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2002年10月31日(木) 五千円とちょっとハイソなバスの旅と反大阪的主義主張と(1)

ここからはすべて27日分の出来事であります(あんだけ長々書いといてまだ綴るか、と怒らないでね)。

さて、帰ろうと荷物を持って7番ゲートから通路に出たところ、前方に何やら茶色っぽい紙切れが見える。その紙片の落ちている場所まで駆け寄って拾い上げてみると、その紙の表面に特殊インクで描かれた新渡戸さんがこちらを向いて微笑みかけていた。

うーん、困ったなぁ。「マンモスうれぴー」(←私の中で21世紀に改めて活字に打ち出してみたい寒い死語ナンバーワン)と小躍りしながらネコババするには気が引けるし、警察に届けるには大層な気がする。かといって拾得地点の近くで食いもん売ってるおばちゃんやその辺にいる大会役員に渡すのも変だしなぁ。仕方なく、その場で10分程じーっとして落とし主が現れるのを待つ。だが、一向に顔面蒼白状態で息せき切って走ってくる人はいない。はぁ、困ったなぁ。もっぺん落ちてた場所に戻しても、この強風で飛ばされるか第三者にナイナイされるのがオチやろうしなぁ。結局、中途半端な額ではあるが、司直の手に委ねることにする。

えーっと、確かこの辺に派出所があったよなぁ・・・。R9に出て、取り敢えずポリボックスを探す。3年前、H氏と東山−平安戦を観戦しに来た際にお世話になった(駐車違反)あそこは何処だったっけ、と桂方向(左側)にひたすら歩く。桂川が見えてきた。いや違うっ!!あの時、確か応対してくれたおまわりさんがH氏に「あんた勿体ない事したなー、西大橋超えた先の川沿いやったら交通課の連中はあんまり取り締まってへんから、今度停めるんやったらあの辺にしときやー。」と冗談交じりに言ってはったから、あの派出所は川よりこっち、つまり天神川五条寄りにある筈やん、と気付き(もっとはよ気付よ、ワシ)横断歩道を渡ってUターン。数分後、丸い赤色灯のぶら下がった建物発見。でも、道路の反対側やんかー。片側2車線で分離帯に植え込みまであるR9を平面横断するのはあまりにも無謀である。かといって信号のある交差点は光華大の前まで行かないと存在しない。半泣きになりながら再度Uターン。市立体育館の前の歩道橋をとぼとぼと上って反対車線に移動し、また東を目指す。早い話が、総合運動公園の出口を右に曲がっていれば、ものの3分で目的地を探し当てていた訳だ...。

そんなこんなで通常の5倍以上の時間を費やして辿り着いた西五条の交番所。ガラガラ、と戸を開けて中に入ってみるも誰もいない。えーっと、こういう時は中の電話の受話器を上げれば警察屋さんに連絡出来るんだよな(以前平野でチャリンコ盗まれた時がそうだった)、ちゃんとここの交番にも“人がいない場合は受話器取ってね”てな旨の注意書きが置いてあるし。でも、肝心の電話がない・・・。仕方なく、カウンターの向こうに置いてある電話機をこっちに引っ張り出して受話器を持ち上げてみる。「ツー・・・」誰も出ない、ってか何処にも繋がらない。ただただ流れていく静寂な瞬間。不気味にこちらを写し続けるやたらとレンズ径の大きな監視カメラが物凄く気になる。くそー、たかだか五千円札1枚の為になんでこんな目に遭わなきゃいかんのだぁ。ええい、意地でもこいつを府警の遺失物担当に押しつけてやるー、と交番内にある内線番号表を探し出し、太秦署の地域課(だったかな?)を呼び出してみる。「あのー、お金拾ったんですがー。」「はい、今どちらにおられますか?」「えーっと、西五条の交番所の中ですぅ。」「五条天神川の交差点の近所にある交番ですね、担当者を今からすぐにそちらに戻らせますので暫くお待ち下さい。」こんなやり取りをしておまわりさんが帰ってくるのを今か今かと待ち侘びる。しっかし、たかだか1枚の五千円札を拾ったが為に巡回中のおまわりさんを至急呼び戻す、ってなんか物凄く申し訳ない気がするなぁ。


2002年10月30日(水) 五千円とちょっとハイソなバスの旅と反大阪的主義主張と(2)

電話して5分経った。まだかなー。10分経った。おーい、まだかよぅ。15分。おい、はよ来んかいこの糞ポリがぁぁ。何も悪い事してないにも関わらず、交番所の前を通り過ぎていく人々の視線がとても気になって胃が痛い。何だか国家権力に放置プレイされている様な辺な気分だ。そっから更に幾星霜、遙か遠くに白黒ツートンカラーに包まれたセダンが見えた(こういう時、視力が抜群に良いというのは便利だなぁ―まぁ視力が良くなければお金を見つけずにこんな目には遭遇していない訳だが)。数々の苦労(=全部自分に起因しとるが)がようやく報われる、やっとこの耐えきれない交番ひとりぼっちから解放される、という何とも表現しがたい充足感。パトカーが仏さんの使いに見える。そして、その天からやって来たクルマから降りたった、親切な巡査長さんの手によってものの数十秒でお馴染みの(といっても、拙者が前回それを手にしたのは12年前だが―余談だが、その時は堺銀座のブティックかなんかの権利書を拾い、同店のオーナーのおばあさんにあれこれ買って貰って非常においしい思いをした)白い書類が作成され、やっと我が輩は五千円の呪縛から解放されたのでありまふ。

