2003年10月29日(水)  日米合作映画『Jenifa』完成試写

映画『Jenifa』に関わるようになったのは、今年1月。プロデューサーの佐々木亜希子さんから電話があり、日本にホームステイするアメリカ人の女の子の話なんだけど…と相談されたのが、きっかけだった。以前、『パコダテ人』の前田哲監督に紹介されたときに留学経験があると話したのを覚えていてくれたのだった。原案者のJennifer Holmesを交えて話を聞き、シノプシスにアドバイスするうちに脚本を書くことになった。

ジェニファが日本で一年を過ごしたのは16才のとき。わたしは同じ16の年にアメリカで一年を過ごした。そのときに感じた驚きや喜びや、今も消えない記憶がよりどころになった。肌の色も言葉も違う他人の家に家族の顔をして一緒に暮らすホームステイというのは、なんとも不思議な体験で、ホームステイする本人もされる側の家族も互いに「変化」を迫られる。目をそむけていたものに直面させられ、後回しにしていたものが急かされ、当たり前だと思っていたことが通用しなくなり、信じていたものが揺らぐ。「ホームステイする外国人」という異物を受け入れることで、なんとなく流れていた日常がかき回され、新しい形になる。ばらけていたものがまとまる場合もあるし、微妙なバランスが崩れることもある。Jenifaのストーリーは決定稿になるまでに何度も設定が変わったけれど、ジェニファが「再生」をもたらす流れは変わっていない。どこかでボタンをかけ違えたままの夫婦、不完全燃焼の娘、傷ついた少年……彼らのもとに何の前触れもなくやってきた赤毛の女の子・ジェニファが、わだかまりやくすぶりを少しずつ溶かし、大切なもの(=愛)に気づかせる。

五反田イマジカで関係者試写があった。決定稿から撮影稿を経て、さらに現場での変更も加わっているので、脚本を書いた本人にもいろんな発見がある。脚本通りに撮っている部分は、「ああ、こんな絵になるんだ」、脚本になかった台詞やシーンは、「なるほど」。頭の中にある脚本と見比べながら鑑賞するので、最初の試写には味わうという余裕がない。役者さんたちは、それぞれはまっていた。荒木隆志(荒木という苗字はunluckyからの連想でつけた)役の山田孝之さんは、難しい役をよく自分のものにしていた。台詞の外にある台詞を表情で表現する力のある人と思った。モノローグ形式のナレーションも印象に残った。『パコダテ人』で調査団長役だった田中要次さんが檀家役で出演。郁代役の浅見れいなさんは、のびのびと演じていて魅力的。ジェニファと郁代のシーンを見るのは楽しかった。郁代はミシンが得意でリメイクワンピを作るのだけど、その設定をうまく活かして「再生」のメッセージにつなげていた三枝監督の演出がうれしかった。最後のほうに、脚本にはなかった、とても好きなシーン(風景)があった。出口で三枝健起監督に「やられました」と言ったら、「前日に思いついたんだよ」と照れていた。

2002年10月29日(火)  『風の絨毯』ワールドプレミア


2003年10月19日(日)  100年前の日本語を聴く〜江戸東京日和

100年前の日本語を聴く」というポスターに興味をそそられ、江戸東京博物館へ。パリ万博の際に世界各国から集まった人の声を録音したものを公開する試み。スクリーンに映し出されたレジュメをもとに研究学者の方が解説をし、それに添って録音を再生していく形で、言語学学会を聴講させてもらっているようなアカデミックな内容だった。

「パリ万博で人気を博した日本の五重塔が六重塔になっていたのは、フランスでは1階を0階と数えるから、5階建ての塔を作ろうとして6階になったのでは」といった興味深い話も聞けた。百年前、緊張してマイクに向かった人達の声を今の日本で聞く不思議。大昔のように感じるけど、言っていることはちゃんとわかる。タイムマシンに乗って百年前の人に会うことがあっても、話は通じるぞ。パリ人類学協会の厚意により、ネット上で一部公開されているので、興味のある方はこちらの下のほうにある「パリ録音(1900)の見本」をクリック。

ついでに企画展「東京流行生活展(11/16まで)」をのぞいたら、これがまた食べるものと着るものが大好きなわたしのハートを鷲づかみ。

竹久夢ニの小説「恋愛秘話」(1923 大正13年)の一節《昔は、見そめる、思ひそめる、思ひなやむ、こがれる、まよふ、おもひ死ぬ、等等の言葉があった。今は一つしかない。「I LOVE YOU」》にしびれたり、考古学ならぬ考現学を提唱し、今を生きる人々が何を身に付けどのように行動したかを観察し、まとめ上げた今和次郎(こん・わじろう)という学者を知ったり(この人の描いた「銀座のカフェーwaitress服飾特集」や「丸ビルモダンガール散歩コース」などのスケッチは、「散歩の達人」にそのまま使えそうな今っぽさと味がある)、昭和40年代の大東京土産「空気の缶詰」に印刷された「汚れた空気の缶詰 田舎では得られない珍品」のコピーに吹き出したり、昭和47年に康康・蘭蘭が来た頃のパンダブームの頃のぬいぐるみを見て、「わたしも持ってたー」と懐かしくなったり、一人百面相をしながら大正から昭和を駆け抜ける。

