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2005年11月27日(日)
勇気とは

「勇気とは、恐れのないことではなく、恐れを乗り越える強さのことである」
とか言われても、「さようでござんすか、まことにおっしゃるとおり。いや分かる、分かるけれども、恐いものは恐い。」と、心の中の平民がのたまう。しかし最近、「勇気とは、恐れよりも大事なことがあると、知っていることである」という文言に接し、はたと合点がいった。前者の言い方では、目の前の巨大な恐怖の塊にピントが合ってしまって、「これに勝たなきゃ、心の強さが・・・」てな心境になり、力は湧いてこない。逃げたくなる。後者の言い方では、フォーカスは「大事なこと」に合う。それに意識を向けることで、目の前のものに立ち向かう力になる。単語の定義はいくつになっても変えられるものだ。そして言葉が生き方を変える力の一つにもなるだろう。『いい言葉はいい人生をつくる』という本が今とても売れていて、「ま、そうでござんしょう」と思う。パラパラとページをひやかしてみたが、そんなたいしたことは書いてない。ジェームス・アレンの『原因と結果の法則』を読んだときもそんな感じを覚えたが、冷やかしただけなので、ほんとすいません。「もう、そんなことはわかってますよ」、みたいな。エラソウに・・・。こんな暴言を吐いていてはいい人生が来ないのかもしれませんが、斉藤茂太もアレンも、認めに認められているベストセラー作家様なので気楽にものが言えます。

勇気と(男の子的な)高潔さ、これを私は『ジョジョの奇妙な冒険』から学びました。私はこの漫画が(第一部、二部、五部が特に)大好きであり、今コミック文庫で収集している。この漫画の登場人物は、悪者であろうといい者であろうと、自分の信念のもとに生き様をつらぬき、見せつけてくれている。そして、ゲス野郎は死ぬ(重要)。実際の世界ではゲス野郎もなかなか死なないので、その補償かもしれぬ。私はこの漫画が好きだ。「絵がどうもね〜」と言われようと、「わかる、その気持ちわかる、でも読んでみろよ。俺は好き」と言うことができる。まったく、女の子受けしない絵だ。しかし、大学時代「少女マンガみたいなうじうじした心理の駆け引きがなくて気持ちいい」と言ってた女の子がいて、俺はその子の事が好きになった。いやジョジョにだって心理の駆け引きはあるんだけど、なんつーか、最後は腹割ってケンカだ!みたいな(?)。それにほら、ゲス野郎は死ぬし!(重要)。うまく薦められている自信はありませんが、おっさんが『俺は白土三平の『カムイ伝』が好きだ!なぜなら云々!』とまくしたてているのと大差ないでしょう。私は白土三平についてなんらの知識もシンパシーも持ち合わせていませんが、そのおっさんの話を聞いて「さいでっか」と思い、完全に流しながらも、そのおっさんのことを認めるでしょう。ある人物がある対象について自信もって好きだ!と言ってるのならば、私が何を言うところのものでありましょうか。俺はおっさんリスペクトだぜ!

しかし実際勇気が求められる場面というのは、何も魔物があらわれて戦う、とかじゃなくて、「あ、感謝してるってこと伝えなきゃ・・・」とか、「一言謝らなきゃ」みたいな日常のささいな場面ではないでしょうか。そのときにおっくうさや気恥ずかしさや気まずさを乗り越えてでも得たい「大事なこと」、それをしたことにより起こる結果に想像力を向けて現実のものにする。その実行力が、勇気なんだよなと、思う。世の中ってのは、いろんなことが可能であってしまうような気が誇大妄想気味にしているんだが、求めれば与えられんな可能性は、恐いぜ。果実をもぎ取れば食えてしまうのに食わないでいる、手足縮こまり感。手足を伸ばせば自分の正確なリーチも知れようものを。(世界と)ボクシングやるには、その知識は必要不可欠だ。で、そのリーチは、縮こめている今よりは予想外に広いんではなかろうか、と、ちょい自信過剰な俺。予想外に短かったときの落胆を防ぐのも、この恐怖という安楽毛布の甘い罠ですよね。ですよね。



2005年11月25日(金)
裏切り

私は浮気をした経験があるのです。そもそも私は大学時代はじめて女性と交際を持ちました。向こうにとっても私がはじめての交際相手でした。学生のこわっぱ同士の付き合いでしたが、本気でした。丸3年近く付き合い、もろもろの理由から、私たちは別れました。それまでも幾度かの危機がありそれを乗り越えてきたのですが、最後はもう修復のしようがありませんでした。原因はお互いにあり、今となっては自分の非も認められるのですが、当時は相手を責め、互いにぐさぐさに傷つけ合う最悪の別れ方をしました。その2ヵ月後私は他の女性と付き合いはじめました。すっきりさわやかに幾分自暴自棄に、ほとんど無理やりに新しい彼女を自分の腕に引き寄せたような気がします。乱れる想いの矢印を断ち切って、結果心を痛める人が友人を含め幾人かいると分かっていて、それでも私は選んだ。利己の心に従った。私は新しい彼女のことが好きでした。善良でやさしい娘でした。人に勝つのは甘い。親友を痛めつける苦しい甘さ。今私は書きながら吐きそうです。そして、すべて望むままに手に入れたかに見える幸せを、私は粗末に扱った。私は浮気をしたのです。相手は別れた元の彼女でした。私はまだ彼女を愛していた。憎み、なじって軽蔑した人間を愛していました。私が彼女と別れて一番深かったダメージは、彼女がもっとも行動を共にし、話をし合った友人であり、その存在を失ったことでした。私はそれが懐かしかった。つかの間の触れ合い、そこにもはや本当の信頼は失われていると知りつつ、行ったセックスの衝動と快楽の苦さ。不遜な、暴力的な悦び。相手を殴るようにして私は愉しんだように思います。周囲の目に隠れて私はそれを繰り返した。人を裏切ることの、喩えようのない甘美な味。自分がドラマの中に入ったような、いつか見つかるのではないかという恐れと思い上がった快感が入り混じった感情。自己憐憫。結局そのようなことは明るみになり、私は全て失いました。私は気持ちの悪い、軽蔑すべきことを行いました。釈明の余地はありません。しかし、開き直りではなく、私はその時々で本気でした。私は私に従い、受け取るべきものを受けとった。後悔はありません。後悔はありませんが、自分の行為のもたらす結果を、重く考えるべきときがあることを知りました。私は新しい彼女のことが好きで、彼女のことを愛そうと努めました。(そう私は愛を努めようとしていたのです)それが彼女を傷つける結果になってしまいました。彼女にとって私のことなどもう既にくだらない過去のことになってしまっているのかもしれません(そうであったほうが気が楽になります)が、私は彼女をのことを忘れないでしょう。
あれから長いブランクの末、私は今再び、新しい人を得ました。私は彼女を幸せにしたいと願います。今まで好きだった誰よりも幸せに。
―こうして書いて過去に決着が付く訳でも清算ができる訳でもないと思うのですが、とりあえず私は今、このことを書いておきたかったのです。