されたくて意見を求める人なんてそう多くはいない。大抵は同意を得たいが為に人は意見を求めるのだ。
 
よって、相手の意見に則った意見を言えばいいのである。「そうよねそうよね、あたなもそう思うわよね」と相手は舞い上がり、有頂天になり、自分の考えに自信を持ち、同じ考えを持った相手に感謝し、気分がよくなり、食事でもご馳走しようかしらと思うのである。
 
人間関係を円滑に進める為には、まず自分を殺すこと、そして相手に同化すること。答えはこれしかない。他愛もないことにプライドを持ち込みたい奴だけ人間関係に苦しめばいいのである。
 
2003年12月26日(金)  凍えた両足。
 
目が覚めて、部屋の窓を開けると隣の家の屋根に雪が積もっていた。いつの間に降ったのだろう。確か昨日の夜は雨が降っていたはずだ。雨は、夜更け過ぎに、雪へと、変わったのだろう。
 
何重にもマフラーを巻き、3年前に付き合っていた彼女からのクリスマスプレゼントの手袋をつけ、黒いニット帽を被り、別れたばかりの彼女からのクリスマスプレゼントのワインレッドのバッグを肩に掛け、仕事に出掛けた。
 
吐く息は想像以上に白く、その冷気は黒いレザーの手袋を容易に突き抜け、肌を刺した。道路に雪は積もっていなかったが、道路の脇や木の枝、屋根の上にはまだ朝日に照らされた雪の結晶が輝いていた。
 
故郷に帰省するらしい大きな荷物を抱えた正月休みの人々と一緒に電車に乗り込む。いつも土曜の朝の電車は空いているのに、今日は平日と変わらないくらい満員だった。一人これから仕事だという白い溜息を吐きながら吊革を持ち、駅に到着するのをただ電車の天井を見上げながら待ち続けた。
 
駅を降りてしばらく歩いたところに人が死んでいた。
 
死後から数時間経っているらしく、60歳前後の初老の男性の身体には、もう死後硬直が始まっていた。カチカチになった四肢を眺めながら、顔や胸や腹に積もった雪を見ながら、この人は冷凍されていて、お湯でもかけると生き返るのではないかと思わせた。しかし目に活力はなく、重くて黒いそらを瞬きもせずに見上げていた。
 
道の脇に人が死んでいる。その横を通る人はその非日常的な事実を理解しているのかしていないのか、ただ少し振り向くだけで、立ち止まりもせず、駅の方向に白い息を吐きながら歩いていく。
 
しばらくしてパトカーがサイレンも鳴らさずにやってきて、4人の警官が悲しい色の大きなビニールカバーでその硬直した死体を包んだ。
 
ビニールから飛び出したボロボロの靴を履いた両足を見ると同時に、朝の厳しさと雪の悲しさと冬の強さと人の冷たさが同時に襲ってきて、その場に座り込んでしまいそうになった。
 
今まで何十回、何百回と越してきた夜の、たった1晩だけ越せなかっただけに、その人は死んでしまった。ホームレスだったのか、酩酊してその場に寝てしまった人なのかは、今では知る由もない。
 
あの硬直した両足は、無表情で通り過ぎる人たちに、切ないメッセージを送り続けていた。
 
2003年12月25日(木)  終焉後のクリスマス。
 
休日の朝、大きな荷物が届いた。
 
大きな紙袋には、クリスマスプレゼントと短い手紙が入っていた。
 
彼女と買い物に行ったとき、バッグが欲しかった僕はいろんな店に入り、バッグを探し続けた。だけどこれと思ったものは彼女は首を傾げ、彼女がこれと思ったものは僕が首を傾げた。
 
「私たちって趣味が合わないのね」
 
彼女は悲しそうに笑った。だけど趣味が合わないということは、恋愛に関してはそれほど致命的にはならない。僕たちはその数日後、同じものを同じように感動できないまま、共感できないまま、その構築の過程の中で、別れた。
 
数週間後、クリスマスイブが訪れた。僕は別れた彼女に郵送でプレゼントを贈り、仕事帰りに駅前のケーキ屋に寄って、小さなショートケーキ1つでは恥ずかしいので、2つ買って、隣の部屋の子と一緒に食べた。
 
隣の部屋の子は彼氏がいるのかいないのかわからないけど、ただこの時間を乗り切る為に、やり過ごす為に、僕たちはケーキを食べて、無意味なバラエティ番組を見ながら無機質な笑い声を挙げた。
 
そして今日の朝、大きな荷物が届いた。
 
荷物の中身は、彼女からのクリスマスプレゼント。中身は、ワインレッドのバッグ。派手過ぎず、地味過ぎず、丁度いい大きさで、何よりも、僕の趣味に合っていた。
 
「私たちって趣味が合わないのね」
 
あの日の彼女の悲しい呟きを思い出す。このバッグは、今の僕に挑戦するような、悲しい輝きを持っていた。そのプレゼントを何度も撫で、何度も肩に掛ける。
 
短い手紙には、短くて悲しいメッセージが記されていた。
そしてバッグの他に、僕たちが付き合っていた頃の、会話の断片が形になったプレゼントが入っていた。
 
例えば、僕が古くて格好悪いデザインの名刺入れを、これしか持ってないからという理由でいつまでも使っていたということ。文庫本のカバーが欲しいと言い出し、散々探した挙げ句、やっぱりいらないと言ったこと。
 
会話の断片は、新しい名刺ケースとなり、新しい文庫本カバーになり、全てを失ってから、僕の目の前に現れた。
 
終焉後のクリスマス。僕たちはお互いの帳尻を必死に合わせるように、哀しい思いに支配されながら、無言のプレゼント交換をした。
 
2003年12月24日(水)  相手のいないプレゼント。
 
別れた彼女にプレゼントを贈るということは、どういうことだろう。
 
約2週間前、僕は彼女と別れた。彼女にとっては青天の霹靂で、髪を乱し声を震わせ涙を流した。僕にとっては揺るぎない事実で、歯を食いしばりながら自らの心を閉ざした。別れるなら今しかないと思った。無意識に、辛い思いをさせ続けるのであれば、今のうちに、僕は握っていた手を離さなければいけないと思った。
 
そうしてまた僕は一人になった。だれかと恋をする度に、僕は決まってその終焉に大きな爪痕を残す。相手はその傷が癒えるまで、何を考えているのだろう。僕のことを憎んだり罵ったりするのだろうか。
 
仕事帰りの電車の中、吊革を掴みながらそう考えていた。電車の窓の外は暗く、鏡のようになり僕の疲れた顔を映す。僕の前にはカップルが肩を寄せ合って座っている。彼女の手には大きな白い紙製のバッグ。中身は、想像しなくてもわかる。そのカップルは狭い電車の座席で肩を寄せ合い、とても幸福そうに小声で囁くように話をしていた。その紙製のバッグには、大きな赤いリボンがついていた。
 
いつもと違う駅で降りる。12月の街は賑やかで、通り過ぎる人たちは少なくとも僕より幸福そうに微笑んでいる。その通りには、電柱ほどの高さのクリスマスツリーが立っている。僕は顔をしかめて、通りに面した店に入る。
 
「いらっしゃいませ」
 
僕と同じくらいの年齢の女性が控えめな口調で挨拶する。店内はクリスマスイルミネーションで彩られていた。どの服も、その光を吸収して、誰かに着てもらえる日を楽しみに待ち望んでいるようであった。
 
「この黒いコート、学生の頃から使ってるの」
 
あの日、夕食を食べた店を出て、彼女は冷たい風にさらされた時にそう言った。彼女が仕事の時にスーツの上に着る黒いコート。シンプルなデザインで、どんな服装にも合わせられそうなコートだった。そのコートには、学生の頃からのいくつもの冬の思い出が詰まっているのだろう。彼女は愛惜しそうに、そのコートの襟を立てた。
 
「コートを、ください」
 
僕は自信が欠如した声で店員に話し掛ける。閉店間際、レジの前で伝票を広げ、電卓を打っていた女性が顔を上げる。僕はもう一度「コートが、欲しいんですけど」と呟く。その店は女性服ばかりで、店内は僕一人だけ男で必然的に掛ける声も小さくなった。
 
「どのようなコートをお探しですか?」
 
店員が笑顔で様々なコートを取り出す。襟にファーがついたものや、ウエストが締まったもの。太いベルトがついているものや、純白のもの。
 
「黒くて、シンプルなデザインを探してるんですけど」
 
冬の思い出に残らない、黒いコート。彼女が何も考えなくてもまとうことのできる、シンプルな形。店員は2種類の黒いコートを広げた。こちらの方がサイズが大きく見えますが素材が違うだけで同じサイズなんです。こちらの方が若干肩幅が狭くなってます。こちらのベルトは取り外しができますのでいろんな服に合わせやすいです。その女性は丁寧に説明してくれた。そして最後に僕に質問した。
 
クリスマスプレゼントですか?
 