映像ホールでは昔の映像を無料公開。昭和30年代に作られたという東京の最新観光事情をまとめたフィルム。当時の東京観光の人気ベスト5は「皇居 東京タワー 羽田空港 霞ヶ関ビル 浅草」。「交通ラッシュも高速道路も観光対象」だったらしい。観光とは日常を離れた体験をすることなので、東京の人にとっての観光は「前衛演劇」であり、そこで「芝居よりも若者の風俗を見ていた」そうな。うーん、あなどれない奥深さ。江戸東京博物館はかなり遊べるぞ。着物体験なんてのもやっていた。

夜は駒込にある旧古河庭園へ。秋バラの季節で10/1〜19の10日間だけ夜のライトアップを行っている。足を踏み入れたのは初めてだったが、洋館とイギリス風の庭園と日本庭園が共存する夢のような場所で、行き交う人々の表情もどことなくうっとり。外国の庭を歩いているような夢見心地を味わう。特設テントではビーフシチューの前に行列。グラスワインを売っているのも気が利いている。期間中の土日だけコンサートを行っていて、今夜はマリンバの合奏。軽やかな音色のハーモニーが広い庭を満たした。今年は江戸開府400年。歴史のある街に住むのは面白い。

2002年10月19日(土)  カラダで観る映画『WILD NIGHTS』


2003年10月15日(水)  このごろの「悲しいとき」

黒いスーツに身を包み、真顔でファイティングポーズのまま「悲しいとき……」と身の回りにあるトホホな出来事を淡々と訴える二人組『いつもここから』。彼らのネタを聞いていると、悲劇と喜劇は背中合わせだなあと身につまされる。取り返しのつかない惨劇は別だけど、本人が「悲惨だったよー」と半分笑って振り返れるぐらいの災難は、同情よりも笑いを誘う。わたしの場合、受けを狙ってギャグを言っても無視されるか叱られるのがオチなのに、わが身にふりかかった悲しい話はやたらと受ける。というわけで、今日は、「最近の悲しいとき」特集。

【悲しいとき1 地震で胸だけ揺れなかったとき】
先日東京で震度4の地震があり、職場の高層ビルにいたわたしは入社以来最大の揺れに震え上がった。その夜、ダンナに「怖かったー」と報告すると、「それでも揺れなかったんでしょ、君の胸は」。なんせ低層ですから……。

【悲しいとき2 お化粧したら病人にされたとき】
貧血のため会社を午前半休。回復したので午後になって出社すると、同僚たちが「大丈夫? やっぱり顔色悪いよ」。血の気が戻るまでの間、ヒマなので珍しくしっかりお化粧しただけなのに……。

【悲しいとき3 しおれたポインセチアと一緒にされたとき】
職場の窓辺に置いたポインセチアがしおれていた。水はあげてるのになぁ、と男性社員たちが首を傾げていたので、「霧吹きをしたら元気になるよ」と教えると、「そっか、空気が乾燥してるのかぁ」と納得、感心される。調子に乗って「ほら、わたしもどんどんしおれてるでしょ」とボケてみると、「なるほど」と納得されてしまった。そんなことないよ、と軽く突っ込んで欲しかったのだけど、霧吹きが必要なのはポンンセチアよりわたしだったか……。