さあ、家に帰るぞー。ちゅうか、この時間やったら野球を最後まで観てたのと変わらへんやんけ、と自分に毒づきつつ、三たび総合運動公園の入り口へ。横断歩道を渡ってバス停に向かう。当たり前だが9号線は大渋滞、一向にバスはやって来ず。とことんツイテナイ、と自分を恨めしく思いつつ15分程度経過した頃、西の方からハイデッカー型の豪華そうなバスがやって来た。舞鶴か福知山かその辺りから祇園に向かう京都交通のバスだったので物珍しさから速攻乗車。値段高いんかなぁ、と内心ビクビクしていたが、どうやら市内均一区間は他社バス路線と同じ220円で据え置きのようだ。このバス、外見も立派だが内装も実にいい。音もとても静かで乗り心地はSクラス。私の様なでかい図体の人間にとってはその拾い幅の座席もとても有り難い。ものの20分ちょいで京都駅に着いたが、もう少しふかふかのシートに身体を沈めておきたいので降りずにそのまま運ばれる事にする。


2002年10月29日(火) 五千円とちょっとハイソなバスの旅と反大阪的主義主張と(3)

バスは八条口でお客さんの多くを降ろした後、塩小路通から河原町通に入り、再び碁盤の目を上がっていく。なんか一端八条口まで下がってから四条・祇園へと向かうのは非効率的な気がしないでもないが、京都交通の京都口でのターミナルが祇園で、山陰線とのシェア争いを考えれば先に(逆向きは後に)八条口に寄らなければならないのだろう。まあこの車両なら多少のタイムロスは許せる。さて、バスは相変わらず祇園を目指して北上を続けている。ここでふと思った。このまま祇園まで行くという事は、阪急でたかだか10分前後しか要しない西京極〜河原町間をわざわざ数十分も掛けて移動する事に他ならない。これでは何だか馬鹿をしているだけな様な気がする。こりゃいかん、と河原町五条で下車する。どうだ、これで殆ど一筆書きルートを維持しているやろ(註:私は特に急がない場合は必ず公共交通でも自分のクルマでも同じ区間を同じ経路で往復せずに別ルートを進むというどうでもいい事に情熱を燃やす)恐れ入ったか、と自分自身の中でだけケリを付けてみる。いやー、そら実に快適な移動空間でしたよ。もし、これを読んでいるあなたが京都市内でJR・市営地下鉄と京阪・阪急を乗り換えるケースがあったならば、こういう選択肢も加えてみては如何でしょう。

もう外はすっかり真っ暗。河原町五条から東に向かって急ぎ足で歩く。んで、やあ義経さんに弁慶さん、お元気ですか?まだ決着付きまへんのん?はよ奥州に行きなはれや、と五条大橋をすたすた渡る。そういや、ここはクルマではよく通るけど歩くのって久しぶり(地下鉄東西線が開通するまでは大学の帰りによくここから市バスの東8系統―地下鉄開通に伴い廃止―に乗っていた)やなぁ、と昔の思い出にふけりつつ五条京阪へ。程なく滑り込んできた急行に乗り込み、一路我が家を目指す。京阪の京都口の区間に乗るというのも結構久しぶりだなぁ。近頃じゃあ、八条口へはJR、市内へは地下鉄or自動車ばっかりだもんなぁ、高校時代は毎日コレに乗っていたというのに。そんなこんなで丹波橋に到着。昔はここで宇治行きに乗り換えてたもんだが(ラッシュアワーではそのまま中書島に行けば同駅折り返しの1本早いのに乗れたりしたし、昼間は昼間で先に中書島まで行ってトイレに行ったり駅の比叡そばに寄ったりしてたので、そんなにしょっちゅうここで乗り換えていた記憶はあんまりなっしんぐ)、現在の宇治線はその殆どが中書島折り返しなので、以前宇治行きが待避していた線路に私の乗った急行が停まって、特急が追い抜くのを待つ格好となっている。もひとつダイヤがよく判らんので、取り敢えず先発する特急に乗り換えて一区間だけではあるが先を急ぐ事にする。


2002年10月28日(月) 五千円とちょっとハイソなバスの旅と反大阪的主義主張と(4)

休日とはいえ、時間が時間なのでホームの上は急行から降りた人や近鉄からの乗り換え客でごった返している。そんな中でやたらと場所を占有して騒いでいる女子高生の集団がいた。なんじゃこいつら、とジャージの背中に書かれた文字を見てみると“OTANI XXXXXXXX CLUB”とあった。まあ、車内でも駅前でも中高生は往々にしてやかましいもんと相場が決まっているが、この連中は伏せ字にしているクラブ名まではっきり書いてやりたいぐらいに騒ぎ放題。タニ高も一部共学化して随分と変わったもんだな、悪い意味で、と殴りつけてやりたい衝動を抑えつつ電車を待つ。暫く経って特急がホームに入って来た。すると件の女子部員軍団が一斉に、整列乗車の列の横からなだれ込んでくるではないか。あっけに取られて得意の死角からこそっとエルボー(こういう姑息な事すんのが大好きな拙者もアレだが)を打つのも忘れてしまうほどの強引さ。そうして、誰よりも先に車内に乗り込んだ彼女らではあったが、この混雑した時間帯では当然空いた座席はないし、補助椅子も使用中止となっている。けっざまあみやがれ、と思っていたら連中、涼しげな顔で電車の階段部(乗ったのがちょうど二階建て車両だった)にめいめい座りだし、お菓子をむさぼりながら再び大騒ぎ。もう殆ど無法状態である。

