独白2
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2002年02月28日(木) 昔日記

新しいパソコに向かってやっていると今までのパソコと色が違うということをよく思います。
この日記の色も微妙に違うし。ピンクだよう〜。

なんだかんだといいつつもものすごく久しぶりな感じがいたします。
実際最近ここ書いていなかったんですけれども。
書くことがないというだけなんですけれどもね。
私はどうも人より鈍感なほうなのかもしれませんが考えるきっかけになるものがなければ考えることもないし、刺激がなければ腐れるばかりです。
でもみんなそんなもんかな?よくわかりませんが。

学校がないです。勉強もしてないしためになるようなわかりやすい書物も読んでいません。ためになるようなわかり易い映画も見てません。
いろんな意味でいろんなことがそろそろ限界なんだと思います。
飽きっぽい性格なんで。だから駄目なんですね。
今まで気に入っていたものとか、好きだといっていたこととかそういうものがある時いきなりどうでもよくなるなんてよくあることです。
人に対してが大抵そうですけど。
「痘痕も笑窪」ってやつですかね?
私が普段好きだ好きだと言っている大抵の事柄は「ああ、馬鹿だね、要領が悪いね、不器用だね、そういうところが好きだなあ」ってやつなんですね。
自分で考えるとホント吃驚するほど当てはまるからおかしいですが。
そういうことがね、ふとした瞬間どうでもよくなるんだなあ。

笑窪に見えてたものが痘痕に元通り。
なんでそんな風にいきなり変化すんだろうと思うのですが。
最近はなんとなくわかった気もしないでもないです。
要するに私は面倒なことがしたくないと思っているんですね。
笑窪に見えても実際は痘痕なわけで、色々面倒なことには変わらないわけです。元々飽きっぽい性格ですし。
結局満足すればそこまでなんですよね。満足したらその先はないわけで。後は下がるばかり。
人生山あり谷ありというかそれしかないというか。

それとまあ何ですか?私って意外にロマンチストよね、とか。
大笑いしちゃいますけどね。プライドは高いわ夢見がちだわ自意識過剰だわで大変なんですよ。実際色々と。
自分がニコニコニコニコ笑いながら幸せそうになるのが嫌なんでしょ。
馬鹿みたいに大したことない事でグチグチ考えてみたりしている自分に酔いしれているわけですよ。幸せって言うのは馬鹿に見えなくもないですからね。

自分って色々考えちゃうのね。あら凄い。私って少し不幸かもしれないわ。こんなこと考えちゃうなんて。でもそんなこと気にせず頑張るワ。

自分の気分を多少よくするためには少しの不幸とお膳立てが必要なわけです。
その役目は友人にやってもらうとして、不幸は自分の都合で思い込み。
そんなの大したことじゃないでしょ?とか言われたらそうだよね。私おかしいよね。とか言ってみたり。
内心では「こんなこと気にするのは私だけなんじゃない?私ってトクベツ?だったら気づかないあの人って低俗?」なんてね。

気持ちよく一人で自分の作った他愛もない不幸に酔いしれてみたり。ついでに興味をなくしたとか言って面倒くさい事柄から逃げてみたり。
でもそういう人間ほど『逃げる』という言葉を使わなかったりしてね。
ああ、でも逆に大きく使用して言い逃れを作るのもいいかもしれないとか思って実行してみたり。
大笑いなほど滑稽さ加減を前面に押し出して独りよがりに「何でこんなことしてるのかしら。何で私生きてるのかしら」とか考え出して、後々思い出しては自分で自分を罵る材料にしてみたり。

世の中無駄ってないもんですね。すごいなあ。
都合のいい頭というよりも人というのはほとんど無駄を作らない生き物なのかもしれない。とか考えて、そういう人の生きてる世界なんだからそこからしてもう無駄のない世界なのかもとも思う。
そういうくだらない日々の空想から自分の欲しい答えを自分で出しては「こうじゃない」といってまた悩む。悩むのはいいことらしいですよ。
考えるのもいいことらしい。逃げるのはよくないとかね。
こういう定義はどこから来るんだろう。
少なくとも逃げるのは駄目だというのは一生懸命逃げてもゆっくり逃げても結果的に極めれば死んでしまうからなんだと思うのですが。
死んだら終わりなんですよねえ。死んだら元も子もないって言いますが。
そんな事言ったって必ず死んじゃうのに中途半端は駄目なんですと。