この手の話は同情を煽れば煽るほど、聞き手の笑いのツボを刺激して,ドツボにはまる。それもまた悲しい。


2003年10月12日(日)  脚本家・勝目貴久氏を悼む

■「おじさんが亡くなりました」と友人のカツメからメール。「おじさん」とは、脚本家の勝目貴久(かつめ・たかひさ 本名吉彦=よしひこ)氏のこと。姪の友人(つまりわたし)が脚本を書いていることを聞き、「だったらシナリオ作家協会に入ったほうがいいよ」とすすめ、入会の際の推薦人を引き受けてくださった恩人だ。脚本家としては、新人映画シナリオコンクール(1990年より新人シナリオコンクール)の第6回(1956年)に「血友家族」で当選を受賞。第5回までは佳作または選外佳作受賞者しか出ていないので、コンクール初の当選だったようだ。「うなぎとり」(1957) 「素敵な野郎」(1960) 「情熱の花」(1960) 「小父さんありがとう」(1961) 「太陽を射るもの」(1961) 「山男の歌」(1962) 「われら人間家族」(1966) 「ともだち」(1974) 「アフリカの鳥」(1975) 「四年三組のはた」(1976) 「新どぶ川学級」(1976) 「残照」(1978) 「お母さんのつうしんぼ」(1980) 「仔鹿物語」(1991) 「小さな仲間」などの映画のほか、テレビドラマも多数手がけられていた。享年69才。3か月前にお会いしたときの元気な姿が記憶に新しいので、訃報はあまりに突然だった。■「おじさんをいまいに紹介するまで実はあまり交流がなく、『幻の叔父』だったんだけど、いまいの事で(シナリオ協会に入る時とか)電話を掛けてきてくれたり手紙をくれたりして、身近な人になったの」とカツメのメールには書いてあった。シナリオ作家協会に入ってからは、姪の彼女よりもわたしのほうが勝目氏と頻繁に会い、言葉を交わす機会に恵まれていた。とても面倒見のいい方で、協会の集まりでお会いすると、知り合いのいないわたしにせっせと人を紹介し、「姪の友人で、将来有望なライターなんですよ」と持ち上げてくださった。カツメにもわたしのことをうれしそうに話してくれていたのだという。カツメのメールは続く。「いまいの記事が載っていた月刊シナリオ(だっけ)を郵送してくれたお礼を延ばし延ばしにしていて(なおかつおじさんはその事を気にしていて)結局お礼が言えなかった…後悔」。わたしも勝目氏に期待されたり心配されたりしながら、何にも応えられないままのお別れとなってしまった。いつも「どうやったら日本の脚本家の質と地位が向上するか」を真剣に考え、「今井さんも自分のことだけじゃなくて、後に続く脚本家のことを考えてほしい」とおっしゃっていた大先輩。わたしのうれしいニュースを一緒に喜び、悔しい出来事にはわたし以上に怒ってくれた心やさしい人。そんな風に仲間や後輩と関わりあえる脚本家になりたいと思う。カツメのおじさん、ご冥福をお祈りします。

2002年10月12日(土)  『銀のくじゃく』『隣のベッド』『心は孤独なアトム』


2003年10月11日(土)  わたしを刺激してください

■「わたしを刺激してください」。三年前、わたしが初対面の年上の男性に言った台詞である。言った本人は覚えていなかったが、言われたほうは衝撃的な一言としてしっかり胸に刻んでいた。「いきなり面白いことを言う人だなあとびっくりしましたよ」と先日その方に言われ、こちらこそびっくりするやら恥ずかしいやら。彼、Y先生とは放送文化基金主催のアットホームなパーティーで知りあった。小児精神科医であり、テレビドラマにアドバイスをされることもあると紹介された。ウェルニッケ脳症という記憶障害を扱ったラジオドラマで放送文化基金賞を取ったばかりのわたしは「医学のことをもっと知りたい!」という好奇心と「まだまだ書くぞ!」という意気込みのあまり、思わずそんな刺激的な言葉を口走ってしまったのだろう。■普通は鼻息の荒い駆け出し脚本家の言葉など受け流してしまうのではないだろうか。Y先生がすごいのは、「これは期待に応えて刺激しなくては」と行動に移したところ。パーティーの数日後には本のぎっしり詰まった紙袋を両手に提げて現れた。ハンセン病や福祉関連のものが中心で、夭逝画家の話と詩集が数冊。どれも手に取ったことのない本ばかりだった。読み終えると、ドサッと新聞の切り抜きファイルが届いた。「自分が持っているより、あなたが持っているほうが役に立つでしょう」と。昭和4年生まれの先生の同世代の方々も次々と紹介していただき、一挙に70才代の知人が増えた。浅草サンバカーニバルの生写真を薬袋に入れて「元気のもとです」と配る先生は、同級生の間でもユニークな存在らしい。■好奇心旺盛な先生は演劇やコンサートも精力的に見に行く。先日はベニサンピットでのtpt第44回公演「スズメバチ」をご一緒した。舞台も興味深かったが、その後に立ち寄った寿司屋がまた面白かった。誰にでもバリアフリーな先生といると、色がにじむように話の輪が広がる。お店の大将や常連さん(後でベニサンピットの専務さんとわかる)と会話が弾んだ。別れ際に「使用済み切手を集めている」と話したところ、翌々日にどっさり送られてきた。切手を納めた封筒には、タイプで印字されたLENNOXなる人の住所。「Lennoxは私が1965年に留学したときの師匠Lombeozoのまた師匠で、てんかん病の大学者、大先輩です。現在もこの住所でLombeozo(そろそろ90才)が開業しています」と説明が添えられていた。そして今日は、「人類の規格を75センチにするという計画があるって聞いたことあります?」と電話があった。人間を小型にすれば家も車も省エネサイズで事足り、資源節約につながるという発想。冷蔵庫も今の半分の大きさで済み、その分電気も食わない。先生のまわりではまことしやかな噂になっているらしい。「そんな話、初耳ですが」と言うと、「でも、SFの題材にはなりそうですねぇ」。先生の刺激は衰える気配がない。

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