この2種類の黒いコートのうち、どちらにするか暫く悩んだ挙げ句、ベルトがついていない厚めの生地を使っているコートを選んだ。選んだコートの方が、値段が高く、もう一つの方を買えばその差額で僕が欲しかったバッグが買えたけど、彼女はベルトのついた茶色のコートを持っていて、締めたほうがいいのか、そのままの方がいいのか、そのベルトをいつも気にしていたので、何も気にせずに着ることができるコートを選んだ。
 
そして僕は、店員が器用にクリスマス用のラッピングをしている手を、ふいに止めた。
 
「それは、いいです」
 
僕たちにはもう、クリスマスの赤いリボンは必要ではなかった。
 
マンションに帰り、ダンボールにコートを入れる。手紙を書こうか迷ったけど、結局何も書かずにコートを入れる。明日の朝、宅急便で送ろう。もう、僕たちは会えない。それはとても辛いことだけど、これからも会い続けるともっと辛くなる。僕はわがままだから、彼女を振り回し続けることになる。
 
コートの上に、彼女に贈り損ねた9月に一緒に行った外国のアーティストのライブDVDを添えてダンボールを閉じた。
 
別れた彼女にプレゼントを贈るということは、どういうことだろう。
冷たい部屋で、僕はずっと考えていた。
別れた彼女にプレゼントを贈るということは、どういうことだろう。
小さなダンボールに手を添えて、僕はずっと考えていた。
今夜は、雪が降らなくてよかった。
 
2003年12月23日(火)  自分広告。
 
先日、フリーペーパーの求人誌について書いたが、あの数十ページの薄い雑誌に、まだまだ特筆すべく面白いことが書いてあったので引き続きその記事について。
 
雑誌の末尾に『自分広告.com』というコーナーがある。これは企業に対して自分はこんなに素晴らしい人材です! とアピールして企業からのオファーを待つという、少々虫の良いコーナーだが、皆、希望の職種と性別、出身地、学歴、資格などと一緒に一行ほどのアピールポイントを書いている。ノーマルな人だと「私はパソコン業務が得意です」とか「私は既存顧客の管理とレベルアップには自薦あり」などと書いている。しかしこんなノーマルなアピールなどされても面白くない。現代は個性の時代なのだ。
 
「洋楽が大好きです! 接客向いてます!」
 
これである。これが個性である。しかし個性があっても企業に趣味をアピールしてもどうしようもない。しかも洋楽と接客が繋がらないところにこのアピールの悲しさがある。「洋楽が大好きです。接客向いてます」これだと少し落ち着きを感じるが!マークがついた瞬間にこの記事の悲しさがアップする。
 
「和み系と言われます」
 
だからどうしたというのだ。確かに周囲から和み系と言われるかもしれない。いや、それも怪しい。だいいち「あいつってかなり和み系だよなー」という会話を聞いたことがあるか。「自分は癒し系です」とか言う奴に限って、そう思ってる奴は自分だけということを気付くべきである。しかも求人で「和み系」などとアピールしても何の効果もないということを気付くべきである。
 
「私はプラス思考です」
 
一見問題なさそうだが、雇用側にとってみてはこれはちょっと問題である。「あー失敗したけどまっいっかー。バイトだし」と、プラス思考が妥協に変化する危険性があるのだ。無暗にプラス思考ですってアピールするのも考え物である。
 
「私は思わぬ、見つけものですっ!!」
 
一人で舞い上がっている。何か特筆すべき特技でも持っているのであろうがひどく自信ありげである。しかし「見つけもの」というのは第三者が判断するもので決して自ら使うべき言葉ではない。
 
「私は、サッパリ派です」
 
まるで意味がわからない。サッパリ派だなんてそんな派閥どこにあるというのだ。「あいつはイライラ派だから気を付けた方がいい」「あいつはモヤモヤ派だから何考えてるのかわかんない」という会話が交わされているのだろうか。しかもサッパリ派が果たして就職に役に立つのかどうかさえ疑わしい。
 
「力を貸してください! 力になります!」
 
どっちやねんという話である。借りたいのか貸したいのか。
 
「やる気はあります」
 
正直者か馬鹿であろう。もっと巧妙な言葉を使えばいいものの「やる気はあります」と。この人はやる気はあるが、何かがないのだ。「やる気はありますが、なぜか遅刻します」とか「やる気はありますが、何事も長続きしません」などと、この「やる気は」の「は」の部分にはその後に続くマイナスイメージを想起させる。
 
こうして様々な人の多様なアピールを笑ってきたが、果たして自分だったらどう書くだろうと思ったとき、しばらく考え込んでしまった。一行でどれだけ自分をアピールするか。個性を輝かせることができるか。やっぱり僕もこう書くだろうなぁ。
 
やる気はあります。
 
2003年12月22日(月)  転職Q&A。
 
駅に置いてある求人誌のフリーペーパーが、職場のナースステーションの机に置いてあったので、夜勤の晩にぼんやりとページをめくっていた。求人以外に面白いコラムや豆知識のようなものが書いてあり、結構楽しい。
 
なかでも『転職どぉ〜んと!!Q&A』というコーナーが面白い。内容は読んで字の如く、転職の際に生じる疑問を答えるというものだが、この質問の内容が非常に稚拙的で、笑いを超えてなんだか深刻な気分にさせられる。
 
「面接に行く場合、どんな服装をして行けばいいんですか?」
 
こういうのは転職の際に生じる疑問ではなくて、一般常識として身に付けておくべきものではないか。どんな服装も何もスーツ以外に何を着て行こうとしているのか。他に「就職活動にマナーは必要なんですか?」なんて言語道断なものまである。修学旅行の前日の「マンガを持ってきたらダメですか?」や「色の入った靴はダメですか?」「パジャマじゃなくてジャージではダメなんですか?」などといった甚だ稚拙的で、自分で考えればわかるような質問ばかりである。
 
「面接などを受ける時は当然、お化粧をしなくてはなりませんよね。私は普段全くお化粧をしないのでどんな化粧品がいいのか判りません。どんな化粧品がいいのでしょうか?たくさんありすぎて選ぶのに困ってしまいます。どなたか、教えて下さい(S子 25歳)」
 
これは『たすけてぇ〜!!転職研究室』というコーナーに載っていた質問である。『転職どぉ〜んと!!Q&A』との違いは、『転職どぉ〜んと!!Q&A』は質問の内容が短いのに対し、こっちの方は若干、深刻味がある。しかし両者とも質問の内容が稚拙的であるということに変わりはない。
 
このS子さん。普段まったく化粧をしないと言っている。それはわかる。そういう女性もいるであろう。しかしこの疑問を解決するために求職のフリーペーパー誌に投稿するというのはどういうことか。友達に聞けばある程度の回答が得られそうなものではないか。
 
「たくさんありすぎて選ぶのに困ってしまいます」と、なんだか切迫した深刻さを感じるが、たくさんありすぎる化粧品を自己選択できなくて、就職した後に「スーパーに就職したんですが、商品がありすぎて困ってしまいます」などと言い出すのではないか。読んでいるこっちの方が不安になってくる。
 