もうすぐお客さんが来ます。
そしたら私はこんなこと考えもしないでその人に対応し、そんでもってその人が帰ったらまた一人で部屋に篭るか風呂に浸かるかして「私って不幸ね」と思うわけですね。
延々それの繰り返し。
大抵のことは飽きたり面倒くさくなったりするのになんでこういうのってやめられないんでしょうね。
仮定となりますが、こういうことは本能という名前で呼ばせていただきたいですね。


2002年02月19日(火) 昔日記

毎日毎日寝ては食べて食べては寝ての繰り返しです。
外では雪が降っております。昨日も降っていました。今日も降っています。
毎日寒いらしいです。でも私がそれを感じるのは布団から出たときと風呂に入るときくらいなものです。
少し外にも出ますがね。ほとんど出ないです。
そんなもんだから腹の肉が今つかえて大変です。座ってると。
そのまま温泉に行くと思うと涙が出ますね。つーか1週間切ったし。
楽しみですねえ。することしないのは相変わらずですが。

相変わらずといえば最近特に頭がとろけそうです。
なんにも考えていないと言うか…いや、別に考えていなきゃいけないことは無いのですが。
ないってのも悩みがないんだなあと自分でのんきだと思います。実際のんきだ。
悩みがないのは良いことだとは思いますが(無駄に疲れることもないし)なんて言うのですかね、どんどんアホになっていくような気がしてなりません。
つーか元がアホなのでこれ以上アホになることができるのかもまあ疑問なのですが。
やらなきゃいけないこととか考えなきゃいけないことを放棄しているような気がしてなりません。

ということで本日のお題は『逃げる』です。

逃げてばかり?私の人生ですか。冗談ですが。
いやしかし、悩みがないのが悩みだなんて笑えないですね。
実際の問題は悩みがないのではなくて頭が悪いことなのですけれども。
頭が悪いのが悩みでも、頭が悪いのですぐそのことを忘れるんですね。鳥のような頭の持ち主です。
すぐに忘れるのは私の性分なのか、私の中の護身法なのかはわかりませんが、どっちにしてもあんまり歓迎できるようなことではないのです。
私は無駄にプライドが高いんです。
あんまり直な言い方もアレなんですが、普段私と関わってくださる人たちは(学校の友達ではなく)普通に話してくださるけれども私よりも数段上の人たちなのです。
私は常にそれを片隅でも良いのでとどめて置かなくてはならなくて、(自分が後で恥をかくからなんですが。そういった意味でプライドが高い)どんなに仲良くなっていただいたとしても自分は仲良く「して貰っている」と言う認識を忘れてはいけない訳です。
いっつも忘れていっつも思い出して「ああそうか」って思っての繰り返しですが。
言い訳をすればそんなずっと意識していたら仲良くなんかなれないのですけれどもね。

まあ簡単に言いますと、その「忘れる」と言う行為が私的に「逃げている」と言うことになるのではないのかなあと思うわけです。
私は逃げることは悪いことではないと思っています。
そういったことはきちんと妥協というかなんというか…それこそ逃げているのでしょうが承認するんですよね。
でも、私は逃げることを無意識にするのはあまり好きじゃないんです。
逃げるときは効果的によりよく逃げる!そのためには認識していることが大切なんでしょうね。というか恥かきたくないのです。
まあ逃げるということの定義も人それぞれですが。
常に人に言われる、指摘されたときに開き直りではなく「そうだよ」と言いたいと私は思っています。(自分的にそれで解決!頭悪ー。非生産的です)
そのために私はいろんな事から逃げているという認識をしておきたいのです。
認識したって逃げは逃げだって話ですが。でも別にそれで良いんです。
私は逃げることを承認しているんですからね。

ただ自分が承認しているのだから他人には何も言うべきではないのです。
私は私が逃げることを承認しているのだから、他人が逃げて私に被害にあったとしても「しょうがないよね、もっともだ」といって容認しなくてはならないわけです。
それができないのならば「逃げていることなんか一切ない」と自信を持って言えなければならないような人間になるべきだと私は思っている。
なんというかまたしても小野不由美ですが、
「責難するは容易い」
この言葉なんですよね。
逃げることを承認して、責任から逃れている私を、どちらも完璧にこなしていない誰かが責めたとしても私には意味を成さない言葉です。
同時に私が発する言葉も、本来意味を成さない言葉になるんですね。
それを分かっていていうのだから自分のことを棚に上げて「逃げている」わけで、私的にそれを解っているならばまだマシ、わかっていて言わないならとても良いということ。

