2002年05月31日(金)  妥協点ミツケタ。
僕たちはいつ、どこでも、どんなときも、ある時点で、考えなければいけないことがある。
 
妥協。
 
それは波風立てずに人生を歩くコツ。
それは自らに不必要な負担をかけない秘訣。
それは自らの枠を型付ける過程。
それは自らの壁を塗り付ける憐れな作業。
 
そして、僕たちはその壁を越えることは決して許されない。
 
4年程前、看護婦の妹が親元を離れて就職する時に僕は便箋を買ってきて手紙を書いた。
 
「妥協しながら前を向いて歩くこと」
 
大きな便箋にそれだけ書いて妹に渡した。
妹はとても努力家で、生真面目で、僕の学力では到底無理な国立の看護学校を卒業したが、
時に、その性格が、その実直さが、そのプライドが仇となって
これから社会で起こりうるあらゆる不条理や不協和音や不適合に容易に挫折しそうな気がして
市立の専門学校出の僕が国立の専門学校出の妹に教えられることは
社会の盲点から襲ってくるあらゆる不条理に耐えるべく術だけだった。
 
妹は、今でもその手紙を大切にしていると言う。
厭なことがあったときは、
「なんだかよくわからないけど、とにかく妥協っていう言葉を思い出すようにしてる」と言う。
妹は、今日も、真っ直ぐに前を向いて、適度に妥協しながら、頑張って生きている。
そんな妹の姿を見て、僕が逆に教わったことは
 
適度に妥協する。ということ。
 
僕は専ら妥協だらけの人生で、明確な目的も目標も失ってしまって、
仕事も私生活も、非常に中途半端な場所に位置してしまい、
もう妹に何も教えられなくなってしまった。
全力で妥協し過ぎてしまった。
2002年05月30日(木)  卓球ムカツク。
卓球ムカツク。
 
職場の休憩室には卓球台が設置してあって、
僕達は仕事が終わるたびにラケットを握り、汚い汗を流す。
 
職場の卓球は厳格なランキング制で1つ上のランキングの人に勝たなければ
ランキング上位の人と対戦できないようになっている。
 
職場の看護士総勢11名。
僕の卓球ランキング(僕たちは略してタクランと呼んでいる)は11位。
いわゆる最下位。
1位にはなんと昨日の日記で唐揚げを落とした後輩が居座っている。
 
僕の1つ上のタクランに、リンゴさんが居座っている。
僕はこのリンゴさんに勝てない。
リンゴさんはいつも語尾に「リンゴ」をつけるのでそう呼ばれている。
例えば「お疲リンゴ」とか「今日は泊まリンゴ」とか。
リンゴさんはいわゆる「リンゴ語」を精一杯流行らそうとしているが
誰も「リンゴ語」を使わない。
リンゴさんは体重100キロを越えていて、体型もリンゴのような形をしている。
 
僕はこのリンゴさんに勝てない。
火曜日はバレーボール、水曜日はソフトボール、そして空いている日には水泳という
どちらかというとスポーツ万能型の僕も卓球だけは全く上達しない。
昨日も惨敗、今日も惨敗。僕のランキングは万年11位。
 
今年の4月に就職した新人看護士も今じゃランキング6位に輝いている。
ムカツク。卓球ムカツク。
 
僕たちはマッチポイントのことを略して「マッポ」と呼んでいるんだけど、
僕はこのかた「マッポ」と叫んだことがない。
みんなマッチポイントになると嬉しそうに「マッポ!!」と叫ぶ。
僕はこのかた「マッポ」と叫んだことがない。
 
負けるたびに「僕は、もう、引退します」なんて弱音を吐くのだけど誰も相手にしてくれない。
翌日に懲りずにリンゴさんに挑戦するのを皆知っているのだ。
 
1度でいいから、1度でいいから、「マッポ!!」と叫んでみたい。
叫んでみたいから部屋に帰って1人キッチンで「マッポ!!」と叫んでみたら
自殺したくなりました。
2002年05月29日(水)  ソース。
今日は休日だが、午後から大切な会議があるので徹夜で仕上げた大切な書類を持って職場へ行った。
 
早目に職場に到着してしまい、休憩室へ行くと後輩が弁当を食べていた。
 
「おつかれっっス!」
「やあ、お疲れさん」
「休日出勤っスか!大変っスねぇ!(モグモグ)」
「僕が休日の日に限って会議だもんなぁ」
「そんなもんっっス!(モグモグ)」
 
そんなもんっっス!とわかりきったようなことを言う後輩は一度も会議に出席したことがない。
 
「それ何スか?(モグモグ)」
「今日の会議で院長に提出する書類だよ。徹夜で仕上げたんだ」
「あ、この明太子、婦長さんのお土産っス。食べますか?(モグモグ)」
後輩は人の話を全然聞いていない。
おまけに僕は飯もないのに、明太子食べますかと問い掛けてくる。
 
「ちょっと見せて下さい(モグモグ)」
後輩は箸を右手に持って左手に書類を持って眺め始めた。
しきりに頷いたり「ほほぅ」など言ったりしていたが
「わけわかんねっス」
と僕が徹夜で仕上げた書類を一言で評価した。そして
 
「アッ!!!」
 
という叫びと共に、ソースまみれの唐揚げを書類に落とした。
僕は驚きとショックで愕然として声さえ出せなかった。
 
「先輩、すいませんっっス!あぁ!ティッシュティッシュ!!あぁ、落ちない!
先輩、すいませんっっス!すいませんっっス!!先輩、もうこの唐揚げ食えないっスかねぇ」
 
僕が他人に対して殺意を抱くなんてすごく珍しいことだ。
2002年05月28日(火)  受容と共感と否定と拒絶。
時々、患者さんから「亡くなった患者さんが歩いていた」というような内容の話を聞く。
 
今日もある患者さんから
「去年亡くなった患者が病院のグランドを1人で歩いていた」という話を聞いた。
僕はそういうとき、即座に否定などはせず、その時の状況の詳細を聞く。
それは何時くらいでしたか?
どんな格好をしてましたか?
どんな表情をしてましたか?
 
まあ、否定しようと思えば、いくらでも否定する要素はあると思うけど、
こういう話は、幻覚や妄想や痴呆を越えて、
超常現象の中の真実というものが少なからず存在すると思う。
 
その患者さんには見えて、患者さん以外の人に見えないのは、
厳密には真実といえないのかもしれないけど、
患者さん自身に関していえば、それは否定し難い真実なのだ。
 
それを医師や看護師が幻視とか妄想知覚とかアルツハイマーだとか
適当な憶測を立てて、決められた検査をして、予想していた結論に持っていって
A4サイズの小さなカルテに
はいキミは精神分裂病です。はいあなたはアルツハイマー型痴呆です。
なんて記入をして、はい治療者の方はこれから上記診断名のフィルターを通しつつ治療を行って下さい。
という指示が出て
 
「ハハ。それはね、幻聴っていうんだよ。そんなこと実際に聴こえてくるはずがないじゃないか」
 
なんて鼻からその患者の症状を否定しようとする。
1度貼られたレッテルは、なかなか外せない。
本人とかけ離れた場所で治療は進められ、副作用の出現で本人は治療されているという現実に気付く。
 
僕は患者さんに対して、そういうレッテルは貼らないようにしている。
そういうフィルター自体を無視することにしている。
患者さんが見えると言ったら見えるし、聞こえると言ったら聞こえると思う。
 
医療に従事する者が、医療を否定するようなことを言ったらいけないと思うけど、
患者さんの訴えを目線を合わせて聞くということが受容するということだと思うし、
見えないものを見ようと努力することが共感だと思う。
 
「で、亡くなった患者さんは何か言ってました?」
 
「はい。『寂しいよ』って」
2002年05月27日(月)  仰天した話。
突然、別れた彼女が部屋にやって来た。
彼女は長かった髪を肩の上辺りまで切っていた。
突然の来訪と、一変したヘアスタイルで、最初誰なのかまったくわからなかった。
 