2分後、私のイライラがほぼ臨界状態になったところで中書島着。これ以上奴らと同じ車内にいたら絶対暴力沙汰になるやろうな、宇治行きの電車は自己防衛も兼ねてあの集団とは絶対に違う車両に乗ろう、とおでこに血管を浮かび上がらせながら思っていたら、幸いな事にきゃつらは誰一人として降りて来なかった。あれれ。と、ここで初めて気が付いた。あいつら、タニはタニでも西の方のタニの生徒やったんや。別に、学校の名誉とか体面なんてもんはどうでもいいけど、あーいう不作法な輩のせいでその学校に通う他の人間や卒業生までもがマイナスイメージを受けかねない(勿論、個々人の評価にそんな付随物を絡ませるのはとてもナンセンスだけれども―実際ここの学園のOGである私の知り合いはとても素晴らしい人やし)、という事だけは頭の隅にちょこっとでも置いといて頂きたいもんである。

うーむ、でもなんだかんだ言って、あの子達の行動は結局のところは「根底に流れる大阪人のDNA」であったり「大阪という生活環境」に拠るところが大きいのかもしんないなぁ。20代後半でも南部大阪の田舎型土着社会にどっぷり浸りきった大阪女は完全な「大阪的思考」しか持ち合わせていなかったし(こう書くとフェミニンな大阪女性に怒られるかも知れないが――まぁ、あっしの関わった大阪生まれで大阪育ちな20代男性でもよく似た思考回路の奴が多かったが)。で、最終的にはみんな立派な「大阪のおばん」になっていくと。まあ、かくいうワタクシもそういう大阪の地で命を授かり、閉鎖的な京都社会で偏屈な自我を確立させてった訳ですが...。


2002年10月27日(日) 目指せセンバツ!!秋季近畿地区高校野球大会(1)

秋の高校野球。私は基本的にプロ化したようなチーム同士の戦いにはあんまり興味がないので、甲子園大会は殆どテレビで観戦する程度、スタジアムに足を運ぶのは夏の京都大会ぐらいしかないのだが、よくよく考えれば高校野球の京都大会って秋も春もやっているのよねぇ。今迄何でナマの試合を観に行かなかったんやろ――などと平安VS西高のラジオ実況を聴きながら悔しがって2週間。今秋の近畿大会は我が京都府で開催されるってんで、こりゃ観に行かなくっちゃ、なんせ今年見逃すと次観られるのは6年後だもん(私は他の多くの人達みたいに過剰なほど高校野球という競技に思い入れはないので、皇子山など近隣の野球場で開催されない限りわざわざ足を運ぶ気にはならない)、と急いで支度する日曜日の朝。冷蔵庫の残り物を土鍋にぶっこんで、その間に掃除して、猫にご飯やって、お風呂入って、炊けた鍋かっ喰らって、7時50分いざ出発。

午前9時過ぎ、西京極総合運動公園。昔からここの野球場にも陸上競技場にも何度となく来ているが、毎回思う事はただただ同じ。遠すぎるっちゅうねん!!山科までバス乗って、そっから地下鉄に乗って、御池で電車乗り換えて烏丸四条まで行って、階段登ってまた降りて阪急電車に乗り継いで・・・って休日の朝っぱらから何でこんなに乗り換えせんにゃいかんねん!!予算の大半をあそことかあそこに注ぎ込むぐらいなら採算度外視で市内を南北に縦断する交通機関造りやがれ京都市役所!!と思わず叫びたくもなるが、府北部や南部の人達の苦労を考えるとまだ近い方やねんから我慢しなきゃね。そんなこんなで三塁側の“タダ見スポット”に群がる輩を横目に入場ゲートへ。えっ、大人700円もすんのー?!大会パンフは200円っと。まあ妥当な値段かな、とパラパラ開いてみて驚愕。ワープロで各校のメンバーが刷ってある(しかも書いてある名前の番号と選手達の実際の背番号が一致してなかった)だけやんけ、ぼったくるのも大概にしやがれ、うわぁぁぁーん。このパンフ、試合中に大会補助の生徒達が何度も何度も場内売りに回っていたが(まさか無償労働ではないよね?)、そんなに台所事情が苦しいんやろか、近畿の高野連って。


2002年10月26日(土) 目指せセンバツ!!秋季近畿地区高校野球大会(2)

正面ゲートから階段を上がってネット裏のスタンドへ。おお、朝の9時やというのに満員やないか。それにしてもおっさんだらけやなー。まるで大阪球場跡の場外馬券場みたい...。ネット裏十数列目の通路側の席が二人分ばかしぽこっと空いていたので(こういう時、つくづく自分の視力の良さを有り難く思う)こりゃラッキー、と座席を確保。スタンドを見渡すと、見た事のある顔が結構いる。あっ、あんな所に高嶋さん(智弁和歌山高校監督)が。普通の服着てはるとそこらのおっちゃんと変わらへんなぁ。おっ、向こうにいるのは尾藤さん(箕島高校元監督)や、実物は意外と小さいんやなー。あーモンチッチの格好させたい。向こうからグラサン帽子に乗っけた井戸さん(南部高校監督)がやって来はるぞ。これから試合やからか怖い表情やなー。おおっ、目の前にいるのは長谷部さん(東山高校前監督)ではないか。背筋がしゃんとしていてとても70過ぎには見えへんなぁ。それにしてもあの総白髪の銀髪は綺麗だなぁ。あっ、今度は森本さん(MBSアナウンサー/東山高校OB)が観客の邪魔にならんように海老みたいな体勢で走ったはる。腰低いなぁ。今年もこの大会のラジオ番組あんのかな。きっとあの手に持ってるデジカメはご自身のサイト用に撮影しはるんやろな・・・これ以上書いてるとキリがないが、その他、色んな有名人が場内にわんさかいてひたすらミーハー状態。気を取り直し、改めてスタジアムを俯瞰する。秋の澄み渡った空にぽこぽこっと雲が浮かび、そのまま視線を下げていくと見慣れた濃緑の磁気反転式スコアボード、同色のフェンス、黄緑の芝生に鮮やかな黒土。大好きな西京極の風景がめいっぱい拡がる。昨日と違って今日はいいお天気になりそうだ。