涙が出ます。とよく私は書きますが、これもまさしく逃げですね。
涙が出たからなんなんですか。なんで涙が出るかって?
そんなの自分かわいさに決まっているでしょ?あら自分かわいそうね、ってやつですね。
自分の努力は棚に上げて他人が自分より容易いと思って(そうであることもありますが)自分は恵まれなくて可哀想ね、ってやつです。
自分もですが泣くのはずるいなあと思う。世間の認識的に。昔言われたしね。
同じ逃げでもそういうずるいことはなるべくなら他人にはしたくないものです。私がですが。
自分一人で浸ってるのならば後で笑えばいいですけどね。いつも恥ずかしいと思ってますよ、私は。(でも繰り返す)

結局私が逃げることを承認して、承認しているから他人も許すべきだというのはあくまで自分のためなんですね。
他人を助けて、「ありがとう」と言って欲しい。そういうものと一緒なわけです。
別に誉めて貰いたいわけではありませんが。どっちも自己満足だと言いたいだけで。
私が自分を承認しているから他人も承認しますよ、私の言葉はとても軽いんですよ、とかいうのは他人からは解らないのです。
だから最低限の世間の常識がないと生きていくにはだめなんですね。

そこでなんで生きてるのかなんて言ったらまた無駄なループですが。
そんなのは個人の解釈の仕方次第ですよねえ。NARUTO…だから私にはよくわかりませんが。なんなんでしょうか、岸本サン。きっと価値観違うんでしょうね。
なんでって言うのは「生まれてきたから」と言う事じゃ理由にならないのかなあ?と最近は思うようになりました。(逃げ)


2002年02月14日(木) 昔日記

アホなくらいする事もないですね。
する事無いと逆になんにもする気になりませんよ。
時間がありすぎると言うことは全くないにも関わらず時間を浪費する私ですが。

今日も元気にパソコに向かっておりますよ。
ホント毎日毎日飽きもせずよくやるものですね。
そのくせやらなきゃいけないとまではいかなくてもやった方がいいと言うことは何一つできていないのだから本当に不思議なものです。
topを変えたり部屋の掃除をしたりエロ本処分したりしたいのですよ。
部屋のほこりがたまって汚いのですね。
気まぐれに漫画なんか描いている場合ではないのですが。(しかも糞つまらないときています)
同じパソコに向かうと言うのでも仕事をしたほうが良いと思います。

でもまあ口で(文ですが)言ったって始まらないのですね。
こうやって口ばっかりは達者なのは私がそういう人間だからなのでしょうかねえ?
ところでこういう人間とはどういう人間なんでしょうか?

ということで本日のお題は『定義』です。

今日もアホな前置きですね。
とにかくお題は定義なんですが。
定義とは言葉によって物事をハッキリさせるとか、そういった意味だったと思います。
例えば私を表すならば「怠け者で口ばかり達者な人間」と言うことになるんですね。
でもその中に使われている「人間」と言う言葉。
この言葉の意味はまあ一概には言えないわけです。
そこで出るのがこの「定義」なわけですが。

この定義と言う言葉自体を普段使わなくてもこの言葉は常に働いているのだと思います。
それも個人的な感覚、価値観によって。
悪いことだと言いたいわけではありません。
と言うか、これもまた迷惑な感情というか解釈をしてしまう原因だと私は思っています。
物事に関する定義とはどこまで決めるべきなのでしょうか。

私は「怠け者で口ばかり達者な人間」です。
これは私が決めた、私の定義です。
こういった個人的な定義というのは決めやすいとは思いますが必ずしも正解ではないわけです。
なぜならこの定義は人によって変わってくるからです。
人によって変わってくる定義を元に考えていくとなると、それはまったくもって予想、仮定と変わらないんだと思います。
万人が認める定義をつける、まずはここから始めることが正しい事を見つけることに繋がるのではないのでしょうか。と私は思う。

正しいこととは万人に認められる事柄です。
例えば人間についての定義。
人は生まれて死ぬ。とか、男と女がいる。とか。
万人が認めるとなるとそういうことしか定義付けられないのです。
私は人間についての私の独自な(とまではいかないけれど)定義を持っています。
この定義とは私が言っているだけで万人が認めるわけではないのです。
人についての定義で、私は「人は自分だけのためにしか生きられない」と言うことを考えています。
でももしかしたら愛情は自分へのものだけじゃなく、本当にあるものかもしれない。

相手に優しくする、結果自分も嬉しい自分も満足。ではなくて、相手に優しくすることができるのが人間です、と言う定義の付け方もあるわけです。
これは見方を変えると、と言う言い方と正に同じなわけだから定義付け=仮説に結局なってしまうのでしょうね。
そうじゃない定義とは結局人は一概には言えませんよ。とか。
つまり解りませんと言う結果しかないんですね。