「久し振り」
「うん・・・2週間振り」
別れてから2週間しか経っていなかった。
僕は付き合っていた頃と同じように膝の裏を掻きながら彼女を部屋へ招き入れた。
 
「どうしたのその髪。失恋でもした?」
僕は彼女に意地悪な質問をする。
「うん。とっても辛いやつを、ね」
彼女は痛々しい笑顔を浮かべる。
彼女の後ろ姿は以前の面影はまったく感じられなかった。
 
彼女は仕事道具のノートパソコンを持ってきていた。
「家じゃ落ち着いて仕事できないから」
という理由で僕の部屋に来たと言う。
僕は、落ち着く場所を求めて別れた彼氏の部屋のドアをノックする彼女の心境を考えてみたけど、
その答えはうまくまとまらなかった。
 
彼女が仕事を始めたので僕はシャワーを浴びてビールを飲んだ。
部屋でテレビのリモコンを探していると彼女は
「またソファーの下にあるんじゃないの?」
と言って、それは本当にソファーの下にあった。
タバコを探していると彼女は
「またズボンの中に入れたまんまなんでしょ」
と言って、それは本当に脱ぎ捨てたズボンの中に入れたままだった。
 
彼女は1時間程、パソコンに向かっていたけど、いつの間にか寝てしまって
0時をまわっても起きる気配を見せないので
僕は何度か声を掛けたり肩を揺すったりしたけどそれでも起きなくて
しばらくそのまま寝かせていたけど
1時をまわったら、さすがに起こさないといけないと思いだして
さっきより大きな声で呼んだり、強く肩を揺すったりしたけど
ショートカットの彼女はそれでも目を覚まそうとしなくて薄く目を開けて小さな声で
  
「あなたと付き合ってた頃は、いつも私がこうやってあなたを起こしていたのよ」
と言ったので
 
ビックリ仰天。
2002年05月26日(日)  判定士。
久し振りに薬局へ妊娠判定器を買いに行った。
 
「・・・アレが来ないの」その女性は受話器の向こうでか細い声でそう言った。
「あ、そうなんだ」僕はできるだけ平静を装った口調でそう言った。
「で、どのくらい?」
「予定日を2週間遅れてるの」
「ふぅん」僕はまるで人ごとのような返事をした。そしてそれは確実に人ごとだった。
 
看護学校の頃、クラスの女性に頼まれてよく妊娠判定器を買いに行った。
妊娠判定器を手に取ってレジに持っていくだけで僕はタバコを一箱貰えた。
僕のクラスメイトの男の友人もよく妊娠判定器を買ってくるように頼まれていたけど、
一度、その友人に頼んだ女性に陽性反応が出てしまって
それ以来、縁起が悪いという理由でその友人には誰も判定器を頼まなくなった。
友人にとっても僕にとっても迷惑な話だった。
 
「で、僕がまた学生の頃みたいに妊娠判定器を買いに行けばいいの?」
「そうなの。ゴメンね。行ってくれる?」
そういうことは彼氏に頼めばいいじゃないかと言おうとしたけど、
そういうことは彼氏に言えなくて2年振りに電話する過去のクラスメイトに頼んでいるのだ。
「わかった。今から行ってくる」
現代社会はとても便利になって、深夜でもコンビニにいけば判定器が買える。
 
近所のコンビニのレジには綺麗なお姉さんがいて
毎日レジの前に立つ度に少し胸がときめく(ときめく!)のだが、
今日は、その綺麗なお姉さんに妊娠判定器を見せることが後ろめたくて
僕は彼女を婚前に妊娠させるような男じゃないのに、
この男はろくに避妊もせずに彼女を悲しませている非道い男だ。
なんて思われたらどうしようというようなことばかり考えてしまって
ああクラスメイトの友人の彼氏の馬鹿。なんて変にイライラしてしまった。
 
――――
 
後日、友人から電話があった。
「よかった。陰性反応だったわ」
「そりゃあ、よかった」
僕の小さなコンビニの純愛と引き換えにされた陰性反応。
「今回は、タバコじゃなくてご飯でもおごってよ」
「あら、ご飯でいいの?」
友人はひどく御機嫌だ。
「ご飯以外何があるんだよ」
「今度は、あなたで陽性反応出してもいいかな、って」
友人は冗談で言ったつもりだろうけど、
変にドキドキしてしまって、そのあと冷や汗が出てきた。
2002年05月25日(土)  緑の席にて。
福岡に来ている。
小さなカプセルホテルの小さなカプセルの中で小さなノートパソコンを広げて
小さなサイトに掲載する小さな日記を書いている。
 
最近、僕にとってあまり好ましくない事が続いたので
列車の旅ぐらいは僕の意思で、僕の好きなようにしたいということで
少し高めのグリーン車の指定席を購入した。
 
特急「つばめ」のグリーン車は、飛行機の座席のようにゆったりとしていて
僕はこの用途がよくわからなかったのだけど、なぜかスリッパまで準備されていて
おまけに禁煙で、車掌さんは自由席や一般指定席に座る客より30度ほど深く頭を下げる。
 
鹿児島から福岡まで3〜4時間の長旅だけど、
この席ならさぞ快適な列車の旅になるだろうと思いきや
熊本辺りから出張らしき酔っ払った中年サラリーマンの2人組みが乗ってきて
電車から見える景色を見てはしゃぐ子供顔負けの大声で話をするものだから
これじゃ本末転倒じゃないか。と眉間に皺を寄せているうちに福岡に到着した。
 
ところで福岡の駅のホームで
『只今、お客様が目的地までの切符を間違わずに購入する運動をしております。
目的地までの切符は間違わずに購入して下さい』
という構内アナウンスが流れていた。
 
まったくおかしな運動だと思った。
2002年05月24日(金)  肝に命じて
恋人と別れたら写真は捨てるけど、ネガは残っている。
写真を捨てるときにネガまで捨てたらいいんだけど、そういう時はネガまで捨てようなんて頭が回らない。
 
というわけで、押入れの奥や、レターケースの中や、ソファーの下から
古いネガを引っ張り出して一斉に現像に出してみた。
数年前の思い出も、30分もすれば写真という形として僕の目の前に現れる。
 
どうして今頃、過去を持ち出して、アルバムを用意して一枚一枚整理を始めるのだろう?
 
後悔とか未練とかあまり感じなくて、浮き彫りにされるのは
過去と比較した現在の寂しさだけ。
写真に写っている過去のあらゆる笑顔と横で手を組んでいる女性を眺めて
どの彼女といるときも、幸せな時間は確実に存在したと認識することができる。
 
1つの恋が終わるときは、それはものすごいエネルギーを消費して
数日間あるいは数ヶ月間、ぐったりとした日々を送るのだけど、
そういう時は写真など撮らないので、
今、こうして僕の目の前に並んでいる過去の写真は全て幸せな時間だけを証明している。
 
みんな僕に見切りをつけて彼氏を見つけてしまったり、結婚してしまったり、
ばったりと連絡を絶ってしまった人たちだけど、
写真の笑顔は、その時の、その時間の、その瞬間の真実を語っている。
 
そう思っている事こそが未練っていうんじゃないかって人は言うかもしれない。
まぁ、こういうことをやっている限り、未来になんて進めないのかもしれない。
だけど過去にも戻れないわけで
ということは僕は今どこにいるんだ?という問題が出てきて
 
今僕は6畳1間の自分の部屋でお姉さん座りしてアルバムを整理しているという答えに結びつくんです。
 
最近の日記は、自分で読み返してもちっとも面白くありません。
荒唐無稽で支離滅裂で。
時々そういうサイクルがまわってくるのです。文章が書けないサイクルが。
今はそのサイクルの真っ只中にいるのです。
そういうサイクルの真っ只中に失恋やら合コンやら旅行が重なって、
何をしていいか全くわからなくなって
小さな混乱で頭の中が埋め尽くされて
 