ちなみにこの質問の答えを「転職研究室・助手の夢見さん」という謎の女性が答えている。
 
「私は女子大に通っていたので、女性の就職活動用メイクについては学校の就職セミナーなどで教わることができました」
 
と、自分の話をして終わっている。S子さんががっくり肩を落として涙を流す光景が頭の中に広がった。
 
2003年12月21日(日)  ここだけの話。
  
僕は「ここだけの話」をよく耳にする。とあるグループと僕が同じ部屋にいる。そのグループはまるで僕がいないかのように「ここだけの話」を話し出す。
 
ナースステーションは「ここだけの話」の宝庫である。看護婦さんというものは1割が看護の心で2割が休日の予定、残りの7割が噂話でできている。
 
看護学校の頃もそうだったけど、女性の周りには、その線引きがひどく曖昧なグループが発生する。例えばAさんとBさんとCさんのグループがあって、CさんはDさんと仲が良いけど、DさんはAさんと仲が悪い。CさんはDさんとEさんのグループにも同時に所属していて、そのグループのEさんは実はAさんと仲が良かったりする。
 
男性からは理解できないそういうグループは病院の世界にも存在する。人は3人集まれば政治が生まれるというけれど、看護婦さんは6人集まれば派閥が生まれる。
 
そのグループ内で行われる「ここだけの話」は、その相手グループの人間の被害中傷的なものばかりで、看護婦さんたちはそれを肴にしてお菓子を美味しそうに食べているけれど、僕はそんな話を聞きながら菓子なんて食えない。
 
そして僕は「ここだけの話」を耳にする。そういう類の話はグループ外の人間が聞いていたら都合の悪い内容のものばかりだけど、僕の耳に入っても問題ないらしい。答えは簡単である。僕がそういう話に無関心だからだ。僕が誰かに告げ口することもないし、大きくなっているであろう話を更に大きくすることもない。
 
だから僕がいても何も気にしないで「ここだけの話」に花を咲かせることができる。僕はあらゆるグループのその花を見ているので、僕の中には決して日の光を浴びることがない花がいっぱい咲いている。
 
このことは決して悪いことではない。この無関心なことが相手の心を開かせる鍵を握っていると思う。決してそのことを第三者に言うことがないから人は僕に悩みを相談する。「王様の耳はロバの耳!」と叫ぶ井戸のような役割をしているのだ。他人に対して無関心だからこそできる相手は胸の内を見せてくれる。
 
今日も僕は「ここだけの話」を耳にしながら、話を振られた時だけ適当に相槌を打ったり、好い加減な笑顔を作ったりしている。
 
2003年12月20日(土)  居眠りするかな。
 
そういえば中学生まで授業中に居眠りをすることなんてなかったなぁ。
 
夜勤の深夜、一人ナースステーションでぼんやりとカルテ棚を見ながらそう思っていた。居眠り。たしかに中学生までは居眠りなんてしなかったように思える。小学生の頃なんて居眠りの概念さえ知らなかったかもしれない。
 
中学生になり、居眠りの意味を理解できるようになったけど、別に授業中眠くならなかったし、眠ろうとも思わなかった。中学生の頃に感じてた居眠りはタバコや万引きのように、一部の人たちが行う悪いことのようなイメージがあった。だからタバコを吸おうと思わないし、物を盗ろうとも思わないことと同じく、授業中に眠ろうとも思わなかった。
 
高校生になり、それは耐え難い衝動として授業中、睡魔に襲われることになった。中学生の頃のように善悪の区別など関係なく、必然的に眠るようになった。あれはいったいどういうことなんだろう?
 
看護学校に進学し、それは顕著になった。講義中、ほとんど毎時間眠っていた。そのうち、学校に行ってもただ眠るだけだからあまり意味がないと感じだし、昼まで自分の部屋で眠るようになった。そして午後から出校し、やはり眠り続けた。
 
なぜ小中学生の頃の居眠りは日常の外に位置されていたのに、高校生になってからそれは日常茶飯事になったのだろう。
 
多分、意味のないことが増えたからだと思う。僕はプログラマーになりたくて情報処理系の高校に入学したんだけど、蓋を開けてみれば情報処理は「商業」というカテゴリーでくくられていた。だから商業経済や簿記なども学ばなければいけない。一日中パソコンの前でプログラムを作るというわけにはいかないようだ。だけど商業には関心がない。関心がない授業の為に机に座り1時間弱拘束される。つまらない。眠くなる。寝る。
 
プログラマーは目が疲れるし、なんだか細かい作業が多いので、人を相手にする職業に就こうと看護学校へ進学したんだけど、蓋を開けてみれば学ぶものは看護だけではなく、微生物や統計学や、果てには「看護英語」など訳のわからないものばかり。無選別に眠る。看護なんてのは看護する人の人間性の問題だ。教科書なんて参考にもならない。
 
で、今の生活はというと?
 
ん? お、おい。眠ってるの?

2003年12月19日(金)  友達になれない人たち。
 
あーこの人友達になれないなぁ。と思う人がいる。そういう人のちょっとした行動でその予感は表面化される。
 
「カップラーメンの蓋を最後まで剥がさないで食べる人」
 
理解不能です。よくもまぁのうのうと麺をすすってられるなぁ。気にならないのかしら。あと少し力を入れれば蓋は剥がれるというのに。目の前にカップラーメンの蓋がくるりと不細工に曲げられた姿を見ながらその人は平然と麺をすすり続けるのです。「いっそのこと剥いでしまえ!」と僕は思うのです。僕が友達になれないと思う人は、この「いっそのこと」の思い切りが足りないような気がします。
 
「携帯画面のビニールカバーをいつまでも付けている人」
 
これも「いっそのこと」が足りないのです。ビニールカバーがボロボロになるまで、いや、ボロボロになった後も頑なに付けている。
 
あのビニールは携帯画面をカバーする為につけているとしよう。あのビニールがある限り携帯画面には傷は付かない。しかしビニールには傷は付く。端の方から剥がれていき、ボロボロになっていく。必然的に画面も見辛くなる。しかし画面自体は傷一つなく綺麗。しかし携帯を使用する本人の目から見た画面は傷だらけで汚い。こういう種類の人たちはこのジレンマをどのように解釈しているというのか。一体誰の為のビニールカバーなのか。
 
以前、酔った勢いで後輩のビニールカバーを剥いでしまったらマジ切れされてしまった。後輩のくせに。携帯のビニールカバーをいつまでも付けている人は、それを第三者から剥奪されてしまったら必ずマジ切れする。同種に、新車の座席のビニールカバーをいつまでも外さない人がいる。
 
「ペットボトルの蓋をしっかりと閉めないで冷蔵庫に入れる人」
 
これは僕です。こんなちっぽけなことをを嫌う人に心なんて開きたくありません。昔付き合ってた彼女がそうでした。うちの冷蔵庫を開くたびに「もー! ちゃんと蓋締めてよね!」とヒステリックに怒るのです。僕のうちの冷蔵庫の僕のジュースなのに。その彼女はペットボトルの蓋は締めなければすぐ怒るくせに、ベッドに入ると下のお口が全く締まらなかったので別れてしまいました。
 
「他人のカラオケのサビの部分だけ歌う人」
 
許すまじ行為です。人が気持ちよく歌ってるというのに、それに便乗しようとサビの部分だけさも自分がマイクを持って歌ってるかのように振る舞うその態度。その無自覚さ。呆れて友達にもなれません。そういう人はなぜかマイクを持って正規にその歌をうたう権利がある人より大きな声でサビを歌おうとします。
 
「綿棒を右耳に入れた部分をそのまま左耳にも入れる」
 
その無神経さに天を仰ぎます。無自覚馬鹿です。悲しくて友達にもなれません。清潔の概念を子供の頃から徹底的に教育すべきだったのです。もう遅いのです。彼は気付かない。渇いたときにもう水はないのです。
 