個人的な定義付けはつまり諦めだと思っています。
割り切ること=諦め=定義。そんな関係なんだと私は思っています。
なんだかんだと色々書きましたが結局結論がこれ。
…溜め息が出ますね。
色々やってみても結果が出なければ意味がないのが私的世の中の定義です。
これも間違っているんですかね?
言葉で表せるのはごく小さな事柄だけだと思います。
だから本が好きなんですかね。
物語は本当に小さな世界です。世界。なんだかんだいっても作者が神様。神様が居ると言うことは『絶対』があるんですよねえ。
そういうことが日々羨ましいです。


2002年02月09日(土) 昔日記

なんだか結構書くのをサボっていた気がします。
別にサボるとかサボらないとか関係無いんでしょうけど。本当は。
どうしたってここは自分のために書いているのだから書かなくなれば後で困るのは自分なのです。
どう困るかは解りませんが。
と言うのもここを(というか日記を)書くことの意味が私にとって明瞭なようで明瞭で無いからですね。
他の人はどうか知りませんが私は日記を書くのは日々のメモのようなものだと思っています。
私は物忘れが激しいので…

表の日記は主に行動を、ここは日々の出来事から思ったことを書いていっているつもりです。
別にポエマーな訳ではありません。(誰かに言われたわけではないですが)
ポエマーな日記って言うのは自分的に嫌です。
気持ち悪いというか…恥ずかしい??人の物も。
日記というものは個人の感情の現れであるのだから別に他人がどうこう言うモノでも無いのですがね、そうやって書いてる人は普段からそんなやって物事を考えているのかなあと思うと…恥ずかしいですね。
私は率直な意見というか物言いが好きです。
こういう人間は何か話を書くのには向いてないのかなあとよく思いますが。

話を書く人や漫画を描く人はみんな言葉が綺麗です。
つーか私が好きなのは大抵言葉が綺麗というか、わかりやすさよりも印象を残すような書き方をする人が多いです。
それと同じに多いのが、設定っていうのですか?
こういう話を描くための設定。設定があって話が成り立つのではなく、話を描くための設定を感じるものが多いです。
要するに必要性を求めているのですが。

でも人間を書くのならば大抵話がかぶるものなのですよね。
価値観の違いにより変わってはくると思いますがこれだけ昔から人について文や映画や漫画が描かれているのだから。
そこをうまくするにはよりうまい言い回しとか、設定のうまさとか。
つまり技術が必要になるわけです。
それが創作なんだと私は思います。

創作はいろんなものが昔からされています。
私はものを読んだり映画を見たりするのが好きです。
昔から人は自分の考えや意見、夢、希望などを形にしてきました。
それらのものがあるのにも関わらず昔から言われてきたことを私がわざわざ言葉にする必要なんかあるのでしょうか。
確かに昔のモノや、抽象的なものは解説がつきますが。
でもそのように書いたと言うことはわざわざ直接的な物言いからではなく感じて欲しいから作者はそうしたのですよね。

私が日記と言う名を付けてしていることは単なる解説に(しかも自分の)過ぎません。
私がしなくても世の中には今それを描くものが沢山でています。
私がしなくても。
そういうことは私が居なくても世界は全く変わらないんだということなんだなあと漠然と思いました。
悲観しているわけではなく。
特別になりたければいかにして技術を生かすかということと、どの技術が一番自分に合っているかと言うことなんですね。
でもどんなに頑張ってもダメなものはダメでしょうが。
なんの取り得もない人はいるものです。

世の中には必要のない人間もいる、と言いたいわけではありません。
私は要らない人間だとか、そんな逃げの言葉を言うつもりは全く。
人間には必要ない人間はいないと思っています。
個人レベルの話では居るでしょうがね。
ただ全ての人間の意義がそのままイコール価値には繋がらないとは言えると思います。

私がくどくどと言うことで得をしている人もいるかもしれませんが、それがお金になるわけではなく、私が居なくなればその役割を果たす別の人間が出てくるのだろうなあと思いました。
必要でない人間は居ないと思います。
でも人は必ずしもその人でなくても、その人と同じ役割をしてくれるのならば構わないのだろうなあと思いました。

今私を必要としてくれる人が私をいらなくなっても、(もしくはその逆も)新しい誰かが役割を果たしてくれるから要らなくなって、お役目が終わった私を誰かがまた要ると言ってくれるかもしれないし、今度は誰も必要としないような人間の役割かもしれない。
私がしなくても。
そういう言い方もできうるかもしれません。
でもそういうことではなく、自分がしていることを知っている人がいるのならば、それはその人の役割なんだろうなあと思いました。

