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2004年09月05日(日)
僕にはもう、言いたいことがないんだ。

と言ってみる。

筆ではなく、指を折ったからもうタイプできない。
僕はくだらない生活をしている。



店には、いろんなお客が来る。
ハンセン氏病の人も、車椅子の人も、やたらに話しかけてくる人もいる。
僕は普通に接する。普通以上に丁寧にかもしれない。
彼らはお客だから。「良かった、探してたんだ。」とう一言は、うれしい。
アダルトだろうがボーイズラブだろうが美少女だろうが、どんなジャンルも軽蔑しない。彼らはお客だから。
金を払ってくれるお客はいいお客である。
自分の趣味で発注するスタッフは軽蔑する。

確率の問題で商品は揃える。完全なデータであり金太郎飴な売り場だ。
何が欲しいかわからない客にはランキングを示す。


小さな虫かカエルが地面にいて、僕と近くにいた何人かもそれを認識していた。
僕はふとそれを思いっきり踏み付けた。
マネをした。実はその数センチ横にそれていたのだけど、そこにいた女の子からは僕の足のほうが手前になっていたので、あたかも本当に踏んだように見えた。ハッと小さな声を上げて口を押さえた。僕はそれを狙っていたのだろうか。笑って足をずらし、生きていることを示した。
女の子はほっとしたように笑ったけれども、僕はそのときけっこうな年で、なぜそんな小学生のいたずらガキのようなマネをしたのかわからない。



2005年05月26日(木)
FU・SI・GI

真夜中に、こうこうと照り明かるコンビニの前に車を停め、しばし立ち尽くし、ふいにしゃがみこみ、アスファルトに、ひったりと触れる。てのひらに伝わるアスファルトのでこぼこ。つめたさ。そのまま十数秒。この世にいる不思議。『二人がここにいる不思議』レイ・ブラッドベリ。
『FU・SI・GI』と書いてみて、どこかで見たなと検索してみる。
ナンバーガールの『NUM-HEAVYMETALLIC』の8曲目だった。goo音楽のレビューがおもしろい。
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向井秀徳(vo&g)、田渕ひさ子(g)、中尾憲太郎(b)、アヒト・イナザワ(dr)から成る、魂のロック・バンド。97年、1stアルバム『SCHOOL GIRL BYE BYE』を地元・九州のインディー・レーベルよりリリースする。テレヴィジョン、ハスカー・ドゥ、ピクシーズといった、USニューウェイヴ/パンク〜オルタナティヴ・ギター・バンドへのオマージュが爆裂したサウンド、そして何よりも、向井による屈折型ロック男特有の焦燥感、切なさを増幅させた詞世界が素晴らしい。99年にシングル「透明少女」にてメジャー・デビュー。そして同年発表のアルバム『スクールガール・ディストーショナル・アディクト』にてコアなロック・ファンのツボを刺激しまくり、トリコにしていった。田渕による攻撃型ソリッド・ギターと、それを迎撃する向井のディストーション・ギターが織りなす絶妙なコンビネーション、野良牛のごとく粗暴で骨太なリズム隊がもたらす猛烈なグルーヴ、そしてメガネ男の魂の叫び--それらが融合し怒涛の音空間を構築するのだ。02年4月には、メジャー3枚目となるアルバム『NUM-HEAVYMETALLIC』をドロップするが……同年11月30日、札幌でのライヴをもって惜しまれつつ解散。
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僕はナンバーガールは好きです。好きなものを紹介するのはむずかしいものです。しかしどこが一番好きなのか、と聞かれたら・・・上に書いてますね。ギターの美しさ、ドラムのビート、あと、メガネ男の叫び。胸にささってきます。
一般受けするのかと言われればそうじゃない気がしますが。ぱっと聴きで良さが掴める種類のものと、そうじゃないものがある。良さのしずくというか、すごく好きだ、と思ってるものって漠然とした全体像の中から抽出した好きなエッセンスを集めて言ってるのじゃないでしょうか。だからどの曲が一番好きだとか選べない。DVD「ナンバーガール」をおすすめします。副音声もおもしろい。「BRUTAL NUNBERGIRL」とか「INUZINI」とか、CDよりライブのほうがいいなあ。

ロックという音楽ジャンル自体、興味のない人がいて、それはそれでかまわないのだけど、僕は一時期音楽にプロテクトされていて、ロックがなければおそらく生きていられなかった。楽器を弾くとか、ライブで騒ぐとかじゃなく、一人で、部屋でヘッドホンで、車で、ギターとドラムとベースがまわりを囲んで壊してくれなければ、生きていられなかった。だからロック音楽というものに、すごく感謝している。



