独白2
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2002年01月31日(木) 昔日記

今日は全く寒くてかないませんでしたよ。ホントに。
もう2月になると言うのにですよ。寒い…
でも今年は特に雪が積もると言うことも無かった気がします。
年々少なくなる雪。地球温暖化ですね。
みなさん資源を大切にしましょう。
とか言いつつも私は夜中に電気を煌々とつけ、パソコンを使い、灯油ストーブをつけています。
なんたることでしょうか!!はあ。頭が悪いですね。

人に言うことは簡単です。とっても。
ただ自分ができているかと言われるとなんにも言えなくなりますね。
自分ができて無かろうとなんだろうと文句自体ならいくらでも言えますが。
そういうのは自分勝手と言うのでしょう。
自分にできない事を他人に任せて、それができないとバカにするのは。
自分にできないことを認め、他人に請い願う方がまだましだと私は思うのですが。
それは価値観なのでしょうね。

所で2月1日に「ジャンヌ・ダルク」があります。
私はこの映画好きなんですよね。好きって言うか…うん。好きなんでしょう。
つーか吹き替え誰がするんでしょう!ビデオのままがいいですよ。
私は朴さん?あの人の声すきなんですよね。
ホントに吹き替えで見たときあの後半とか。ミラ・ジョボヴィッチに合う人だと思うのです。うまい。
あの映画後半とか終わりとか気分が悪くなるような感じが大好きです。
いや、気分が悪くなるのが言い訳では無いのですが…。ねえ。
正に自分の御都合で。臆病な私は救われます。

長くなりましたが本日のお題。『臆病』です。

私はとても臆病です。実際は何に怖がっているのかわかりませんが、臆病なのです。
自分でここの文を書き始めたとき、書いてるとき、本当によくそう思います。
私はここで自分なりの真実とか、自分を形成するものは何かとか、そのまま感じたこととかを書いています。
その書き方の気持ち悪いこと。つーかもうホント詭弁。
結局私は私の見たいようにしか見れていないのです。
言葉はいくらでも誤魔化すことができると思います。
私がここで書く文は自分的に真面目にやっているようで、自分にもここまでは正しいと思い込ませるような文の書き方をしていますが、本当にこれは詭弁でひとたび見方を変えれば脆く崩れ去るような砂の城なのです。
私が「ジャンヌ・ダルク」を好きなのはそのせいなんでしょうかね。

見方を変えてみると。
私は自分でとても逃げ道のある言葉をよく使います。
私が辞書を持ってよく言葉の意味を調べているのは臆病だからです。自信がない。
そしていろいろな事に対する言い訳をしています。
全く持って自己弁護ですね。都合の良いことにしか気付かず、見ない。

私にとって他人の」の指摘はたいして苦になりません。
この言葉ひとつをとっても見方を変えるととてもおかしい。
何故、苦にならないのか。
それは私が相手を見ていなく、元から聞く気が無いからだと思います。
自分に都合の悪いものは無意識に都合のいいものに変換するようにできているのです。
つまりは逃げです。逃げている。
それは端から見たらとても滑稽で、でも臆病な私は滑稽であることを認めて口に出す。
「無知の知」と言う言葉があります。
この言葉を初めて聞いたとき私は何か得たような気がしました。気のせいでしょうが。
無知の知というのはソクラテスが知らない事を知っていると言うことは他の人寄りもすこしばかり賢いと言う話だったかと思うのですが。

無知であることを知るとはきっと私なんかが「自分バカです」とか言ってるのとは全然訳が違うと思うのですが、私は少しばかりこれを聞いて安心したのだとおもいます。
私は世間的に価値の薄い人間です。
臆病な私は無知であることを知っているから少しは賢いのかなという根拠のない思い込みをして、それによってプライドを保っている。
つまり自分が真に地を這うような頭の悪さで無いことをひけらかしているのです。
あまりに馬鹿馬鹿しい方法で自分のプライドを守っています。
自分で無知と言い、それによって価値を付けている。
だから他人にバカにされればそれなりに怒り、諦め、自己弁護。