昔の写真を現像するという実をいうと全く意味不明の行動をしたりするんです。
継続は力なりと言うけれど、
時に継続は、逆効果になるということを
 
肝に
 
命じて
2002年05月23日(木)  懐かしのラーメン。
3連休最後の日。
正午過ぎに起床して布団の中で「いいとも」を見て
それに飽きると頭元にあった小説を読んで
それにも飽きると布団に入ったまま最近撮った写真の整理をして
整理が終わるとプレステの野球ゲームをして
井川が松井にホームランを打たれたあたりからお腹が空いてきて
出前のピザでも頼もうと思ったけど
友人が最近ラーメン屋を始めたということを思い出して
歯を磨いて、顔を洗って、髭を剃って、少し出血したけれど
適当な洋服を着て、そのラーメン屋に向かった。
 
この友人の親は旅館を経営していて、友人自身は最近まで居酒屋を経営していたけど、
その居酒屋を従業員に任せて、自分でラーメン屋を建ててしまった。
最初は冗談かと思っていたけど、実物を見て驚いてしまった。
 
そういう背景からか、合コンではすごくモテる。
他の友人たちは危うくその友人の引き立て役になりかねない状況に陥るので精一杯の自己アピールをする。
僕はそういう自己アピールが苦手なのでそういう時は黙って酒を飲んでいる。
僕がいくら自分をアピールしたって敵わないものには敵わない。
無理に背伸びもしたくないので、最初から諦めている。
 
しかし、このラーメン屋、ドアが開かない。店内も真っ暗。営業中の看板さえ出ていない。
友人に電話。「おい、開いてないよ。潰れちゃったのですか」
「潰れてねぇよ」友人が店の窓から顔を出す。
 
「昼は2時までしかやってないんだよ」友人は皿を洗っていた。
「え?今何時?」僕はわざとらしくそう言う。
「『3時に会いましょう』が始まる時間」友人はぶっきらぼうにそう言ったけど、
今時『3時に会いましょう』だなんて。
「とりあえずラーメンの・・・高菜。高菜ラーメン」
「だからもう店閉めたって!」
「残念です。とても残念です。また来るね」
「おい!ちょっと待てよ」
 
友人はとても優しいので、僕を慌てて引き止めてラーメンを作ってくれた。
高校の頃、よくこの友人の家に寄り道して、腹が減ったと言っては
インスタントラーメンにしっかりと具を入れて作ってくれたことを思い出した。
 
「趣味を兼ねて実益を生む・・・か」
僕は懐かしい味のラーメンをすすりながらそう言った。
 
友人は汗をいっぱいかいてとても大変そうだったけど
男の僕から見ても、そういう姿は格好良かった。
2002年05月22日(水)  絶対幸せになれない
昨夜の食事は驚くほど美味くて、満足しながらビールを飲んで、友人たちに
 
「今まで付き合ってきた彼女に一人一人懺悔の電話をしなさい」
「あんたは恋愛する資格なんてない」
「絶対幸せになれない」
「それは確実に浮気」
「腐れてる」
「死ね」
 
なんてすごく非道いことを言われてすっかりへこんでしまって
おまけに阪神が巨人に負けてしまって
友人たちは再び温泉に行ってしまったけどさすがに僕は2度も入る元気もなく
お腹いっぱいになったのでフロントに料理を下げるように電話して
女中さんが下膳に来て
僕が料理を残したことが気に入らないらしく
「これは鴨肉なんだから食べなさい!」
なんて女中さんにも怒られる有様で
 
これは傷心旅行でも慰安旅行でもないですね。
 
と月を見上げて語りかけるしかすることがなく
早々布団に横たわって、仰向けになって枕に顔を沈めていたら
いつの間にか寝てしまって
目が覚めると、部屋はもう真っ暗で友人たちに時間を聞こうと思ったけど
隣でぐっすり眠っているので聞くに聞けず
真っ暗な天井を見上げながら
 
今何時なんだろう。温泉に行きたいけど物音で彼女たちが起きてしまったら怒られそうだし。
あ、そういえば前の彼女と温泉旅行に行く約束したまんまだった。
混浴のとこがいいななんて話してたっけ。朝食はちゃんとした和食がいい。
私がちゃんと起こすから大丈夫って。つい1ヶ月前に話したばっかりなのに
1ヵ月後には友人たちと温泉旅行。なんだか不思議だなぁ。
隣に寝ているのは彼女じゃなくて友人で温泉は混浴じゃないけど朝食は和食で今何時かわからない。
 
・・・今何時なんだろう。その前に僕は幸せになれるんだろうか。
2002年05月21日(火)  温泉郷から書く日記。
1日分の洋服と下着をバッグに詰め込む。
急遽決まった1泊2日の温泉旅行。僕と友人2人。
友人達は僕の傷心旅行と言うけど、僕はそういう風には思っていない。
ただ、ここ数日少し疲れ果ててしまったのでちょっとした養生に行くだけ。
 
失恋の傷はアルコールで綺麗に消毒されました。
 
片道3時間。車の運転は交代で、ということだったけど
結局というか案の定、僕が半分以上運転することになった。
僕は眠そうにハンドルを握って友人達は楽しそうに歌を唄っていた。
一通り歌い終ると、後部座席に座っている友人は白いハンカチを顔に掛けて眠ってしまった。
残された僕達はまるで死体を運搬しているようだった。
 
「ねぇ、どこに埋める?」
「やっぱ人目のつかない山の中でしょ」
「寝てないわよ!」
 
後部座席の友人は確実に寝ていたのに、そういう話はしっかり聞いていて
逆ギレして小言を言ってまた寝てしまった。
 
僕達が泊まる旅館は思いのほか綺麗で、
10畳の部屋を予約したのに12畳の和室へ案内されて嬉々揚々して
友人達は部屋を細かく点検して早速温泉に行ってしまい
部屋に残された僕は、
お茶を煎れてタバコを吸ったり中庭に出て庭園の風景をカメラに収めたりしていた。
 
1人で畳に大の字になって天井を眺めていると
部屋に女中さんが入ってきて「どちらの方が奥様ですか?」と夕食の支度をしながら訊ねる。
「違いますよ。2人とも友達です」僕は笑いながら答える。
「はぁ、そうなんですか」女中さんはそう言って笑い返したが、目は笑っていなかった。
 
2人が温泉から戻ってきて、その女中さんの話を伝えると
湯上がりの髪を解かしながら大声で笑って
 
「あんたと結婚なんてするもんですか」
 
と声を合わせて言った。
声を合わせてまでして言うことないと思った。
2002年05月20日(月)  最後の二塁打。
「お前はいったい今まで何してたんだ!!」
監督が怒鳴る。ソフトボールの試合前。中学校のグランド。
 
「失恋してました」
とだけ言って僕は素振りを始めた。
ここ数日、悠々とソフトボールの練習なんてできる状況ではなかった。
愛のキャッチボールに失敗して延々と酒を飲んでいたのだ。
だから今日の試合にも出るつもりはなかった。
 
後輩の携帯から監督が電話するまでは。
 
「お前は7番セカンド!わかったか!」
監督が怒鳴る。怒鳴らなくたってわかる。2塁を守って7番目に打てばいいのだ。
 
野球では7番バッターは『第2の4番』と言われてるらしいが、
そんなものは丁稚上げの建前で、下位打者ということには変わりない。
人より少し足が早いだけで監督はすぐ僕にバントのサインを出す。
バントすると全力疾走しなければいけないので、監督は好んでいるが、僕は嫌っている。
失恋して1塁まで全力疾走して何の得があるんだ。
あなたのコップは小さすぎると言われてチームに1点入って何の功名があるんだ。
 