2005年07月31日(日)
占い

占いというのは、信じる。雑誌の後ろに載っているものや、細木数子なんかは知らんが、古いジプシーに起源を発するというコーヒーカップの底のしみ占いなんかは、なにかある気がする。つまり、世界というのは重層的であってひとつの時間空間に、実は知覚できないいろんな相があらわれている。というか、単層といってもいいのだけど、ハチの目が見る世界と人間の見る世界と放射能測定器の見る世界とはちがったふうにとらえられるわけです。

私が今朝飲んだコーヒー及びカップには、私及び私をとりまく環境運命、つまり風、同じ風がふいている。その風向きを知らせてくれる旗のような役割が、様々なささいなものにある。別にコーヒーカップのしみでなくてもなんでもいいのかもしれない。

空気は目に見えないけれども、雲があることで空気の流れが目に見える。そのように、身の回りを流れている目に見えない運命の風、流れを、目に見せてくれるもの。その徴を読み解くのが、占い師としての能力の高さなのではないか。どれだけ受信能力の高いアンテナを持っていて、高解像度のカメラをもっているか。それに増して尊いのは、経験則。膨大なデータでしょう。ある事象とある事象の対応の記録、蓄積。洋の東西を問わず、占術というのはけっこうな学問になっています。

ここまで書いておきながら俺は占いなんてだいたい信じませんが、「風」の存在はあるんじゃないかと思っています。読み取れないだけで。読める人がいないだけで。



2005年09月26日(月)

こんな夢を見た。
で始まる漱石の「夢十夜」は好き。特に最初の白い花の話はうつくしい。

だからというわけじゃないが、今朝見た夢が印象的だったので書きとめておく。

私は小学校高学年くらいの男の子で、祖父は死んでいる。(実際の祖父ももう亡くなっているが)。山の中の広めの池が水が干上がりかけている。その池は代々守ってきたもので、水がなくなるのは縁起が良くない。祖父の供養の為にも水を足さなくてはいけない。私は干上がりかけて現われた池の底のに下りて足跡をつけたりしてたしなめられる。私は水をくんでくるように言われ山に向かう。やっぱりおまえだけじゃ不安だから従兄弟と兄をつけてやると後ろのほうで父が言う声がするが、私は信用されず頼りにされてないことが気に障り悔しくてならない。追いついてくる前に走り出す。山の渓流に沿って上流に向かえば水を汲めるところがあると聞いていたが、夢の中の私は一目散に山道を走り、それは川の下流に向かっている(夢の中の私も、夢を見ている私もそのときは気付かない)。走りに走っていると、妙な街に出る。黄土色のフィルターレンズをかけたように空気が染まって見える。標識を読むと、地区の名は西の音と書いて「にしね」という。古い蔵の前に男の子と女の子が唐突にいて私は驚く。男と子と女の子は何か話していなくなってしまった。私は少し歩いて、川を見おろす(もう川は河口近くでゆるやかで広い流れになっている。川べりは古いレンガばりになっていて、幅は20メートルくらい、水面から壁の上までは4・5メートルくらいある)。私は下流に向かって走ってきたのだと気付き、(なぜか)川を泳いで上流へと戻ろうとする。川の壁面には風変わりな彩色がされていたり、不気味な絵が描かれている。その街の建物もそんな感じだった。川の中には藻がただよっているらしく私は腰のあたりにそれが絡みつくのを嫌いながらも上をめざす。途中で女物の等身大の人形が流れに引っかかっている。私はその手をとってなぜか子細に見た。人形の手だった。次第に川は山の中に入り、沢の音がして水も透明になり、流れも早くなりだした。私はそこで川からあがったのだろう、意識が薄くなるところに従兄弟や兄が「こっちに来てたのか」と探しに向かってくるのを感じる。私は気がつくと実家の二階の部屋に寝ている。父も心配して横にいる。祖父もいる。夢の中の私は不思議に思わない。−このあたりで夢を見ている私は、これは夢だな、なんて思って目が覚めかけている。祖父はいつの間にか消えたりしていて、あれ、祖父って死んだ設定じゃなかったっけ、なんて思ってもう夢のストーリーには戻れなかった。−それにしても、あの西音という街は不思議だった。