ここをなんのために書いている?
要するに自分が無知であることの言い訳。責任逃れ。逃げ道。
意味はないと言いつつも(自分的に)意味があるという。
要するに自分が特別だと思いたいが臆病風に吹かれた軟弱者は大きく言うこともできず、ただの文字の羅列にたより、自分の口からでは言えない事を言ったつもりになって悦には入っているのです。
パソコンや、ネット世界をツールとして使えていない。
誰にでもでき、顔も見えなく、普段の生活を知る人はごく僅か。
臆病者ですね。

何故自分をこんな風に書くかというと、私は臆病者で、ここに書くことで言い訳をし、他から指摘を奪うためでしょう。
他人に言われると頭にくる。(理不尽な怒り)だから自分は自分でわかってやっているのだよ、と言うわけです。

誰か開き直りと認めることの違いを教えてください。


2002年01月28日(月) 昔日記

※載せようか迷ったのですが、未熟な私は載せてしまいました。
個人的な感情です。本当に幼稚な。

時間が無いのです。
時間がないとはどういったことか。アホなことを言っております。
要するに学校に行くまであんまり時間がないと言いたいのです。
さっさと書けばいいものを…どうせ大した日記でもないくせに…。
最近他人様の日記をよく見る機会に恵まれます。恵まれると言うか…。
いくらでも見ようと思えば見れるんですけどね、面倒くさがりとでも言いますか、数ある中で私好みの人の(なんだそりゃ)日記を探すのは大変なんですよね。
だから私はいつも好きなサイトさんの日記を読むんですが、最近はとってもおもしろチャットによく顔を出すようになったので日記読む機会が増えたんです。
なんだかんだ言って私は日記とか他人の文とか見るの好きなんだなあと思いました。
そういうことだけは関心があるというか。

それというのも最近いつも通っていたキルメニイさんのサイトは閉鎖だし(元々仮閉鎖だったんですが)マキダさん所も仮閉鎖、住葉さん所は日記が消えるしでホント寂しかったんですよね…。
キルメニイさんのサイトはホントはた迷惑なお方達のおかげでってことで、腹立だしいこと限りなし、ですよ。
日記サイトさんを回っていたりするとよく見かける言葉汚く罵られたとか叩かれたとかそういう話。
今日もチャット覗いたら「精神系の日記はきもい〜」とかいうお題があげられてたとか。
そういうモノを見てると世の中割り切らなくてはならないモノが沢山あるもんだなあと思います。

つーことで本日のお題は、『割り切らなくてはならないこと』です。

私はいろんな事を割り切って考えてる方だと思うのですが、それはやはり至らないことづくしです。本当に。
割り切って考えなくてはならないと言うことは割り切れていないと言うことなんですけどね。
バカって言った方がバカだというのはバカの相手をすると言うことはその人本人も程度が低いんですよ、と言うことなんだと思いました。
昔の人は凄いなあと思います。そして私はバカなんだなあと思います。

下手にプライドが高いと言うことはとても無様ですね。
真にプライドの高い人間は非難と言うことをしないんだと思います。それの相手をすることすらバカだと見下しているから。
要するに叩かれた場合は見下す態度を取るととても合理的なんですね。
非難する方は相手にされなくて飽きる、非難された方は向こうが程度が低いんだと思ってプライドも保たれるし被害者になり得ると。周りは同情してくれるし。
そういうところはけっこう割り切ります。私は。
下手に出たからと言ってどうにもならないですしね。
自分という者は。ただ真摯な姿勢を演じることは重要だと思います。
この場合される方は他人に迷惑を掛けていないのが前提ですけれども。