「福田官房長官」
 
あの人を食ったような物言いが、僕との間に高くて厚い壁を作ります。
 
2003年12月18日(木)  午前6時の星空。
 
気が付けば、朝の6時だった。外へ出ると駅の方へ向かうサラリーマンや学生が肩を縮めて白い息を吐きながら歩いている。僕は「寒いんだよなぁ」と今更ながら呟いてフードを頭まで被り、持っていた手袋を連れの女性に渡す。
 
「いらない。私は寒さを感じるのが好きなの」
 
そう言ってその女性は、まだ薄暗い午前6時の空を見上げた。
 
午後7時。僕は帰宅の電車に揺られていた。「たまには一緒にご飯でも」短いメールに「うん」と短い返信。マンションへ一度戻り、荷物を置いて再び駅へ向かう。
 
午後8時。酒を飲みながら食事。彼女以外と食事をするのは久々で、彼女以外と親密に話をするのも久々だった。今日はビールは飲まずに、焼酎をゆっくりと味わうように。彼女の会話を噛み締めるように。
 
午後11時に店を出る。ほろ酔いの二人は、酔いを醒ます為に、それとも更に酔う為にカラオケに閉じこもる。風邪は完治してはいないけど、喉が枯れるまで、元々喉は枯れていたので、声が出なくなるまで歌い続ける。暖房の効きすぎた密室で、酒と煙草と歌と彼女と。
 
午前3時半。カラオケを出る。ちょっとした小旅行の旅費程度の金額を払う。酔っているので、それが高いのか安いのかわからない。終電は、とっくに出ている。それから気軽にホテルでも利用すればと思うけど、生憎僕たちはそういう関係ではないので、深夜の街を、目的もなく散歩する。唯一の目的といえば、
 
「一番最初に星を見つけた人が幸せになれるの」
 
星を探すことだけだった。星は、一つも出ていなかったけど、彼女は「あ、見つけた。ほら、ほらほら」とフラフラしながら空を指さしていた。星は、一つも出てなかったけど、彼女は見つけたと言っているので、彼女が幸せになってくれればいい。
 
午後4時。あと1時間もすれば始発が出る。しかしこのまま歩き続けていると、彼女はまだ目を輝かせて星を探し続けているけど、僕は凍え死んでしまいそうなので、もとい、僕の唇はカラオケを出た瞬間に紫色に染まっていて、目の下には隈ができて、死相が漂っている。
 
手を繋ぎたいけれど、生憎僕たちはそういう関係ではないので、少し肩を寄せ合いながら暖を取る。始発まであと1時間。道脇に佇む風俗店のような看板のマンガ喫茶。気の遠くなるような店員の説明を経て、二人ソファーに倒れ込む。
 
倒れ込んだのは僕だけで、彼女の肩に寄り掛かりながら、彼女は、ずっと僕に何かを話し掛けている。質問したり昔話をしたり、歌をうたったり。僕の意識の半分は眠りの世界へ。あとの半分は彼女の世界へ。
 
気が付けば、朝の6時だった。外へ出ると駅の方へ向かうサラリーマンや学生が肩を縮めて白い息を吐きながら歩いている。僕は「寒いんだよなぁ」と今更ながら呟いてフードを頭まで被り、持っていた手袋を連れの女性に渡す。
 
「いらない。私は寒さを感じるのが好きなの」
 
そう言ってその女性は、まだ薄暗い午前6時の空を見上げた。
 
2003年12月17日(水)  見えないものを看るということ。
 
心の病を看る仕事を始めて、もう長い年月が経ち、様々な人と病と出会ってきた。
 
心の病と聞いて、まず思い浮かぶものは、統合失調症だろうか。うつ病だろうか。それは人によって違うだろうけど、それと同じで、そのケアも決して画一的ではなく、個別性を重視しなければいけない。心の病の看護は、まず参考書を捨てることから始まる。
 
例えば国際判断基準では、うつ病とはどんな楽しいことがあっても晴れないような落ち込んだ気分、何もする気にならないし何をしても面白くない、考えが進まない、何をしてもゆっくりにしかできない、体重が減るほどの食欲低化、毎日続く不眠、自分を責めるような気持ち、疲れやすい、死にたくてたまらない、といった症状のうち5つ以上が2週間続いた場合をいう。
 
僕はこれらの症状のうち5つが2週間以上続いている。だけど僕はうつ病ではない。うつ病かもしれないと憂鬱になることもない。ただ、これらの状態が僕を取り巻いているに過ぎない。僕なんて2週間どころか27年間慢性的に自分を責めてばかりである。
 
だから、国際判断基準がそのままピタリをその人に当てはまるかなんて実際のところわからない。それは「目安」として留めておくべきだと思う。
 
うつ病になりやすい性格の一つのパターンは、人付き合いが良く、親切、活動的で熱中しやすいという性格(循環気質)、もう一つのパターンは、責任感が強い、几帳面、とことんやらないと気が済まない、何かあると自分を責めてしまう、人に気を遣うという性格(執着気質)の2種類が挙げられる。二つとも生活の中で、人に好まれ、信頼されるタイプの性格であることは言うまでもない。
 
かといって、僕はどちらのタイプなのかと考えた場合、どちらもピンとこない。この通りお調子者だし、負の感情を表に出さない正確だから人に好まれることも多いかもしれない。しかし決して信頼されるタイプではない。僕は僕自身、ある程度の無責任さを持っているということが長所だと思っている。おまけに几帳面ではないし、人に気を遣っている風でもない。
 
心の病は、目に見えなくて、看護に苦労することもあるけれど、その人にずっと接していると、見えないものも見えてくる。見えないものを見る。この技術をこれからも磨き続け、一番見えないもの。そう、自分自身の見えないものが見えるように、そしてその技術を患者に還元できるような看護をしていけたらいいと思う。
 
2003年12月16日(火)  不幸の耐性。
 
彼女と別れた。風邪をひいた。あと1個。あと1個何かよからぬことが起こるぞよ。往々にして不幸は3つ続くものだ。あと1個。何かしら。僕の身に何が降りかかるのかしら。
 
今朝から左手が麻痺している。
 
最初は痺れているだけかと思った。そのうち治るだろうと思った。電車の中でMDウォークマンのリモコンを左手で操作しようとしたが手に力が入らないのでリモコンのボタンさえ押せなかった。職場の食堂で昼食を食べようとしたとき、左手で茶碗を持てなかった。どうもおかしい。
 
左手の麻痺。考えられることは、神経麻痺、脳血管障害、もしくは失恋。
 
僕は不幸に対して、昔からいろいろと耐性ができているので、左手が動かなくなったってヘッチャラだが、それにしても年の瀬の忙しいときにこの左手ときたら。じっと手を見る。じつと手を見る。
 
人間には1年ごとに分配される不幸の量が決まっていて、それを1年のうちに、例えば深爪をする、電車を乗り過ごす、お風呂の下の方がまだ冷たかったなどの小さな不幸を体験することによって、不幸ノルマを達成しなければいけない。僕はきっとそれを怠ったんだと思う。楽な方へ実のなる方へ。ウヘヘヘウキャキャキャ愉快愉快。今日はラッキー明日はハッピー渡る世間は美女ばかり。不幸だなんてナンセンス。
 
なんてことばかり考えていたので、きっと神様がお怒りになって、神様の事務室みたいなところの事務員が僕の不幸の帳尻を合わせる為に、このくそ忙しい年の瀬に彼女と別れて風邪をひいて左手が動かなくなった。
 
2003年12月15日(月)  愛と真実のリゾット。
 
1人暮らしを始めてもう8年くらいになったので、オリンピック2回分も1人で暮らしているので、ワールドカップだって1人で2回見てるので、もう飽きた。ご飯作んのとか掃除すんのとか飽きた。
 
こんなこと言い出すのは、僕の病気である「結婚したい病」が出ているということなので気を付けなければいけない。僕の「結婚したい病」は、正確にいうと「結婚して楽したい病」なのだ。結婚の間違ったイメージが生み出した歪んだ病なのだ。ただご飯作ったり掃除したりするのが面倒臭いだけなのだ。
 