2005年09月27日(火)
人生とは何か

この間、仕事帰りにファミレスで一人夕食を食いながら、食後にコーヒー頼みつつ本を読んだ。たまにこういう時間の使い方をする。

『人生をプロジェクトマネジメントしよう』というビジネス書だ。参考になる部分もありならない部分もあるが、そのなかの単元に「生と死の価値を知る」というものがあった。全体の中ではわずかな部分だが以下に見出しをあげる。

 ◎生と死の価値を知る
  ○生きる意味を見出す
   ・「愛する人を幸福にしたい」
   ・人の幸福を目指しながら、自らが成長しよう
  ○「死」から「生」を考える
   ・死は突然訪れるものである
   ・いつ別れても悔いを残さないように、人と接してみよう
   ・「自分の命は明日までかもしれない」と考えて行動してみよう
   ・死があるからこそ、生きていることに価値があると考えよう

僕は「生」というものへの興味が、なぜかつきまとって離れない。命とは何か。こんなことを科学や哲学の立場からいろいろとこねくりまわしていじっている。

物理の面からいえば、人体は元素から構成されていて、遺伝子は伝え残していくという性質を持っている。社会的に見れば、人は、親から生まれ、育てられ、人間社会の中で生活してゆく。
遺伝子の立場で言えば、子孫を残せばもう人生の目的は達した、生きた意味はあったといえるだろう。しかし、生まれてすぐに死んでしまった子どもには、どんな生きる意味があったのだろう。なぜ子どもは死んでしまったのだろう。私は考えた。ファミレスで考えた。

その結果、仮に出た答えが、「深い穴」。いのちの波というものが、何億年も続いている。うねりながら。物質の運動が影響を及ぼしあって複雑な流れをつくっている。沈む動きもあれば押し上げる動きもある。岩にあたれば砕けるし、穴に落ちれば吸い込まれる。こういった穴が、リアルに存在するのではないか。不条理でも、そこにあってしまったもの。

さて、こういう条件の場に放り出されたわれわれは、どうすればいいのか。僕が考え、思ったのは、やはり、「幸せになろう」、ということだった。不条理は身を潜めている。それでも、その居る場所から、幸せを望み、はなつこと。自分を光らせること。幸せなら、それに意味があろうがなかろうが、関係ない。何をもって幸せとするか。それがこれからの人の課題だ。人を幸福にすることが、自分を幸福にすることに繋がる。その思想がポピュラーになれば。(本書でも触れられていますが、一方が100%の満足を主張するのではなく、お互いの満足度の総和が最大限になる解を探る、というWin-Winの視点がヒントではなかろうか。)いつ死んでも悔いがないように、死と生に目覚めていたい。どんな遺伝子も究極的にいつかは無となるのやもしれぬ。それでも自分が受けとったコレ、この生を良いものにしたいと考える。それが自分の得だから。



2005年10月02日(日)
羽生善治

羽生善治の「決断力」を買う。今とても売れている本だ。「とても」ってどのくらいだ、数量で示せ、と上司に言われるので言うと、先週の紀伊国屋新書ランキングで第4位、うちのグループ店では過去一週の売上げ合計が15冊(そんなでもなかったな・・・)という具合に売れている。
「決断力」というおっさん好みのタイトルが販売数を伸ばしているのかもしれないが、タイトルや見出しは編集が勝手に付けたっぽい。おれ自身「決断力」がどうのと言われて買ったわけではないが、読みかじったら単純に、羽生かっけー、と思ってしまった。(今、バカっぽい書き方してる気がする。)天才羽生の人間的な焦りや不安が垣間見られると、そういうもんかと思わず読ませられてしまった。文章も普通で読みやすい。俺みたいな素人文章にも誰か編集が芝刈りしてくれないもんか。しかし「将棋にかぎらず、考える力というのはそういうものだろう。何事であれ、一直線に進むものではない。私は、将棋を通して、そういう人間の本質に迫ることができればいいな、と思っている」「完成は、どの部分がプラスに働くというのではなく、読書をしたり、音楽を聴いたり、将棋界以外の人と会ったり・・・という様々な刺激によって総合的に研ぎ澄まされていくものだと思っている」というような言葉を読むと、一つのものを追求することで人間が練られているんだなと思わされる。職人の世界でもこういうことがありそうだ。羽生なんて中学生でプロ棋士になってろくに一般社会には触れていないはずだ。そういう世界にいるからこそ、積極的に人間的な成長を意識しないといけないってことなんだろうか。



2005年10月03日(月)
soul,spirit.