でもそれは自分の身になったときのも有効なんです。
私が割り切らなくてはならないのは私が他人によって楽しみを貰っていると言うこと。
私はあくまで受け身です。消費者はあくまで受け身だと思います。
要求はしてもあくまで作る人の自由だから真に自分の欲しいモノを求めるならば自分で作るしか無いと言うこと。
それを怠る者はそれで我慢しなければならないし、そうでなくても消費者には「選ぶ」と言う権利が与えられている訳です。
それ以上を望むのは我が儘なのでは無いでしょうかと私は自分で思っています。

でも至らない私は正直に言います。

なんでやめるのかなあ?悪いことしてないと言うのならば誰に何言われてもやめないでよ。なんで私の楽しみをとるわけ?私が見ていると言うことよりも期待していると言うことよりも叩かれないと言うことが大事なの?それを認める認めないにしてもやめると言うことは見ていた私も程度が低いということ?

ホント無駄にプライドが高いです。無駄です。合理的ではありません。
昔のことにこだわる、無いものをねだるというのは。
人生は長いです。厭なことも沢山あるでしょう。
でも割り切って、うまくかわして生きていくのが合理的かつ理想的だと私は思うのです。
例えば気に入らない教師相手にもヘコヘコするのも賢いです。
それが出来ない人間が、どうして出来る人間をバカにできるのでしょう?
できないのなら出来ないで悪いことはないです。
ただ割り切って出来る人間は賢い生き方が出来る柔軟な人だと思います。
人を見下すのもまた完璧ならば合理的でしょう。
見下すというより憐れむ方がさらにいいと思います。
相手を憐れむ事で相手は利益を得ているからです。
喧嘩においてなら無駄な言い争いをすることもなく、例えば介護ならば面倒を見て貰えます。
憐れむ自分が好きだ、もしくはなんて感受性の強い…、それを思う人が介護するべき人に対し優しく接することが出来る。
結果相手は介護して貰い、自分は気分に浸れているわけです。
確実にいいことだと私は思うのです。自己完結。全てはそれだけに。

人によって価値の置き方が違うのはわかっています。
だから批判されたサイトさんの中には批判されないと言うことが、否定されないと言うことが他の事よりも価値のあることだったんでしょう。
「私を憐れむな」と怒る人も憐れまれて得ることよりもプライドの方が価値があったのでしょう。
人の価値観はみんな人それぞれです。
それをきちんと割り切らないではうまくいかないんですね。
私は未熟であることを知っています。割り切るべきなんです。私は。
世の中必要でないものはないと思いました。社会的悪もまた必要悪なのですね。

うまくいかないものですが。
批判的態度を取る人が低俗だと言いたい訳ではありません。
批判的態度を取る人を低俗だと割り切った方がうまくいく、ということです。
私が求める答えはきっと0か100なのです。
全てを捨てるか、全てを取るか。


2002年01月25日(金) 昔日記

なんつーかやはり寝っ転がって本を読むよりもパソコンに向かっていた方が肩は凝るみたいです。
ここ4日位寝てばかりでパソコンにも比較的少ない時間しか向かい合ってなかったので少し楽になりました。(もちろん当社比)
しかしまあなんて言うのですか。落ち込むとは言いません。逃げることばかり最近しています。
考えることの放棄。たちが悪いですね。
そんなやってぼけーっとしてるから麦茶を股間にこぼすんですねえ。
なんて間抜け…。ここのサイトの運営もなんか全て私が悪いのかなあとか。
まじめぶったところで糞の価値も無いです。言葉が悪いです。
別に私は真面目なつもりはないです。
どんなに一生懸命したつもりでもあくまでつもりであります。
あとから見ると穴だらけです。
最近はここを書くとき辞書を片手にですよ…
頭悪い…