この結婚したい病、決まって彼女と別れて数日後に発症する。発生源は寂寥感。寂寥感が身体を侵してくると、人肌恋しくなる。人肌恋しくなると心細くなる。心細くなると食欲がなくなる。ご飯作んの面倒臭い。ご飯食べないとエネルギー不足の為、身体が動かなくなる。掃除すんの面倒臭い。面倒臭いこれら全てを誰かにやってもらいたい。結婚したい。妻にやってもらいたい。僕はただただ寝ていたい。
 
という甚だ不純な動悸が生み出す病。僕の「結婚したい病」には愛とか真実などの要素は存在しない。僕の場合、そこに愛とか真実とか存在すれば「結婚したくない病」になるのだ。わかるかなぁ。わかんねぇだろうなぁ。
 
風邪が治らない。お粥とか作って欲しい。だけど誰かに作ってもらったら、そのお粥の湯気に愛とか真実とかが発生するので、それもまた困る。愛と真実が発生しないお粥が食べたい。近所のスーパーに行って電子レンジで1分半のリゾットを購入。愛と真実が発生しないのはお粥じゃなくてリゾットだからなのかそれとも冷凍食品だからなのか。
 
2003年12月14日(日)  葛藤。煩悶。倦怠感。微熱。返信。
 
部屋が乾燥するのです。暖房器具といったらエアコンしかないので乾燥するのです。換気しようと思うけど、カレンダーを見ると12月なので、窓を開けると寒いのです。だから閉め切った部屋でエアコンを作動させ、喫煙し、臭い消しの為にお香を焚く。医療従事者じゃなくても、ひどい環境ということがわかります。
 
まず喉を傷めます。やがて鼻がつまります。鼻で息ができなくなるので口呼吸が始まります。口腔内が乾燥します。喉をもっと傷めます。頭がボーッとしてきます。タバコを吸います。景色が歪んできます。天井が回ります。顔が熱くなります。ベッドに倒れ伏します。どうやら風邪をひいたみたいです。
 
目が覚めても起き上がらずに天井を眺めるだけ。発熱感と倦怠感。今日は夜勤なので夕方からお仕事です。窓から陽が差し込みます。洗濯日和です。だけど身体が動きません。食欲が沸きません。じっと天井を見る。
 
彼女に助けてもらおうと電話しようと思ったけど、もう彼女は彼女ではない。風邪をひいてない時に、まだ五体満足だった頃に別れてしまった。だから電話できない。かといって、僕を助けてくれそうな人は誰もいない。内向的な生活をしている罰が当たってしまった。もっと毎日笑顔と愛想を振りまいて、日頃から危機管理に備えていなければならない。
 
大学の友人にメールする。
>風邪をひきました。助けて下さい。具体的に、お粥とか作って下さい
日頃メール交換などしないので、妙に馴れ馴れしい文章もあれなので、事実だけを簡潔に述べる。回り続ける天井を眺め、返信を待つ。
 
>まぁ大変。心配だよ。あなた一人暮らしでしょ。今日私お休みだから今から行くね。お部屋の掃除して待ってて。
 
風邪で寝込んでいる奴に部屋の掃除をしろと無謀なことを言う彼女だが、優しさは伝わった。伝わったけど、日頃ろくにメールも出さない僕はその優しさを受け入れる権利はあるのだろうかと! 葛藤。煩悶。倦怠感。微熱。返信。
 
>あ、大丈夫。今日夜勤だし。なんとか頑張る。部屋の掃除も頑張る。
 
と、結局断りのメールを出す始末。結局何がしたかったんだ。午後3時にシャワーを浴びて、身体を引きずるように仕事の準備を始めた。
 
2003年12月13日(土)  ハルカリベーコン。
 
世界の皆さんアニョハセヨ。今日はHALCALIのアルバム買いました。僕イチオシのアーティストです。tATuなんて聴いてる暇があればHALCALI聴きなさい。
 
彼女たちの魅力は人生の酸いも甘いも全然噛み締めていないところであります。なんか人生を舐めくさっている駅のホームに座っている女子高生のような楽観さが曲の背後にあります。生きることに疲れたときHALCALIを聴きながら、あぁ、こいつら馬鹿だなぁ。なんて思いながら聴くことがこのアルバムの本当の聴き方だと思います。
 
往年のパフィーを想起させるその脱力系musicは、時を得てHIP-HOPという時代の波に乗り、不況で喘ぐ時代を難なく乗り越えようと、そして難なく乗り越えられるだろうと思わせ、ヒット曲ばかりを集めたコンピー大市場においてジャンルという括りでは異なる様々な音を一つの流れで自然に聞かせてくれる。なんて音楽批評雑誌に書いてるようなことを書いてしまいましたが、結局は理屈抜きに楽しめる、そんなアルバムです。
 
まぁ正直なことを申しますと、買ったというかツタヤで借りたんですね。買うまではないけど、MDにはダビングしたい。そんなアルバムです。
 
2003年12月12日(金)  あ、あれ嘘。
 
後悔と展望が葛藤する毎日。やはり僕は大切な人を失ってしまったんだと思う。プライドとプライド。彼女はあの日プライドを捨てた。僕は、それがどうしてもできなかった。後戻りはできないところまできて、彼女は許してくれると言っているのに、僕はそれを捨てられなかった。
 
ふと、仕事中に、ロッカーへ向かって、「あ、あれ嘘」と言ってしまいたい衝動に駆られる。馬鹿みたいだけど、僕はそれを堪えるのに必死で、今は、それを忘れるために仕事に没頭しているのかもしれない。
 
買ってしまったクリスマスプレゼント。誰にあげようか。彼女の趣味の、彼女の物になるべきだった物。誰にあげようか。散々悩んで、少し照れながら、包装してもらったプレゼント。誰にあげようか。誰が喜んでくれるかしら。
 
喜んでくれる人は一人しかいないとわかっているはずなのに、プライドがそれの邪魔をする。
 
別れたはずの彼女から、今日も短いメールが届く。何度も何度も、新着メールを問い合わせて、もう1通こないかな。もう1通書いてないかな。と、馬鹿らしいのはわかっているけど、自分で蒔いた種なんだけど、この矛盾した行為の中で、僕は一体何を思う。
 
キミは一体何を想う。
 
2003年12月11日(木)  咽喉、酒、堕落、信仰、バナナ。
 
風邪をひいてるんですけどね、おまけに休日なんだけど原稿書かなきゃいけなくて、本当は寝てるのが一番なんだけどね、朝早く目覚めてパソコンの前に座ってるけど、いかんせん風邪をひいてるからね、何も書けないのです。
 
仕事は一個仕上げました。この日記、鹿児島の方はどのくらい見てるんでしょうか。来月の、というか今月の月末に発売の『CROWD』の僕はいつものコラムのコーナーで女々しいことを書いているわけじゃないんですよ。なんと2度目の1P独占です。1P自由に使っていいですよと言われて大張り切りでした。皆さん買ってください。県外の人もどうにかして買ってください。
 
で、張り切り過ぎちゃったのか、風邪をひいちゃったのです。の、のどが、のどが痛い。のどぬーるスプレーと緑茶のど飴とビールを傍らに置いて、朝から飲んでいるのです。だってね、ほら、のどが痛いでしょ。扁桃腺が腫れてるのね。だからビールが染みるんですよ。のどに染みる。おまけに傷心の胸に沁みる。それがいいんです。
 
朝から酒を飲むフリーライター。なんだか堕落してるでしょ。太宰治みたいでしょ。坂口安吾みたいでしょ。酒を飲んだらなんか文章書けるかなぁと思って、結局朝から夕方までちびちび飲んでたんだけど、何も書けなくてソファーで眠ってしまって、チャイムの音で目覚めて、隣の中国の女の子が「信仰」についてのレポートを書いてください今日までにと言われたので、頭がぼんやりしてて何も書く気がしなかったけど信仰について書きました。
 