2002年10月25日(金) 目指せセンバツ!!秋季近畿地区高校野球大会(3)

第1試合は天理と育英という全国制覇経験済みのビッグネーム同士の対戦。わたしゃコレを観んが為に1時間以上掛けてここ迄やって来たんだよ〜。ワクワクしながら試合を見守る。1回表、育英は無得点。それにしても育英の控え選手はよく声が出てるなぁ。阪急の駅を降りた途端に聞こえてきたもんなぁ。一体何デシベル位あんのかなー。さっ、1回裏だ、久しぶりに天理のブラスが耳に・・・聴こえてこない。し〜んと静まりかえった中で試合が進行していく。こりゃあれだ、交通渋滞かなんかで吹奏楽部がまだ到着してないんやろ、と勝手に解釈していたら3番打者のところで急に天理の控え部員&女子マネ達がアカペラ応援を始めた。♪レーフトへライトへーホームラン、そーれそれそれ(ラブミーテンダーのメロディで)とかやってる。違うっ、天理ってえのは、お前それ反則やろっ?!てなガタイのいい野球センスに溢れる選手が軽快ながらも威圧的なチャンステーマに乗ってバカスカ打って、凄い球を投げるエースが相手打線に殆どまともに打たせないで圧勝する強いティームの筈やん、こんなん天理やない!!大体、応援がアカペラに乾いたメガホンの音ってあんたんトコには太鼓もないのか天理高校硬式野球部!!スタンドからの野次も育英からのんばっかりやし!!あまりにヘボヘボな応援風景にふてくされていたらあっという間に6点差。8回に相手ミスに絡んで1点取ってなんとか完封を免れたものの天理の完敗。はっきり言ってコールドゲームにならなかったのが不思議なくらいのお寒い内容。他方、育英はちょっと内野守備が脆かったものの(記録上は無失策)、前評判の高かった中野くんをはじめ相手の4投手から11安打とことごとく攻略。下位打線もよく打つし、エース吉井くんはスライダーを武器に小気味よいピッチングで天理打線を翻弄して、と流石は兵庫の優勝校という感じ。次の東洋との対決も楽しみだぁ。


2002年10月24日(木) 目指せセンバツ!!秋季近畿地区高校野球大会(4)

ところでこの試合、私の座ったところが育英のOBだか保護者だかファンだかの固まっていた場所だったんだが、「あの子は山口から来たやっちゃ〜」とか「あれは打撃がいいけど守備が雑やから監督もスタメンに困るとこやのう〜」とか、色々と内部の話題が聞けて良かったんだが、やたらめったら審判のジャッジに大声で文句言うし、よその学校の悪口ばっか言うので閉口した。いや、別に自校可愛さに他校をけなすんはしゃーないけど、天理の外野手が引っ込んでバッテリー丸ごと交代してる状況が理解できずに「あれっ、ピッチャー代わっとぅー、エースの奴はあそこにおるしライトと代わったんやな」「そやそや、あれっ、でもキャッチャーも背番号2じゃなくなってんで」「どないなっとんじゃ(以下何人も同じ様にガヤガヤ・・・)」とか騒ぐなヴォケ!!目の前のスコアボードにちゃんと表示してあるやろうがっ!!その前に騒いでんと場内アナウンスちゃんと聞け!!挙げ句の果てに「天理って智弁でも郡山でもない無名の弱っちいトコに負けてんねんから大したことないやろー。これで姫路も勝ってるし、八代も勝つやろし、もういっこ勝たんなセンバツはしんどいな〜、ところで八代の相手なんて読むんや」ってあーた、もっぺん学校戻って日本史勉強し直してこい!!そもそも斑鳩は昨春も奈良で優勝して近畿大会に出てたやろーに。野球の事しか頭にないんやったら、そん位の情報仕入れとけってんだ。嗚呼、軟式の時(8月の記事を参照されたし)といい、私の大好きな育英高校のイメージが崩れて行く・・・。ついでにひとつ疑問が残ったんだが、どーして育英って試合終了後、「フレッフレッいくえー」と自分トコの校名だけ連呼して引き上げていったんだ?他方の天理はというと何もせずに荷物片づけてたし。ひょっとして試合後にやるのは京都だけ?んなあほな、と次の試合の終了後に両スタンドを凝視していたら両校ともちゃんと交換し合ってた。うーん、未だにエール交換の仕組みがわからん。


2002年10月23日(水) 目指せセンバツ!!秋季近畿地区高校野球大会(5)