というわけで2塁打。
バントのサインを無視してヒットを打ったので監督は複雑な表情。
チームの為になんて寛容な心は生憎今の僕は持ち合わせていない。
 
だけど結局今日のヒットは二塁打1本だけで、
あとの3打席は内野ゴロと凡フライとバント失敗。
しかもチームはランディー・ジョンソンのような中年オヤジピッチャーから1点も取れずに惨敗。
敗戦処理で後輩がマウンドに立つが、ワンアウトも取れずに交代。そして半べそ。
 
「肩暖めてないのにいきなりマウンドに上がれって言われたって無理ッスよ!」
試合帰りのマクドナルドで延々と後輩の言い訳を聞かされた。
 
僕は次の試合こそはホームランを打ってやるぞと意気込むこともなく、
もうソフトボールなんて辞めてしまおうと思った。
2002年05月19日(日)  ピッツァな事実。
衝撃的な告白をされました。愛の告白ではなく、ある事実に対する告白。
 
僕は衝撃的な告白をされることが実に多い。
この事実は、僕の鈍感さに裏付けされている。
大抵みんなが知っている事実を知るのは決まって一番最後。
 
僕は敏感な性格のように思われてるけど、
実はすごくマイペースで呑気で鈍感なのです。
彼女が別れ話をしていても、それが別れ話だってわからない有様なのです。
 
昔付き合っていた彼女が久し振りのメールで教えてくれました。
 
>もっと自分を大切に。そしてもっと周囲の動き、想い、変化に触角を反応させましょう。
 
数日前の失恋騒動で、アルコールまみれの不甲斐ない状況の時に届いたメール。
彼女は、いつだって的確にその状況を把握して酔いが醒めるようなメールを送ってくれます。
忘れかけていた頃に、突然。
 
彼女とは別れてしまって数ヶ月経つというのに、
僕の持っている触覚が退化しているということを知っていて救いの手を差し伸べてくれました。
もう会うことはないけれど、あのメールで救われた部分は、結構大きいのです。
 
しかし、今回もまた、周囲の動きに鈍感な僕は
衝撃的な告白をされて、寝耳に水をかけられたように驚いてしまって
事実を告げた本人さえも驚いてしまう有様だったけど、
 
その告白は、不幸な種類のものではなくて
とても幸せに満ちたものだったので
 
こういう鈍感さだったら、
いつまでも持ち続けていた方が、
喜びは倍以上になるんじゃないかしら。
 
と思ってみたりしているのです。
2002年05月18日(土)  説教喰らう。
「あなたは何でもハイハイハイハイ返事しすぎなのよ」
職場の事務のお姉さんに叱られた。
午後8時。1時間前に勤務時間は終わっているにも関わらず
1人事務室で、今日中に終わらなかった仕事をしている。
 
埃にまみれた何年も前のカルテを引っぱり出して
1人1人の患者のページを1枚1枚めくって、あるデータを収集しなければならない。
後輩に手伝うように頼んだけど「ちょっと着替えてきます」と言って
ちょっと着替えてそのまま帰ってしまった。
 
涙ぐんで仕事の続きをしていると事務室のドアが開いた。
後輩が帰ってきたと思い、目を輝かせて振り向くとそこには事務のお姉さんが
缶コーヒーを持って立っていた。
事務のお姉さんは、やっぱりね。という表情をしながら「やっぱりね」と言った。
 
「あなたは何でもハイハイハイハイ返事しすぎなのよ。
これ今日中に仕上げてくれる?ハイハイ。
これ明日までに持ってきてくれる?ハイハイ。
このデータの集計すぐに取ってきてくれる?ハイハイ。
あなたはね、そういう仕事も得意かもしれないけど、それ以前に看護師なのよ。
患者さんを看てナンボの仕事してるんでしょ。あなたは本職に誇りを持ってるの?
婦長さんの右腕と呼ばれて満足してるの?院長の秘書と呼ばれて胸を張ってるの?
カッコ悪い。あなたこれじゃ病院の歯車じゃない。職場の部品じゃない。
もっとね、イヤなものはイヤって言わないとダメよ。自分を犠牲にする意味なんて何もないんだから」
 
事務のお姉さんは息つく暇もないほどに僕に説教をして大きな溜息をついて
「で?私は何を手伝えばいいの?」
と、微小なる怒りと、多大なる優しさと、少しあきれた口調でそう言った。
 
半泣きの僕は
「これとこれとこれとこれとこれとこれのデータ取って下さい」
と怯えも遠慮も男気もなく言った。
 
事務のお姉さんはその仕事の最中もしきりにブツブツ言っていたが、
最後まで付き合ってくれて、見事に1日では無理かと思われたデータの集計を完成させた。
 
「あぁ、お腹空いたぁ」
事務のお姉さんはそう言いながらニヤリと笑う。
 
僕がおごらないわけにはいかなかった。
2002年05月17日(金)  男つて!
合コン!
というわけで今夜は再び合コンでした。
 
どうにかして意味のない時間を潰そうとしている僕の不甲斐なさ。
時間の使い方と現実逃避の方法を間違えている僕の無能さ。
 
でも、いいんです。
しばらくは即時的なもので満足するようにしたのです。
人生って結構即時的で形而的なものだけで生きていけるのかもしれないね。
 
というわけで即時的王様ゲーム。
というわけで形而的31ゲーム。
 
31ゲーム。最後に31を数えた人が負け。
酔っ払いに優しい単純なルール。
しかも敗者は、ゲームが始まる前に決めたモノマネをしなければいけない。
 
「28・29!!」
「・・・・・・31・・・・・」
「イェーイ!!」
 
こういうゲームってだいたい負ける人は固定されている。
僕の隣の隣に座っている大介(仮名)。こいつはこれで3度目のモノマネだ。
 
1度目は軽めで中尾彰。
「おまえ、それは違うだろ」と超低音で言ったけど全然似てなくて全員の失笑を買った。
 
2度目はなぜか財前直見。
「できねぇよ!」って叫んで、散々頭を悩ませた挙句、
「九州電話ツナガッタヨ!」とワケのわからないことを超高音で言ったけど
やはり全然似てなくて全員の失笑を買った。
 
3度目はアントニオ猪木の真似をする森本レオ。
「こりゃ、ひでぇよ!」って叫んで、散々頭を悩ませた挙句、顎を突き出して
「なんですか コノヤロォ」と囁くような口調で言ったけど
やはり全然似てなくて全員の失笑を買ってトイレに行ってしばらく戻ってこなくなった。
 
トイレから戻ってこない大介を後目に僕達は大はしゃぎ。
お目当てのコなんていないけど、
お目当てのコに終始ドキドキしながら酒を飲むよりは楽しい。
 
1人誰も入ない暗い部屋に帰って、冷えない冷蔵庫を開けて
ポカリスエットを飲む頃には
なんとも抗しがたい空しさに襲われてるんだけどね。
2002年05月16日(木)  可哀想な人の日記。
パソコンにもウィンドウズとマックがあるように
醤油にも薄口と甘口があるように
物事にも善と悪があるように
 
わがままにも2種類存在します。
 
1つは相手に依存するわがまま
1つは相手に依存しないわがまま
 
前者は彼氏(彼女)に要求することによって自分の意志や欲求を満たします。
後者は彼氏(彼女)とは別の場所で自分の意志や欲求を満たします。
 
これはどちらが良い悪いの問題ではなく、
その人物の傾向なのだから、仕様がないのです。
ウィンドウズを操作する人もいれば、マックを好む人もいるのです。
黒が好きな人もいれば、白が嫌いな人もいるのです。
 
僕は人に物事を委ねることが苦手なので
わがままに関しても必然的に後者に値します。
 
人に物事を委ねることができないならば恋愛なんてする資格はない
と思われがちなので
これから暫く、脳内の恋愛に関するシナプスを閉鎖しようと思います。
 
もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対。
なんて悠長に歌える日が来るまでとりあえず閉鎖。
そして明日は再び合コン。
 
暫く深追いせずに、上辺だけを歩いていきます。
 
上辺だけの恋愛ならば誰にも負けない自信があります。
2002年05月15日(水)  男つて。
合コン!!
今夜は合コンでした。
 
失恋して1週間も経っていないのに合コンとは不謹慎な気もしますが、
「部屋で酒びたしの生活なんてダサイことすんな」
と、友人の勧めもあり、しかしそれは建前で、
ただあと1人男側の人数が足りなくて、僕が人数合わせのために担ぎ出されたような形なだけであって、
無理矢理部屋から連れ出されたわけですが、
 
まぁ、部屋で酒びたしのダサイ生活というのも否定できないわけであって、
かといって初対面の女の子と楽しく話する気力も精力もないわけで、
かといって部屋で酒びたしはダサイわけで
かといって初対面は気を遣うのであって
 
という強力なジレンマに悩まされながら
肩を下げて重い足取りでバーの扉を開けた30分後には
 
王様ゲェ〜ム!!イェ〜イ!!
 