で、今日のお礼は何なのかしらと楽しみにしていたら、バナナ1房でした。猿かっつの。美味しかったけど。猿かっつの。
 
のどが痛い。別れた彼女と電話で話した。また胸が痛い。
 
2003年12月10日(水)  小茄子。
 
みんなあれだぜ。不況不況で今年のボーナスが心配だなぁなんて嘆いて何? 馬鹿? 日頃の勤務態度を不況の所為にするの? ゆくゆくはボーナス出ないのはイラクの所為だなんて言っちゃうわけ? 努力が足りないよ日本人は。欲しがりません勝つまではの精神は何処へやら。
 
僕? 出ないよ。11月に働き出して12月にボーナスもらおうだなんてムシがよすぎるよ。4月に仕事やめて10月まで雇用保険をがっぽり貰ったくせに、ボーナスまで下さいよなんて言えないよ。雇用保険もらってる間もこっそりバナナ工場とか営業の仕事してたくせにさ。女にも汚いが金にも汚いのですよ僕は。いや、女と金が汚いのかもしれないね。僕が汚されてるのかもしれないね。
 
さて、ボーナス。職場は朝からボーナスの話で持ちきりです。つまんなーい。
 
「ヨシミくんっ♪ 今日ボーナスだねっ♪ あ、あっ……ゴメン。ヨシミくんはまだ出ないんだね……」
 
ってとても悲しそうな顔をする看護婦さん。その表情が故意に作られたものであったら僕は殴ります。看護婦さんを殴ります。殴って殴って最後に抱きしめて愛してる! なんていい加減なことを叫んで抱きしめてボーナス半分戴きます。
 
ボーナスいいなぁ。もらいたいなぁ。仕事が終わってから看護婦さんたち帰るのチョー早い。あっという間にいなくなっちゃった。寒空の下、一人とぼとぼ帰っていたら、りそな銀行の看板が見えたので、わかっていながらも寄って残金確認してみたら、
 
ボーナス入ってた。
 
むふ。むふふ。いいのかな。帰りに読みたかった小説を2冊買って帰った。僕の欲望いまのところそれだけ。
 
2003年12月09日(火)  仕事の鬼と化しました。
 
仕事の鬼と化しました。人を愛することが上手くない僕は、せめて仕事だけでも愛してみようと思ったのです。なんでもします。面倒くさい仕事は全部僕に言って下さいと今日婦長さんに言ったらひどく感動していたので、期待を裏切らないよう僕は面倒臭い仕事を率先して頑張るつもりです。
 
原稿もいっぱい書きます。うちに帰ると別れた彼女のことばかり考えるので、その余地を与えぬよう、僕は筆を持ちます。絶対無理! っていう仕事の依頼も全部引き受けます。
 
某タウン情報誌1月号 特集に挿入されるコラム 12月15日〆切 1500字
某タウン情報誌2月号 連載コラム 12月25日〆切 1000字
某小説 ゴーストライター 短編執筆 1月15日〆切 18000字
某webマガジン コラム 1月15日〆切 1000〜3000字
 
今これだけの仕事を抱えています。毎日〆切のことを考えると、恋とか愛とか飯とか風呂とか考える暇がないのです。まだやります。まだ書きます。婦長さんから早速頼まれた面倒臭い仕事第1弾、医療安全対策についてのレポートも書きます。今週中に。隣の部屋の女の子に頼まれたレポートも書きます。これは、いつまでだったかな。たぶん明日までに。だから今から書きます。
 
仕事の鬼と化しました。誰一人僕に介在することができなくなりました。寂しいです。寂しいって言ってる割には自分を追い込んでばかり。もっと上手い具合に自分をコントロールしたいなぁ。
 
2003年12月08日(月)  彼女と別れてしまった。
 
彼女と別れてしまった。
 
別れてしまったなんて第三者の介在があるような書き方をしてしまったけれど「別れてしまった」ということは、仕方なく、仕方なくって書くと語弊が生じるけど、うーん、必要に迫られて? これも違う。別れたくなかったんだけど、これも誤解されやすいなぁ。なんというか、今じゃなくてもいいのに、そう、今月はクリスマスだってあるのに、先を見越して? これかな。先を見越して、別れてしまった。
 
今でも胸が痛い。失恋というものは、どうもいけない。僕の失恋の主症状は動悸。動悸が激しい。胸がドキドキして何も手につかなくなる。電話をしたいけど、別れてしまったのだし今までみたいに声を聞きたいときに声が聞けない。だけど胸が痛い。もう、なんていうか、お箸を握っただけで、トイレに座っただけで、足の爪を切るだけで涙が出る。
 
「どうしたの?」
「い、いや。なんでもないよ。なんで電話したんだろ僕」
「変なの」
「ごめんね。さようなら。元気で」
 
結局彼女に電話する。動悸が治まる。やった。身体が楽になった。シャワーを浴びてベッドに横になる。動悸がする。眠れない。白い天井を見るだけで涙が出る。
 
「寝る」
「うん。私も今から寝るわ」
「そう」
「おやすみ」
「おやすみ。さようなら。元気で」
 
結局彼女に電話する。動悸が治まる。やった。身体が楽になった。別れてもー好きな人ー。夢の中でも動悸がする。そしてやっぱり僕は泣いている。
 
彼女は、別れた彼女は、どんなときでも「言葉」が使える人だった。泣いてるときも叫んでるときも、的確な言葉を選ぶことができた。私はなぜ泣いてるのか、なぜ叫んでいるのか、その涙を言葉に変換することができた。
 
僕は、彼女が嫌いになったのではない。僕は、僕が嫌いになったのだ。彼女に何もしてあげられない。何も与えられない。仕事仕事仕事。うちに帰ると原稿原稿原稿。たまのきゅうじつは睡眠睡眠睡眠。この状況で声を大にして「キミを愛してる!」なんて都合のいいことは言えなかった。最初は言ってた。やがて悲しくなった。「愛してる」の言葉はただの言葉として独立し、「愛してる」の意味は終電の電車の中に置き忘れてしまった。
 
いつでも戻ってきて。
 
彼女はそう言ってくれる。だけど僕はもう戻れない。戻りたいけれど、僕はまた同じ過ちを繰り返してしまう。思い返してみると、僕はいつも同じ過ちを繰り返している。この日記を読み返しただけでもどれだけ恋の反省をしているのか。その反省は次の恋愛の課題になり、達成するための目標になり、実を結んだことがあったのか。ないだろう。いつも同じことばかりして動悸に襲われる結果になっているだろう。僕は、猿ではないだろうか。
 
彼女と別れてしまった。どうしよう。また一人になった。不安でいっぱいだけど、いますぐにでも逢いたいけど、頑張らないとね。南国育ちの僕に、東京の冬が越せるだろうか。
 
2003年12月07日(日)  終焉に近付く二人。
 
僕がいちばん駄目なところは、彼女を必要なときにしか彼女を必要にしないということで、必要じゃないときは必要じゃない。今から来てと言われても行かない。メール返信してと言われても返信しない。彼女が涙を流すと途端にオロオロして歩み寄る。涙が乾くと離れていく。
 
限りなく終焉に近付いている二人は、日曜日の夜に一体何を考えているのだろう。僕は夜が明けることを待っている。太陽の高くなるにつれて考えることは楽観視できるような気がする。彼女は何を考えているんだろう。また泣いているのかな。もう僕のことで泣くことなんて馬鹿馬鹿しいと気付いている頃かな。
 
彼女の言っていることは全て理解できる。間違ってることは一つも言っていない。彼女はワガママだからと自分を責めるけど、本当は気持ちを口に出して言わない人がいちばんワガママなんだ。
 
僕はワガママだと思う。彼女はそれに気付いていないようで気付いているようで、実は気付いていない。僕がどの程度の人間かということさえ気付いていない。電話で話すこと以外、会って手を繋いでいるとき以外、ベッドで肩を寄せ合い小声で話すこと以外、日記に書いていること以外の僕を知らない。
 