第2試合は京都成章と南部の対戦。先の試合と同様、どっちの学校にも勝って欲しいが、夏には私の贔屓校(平安、ガシ、タニ、花園、西高etc...)に出てもらわにゃいかんので春のうちに甲子園に行っちまってくれい、と成章を応援することにする。あー久しぶりだなこの応援曲。なんせ98年の全国準優勝以来、夏の京都大会ではいつもあっさり負けちゃってたもんなー。私の期待していた選手達(3月辺りの記事を参照してちょ)は殆ど引退して抜けちゃっただろうけど、その先輩達の悔しさや後輩に託した気持ちを受け継ぎ見事に大谷・平安等に競り勝って府準優勝、近畿大会出場を決めた成章ナインがこのまま甲子園に行けますように、何とか勝てますように、と祈るもやっぱり今年の南部は強かった。5回終わって5−0。南部のエース岡本くんは制球こそ悪かったものの、常時130km/h後半台を出してそうな力強い投球で、成章打線が全く打てそうにない。投打ともに南部が圧倒しとる。こりゃもう終わりかな、とインターバルを利用して売店でカレーまん喰いつつ珈琲飲んでたらスタンドの方がワーワー騒がしいので急いでシートに戻ってみると塁上を成章のランナーが賑わしていた。で、2点返して尚満塁とし、次打者がなんと走者一掃の三塁打。このままいけばコールド負け、という悲壮感漂う三塁側スタンドがこのままひっくり返して甲子園へGO!!という雰囲気に一変する。けれども甲子園切符はそう易々とは手に入らない。何とか立ち直った岡本くんは成章打線にそれ以上追加点を許さず、逆に南部があっさり勝ち越しを決めてそのまま6−5で試合終了。うーん、正直なところ実力差がない、といえば嘘になるけれども成章の選手達はよく健闘しました。今日マウンドに上がった二人の投手はいずれも一回りも二回りも大化けする可能性のある1年生、まだ夏春夏と3度も甲子園が狙えるんだし、目的意識を高く持って日々精進していけば夢は自ずと叶うかもしれない。


2002年10月22日(火) 目指せセンバツ!!秋季近畿地区高校野球大会(6)

この試合は一度行ってみたかったバックネット裏の最上段、放送ブース(夏の大会で設けられているボールカウント表示器下の実況席ではなくって、プロ野球中継等で使用されている密閉型のそれ)の並ぶ真横で観戦。うわっ、思っていたよりもかなり高いんだなぁ。あー、遠くの山並みが綺麗だ。太陽が丘では絶対見られない光景やなー。おや、なんか壁の所に人がたかってるぞなんやろ・・・と近付いてみると、お隣の陸上競技場でやってるアメフトの関西学生リーグの模様がばっちし見えるではないか。以後、試合がだれた展開になってくると、他の人達と一緒にアメフトを見ておりました。

それにしてもこの座席は寒かった。この日はちょうど近畿で木枯らし1号が吹き荒れていた事もあって体熱が奪われる奪われる。前の方のシートに座れば屋根がないから太陽光をまともに浴びて汗がひたすら噴き出すし(ついでに目の前にいらっしゃるお天道様の軌道が夏よりうんと低いから、ネットを超えて飛んでくるファウルボールが逆光になって全く見えずとても怖かったりする)、屋根に覆われた後ろの方に陣取ればひたすら歯がガタガタ震えるわでもう踏んだり蹴ったり。この時期はホントに難儀やなー。が、途中から私の隣にやって来た人(30代前半)は凄かった。でっかい鞄から出てくるのは毛布にカップ酒にコンビーフに雑誌と大会パンフ。アルコールで身体を暖めつつ選手名をチェックし、退屈になれば雑誌を読んだりアメフト観戦。凄い、この人西京極を知り尽くしている。更に、試合終了後にはポリ袋を取り出して周囲のゴミを全部回収してはった。いやぁ、ただただ頭が下がりますな。


2002年10月21日(月) 目指せセンバツ!!秋季近畿地区高校野球大会(7)

第3試合は神戸国際大付と斑鳩。あの天理に競り勝って奈良を制した斑鳩、とどんなティームか期待していたのだが、先の試合での天理の大惨敗からして今秋の奈良は駄目駄目なんやろうなぁ、この試合も一方的に虐殺されちゃうんやろなー(神戸国際は兵庫大会西神戸予選で育英に勝っている評判の高いティーム)、とちょっと見る気が失せてくる。そもそも自分が運動しているのなら全然苦にもならないけど、一日に3試合もひたすら試合をじーっと観てるだけってのは辛すぎる。なんでこの人達は一日中野球ばっか観てて飽きひんのやろか?と周囲を見渡せば穏やかな陽気に誘われて眠ってる人の多い事。別にどうでもいい試合なんやったらそこまでして観戦するなよ、あんたら。私のすぐ近くで観戦リポートを書いていた東海大仰星の部員らは一部を除いて必死に試合を凝視していた(まぁみんなだいぶ集中力が途切れまくってはいたけども)。折角の日曜日にわざわざ極寒の京都まで来て全試合観戦も大変だねぇ。ま、勝ち進めば準決でこの2校のどちらかと当たるかもしんないんだから退屈でもデータ収集に努めるのだよ。そんなこんなで試合開始が刻々と近付く。

さて、私は基本的にただの高校野球好きの野球素人であるのであまり技術論的な事は解らない。だから、試合前に行われているノックを見ても「あー、どこの監督さんも上手い事打たはるなぁ〜」とか「今日はえっらい風きついなー。」程度の感想しか言えない。でも、神戸国際のノック風景は傍目に見ていて何とも面白いものだった。まずスタンド。場内に自校の校歌が流れているのに、何故かサンライズとか競馬のファンファーレなんかをガンガン鳴らしまくって「ゴーゴーレッツゴーレツゴー国際!!」とか大盛り上がりしてる。人によっては「だから八代は・・・」となるのかも知れないが、こういう光景はとても新鮮だし、試合が始まるまでの退屈な時間を紛らわせてくれるし、多分ブラバンの試し吹きにもなるだろうし、結構いいアイデアなんじゃないかな。しっかし、あの応援団の一人が着用している赤黒のマントは何なんだろうか...。


2002年10月20日(日) 目指せセンバツ!!秋季近畿地区高校野球大会(8)