だなんて馬鹿。僕って馬鹿。初対面の女の子のホッペにチュウだなんて馬鹿。
僕はこの子の名前さえ知らない。
だいたい僕は合コンの最初の自己紹介なんて真面目に耳を傾けた記憶はない。
上目遣いで僕を見つめて電話番号教えてくれたけど、
こんな僕は失恋5日目。
部屋で酒に溺れてたって誰も責められはしない期間なのだ。
 
もう嫌だ。早く帰りたい。
早く帰って彼女と付き合ってた頃のメールを読みながら酒を飲んで涙するんだ。
それにこの隣の女子高生のような女の子は酒が入りすぎて饒舌すぎる。
ホッペにチュウだけじゃ、2人の距離は縮まらないよ。
「ねぇぇぇ、次どこ行くぅ〜?」
 
カラヲケ!!イェ〜イ!!
 
だなんて馬鹿。僕って馬鹿。っていうかやっぱ男!
可愛いいコに上目遣いされちゃ、いくら失恋後でも頭に血が昇るって話です。
「ねぇぇ、ミスチル歌ってよぉぉ」
よ〜し!キミが望むなら歌ってあげるよ!
『口笛』!?OK!これはつい先日別れた彼女が一番好きだった歌なんだ!
 
 
嗚呼!
2002年05月14日(火)  徐々に徐々に延々と。
夜10時。ビデオをレンタルしたいから付き合ってくれない?と友人が僕の部屋に来た。
 
「まぁ、きれい」
友人は僕の部屋を見て感嘆の声を挙げた。
久々の休日で、物思いに耽ること以外することがないので半ば強迫的に部屋の掃除をした。
必要じゃない物も必要な物もある程度処分した。
 
「引越しするの?」
「引越ししたい気分なだけ」
何処かへ消えてしまいたい気分なだけ。
ポロシャツとジーパンを履いて雨が降っているのに新品の靴を履いて友人の車に乗った。
夜10時なのに今日初めての外出。
 
「何か食べた?」
「今日、パン1個しか食べてない」
食欲がないからではなく、外出するのが面倒臭かっただけなのだ。
「どっか寄ってく?」
「ハローワークに寄って」
「馬鹿」
仕事が辛いからではなく、環境を変えたいだけなのだ。
 
「ねぇ、最近彼女とうまくいってるの?」
僕の様子を総括して、友人はそう尋ねた。
「終わってしまいました」
レンタルビデオを返却するような事務的な口調で僕はそう言った。
「そう」
レンタルビデオを物色するような口調で友人はそう言った。
 
「あなたはしばらく彼女なんて作らないほうがいいわ」
友人は『ムーラン・ルージュ』を手に取って言った。
「どうして?」
僕は『ブリジットジョーンズの日記』を棚に返しながら言った。
「あなたは、少し、難しい」
言葉の意味がよくわからなかった。少し、難しい?
 
「ねぇ、ビール買って帰ろう」
「いやよ、私は飲まないわよ」
「いいよ、一人で飲むから」最初からそのつもりなのだ。
「ねぇ、今度温泉行かない?」
「いいねぇ」
「いいでしょ。行こう行こう」
「行こう行こう」傷心旅行に。
2002年05月13日(月)  カレーはカレー。僕は僕。
思いがけず傷心の僕は、
こういう雨の日に濡れてしまった靴下を1日中履いているような日記をいつまでも書いているわけにもいかず
気持ちを切り替えて、何か気の効いた文章でも書きたいのだが、
こうして1人になってしまうと、時間ばかりを持て余してしまい、
余った時間をアルコールで埋めてしまうという典型的悪循環を繰り返している。
 
少し酔って、ただやみくもにキーボードを打っている。
これだけ飲むと、思考がとても浅くなって、文章なんて書けない。
 
思考が浅くなると、とても楽だ。
仕事→辛い
恋愛→辛い
カレーライス→辛い
全ての物事の答えが矢印一本で直結して、しかもその答えは単純だ。単純で悲観的。
 
こういう時って、人に相談するべきなのかもしれないけど、
僕は人に悩みなんて相談する方じゃないし、相談の仕方もわからない。
わからないからこうして1人で酒を飲んでいるんだけど。
 
数日前まで満杯になっていた僕のコップの中の水はもはや蒸発してしまって
その後、コップの中は涙で少し埋まって、
その上から多量のアルコールが注ぎ足された。
 
酒の力を借りて
 
全力で
 
現実逃避している僕に
 
持て余されている時間だけが、ゆっくりと付き合ってくれている。
2002年05月12日(日)  太古の空気。
また今回の恋愛もこういう結末を迎えてしまい、
世の中を嘆くのも自分を責めるのもいい加減飽きてしまって、
ただただ放心状態で、
深夜のキッチンに1人座って何度も冷蔵庫を開けて
酒はないかしら、ビールはないかしら、焼酎はないかしら、何でもいいから
 
記憶をなくすものはないかしら。
 
と、延々と眠れず、刻み続ける時計に焦りを感じていた。
 
冷蔵庫の中のビールもチュウハイも全部飲んでしまって、
いよいよ眠れない夜が訪れて、不眠の死神は僕の肩にそっと手をまわして
一夜を共にしようと耳元で囁くけど
 
死神の思惑通りに進むのは嫌だったし、何よりも明日は仕事なので
僕は意を決して死神の冷たい手を払いのけ、テーブルから立ち上がり、
キッチンの棚にインテリアのように置いてあったジンとブルーハワイを見つけ
少し迷ってから(というよりブルーハワイという気分ではなかったので)ジンを手に取り、
オンザロックにして、それを飲んだ。
 
ジンに混ざり合い小さな泡を立てるその氷は数日前、とある女性にもらった南極の氷。
この女性の御主人は南極の昭和基地で砕氷艦「しらせ」に乗っている。
 
この氷には小さな空気の粒が入っていて
グラスの中で氷が溶けるにつれその空気の粒が弾けて
長年閉じ込められていた太古の空気が時と場所を変え、家賃4万円のキッチンに広がる。
 
数万年前、南極では何が起こっていたかなんてわからないけど、
遥か彼方の南極の昭和基地の北北東のオングル海峡の氷山から採取された
太古の氷と空気は
 
安物のジンと混ざり合って、失恋した救い様のない男の部屋に広がる。
 
感傷的な気持ちと、台本に記されているような生活の繰り返しにうんざりして
僕にはアルコールが強すぎるオンザロックで胃の中が熱くなり、
これもアルコールのせいだと思うんだけど、
 
なぜか目頭まで熱くなった。
2002年05月11日(土)  コップ。
「あなたには毎日決められた数のコップがあるのよ」
僕と彼女はキッチンのテーブルに向かいあって座っていた。
午前0時。湿った生暖かい風が窓から入り込んでくる。
 