彼女は、僕が他人に無関心だということを気付いているのだろうか。誰と話しても誰と笑ってもそれは全て上辺だけ通って完結しているということを理解しているのだろうか。
 
彼女は、頭がいいので多分気付いていると思う。そして彼女なりに関心を寄せてもらおうと努力をしたと思う。僕もそれは痛いほど理解していた。痛いほど。
 
だけど結局駄目だった。この恋は限りなく終焉に近付いている。もしかしたら終焉を迎えているのかもしれない。僕だけが気付かないのかもしれない。彼女が見ない振りをしているかもしれない。
 
彼女を必要なときにしか必要としない。恋愛で、この法則に当てはまる者は全て終焉に近付く。恋愛は「個」ではないのだから、自分の中に「個」が占める割合が高くなるほど彼女の姿は霧に覆われ、やがて見えなくなっている。
 
霧の向こうで、彼女が手を振っている。もう手を振るその仕草しかわからない。やがてその仕草さえ見えなくなってしまうだろう。
 
そして僕はその姿を失う前に、自ら、瞳を閉じる。
 
2003年12月06日(土)  webカメラもらったよ。
 
とある女性からwebカメラというものをもらった。もらったというか強制的に送られてきたのである。「こ、これでテレビ電話ができるのよ!」とその女性はいたく興奮していた。
 
webカメラを設置する。どうやったらテレビ電話ができるのかわからない。その女性に電話する。「メ、メッセを起動させるのよ!」なぜか興奮しっぱなしである。
 
ヤフーメッセンジャーを起動させる。映像を見るというとこをクリック。あ、僕だ。僕が映ってるピースピース。お、れ、た、ち、TIMとかやってみる。その通りに映像が動く。当然である。その女性に電話する。「わ、わたしにも見せて!」不自然なくらい興奮している。
 
「わ、わー! 映った! あなたが映ったわよ! わたしも映ってるでしょ! ピースピース! ゲッツ! ゲッツ!」誰もやることは一緒である。
 
「で、これ、何?」
「で、って、テレビ電話よ」
「何? それだけ?」
「そうよ」
「え〜。普通の電話でいいじゃん」
「だ、だって相手が映ってるのよ。ほらわたし鼻ほじってるでしょ」
「いいよほじんなくて」
「見せたくないプライバシーまでこれでまるわかりなのよ!」
「見せたくなかったら見なけりゃいいじゃん」
「ダメ!」
「何がダメなんだよー」
「あなたそのカメラを一日中起動させといて!」
 
僕は躊躇せずヤフーメッセンジャーの右上にある×マークを押してウィンドウを閉じた。
 
2003年12月05日(金)  デキモノデキタ。
 
今日は朝から右の腋(わき)が痛くて、仕事中もあぁ腋が痛いなぁ。なんか動かすと痛むんだよなぁ。どうしたものかなぁなんて思っていたけど日曜出勤は看護婦さんが少なくてただでさえ忙しいので悠長に腋なんて触っている暇がない。
 
忙しい間は腋のことなんてすっかり忘れてるんだけど、ちょっと時間ができると、あ、僕そういえば腋が痛いんだった。痛い痛い。腋が痛い。すっかり忘れてた。忘れる程度の痛みじゃなくて痛みを忘れる程度の忙しさなんだよな。仕事忙しいよなぁ。あぁこれからあの患者さんに点滴うってからあっちの患者さんに浣腸しなくちゃいけないよ。あ、病棟日誌も書かなきゃならない。
 
なんて思ってるうちに脇の痛みも忘れてとうとう午後5時。仕事終わりました。更衣室へ続く階段を上る途中で、あ、腋痛い。と再び思い出す。もう仕事終わって忙しくないのでロッカー備え付けの鏡でちょいと右腋見てみようと鏡の前で右手挙上。
 
なんかデキモノできてる!
 
なんかデキモノできてました。なぜ腋に。でかいぞこれは。でかいといっても実際は直径1センチくらいなんだけど、腋にデキモノができるなんて話はあんまり聞いたことがないうえにその災難が僕に降りかかったショックでそのデキモノは直径3センチには見えた。しかも化膿しているいつの間に。
 
ちょっと潰したら膿がでてきた。
 
やだなぁ。汚いなぁ。書きながら自然に眉間に皺が寄る。腋に膿。ばっちぃなぁ。しかし膿も出たことだし、これで小さくなるだろうと楽観視して白衣を脱いで服を着て帰ろうと腕を動かしたところ激痛。
 
右腕を動かす度に腋が疼く。げぇ。死ぬかもな。だって死ぬほど痛いもんな。やだなぁ。こんなんで死にたくないなぁ。
 
「あ、あいつ死んだんだって」
「え、マジで? 原因は?」
「なんか腋が……」
「ワキ?」
「うん。腋がアレだったんだって……」
 
なんて会話がされるんだろうなぁ。だって腋だもの。そりゃ会話も抽象的になるよ。痛いよなぁ。
 
で、大発見。人間は学習し進化する生き物なのです。腋をちょっぴり開けば痛くない。結局腋にできたデキモノと胸側の方の皮膚と擦れる時に疼痛が発生するんだね。だからその摩擦を防げばいいってわけ。腋をちょっぴり開けば全然痛くなーい。
 
今日の帰り道、ずっと腋をちょっぴり開いて歩くという至極不自然な格好でうちまで帰った。
 
2003年12月04日(木)  隣の芝生は確実に青い。
 
女性と食事に行った際、レストランでもファーストフードでもカフェでもいい。女性は、必ずといっていいほど男性に訊ねる言葉がある。これを読んでいる女性の皆さん、よーく考えて下さい。
 
考えましたか? あなたは彼氏に何を訊ねますか。えっと、その状況をもう少し詳しく描写しましょう。たとえばレストラン。僕と彼女は二人掛けのテーブルに案内され、彼女を先に座らせて僕が後から座る。「寒いね」「えぇ寒いわね」「だけど店の中は暖かいね」「えぇ店の中は暖かいわ」と馬鹿のような会話をしていると、水とメニューが運ばれてくる。「お決まりになったらお呼び下さい」ウェイトレスは申し訳程度の笑顔をふりまき帰っていく。僕たちはそれぞれメニューを開く。しばしの沈黙。そして彼女は今日も僕に訊ねる。
 
わかりましたか? わかった人はわかりましたか。わからない人はわかりませんか。わかった人は挙手、もしくはメール。あ、メールは駄目です。返信が溜まっていて、それは借金のように返すことが遅くなる度に焦りやら罪悪感やらで、何がなんだかわからなくなって、よし、明日こそ返信するぞと決意するところがもう既に間違えているということを気付いて欲しい僕。「明日こそ」という決意がもう逃避しているではないか。なぜ今日返信しないのかと自問自答したところ「だって、ほら、今からお風呂入ってさ? なんかゆっくりしたいじゃん? 仕事だったんだしさ? いや明日も仕事なんだけど明後日は休みだし?」などと弁明にも弁解にもなっていない子供のような言い訳をしているので返信が溜まっているのです。
 
さぁ、文章が四方八方に飛んでしまいましたが、質問の答え、わかったでしょうか? 彼女がメニューを見ながら、ふとメニューを下ろして僕を見て話し掛けるその言葉を。テーブルの向かいに座っている彼女は必ずといっていいほど僕に言う。
 
「ねぇ、何にするの?」
 
僕は昔からこの言葉が理解できないのです。だって、例えばね、僕がサイコロステーキセットなんて頼んだとするでしょ。彼女はエビのグラタンでいいや。彼女は自分でメニューを見て決めたのです。エビのグラタン食べたいな、って。僕も自分でメニューを見て決めたんです。サイコロステーキ美味しそうだなぁって。
 
男の場合はそこで終わってしまう。サイコロステーキ食う! あとは出来上がりを待つだけ! ってね。おそらく女性は違うんじゃないかな。私エビグラタン食べる! いったい相手は何を食べるんだろ! 女性はこの食に対する好奇心が男性の倍くらい持っているのです。
 