長い上に訳の分からないこの文も本当に(言葉の上だけでなく)なにやら役割があると嬉しい。
私が書くことに意味が持てるようになったら嬉しいですね。


2002年02月02日(土) 昔日記

今日から学校ありません。
本当は昨日からだったのですが、私がアホなために今日になりました。
昨日(1日)は表でも書いたように雪が降っていて寒かったです。
私はコートを着込んでマフラーを巻いてまるで雪だるまのよう。
カッコ悪いですね。

で、今日(1日)は昨日から楽しみにしていた「ジャンヌ・ダルク」でした。
期待はあんまりしていなかったんですけどね、やっぱり声優違った。
朝新聞見たんでわかってたんですが。朴さん…
ミラ・ジョボヴィッチは松本利香がやるのが当たり前なんですかね?
でも「フィフスエレメント」が金曜ロードショーでやってたときは違ったんですよね。
まあそんな事はどうでもいいのか…でもカットされてた部分もありましたね。
ビデオ借りてこようかなあ。朴さんの声で「私につづけ」って。
かすれ声がやらしい。

内容。
この映画見るの3度目なんですよね。
好きなんです。何が?と言われると、救われるのが。
画面の彼女が救われることで、私も救われるかもしれないと言う希望がわいて、救われる。
信じる者は救われる。彼女が羨ましいですね。
「救うべきは体ではなく私の魂」と言う言葉。
色々考えると行き詰まるのですが、正にと言う感じ。共感はできます。理解はできませんが。
映画の結末は彼女が救われて終わり。だから好きなんですね。
何に苦しめられ、何から救われたのかというのはまあ人それぞれないけんでしょうが、私は私がそうだからでしょうか。
彼女は自分にある矛盾から救われたのだと思っています。
私にとって救いとは矛盾を許されることであり、希望とは矛盾をなくすことです。
それは本当にできることでは無いと思っていても、やろうとする。
もうここから矛盾は出てきているし、どうすることもできない。

どうすることで許されるかは人それぞれだと思います。
それがどうすることで決定するかはわかりません。
でももし、神が居ると仮定するならば、それは神が決めることであり、運命であり、生まれることから死ぬことに至るまで全て決まっている。
運命論ですが。
何をするにも自分が生きている限り自分の選択によって全てが決まっていくと私は思います。
どんなに自分で選択したとしてもその選択基準が神サマの決めたものならば全てはもう決まっていると思う。
私には居るか居ないかはわかりませんが。
いたとしたら救われる。居ないにしても救われます。
要はハッキリとする事が重要なのですが。

人は信じることができれば救われるのですが、(他人がどう思うともそんなことはわからなくなるのだし)それを信じるに値するものかを決めるのは自分です。
でもそれを決める価値観がすでに自分のものでは無いとしたら、救われるのも救われないのも既に決まっていることです。
許す者は誰か。
それは自分であり、自分を決定付けた神であると。
神が居るのならば。

リュック・ベッソン監督がどういう意図で作ったかは私には理解はできません。
でも私が監督の作ったジャンヌから思ったことは本当に単純なことです。
それ以外感じることもできないし、見ることもできませんでした。
彼女は理想を持って、理想と現実の間で信じた事との矛盾が生まれ、その矛盾をなくすために懺悔をした。
彼女にとっての救いは他人に許しの言葉を言わせる事なのだと思いました。
自分の矛盾を言い、それを「許す」と言われただけで許される。
それは神が決めた事であり、彼女が決めた事なのです。
すべてのことは行った時点でほぼ許されている。
全ては自分の決めた事なのだから。
でも救われるという意識を持つか持たないかは、ゲームのようなものなんでしょうね。

全てのことは自分の意志ではならないでしょう。
でも無意識に決められた事にもなにか必ず理由があるものです。
それが明瞭になっていないだけで必ず何かあると私は信じている。
例えば「神が決められた」と言うことも理由になっていると思う。
神が居るかは別問題なだけであって。

なんだかもう当たり前な事ばかり言っています。
でもこれは私の中で当たり前なだけかも知れませんが。
私は言葉にしなければ逃げていくような気がしてなりません。
だから書いています。
長い上にどうでも良いことですみません。

謝ることで全てが許されると思っています。
許されないと思うならばやっていません。
そんなものなんでしょうね。
それにしても言葉が…でないです。
言い出したらきりがないですしね。バカだ…


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