私自身は死後の世界などない、ただ、生者死者に関わらず「念」を残す機構はこの世にあるのではないかと思っている。「呪怨」なんかは派手に飾り付けたフィクションであると思うが、もっとナチュラルな不吉な場ってのはある気がする。最近、江原啓之や美輪明宏をはじめとして「スピリチュアル」な本が売れている。「ソウルメイト」を題に冠したものも多く出回っている。果たして魂とはあるのか。生まれ変わりはあるのか。彼女(同じ書店員)と話していて「生きがいの創造」というタイトルが出たので検索してみると、そのweb版みたいなページがあった。私はその本を読んだことがなかったが、この書き方はちょっとおもしろかった。福島大学経済学部助教授の飯田史彦という人が書いた本で、確かにけっこう売れてた記憶がある。ビジネス書定番の中にも入ってたはずだ。(説明しよう。「定番」とは取次会社のシステムで、一冊売れたら一冊発注がかかり自動的に補充される基本在庫商品群のことである。)一部を引用する。

--------------------(長い引用)------------------------

 なお、本稿では、いわゆる霊能者や宗教家、民間のセラピスト(治療家)やジャーナリスト(報道関係者や評論家)、あるいは文化人や芸能人が書いた文献は、一切取り上げない。それらの著作の中にも、読み物として優れたものがあることは否定しないが、あくまでも学術的かつ客観的な立場を守るために、名の通った大学の教官、博士号を持つ研究者や臨床医の研究のみから引用し、一般人の体験者自らが本名で記した具体的記録を若干加えながら構成する。しかも、決してそれらの研究を盲信するわけではなく、信頼度が低いと判断される文献や、実証的でなく主義主張の水準にとどまっている文献は、たとえ興味深い内容であっても容赦なく排除した。

 また、私は家族も含めていかなる宗教にも帰依しておらず、正月には神社に詣で、盆には寺に参り、クリスマスにはツリーを飾る、典型的な「雑宗教」の日本人として生活している。ある時に個人的な超常体験に遭遇して以来、いわゆる「魂」の存在は具体的な実感として認識しており、本稿も「魂」たちの強い勧めに勇気づけられて記すものであるが、私自身や本稿の内容は、いかなる宗教団体とも全く関係がないことを重ねて強調しておきたい。


第1節「死後の生命」と「生まれ変わり」に関する実証的研究の系譜

 人間の死後存続に関する科学的研究は、大きく2通りに分けることができる。第一に、「物理的肉体を失った後にも、意識(いわゆる魂)として存在し続けること」を研究する場合。そして第二に、「物理的肉体を失った後にも意識(魂)として存在し、再び肉体を持って生まれ変わってくること」を研究する場合である。前者は「死後の生命」に関する研究であり、後者は「生まれ変わり」、あるいは仏教的観念を借りて「輪廻転生」と呼ばれるものに関する研究である。厳密には、研究者によって観点や姿勢が異なっているが、本稿の目的はそれらの相違を整理することではない。むしろ、「観点や姿勢が異なるにも関わらず、数多くの研究者達から同様の研究成果が報告されている」という興味深い事実に着目するため、混乱を避けて、上記2分類の紹介にとどめておきたい。

 これらの研究は、19世紀以前にも、いわゆる幽霊や死者との通信などの研究として行われており、中には説得力を持つものも見受けられるが、往々にして、宗教的動機や通俗的興味と結びつきがちであった。私が見るところ、宗教的動機や通俗的興味を持たない純粋な学術研究であり、しかも客観的データの蓄積と分析という科学的方法論を伴う研究は、臨床医学の領域から始められたと言ってよい。それが数多くの研究者へと拡がり、真に実証性を高めてきたのは過去10年から20年くらいの間であるが、その端緒は、前世紀の終わりにまでさかのぼる。

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書き味がよいよね。文体がすばらしく、理系の文章ですが私には良質の「読み物」に思えます。このスタンスでかかれると、たとえフィクションでさえレポートに思えてくるから不思議。このレポートがフィクションであるとはいってませんが。そういえば幻冬舎文庫ででている「廃用身」という小説も、ノンフィクションの形を借りたエンタテインメントとして、途中まで気付かずにだまされていたという人もいたくらいのものでした。その作品、随所にグロテスクな趣味もうかがえますが私は引き込まれて読みました。「ラストが見え見え」というレビューもあったけど、ミステリー・推理ものを普段まったく読まない私にとっては十分衝撃的でかつ重い余韻が残った作品でした。

魂及び生まれ変わりの有無に関しては、まだまだ資料を読む段階で判断は保留の状態です。勉強勉強。