んで、このスタンドの馬鹿騒ぎに影響されたんだかどうだか判らんけども、国際の野手陣がファンブル連発。あちこちからクスクスと聞こえてくる。大一番を前に緊張している上にこの寒さやから選手は大変やなー、こいつら何笑っとんねん、と思っていたら、最後の内野ノックで一人の選手がトンネル。黒土から芝生へと勢いよく転がっていく白球。だが、外野手は既に整列しており、ボールは誰に止められる事もなくどんどんフェンス方向へ驀進していく。どうすんのかなー、と観衆が見守る中、国際の皆さんは一礼してそそくさと退場。速攻で出てくるトラクターやグランドキーパーの方々。ありゃ、あのボールどうすんねんやろ?数十秒後、トンボで地面を馴らす係員の皆さんの間をばつが悪そうに走り抜ける国際の控え部員の姿が。思わず大爆笑。嗚呼、レギュラーがヘマしたが為にこんな衆人環視の中で球拾いに走らなきゃなんないこの少年の心中や如何に。さあいよいよ試合開始だ。

3回表、相手のミスから国際が1点を先制。なんだか投手戦になりそうな雰囲気だし、斑鳩打線は単打を重ねて得点していくチームと聞いているので、まず連打で1点を取り返さねばならない立場となった斑鳩が更に相手投手の佐藤くんや蓬莱くんを打ち込んで決勝点を挙げる(当然ながらもう国際には1点もやれない)のはかなりしんどいやろうなぁ、と思っていたら今度は4回裏に国際の守りが大きく乱れる。四球も絡んで一気に5点が斑鳩に転がり込んだ。恐るべし、ジャージー牛乳打線。これだから高校野球は面白い。この試合、両チームとも大事なところで守備にミスが頻発したし、先の試合でも注目のピッチャーが突如として制球を乱してもう少しで負けるところだったりした。メンタル面の影響如何で試合の流れが大きく変わっていく。こういう未完成なところ、必ずしも実力差通りに試合が運ばず、終わってみれば格下校が大健闘して頂点を極めていた、てなところがあるからこそ(まあ近年はセミプロ集団の学校ばかりが全国大会の上位に君臨している感が否めないが)下火になりつつあるとはいえ未だに高校野球人気が持続している要因のひとつであるのかも知れない。

そうは思いつつも、もうええ加減疲れてきたので5回を終わった時点でスタジアムを後にする。野球を観るのは5時間が限度だ。甲子園大会で、ネット裏に2週間通い詰めて、毎日毎日4試合見続けている人達がいるけど、あの人らはどんな人種なんだろう、と帰路の電車内でしみじみと思ったのは言うまでもない。


2002年10月12日(土) 誰じゃ、頭に“だ”とか“く”とか付けてる奴はっ!!

埼玉県さいたま市(←おっ、ATOKで一発変換出来たっ!!)の政令指定都市移行に伴う区名の決定に対して、「見沼区」該当地域の一部住民が“沼と付くと地価が下がる!田舎だと思われる!”等といった理由から新区名を「東区」にするように求める署名運動を行っているそうな。なんだかなぁ。

まあ水に縁のある地名というのは確かに地盤が緩くて地価も安い事が多いので区名に反発するのは判らんでもないが、その代わりが「東区」ってえのは如何なもんかと。
さいたま市のサイト(www.city.saitama.saitama.jp/welcome/major/tohyo/kekka.html)で区名投票の結果を見てみると、該当地域の人気1位は「大宮東区」で、見沼区は「緑区」「東大宮区」に次いで4番人気。う〜ん、この中からやったら「見沼区」がいちばん良さげやん。この投票の上位3つって誰でも思いつきそうな面白味のない区名案やし、これらに比べりゃ近世の見沼代用水から脈々と続く歴史を想起させる「見沼」の地域名を冠した方がいいと外様の私は思うんだけども。私の住む京都市東南部地域も独立区構想がここ数年出ているけど、もしその新区名が「東伏見区」とか「南山科区」といったしょーもないもんに決まったらそれこそ反対運動起こすけどなぁ。そんなのに比べたら幾らもっさくても「醍醐区」の方が遙かにマシやもん(画数多くて住所書くのが難儀ですが・・・あ〜せめて「桃山区」とかにしれくれぃ〜、というかこんな話何年も聞き続けているけどホントに伏見区分割されるのかぁ?)。やっぱり個人的には区名はその土地の歴史が刻まれているものの方がいい。

それにしてもこの反対運動、“投票結果を無視するな!”という理由ならまだ判るけど、“田舎臭いからやだっ!”というような趣旨でよく賛同者を集められるなぁ。関東ではそんなに見沼という所はど田舎扱いされてるんかいな。でもそんな場所ならばどうせ「東区」にしたところで、“東区?!だっせー”と言われるのがオチだと思うんだけどなー。そもそも、田舎臭い名前だからそんな区名はいかん、という発想自体がとことん田舎者じみてるんやけどなー。

それよりも、この活動をしている人々は気付いていないんだろうか。どんなに格好いい区名になったところでその区名の前には埼玉県「さいたま市」が付くって事を...。


2002年10月11日(金) 甲子園という催し物の値段

唐突に東山の学園から封書が届いた。何やろ?と思いつつ封を切ると、中から硬式野球部の甲子園報告と1000円分の図書カードが出てきた。そうそう、幾ばくか払っといたら甲子園行きのバスに乗っけてくれへんかな〜、と思って8月の頭に東山高校へ一口5000円分の寄付金出してたんやった。その後、礼状のひとつも寄越さへんなんてなんちゅー学校法人じゃ、と暫く周りにブー垂れてたっけな。