「あなたの恋愛観も、全部このコップの量で、決められてるの」
彼女は言葉を選びながら、ゆっくりと言った。
僕はうつむいて手にもったペットボトルを眺めていた。
 
「毎日毎日私はあなたのコップに水を注ぐの。好きよ。愛してるわ。って。
最初はあなたもそれで満足してるの。だからあなたもちゃんと言葉で返してくれるの。
好きだ。愛してるよ。って」
僕は大きく息を吸い込んで、それを吐き出さずに胸の中で消化した。
 
「だけどあなたのコップはとても小さいから、すぐ満杯になっちゃうの。
でも私はそれじゃ足りないから満杯になっても水を出しつづけるの。
好きよ。愛してるわ。ずっと一緒にいてね。って。
だけどあなたのコップは満杯になって、あなたはそれで満足してるの。
今日のコップは満杯になりました。それ以上は受け付けませんって」
僕はただ黙って俯いて、彼女の言葉の意味を噛み締めていた。
 
「だけど、わかってるんだけど・・・コップに入りきらないのはわかってるんだけど・・・
私はそれじゃ満足できないの。いっぱい水を吐き出したいの」
彼女は少し声を荒げる。長い前髪で顔が隠れる。鼻をすする音が聞こえる。
 
「あなたのコップに入りきらない水は溢れてしまって、周囲を濡らしていくの。
私の水は蛇口が壊れた水道の水みたいにあなたのコップに流れ続けるの。
水はどんどん流れていって、周囲はどんどん濡れていくの」
 
「・・・だけど、あなたは、自分のコップで満足してるあなたは、溢れ出した水に見向きもしない」
 
「それを・・・拭こうともしない」
 
わかってるけど、わかってるんだけど、と彼女は何度か呟いて、
やがて何も言わなくなって、長い前髪で隠された綺麗な瞳は
 
 
 
 
二度と僕の瞳と結ばれることなく
 
 
 
 
その恋は
静かに幕を降ろした。
 
 
 
 
ふと見渡すと、僕の周り一面、彼女が流しつづけた水で濡れていて
僕は、それに気付くのが遅すぎた。
2002年05月10日(金)  僕は悪くないので。
なんとも複雑な事態に陥ってしまった。
 
数日前、友人2人(男1人、女1人)と僕の3人で食事に行った。
複雑なので、友人男を裕一(仮名)。友人女を香織(仮名)とする。
 
裕一と香織と僕の3人はいつものように他愛のない話をしながら韓国料理を食べて
それぞれ帰るはずだった。
勘定を終え、香織を見送ったあと裕一が僕に耳打ちした。
「ちょっと協力してほしいことがあるんだ」
裕一が人に物を頼むなんて珍しい。
 
「今から俺と酒を飲みに行ったっていうことにしてくれないか?」
言葉の意味はすぐにわかった。
要するに裕一はこれから彼女に黙って、何処かへ行こうとしているのだ。
多分、浮気相手に会うのだろう。
裕一には祥子という彼女がいる。祥子の裕一に対する束縛は目を見張るものがある。
 
「いいよ、そのくらい」僕は安易に首を縦に振った。
 
そして裕一は夜の街へと消えて行き、僕は家に帰った。
風呂に入り、ソファーでうたた寝していると、部屋の電話が鳴った。
部屋の電話が鳴るのは珍しいので誰だろうと思いながら受話器を取った。
 
「・・・どうしてあなた家にいるの・・・裕一と一緒じゃないの・・・」
!!祥子だ。まさか部屋に電話するなんて。
「いや・・・あの・・・えと・・さ・・」
と言葉を濁しているうちに祥子は電話を切った。
 
厄介なことになってしまった。面倒臭いことに巻き込まれてしまった。
裕一のために事態をどうにかしようかと思ったけど、
裕一の浮気を応援する気などさらさらないし、何よりも眠たくて仕様がなかったので
僕はそのまま布団に潜り込んで寝てしまった。
 
翌日、裕一と会った。
「昨日はありがとう。祥子には全然バレずに済んだよ」
裕一はまだ祥子と会っていないらしい。
 
その夜、祥子と会った。
「ねぇ、昨日あなたの家に電話したこと裕一に黙っててくれない?」
祥子はまだ裕一と話をしていないらしい。
 
その夜、香織から電話があった。
「アンタと裕一、昨日私を見送ったあと飲みに行ったんでしょ!
どうして誘ってくれないのよ!」
 
・・・・
 
なんとも複雑な事態に陥ってしまった。
裕一の浮気を応援する気などさらさらないし、
祥子の嫉妬を助長させる気もさらさらないし、
香織に言い訳するのも面倒臭いし、
何よりも眠たくて仕様がないので
今日もそのまま布団に潜り込んで寝てしまおう。
2002年05月09日(木)  波長。
彼女は僕の少食を嫌う。
「私から食事を取ったら何も残らないわ。あなたも、残らない」
言っている意味がよくわからないけど、それだけ食事が大切だってことと
その言葉にアブの針程度の毒がこもっていることだけはわかった。
 
彼女は食事の時間をとても大切にする。
コンビニの弁当を買って、小説を読みながら食事をする僕の姿を怪訝な目で見る。
そして僕の食事の遅さに母親のような口調で小言を言う。
僕はいつまでもダラダラと食べているので少しの量で満腹になってしまう。
彼女はとうの先に自分の食器は片付けてしまって、
コーヒーを煎れて僕とテーブルをはさんで向い合って座り、
小説を読みながら食事をダラダラ食べる僕という媒介を通して何かを考えている。
 
彼女はドリアが好きで外食に行く度にドリアが美味しい店に連れて行ってくれる。
僕はドリアが好きでも嫌いでもないので、
彼女がこれまでの人生で養って培ってきたドリア論をいくら熱弁しても
ドリアの鉄皿ほどの熱も伝わってこない。
 
後輩がいくらパチンコの楽しさについて熱弁しても
先輩がいくら釣りの楽しさについて熱弁しても
適当な相槌を打つことと同じように。時には話の途中で欠伸をすることだってある。
 
僕が「3食食べたという『形』があればそれで十分なんです」と言うと
彼女は「つまらない人」と言う。
 
僕が「昨日の夜何食べたかなんて覚えてないよ」と言うと
彼女は「可哀想な人」と言う。
 
思わぬところで同情されたりすると、自分が、自分という存在が間違えているような気がして
とても惨めになる。
 
惨めにだけはなりたくないから、周囲と波長を合わせるんです。
キミとも、波長を、合わせるんです。
 
まだ雑音がいっぱい入るけど。
2002年05月08日(水)  肩書き落下。
休日。午前6時起床。6時30分に後輩とファミレスで待ち合わせ。
無味無臭のコーヒーとひとかけらの哲学もないトーストを食べて職場へ向かう。
7時30分職場に到着。
婦長さんと主任看護婦さんと看護婦さんと栄養士さんが笑顔で待っている。
 
今日は登山の日。貴重な休日に早起きして肉体を酷使して標高千数百メートルの山に昇る。
片道3時間かけて登山口に到着。
 
「絶対、木に昇らないように」
登山靴の紐を締めながら婦長さんが僕にそう釘を刺す。
僕は前回の登山で、5メートルほどの木に昇って、
大見得を切ったあと、バランスを崩して落下したのだ。
怪我こそなかったものの、樹海の中で婦長さんにこっぴどく叱られた。
「絶対、昇っちゃだめよ」
婦長さんがそう言ったので主任さんも僕にそう釘を刺す。
「大丈夫です!」山を照らす太陽のような笑顔で僕はそう応える。
 
登山開始。世間話をしながら登山道を歩く看護婦さんたち。
黙々と登山道を歩く栄養士さん。
「きついっっス!」「帰りたいっっス!」と愚痴をこぼしながら登山道を歩く後輩。
最後尾でチュッパチャップスを舐めて杖を振りまわしながら登山道を歩く僕。
 