「ねぇ、何にするの?」
「え? うん、サイコロステーキにしようかなぁって」
「え? そうなの? 私エビグラタンにしたんだけど最初サイコロステーキ頼もうって思ってたのよ。あぁ。私もサイコロスーキにしようかなぁ」
 
食事に関していえば、女性が座っているテーブルの隣の芝生は確実に青い。
 
2003年12月03日(水)  目覚めよイマジネーション。
 
とにかく問題なのは電車内の過ごし方であって、基本的には文庫本を読んで駅の到着を待つのだが、僕も終日本が読みたいというほどの読書家でもないので、読みたくないときは中吊り広告を読んで時間をやり過ごす。しかし中吊り広告もワケのわからないものや自分に関係のないものが多いのですぐ退屈してしまう。だからこの他にこの退屈な時間の過ごし方を早急に考えなければいけなかったので考えて実践した。
 
乗客一人一人に焦点を当て、その人々の様々なバックグランドを想像してストーリーを作るのである。想像力の鍛錬。物を書くことに一番重要なこの鍛錬をまさか電車内でできるとは。僕の目は輝いた。その輝く目は向かいに座るサラリーマンを見ていた。よれよれのスーツに濃い髭、うつろな目は何かを見ているようであり何も見てないようでもある。想像力の鍛錬。目覚めよイマジネーション。
 
「仕事帰りと見せかけて実は新宿都庁の下見に行った首都圏潜伏アルカイダ」
 
僕はニヤリと微笑む。そして戦慄する。首都圏潜伏アルカイダめ。お前のその遠くを見るような目の先は遥か遠い祖国があるんだな。
 
50代主婦。毛先が四方八方に飛んだワケのわからないパーマを掛け、フェンディの変な形のハンドバッグを持っている。足が太い。実に太い。ストッキングの上に赤い靴下を履いている。想像力の鍛錬。目覚めよイマジネーション。
 
「買い物しようと町まで出掛けたら財布を忘れた遠近両用おしゃれ眼鏡の日本女子大名誉教授」
 
僕はニヤリと微笑む。そして困った顔をする。名誉教授も財布を忘れるんだなぁ。愉快な名誉教授だなぁ。みんなが笑ってる。お日様も笑ってる。ルールルルルルー今日もいい加減。
 
女子高生。上はコートを羽織りマフラーをぐるぐる巻いて完璧な防寒装備をしているがスカートは阿呆のように短い本末転倒な頭隠して尻隠さず的な今時の女子高生。想像力の鍛錬。目覚めよイマジネーション。
 
「椎名林檎と同じくらい2次方程式が好きだけど超敏感肌で自分の肌に合った化粧水を日々探し続け、昨夜もスキンケアお試しセットを試してみたけどイマイチお肌に馴染まなかった悲劇的なくるみ割り人形」
 
僕はニヤリと微笑む。そして悲しい顔をする。可哀想だなぁ。敏感になっている肌はバリア機能が低下して菌バランスが崩れて悪玉菌が増加してるんだよなぁ。こんな綺麗な足してるけど肌は悪玉菌に侵されてるんだよなぁ。学習環境より肌環境を整える必要があるよなぁ。
 
若者。若い者。ファッションに関して言わせてもらえば黒いストレートのパンツの裾が若干短い。空色の靴下にアディダスの白いシューズ。バランスがバラバラである。熱心に何を読んでいるかと思えば少年ジャンプ。想像力の鍛錬。目覚めよイマジネーション。
 
「秋葉系と言われることに抵抗を感じるが自分でも否定できないと密かに思っている反面、妙な誇りをも感じている。好きなタイプは? と聞かれ、女子十二楽坊とひどく漠然的なことを言う秋葉系というよりえなり系18歳」
 
僕はニヤリと微笑む。そしてニヤリと微笑み続ける。電車の中は集約さらた人生劇場である。文庫本などに没頭している場合ではない。物書きを目指す者は今すぐペンを捨て、町へ出て、本を捨て、乗客を見よう。
 
2003年12月02日(火)  戦う目線。
 
仕事帰り、スーパーに立ち寄る折、毎日のように買い物カゴを取るか取らないか迷ってしまう。買う物はあるんだけど、そんなに多くはない。コンビニで済ませば間に合うんだけどスーパーの方が安い。買い物カゴを取るか否か。
 
僕が買いたいものは食パンとジャムと惣菜とインスタントコーヒー。手に持とうと思えば手に持てる量である。持ってみた。両手がいっぱいになった。僕を見る客の目線が「カゴ取れよ」と言っている。
 
カゴを取って入れてみる。食パンとジャムと惣菜とコーヒー。少ない。実に物足りない。ガキの買い物みたいじゃないか。僕を見る客の目線が「そのくらい自分で持てよ」と言っている。ちきしょう。だから買いたくないものまで棚から取ってしまい、買いたくないものといえば、必要だけど特に今買う必要はないもの。トイレハイターとかシュガースティックとかわさびとか。
 
お肉売り場で立ち止まり、やっぱトイレハイターいらないよなぁと返しに行く。そのあと、別に今夜刺身食うわけじゃないしなぁとわさびを返しに行く。カゴの中には食パンとジャムと惣菜とインスタントコーヒーとスティックシュガー。スティックシュガーはどこの棚にあったのか忘れたので結局そのままレジに持って行った。
 
レジのバイトらしき女の子。いつもこのコは爪が長い。僕の彼女だったら寝てる間に切るんだがなぁと思いながらそのコの指先を眺めているとそのコの目線は僕の顔を見ている。その目線は「このくらい自分で持てよ」と言っている。「そんな文句言うひまあったら爪切れよ」と言い返す僕の目線。
 
2003年12月01日(月)  寒さに耐えるか座れるか。
仕事でヘトヘトになった日や、帰りに駅前の居酒屋で一杯飲んだ日は電車に座って帰りたいけど、この線は夜も大抵混んでいて、座席に座って帰ることは容易なことではない。
 
吊り皮1本に全体重を預けて、あぁ僕の前に座ってる奴、次の駅で降りてくれたらチュッパチャップスでも御馳走するんだがなぁ。など考えながら結局僕が住んでる駅まで立ったまま帰ることが多々あるんだけど、今日はいつもより「どうしても座りたい度数」が高く、散々考えた挙句、そうだ。始発に乗ろう。始発ということは最初に乗る人がいちばん最初に乗る人だからいちばん最初に座れるんだよ。と、至極当然のことを今更ながらに思いつき、駅を5・6箇所逆走して始発が出る池袋に行って、一度改札を出て、また入りなおすというやらなくてもいい馬鹿みたいなことをやって始発の電車に乗ろうとしたら人がいっぱい並んでいる。
 
僕がこの半年間で学習した都会の知恵の一つに「始発で電車を待つ人は、その並んだ列の前から4番目までの人しか座れない」というものがある。
 
というのもこの列、一つの入り口あたり3列に並ぶのが通例になっていて、その前から5番目の列に並んだらその人の前には少なくとも12人の人が並んでいるということになる。しかも夕方のこの時間になると、皆疲れきった顔をしていて一刻も早く家に帰り風呂に入りFNS歌謡祭を見たいというような人達ばかりなので、如何としても座席に座ってやろうと、目だけは充血している。
 
その5番目に立った僕は、あぁ、乗れない。始発に乗るために池袋にやってきたのに、乗れない。この電車は諦めて次の始発を待ちたいけれど、10分は待たなければいけない。池袋の街に出たところで何もすることもないし、ご飯でも食べて帰りたいけど、今朝珍しく炊飯ジャーのタイマーを合わせて出勤したし、何よりも寒い。駅のホーム寒い。だけどあと10分待てば確実に座れる。
 
「寒い」と「座れる」を天秤に掛けて外気の冷たさに負けてしまった僕は、結局始発から僕の住んでいる駅まで、吊り皮に全体重を預けて帰ることになった。
 

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