で、同封されていた糞丁寧なお手紙に目を通すと、寄付金の精算明細が記されていた。一般・同窓会・学園取引先・寺院関係・朝日新聞からの補助金に預金の利息・・・と全部併せて収入6,151万円だって。凄いなー、甲子園野球の集金力ってのは(ま、1993年春以来&創立130余年といった同校の状況だから、なのかもしれんけど)。とある野球名門校では連続出場したらお金がかさんでしゃーないので3年計画で選手指導を行っているとかよく聞くけど思わず納得。仮に自分が甲子園常連校のOBや周辺住民やったら、寄付のお願いが来たら「毎年毎年ぼったくりやがってっ!!」とかブチギレながらその手紙を即座に破り捨てるやろうなぁ。

続いて支出の部。出場費用724万円を皮切りに諸々含めて総計3,195万円。京都の学校でこれやったら、遠隔地からはるばるこっち迄やって来る出場校はどれ位の費用が掛かってるんやろー。甲子園出場の名誉っていうのは実に重たいんですな。その他一般競技でインターハイ出場に掛かる費用がどれ位なのかが判らないんで何ともいえんけど(でも多分こんなに巨額ではなかろうて)、高校野球っちゅうスポーツイベントはあっちこっちで大金が動きまくってんやろうなー、としみじみ実感。

それにしても、東山高校。たった(といっても私からすりゃ結構大きな額だが)5000円ぽっち寄付した者にまでわざわざ図書カードまで添えてお礼の手紙を送ってくるとは。高校野球関連のサイトでみた寄付金絡みの話題を見ると、大概が「放置された」とか「高額寄付者にのみ余剰金で作った出場記念アルバムを配ってた」てなものばっかりだったので、“ありゃ捨て金やったなー”と後悔(←芳志に見返り求めるなよ、ワシ...)してただけに余計にビックリ。封筒の表書きもタックシールではなく手書きの筆なのも感謝の心遣いが伝わってきてとても嬉しい。寄付金出して良かったなぁ〜。

ちなみに、今回の出場で東山学園に集積されたお金の差し引き残額は、甲子園で早々に敗れた事もあって2,956万4,759円だそうな。トウザン、儲けたな...。


2002年10月10日(木) 親不知との決別、それは悲しく、虚しく、恐ろしい(1)

親不知。北アルプスが日本海に没する地。500mクラスの断崖絶壁が続き、有史以来交通の難所として知られる場所・・・の方では勿論なくって、第三大臼歯とか智歯などと呼ばれているあの難儀な歯のおはなし。

そう、奴が生えてきたのは忘れもしない4年前の春うららかな頃。なんか左上奥の歯茎がウズウズするので、歯医者さんに診てもらったところ、「あ〜親知らずが生えてますねぇ、消毒しておきましょうね」と言われ、初めてその存在を知ると同時に、「へぇ〜、名前は聞いた事あるけど、自分にも生えてきたんか〜」と意味なく感心したものだった。それから時間と共に奴は着実に成長し続け、立派な歯へと育っていった。

親知らずが物凄く痛む。その痛みは日が経つにつれ鋭くなっていき、且つ断続的だったそれはどんどん永続的なものへと変貌していく。ホント、歯の痛み程厄介なものはない。昼間は何とか我慢できるのに、真夜中に近づくと待ってましたと言わんばかりに口腔内に激痛が走りまくる。嗚呼、昼のうちに歯医者さんに行っておけば・・・と連夜後悔しつつ幾星霜、痛みに悶え苦しみ倒すのももうええ加減嫌になってきたので、意を決して重い腰を上げる事にする。

まぁ、私の住む地域にも歯科医院は腐るほどある訳で、毎回どの医院に行こうかとても迷うのだが、取り敢えずお世話になった事のある二つの医院に絞り込む。ひとつはやたらと気軽に喋ってくる若い先生が治療してくれる坂の上の診療所。最近建て替えたばかりで待合室は写真誌などが豊富。歯科衛生士のおねーちゃんのレベルもなかなか高め。ただ治療時にやたらと出血する(ドリルの刃先が歯茎に当たってんのとちゃうのん?とか通院時にはいつも思ってた)のが難点。もうひとつは寡黙な熟練先生が営んでいる坂の下の診療所。待合室がやたらと狭く、読み物も私がガキの頃に見てたような特撮ヒーローの絵本(ひょっとして現在ではめっちゃ価値あったりして)しかないがご近所の評判は上々。ただ、毎回毎回「コホッコホッ」と咳をしながら麻酔注射をされるのがとてつもなく恐怖心を煽る。取り敢えず、今回は痛む場所が場所だし、恐怖におののきながら坂道を登るよりは「よっしゃ行くぞ〜!!」という勢いで坂道を下っていく方がちょっとは心臓にいいかもしれん・・・等々の理由付けにより、後者の医院にお世話になる事にする。


2002年10月09日(水) 親不知との決別、それは悲しく、虚しく、恐ろしい(2)