昨夜雨が振ったので、思いのほか道はぬかるんでいて、
僕は2回滑って、後輩は1回しか滑らなかったけど、数メートルも下へ滑って
「ふりだしかよ!」などと意味不明なことを叫んでいた。
 
山頂で手作りの弁当とビールを飲んで、気分が良くなったので
婦長さんとの最初の約束も忘れて、下山途中、手頃な木をみつけて
とうとう僕はその木の枝に足を掛けた。
 
「婦長さん!先輩がまた木に登ってるっっス!」
僕のしている行動と、後輩のチクり方は小学生レベルだ。
「こらー!降りてきなさーい!置いて帰るわよー!」
婦長さんの怒り方は小学生の担任レベルだ。
 
今回登った木は前回より高い。高くて細い。幹も細けりゃ枝も細い。
細いから折れる。折れるから落ちる。
 
またもや落下。
 
前回は怪我はしなかったけど、今回は怪我をした。
左すね打撲とリュックの中のスナック菓子がペシャンコになった。
後輩またもや大笑い。
婦長さんまたもや大慌て。
 
「あなたはそんなことばかりやってるので主任から降格させますよ」
 
やけに現実的なことを言われたので痛さを忘れた。
2002年05月07日(火)  緻密。
生半可に器用だから仕事中にいろんな事を頼まれて、
嫌な顔一つせず、かといって後輩に当り散らすことなく、同僚に愚痴をこぼすことなく、
笑顔で、変に歪んだ笑顔で、
こんなもの朝飯前ですなんていう雰囲気を醸し出して、
朝飯前という言葉の妥当な時間の範囲内で仕事を終わらせて
 
「さすが主任!」と言われたり
「キミがいないと仕事が進まないよ」なんて褒められても
「いえいえ、そんなことないです」なんて謙遜ぶっている僕がいるんだけど、
 
ぶっちゃけた話
 
全て計算づくなんです。
 
自分自身の有効手段を良くも悪くも知っているんです。
物事を断ることができなければ自分が全て背負い込めばいい。
相手に委ねることができなければ自分が犠牲になればいい。
心を開くことができなければ自分の殻の中で動き回ればいい。
 
こんな風にして僕は生きてきたし、多分これからもずっとこうして生きていくだろう。
 
って思っていたけど、
僕の中の長年閉じたまま錆び付いていた心のシャッターを誰かがこじ開けようとしている!
歯を食いしばって、瞳を見据えて、涙を流して、シャッターを力の限り開けようとしている!
 
今夜、音を立てて、そのシャッターが少し開いて、暗闇に光が入った。
その光はとても眩しくて、なんだか恥かしくて、
目を逸らしてしまいそうになったけど、
 
キミの見据えた瞳は、一時も僕から逸らすことはなかった。
 
彼女は、僕の計算づくの計算の答えをある程度、僕に提示した。
これがあなたです。目を逸らさずに、しっかりと見つめなさい。
複雑であろうと思われた計算を、
彼女は暗い夜と淋しい朝と寡黙な電話と絶え間ない努力によって、見事に答えを出した。
 
教師でもある彼女は英語が得意だと言うけれど、
僕との付き合いと数学は、きっと、もっと、得意だと思った。
2002年05月06日(月)  続・罪悪感の欠片も。
昨日の続き。万引きのことを2日続けて書くことないじゃないかと思うかもしれないけど、
こういうことは本人が一番楽しんで書いているのだ。
 
昨日は、僕達5人組の万引き技をいくつか紹介したけど、この他にも
一般的な(こういう表現は語弊があるかもしれないけど)技がいくつか存在した。
 
【いけにえ】
いわゆるおとり。これはかわかみくんの役目だった。30円程度の駄菓子をレジに持って行って
店のおばちゃんと他愛のない話をしている間に僕達が駄菓子をくすねる。
 
【試食】
かなり大胆な技。これはソリコミ番長(あだ名)しかできなかった伝説の技。
その名の通り、その場で駄菓子を口に放り込むのだ。
ソリコミ番長は大人になるに従ってこの大胆さを失っていった。
 
【箱ギリ】
これもかなり大胆な技。たっぴー(あだ名)しかできなかった伝説の技。
単品で駄菓子をくすねるのではなく、箱単位で駄菓子を万引きするのだ。
たっぴーは平気でこんな大胆なことを突然するので僕達の英雄的存在だった。
ちなみに大人になったたっぴーのメールアドレスは”tappy@〜”である。
 
【道徳】
教科書を手に持って店に入り、教科書のページの間に薄い駄菓子を挟み込む。
駄菓子を挟みやすい教科書が道徳だったというのも今考えてみると皮肉な話だ。
 
しかし、小さいながらもプロ顔負けの技術を持っていた僕達万引き生活にも終焉が訪れる。
 
とある放課後、ソリコミ番長が言った。
「店に入るとチャイムがなるでしょ。あれってほふく前進しながら入るとチャイム鳴らないんだよ」
こともあろうことか僕達はそれを鵜呑みにしてしまった。
 
僕達5人は早速それを試した。そしてよく考えれば誰でもわかるように、
当然、ほふく前進してもチャイムが鳴った。
そして逃げ送れたソリコミ番長ともんどーとかわかみくんが店のおじさんに取り押さえられた。
足の遅いソリコミ番長はほふく前進の姿勢のままおじさんに踏みつけられた。
 
僕とたっぴーはバラの茂みに逃げ込んでバラのトゲで傷だらけになった。
僕達はかわかみくんの言う通りバチが当たって、
翌日学校で涙の担任が僕達を2回ずつビンタした。
 
僕達はまだ小学生だったけど、なぜか「退学」を恐れていたことを今でも忘れない。
当時は良心なんて存在しなかったし義務教育の意味さえわからなかった。
2002年05月05日(日)  罪悪感の欠片も。
今日は「子供の日」ということで、僕の幼少時代のことを書こうと思う。
数日前の日記で書いたけど、小学生時代、僕は近所でも有名な万引きグループの一員だった。

小学5年生。勉強もできなくて遅刻ばかりしてなぜか相撲だけは強かった僕達5人組は
放課後になると目を輝かせて、お目当ての店を物色していた。
 
教科書も筆箱も入っていないランドセルに僕達が入れるものといえば、
レジを通っていないプラモデルとビックリマンチョコだけだった。
小学5年生5人組。僕達は万引きに対するそれぞれの技を持っていた。
 
【西部劇】たっぴー(あだ名)の技。
万引きした駄菓子をライフルの弾のようにベルトに並んで挟む。
長くてダボダボのTシャツを着ていないとこの技は難しい。
たっぴー(あだ名)のお兄ちゃんは中学生でヤンキーで僕達の強い味方だった。
 
【じったまん】もんどー(あだ名)の技。
靴下を直す振りをして駄菓子を靴下の中に入れ込む。この技は短パンでは難しい。
僕達は靴下のことを「じった」と呼んでいたのでこの名前がついた。
もんどー(あだ名)は大学を中退して胃腸を悪くした。
 
【滝シャワー】ソリコミ番長(あだ名)の技。
店内で物を落とした振りをして下を向いてランドセルをわざとひっくり返す技。
店内の床に散乱したノートやエンピツを回収しながらどさくさに紛れて
近くのビックリマンチョコもランドセルに入れる。
滝やシャワーのようにランドセルの中身が落ちるのでこの名前がついた。
このソリコミ番長(あだ名)は関西に就職して「寂しいよ」と電話がきて行方不明になった。
 
【デカ靴】こっぱ(僕のあだ名)の技。
お母さんの手違いで僕は当時2センチも大きいサイズの靴を履いていた。
店内で靴を脱いで手に取った飴玉やガムを脱いだ靴の中に放り込む。
で、足の指を靴の中で曲げれば結構物が入る。この技が外見上一番ばれない。
 