4年ぶりの歯医者さん。待合室で待っていると扉一枚隔てた先から「キュィィィ〜ン」という例の嫌〜な切削音が聞こえてくる。既に生きた心地がしない。十数分後、名前を呼ばれ、まずは2階の小部屋でレントゲン撮影。ガツッ。おもむろに階段で頭を打つ。ええい、ここのたてもん全体的に高さ低すぎんねん、毎回毎回レントゲン撮る度にたんこぶ作らしやがって〜(と自らの学習能力の欠如は棚に上げてる拙者も拙者だが)。同じくやたらと背の低い装置にかがんで無理矢理頭を挟み込み、装置のバーを噛む、というとてつもなく変な格好であのぐるぐる回るカメラでの記念撮影も無事終わり、いよいよ診療台へ。んで先生のご登場。「それでは、今から痛み止めの処置を行います。」注射される事もなく、ドリルでガーガーされる事もなく、何か薬品をボンドで詰めておしまい。あー、良かった。親知らずだけにどんな恐ろしい事されるんやろー、って思ってたけどこんな簡単な治療で良かったんやー、とほっとしていたら先生がぼそっと一言、こんな事を仰るではないか。「この歯は(中略)なくなっても影響がないので、次回に抜歯します。」 ゚Д゚ 嘘やろー。

ただでさえ得意の情緒不安定状態(最近私に会った人ならご存じかと思うが、このところ自分を保つのもあっぷあっぷで結構重度のグロッキー状態かもしんない)なのに、ますます気が滅入る。抜くってどんな感じなんやろー、Sくんに何度も聞かされてきた地獄絵図が自分にも降りかかって来るんやろかー。泣きそうになりながら、取り敢えずネットで情報収集。恐ろしい体験談の出てくること出てくること。歯茎をメスで切開して骨をノミで削るとか、麻酔が切れた後何週間も激痛が続いてろくに摂食も出来ないとか、半年以上味覚などの舌の感覚がなくなるとか、顔の形が変形するとか、治療後に昏睡状態に陥り生死の境を彷徨ったとかetc...。兎にも角にも恐怖体験があるわあるわ。ろくすっぽ物も食わずに生きた心地のしないまま今日この日を迎えた。


2002年10月08日(火) 親不知との決別、それは悲しく、虚しく、恐ろしい(3)

顔面蒼白のまま、いざ診療台へ。強力ライトが点灯される。「大丈夫ですかぁ?」と助手の女性が心配そうに何度も尋ねてくる(一体どんな表情だったんだ、ワシは?)。「それでは始めます。」と先生。口をあ〜んと開け、もうどうにでもなりやがれ、と全てを先生の手に委ねる。麻酔液が歯茎やほっぺたの内側に注入されていく。どうせやったら全身麻酔にしてくれたらこんな精神的苦痛を受けないで済むのに・・・と思わずにはいられない。ちょっと間を置いて、少し他の患者さんの治療を行っていた先生がこっちに戻ってきた。「いきますよ。」と言うその手にはお前それ医療器具じゃなくて日曜大工道具やろっ!!ってなツールが。その器具が小生の親知らずをグワシッと掴んだかと思うと一気に力が加えられていく。うぉーっ脳天がシャッフルされるぅ。それよりめっちゃ痛いやんけぇ〜。顔を歪めてフガフガ言ってたら「うーん、もうちょっと麻酔した方がいいなぁ。」と先生。おいっ、頼むから後遺症残らんギリギリまで、いつも以上に麻酔しまくってくれぃ。また暫く時間を置いて再度抜歯が執り行われる。診療室の有線からはゴンチチの「放課後の音楽室」が流れているが、こちらはまさに粛々と為されている最中の死刑執行室である。前日にネットで見た“抜歯中に意識がなくなり酸素吸入で三途の川から帰ってきた”旨の体験談が鮮やかに脳裏に蘇る。ガリガリガリ・・・と物凄い音がひたすら続く。歯を引っ張りながら先生が「ちょっと歯が虫歯で脆くなっているので破裂する様な音が聞こえてくるかも知れません。」と説明してくれる。パニック状態の最中に適切に進行状況を教えて頂けるのはとてもとても有り難いが、同時に人の歯をグイグイしながら冷静な顔して淡々と説明しているあんたが怖いよ、先生〜。その後、ガコッという感じの鈍い音がして、歯の根っこが抜けた様な感覚がする(麻酔かかってるからあくまでも憶測だが)。あ〜、やっと終わった、と思ったのも束の間、今度はやっとこみたいな器具が口の中に入り、三たび脳内シャッフル。死ぬ〜、死ぬ〜。ガタガタ、ギシギシ、グワワワ〜。脳内時間で数時間ぐらい経過した頃に突然「カコッ」という軽い感じの振動が伝わってきた。「よしっ。」と先生が呟き、やっとこがピンセットに変わる。ついに、ついに、恐怖の抜歯が終了したのである。あ〜、歯茎切開されたり顎を切削されたりせんで本当に良かった。


2002年10月07日(月) 親不知との決別、それは悲しく、虚しく、恐ろしい(4)

このガーゼを噛んだまま最低でも30分間は口を開けないで下さいねぇ―抜歯後の諸注意の書かれた用紙と処方箋を貰って医院を後にする。放心状態のままその足で斜向かいの薬局へ。店内に入ってからまだ口を開けちゃいけないんやった、と超うっかりミスに気付く。カウンターで薬剤師さんに「んんばぜん、ごれごねあいじます(すんません、これお願いします)。」と処方箋を手渡す。左のほっぺを手で押さえながらおいらは今抜歯した直後やねんぞー、と必死でアピールしながら。不審がる薬剤師さんから何とか抗生物質をゲットしてとぼとぼ帰宅。麻酔が切れたのか、一気に抜いた辺りが痛み出す。痛みと共に今まであった場所にあるものがない、という喪失感。暫くはこの痛みと喪失感に苛まれるんだろうなぁ。でも、今回は幸いな事に上記に挙げた諸々の体験談の様な悲惨な目をせずに済んだだけでもよしとしなきゃいけないんだろうな。だけど、まだ右上にも親知らずは存在してるし、将来下の2箇所にも生えてくるかもしれないんだよなぁ...。


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