【指示】かわかみくん(あだ名なし)の技。
かわかみくんは「いつかバチが当たる」とか言って、全く自分の手を汚そうとはしなかった。
でも一緒に店内に入って見張りやおとりをしてくれた。
かわかみくんは大手電気会社に就職したけど何かを内部告発してそれがバレてクビになった。
 
書いているうちに懐かしくなって、罪悪感でせき止められていた思い出が
決壊したダムの水のように流れ出したので、明日も続きを書こうと思う。
2002年05月04日(土)  試す。窺う。下り坂。
今日は何の日か解からない奴はゴールデンウィークを過ごす筋合いはないですよ。
と声を大にして言いたいけど、気が小さい僕は声まで小さいです。
勿論、器も小さいです。おまけに大器晩成タイプと信じて疑わなかった僕は
どうやら未完の大器のまま終わってしまいそうです。
 
最近、おぼろげながら天井が見えてきたのです。
あ、僕はもうこの辺だな。って。
窓から見える風景と明日からの天気と人生の折れ線グラフはもはや下り坂。
緩やかに下っていくだけです。
 
というわけで今後の僕の人生は「自分を過信」しない方向で。
過信すると空が曇って坂の角度が急になるのです。知ってました?
 
今年のゴールデンウィークの天気が悪いのも、
今月の携帯の通話料が上がっているのも、
それに基いて
彼女が僕に対して不信感を顕わにするようになったのも、
全て、天井が見えて下り坂を降りて自分を過信した結果なのです。
 
どうやら、彼女は、僕を、試しているようです。
試して、僕の様子を、窺おうとしています。
 
そりでも買って、一気に坂道を下ろうかしら。
2002年05月03日(金)  混沌。
衣類を一斉に処分した。
 
例えば去年の冬に袖を通さなかったコート。去年の夏に着なかったポロシャツ。
ゴムの伸びきったトランクス。悪趣味な色のTシャツ。
結婚式の時にしかつけないネクタイ。ベランダで行方不明になった片方の靴下。
流行遅れのハーフパンツ。ベースボールジャンバー。
襟が黄ばんだYシャツ。首がチクチクするハイネックセーター。
冬は寒くて夏は暑いサマーセーター。カーキ色の6ポケットパンツ。
昔の彼女に貰ったスーツ。真っ赤な襟付きベスト。ワイン色の革パンツ。等等。
 
90リットルのゴミ袋が2ついっぱいになって2個並んだ衣装ケースの1つが空っぽになった。
 
これから徐々に来たる日に備えて身辺の整理を始める。
壁に並んだ数々のフィギアはフリーマーケットかオークションで処分する。
統一性のない小説たちは、そのままにしておこう。
 
来たる日は、今年の夏かもしれないし、冬かもしれない。
来年の春かもしれないし、夏かもしれない。
どちらにしろ、僕の中で大きな変化が起きているのは確かだ。
周囲は何も変わらずに、今日なんて無表情な雨を延々と降らせているけど
来年の冬には、確実に、僕は、ここにいない。
 
地位も名誉も白衣も脱ぎ捨てて、何処か別の場所で、別の何かをしているはずだ。
このまま、この調子で、生きていくと、心の中の歪みや軋みや煩悩で、フリーズしてしまう。
強制終了してしまう前に、どこかで、僕を、僕自身を、再起動しなければならない。
 
今の生活に不平もないし、不満もない。
そりゃあ給料は少し寂しいし、部屋も狭いし、車の燃費も悪いけど、
そういう即時的な問題ではなく、もっと、僕の根底に渦巻いている混沌のようなものだ。
混沌という意味が曖昧ならば、もっとわかりやすい言葉で。
 
僕に渦巻く混沌。それは皆無に等しいゴールデンウィークへの不満!
 
嘘。
2002年05月02日(木)  憐れ!モンチッチ!
友人のしつこい(口語体ではウザい)勧めで、最近オープンしたばかりの美容院に行った。
 
いつの間にか髪の毛が肩まで伸びていて、職場では看護婦さんに三つ編みをしてもらって
ナースキャップをかぶって内股になって時には口紅を塗ってもらったりするという
道化を演じて家に帰って素に戻って深い溜息をつくという生活をしていたが
夏が近いということとシャンプーが面倒臭いということもあって
意を決してというか、割引券をもらっただけなんだけど、
そのオープンしたばかりの美容院のドアを開けた。
 
いつもは妹が働いている美容院で髪を切っているので、
他所の美容院は少し緊張する。
妹の美容院では「今日はどうする?」と言われて
「適当にいい感じにして」と言って適当にいい感じにしてくれるのだけど、
新しい店ではそうはいかない。
 
やれサイドは何センチだやれトップは何センチだといちいち細かい。
まあ、それが当然なんだけど。
 
そして完成モンチッチ。
 
もっと違う言葉で形容したかったけど、モンチッチ以外考えつかなかったし、
誰が見ても僕が言う前にモンチッチと言う。
多分、前髪だけが異常に短い所為だと思う。
ただでさえあまり社交的ではない僕が、荒廃した動物園のおサルさんのような髪型をして笑顔で町を歩けるわけがない。
 
というわけで5月の僕は引き篭もりモンチッチ。
憐れなサルは毎日6畳1間の檻の中でプレステをするんだ。
2002年05月01日(水)  本当の日本料理。
連休中も仕事ばかりで、つい心が歪んでしまって
数日前のハワイやキャンプの日記など書いてしまったが、
そんな僕たち悲しい医療職への慰めの意味を込めて、院長先生のご馳走で、
この辺りでは少し名のある料亭に連れて行ってもらった。
 
いくら給料を貰った直後でも、いくら綺麗な彼女と寄り添っていても
まず門をくぐることはないであろう佇まい。
高月給の院長先生だからこそなせる業。
僕と婦長さんと主任看護婦さん2人はすでに舌鼓を打つ準備は整っている。
 
院長先生は高月給だけど、僕のような若き主任は安月給。
雀の涙ほどの猫の額ほどの犬の肉球ほどの給料で、
高熱費を払って家賃を払って電話代を払って、はいおしまい。
そんな給料では、こんな料亭の門は敷居が高すぎる。
 
「なんでも食べていいよ」
 
なんて院長先生は言うけれど、メニューには松とか竹とか梅としか書いていない。
少し名のある料亭のメニュー表はいたって簡素だ。おまけに高い。
僕が料亭のイメージとしているエビスビールさえ置いていない。
「天然醸造麦芽酒」これが多分ビールのことなんだと思うけど、僕はキリン一番搾りで結構です。
 
座敷には聞こえるか聞こえないかの音量で、三味線が流れていて
この音色はこの座敷のどこから聞こえてくるんだろうと思ってスピーカーを探してみたけど、
座敷の端から端まで観察してみてもスピーカーらしきものは見当たらなかった。
もしかして僕の頭の中で、その三味線の音色は高級料亭のイメージとして聞こえてきているのかもしれない。
 
「天然醸造麦芽酒」という気の抜けたビールのような飲み物を
小さなコップで2杯飲み終わった頃に料理が次々に運ばれてきた。
清楚な和服姿の女将さんは、僕をまるで子供を見るような目でニコッと微笑んだ。
 
「どうぞごゆっくり。本当の日本料理の味と風情を味わって下さい」
 
なんてどこかのキャッチコピーのような事を言って静かにふすまを閉めた。
本当の日本料理が2万円も3万円もするのなら、僕は毎日マクドナルドでも構わないと思った。
 
しかし、女将さんが本当の日本料理と胸を張って言っただけはある料理。
日頃スーパーの惣菜かコンビニの弁当しか食べない僕は驚きを隠せない。
 
院長先生に高級料亭に連れていってもらって、2万円の日本料理に舌鼓を打って
明日への活力を補うというゴールデンウィークを過ごしてみたいけど僕は仕事です。

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