最近シャーマンキングの17巻を買ったのですよ。表に書いたかと思うのですが。
やっぱりおもしろいのですね。最近のジャンプもかなりアンナが可愛くて仕方ない感じですし。
最近の、と言う言い方もどうかと思うのですけれど。ねえ、S籐さん。
アンナは前から可愛かったです。マンキンは前から凄かったです。
話がそれましたが。こんな所でこんな話をしても全くの無意味なのは知ってるんですが…つい。未熟。
で、武井さんは凄いと思うのですよ。凄いんです。
おこがましいというか、思い上がった話をさせていただくと、私が彼を凄いと思うのは、彼の描く主題?テーマ?(同じだし…)人生観とでもいいましょうか。が、私の持っているモノと同じである。
しかし私も持っているそれらのモノを、彼はきちんと世に出している、私はそれが出来ていないだけであってつまりは同じなんですよ。
凄いと思うのは私の延長線だと。
思っていると思うのです。

全くふざけた話です。

数日前の日記に書いたとおり、私は大きく見て人が不平等である事はないと信じています。
しかし、それは(言い訳じみた言い方ですが)大きく見た時であって、世の中、社会、それらを通じての感覚では無いのです。
上に書きましたとおり、私はおこがましくも武井さんと信条が同じであると思っています。(それは私の感覚で、彼の作品を見ての印象であるので、信条が同じである訳はないと知りつつも)
その信条が、本当に真理であり、真実であると言うことはありません。
少なくとも私はそう思っています。
しかし、その信条から描かれた作品が世に出て、多くの人がその作品に価値があると考えているわけです。
私もその中の一人であり、価値を認めているし、同じ事を思う。

でも私の書くこの文が同じ価値を持つわけでは無い。

なぜなら人は社会の中で平等では無いからです。
あれが悪い、これがいいというのではなく、人が社会適応性を換算したときに、価値が変わる、つまり平等では無くなるのだと思います。
才能、努力、そのようなモノがあって価値が生まれる。
価値があると言うことはお金になる、お金になると言うことは一人で生きていける。だから一人で生きていけると言うことは良いことと言われるのではないのでしょうか。
「生きているだけで価値がある」とはまわりまわって(他人の助けが必要だとしても)「価値があるから生きていられる」と言うことなのかなあと思いました。

でも人は生きている間に職を選ばなくてはならないし、先細り人生というか、どんどん選択の範囲が狭まるにつれて価値を感じることも少なくなるのでは無いのでしょうか。
私は今、選択の範囲をまた狭めるような立場です。
狭めたことにより価値のあるモノを育て、一人で生きていくためのモノを取得するべく学ぶわけです。
学んだモノは社会的に価値のあるモノで、そのモノに比例して貰えるお金が違ってくる、つまり私の価値が決まるのです。

それと私は随分前から絵を描き、文を書くことを選びました。
でも私はこれを社会的に価値のあるモノにしようと思っていません。(つまり職にする気は無いということ)
私はこれをお金に換算出来るモノではないと思うからです。(それだけのモノではない)
でもそれを表現する事に私が価値を感じている。社会が価値を感じていなくても私が価値を感じているわけです。

社会的に私は武井さんと同じ訳ではない。
彼の作品は社会的に価値があり、私のものは私的に価値がある。
人は社会に入ってこそ価値が(値打ち)が決まるのだなあと思いました。
たとえ信条がきちんとしてようとも、才能、努力が加わってできあがったものにだけ価値が生まれるのです。だから凄いと思う。
社会の価値観もかなり曖昧ですがね。

若さというのは本当に怖いと最近思います。
冷静に見つめる、信条を固めることにより頭が固くなろうと、限界を感じようと私は不安感からそうしようとする。
いろんな事に興味を持ち、若い人から見るとこれがつまらない人間なのだなあと思いました。
私もかなりの未熟なものですから若いと言えば若いのですけれども。
夢と若さは比例の関係なのかと思いました。


2002年01月21日(月) 昔日記

『価値観と正しいこと』

世の中大変なことだらけです。疲れた…
今日のこのお題…書いたらもうここの裏の意味がないというか、ここを閉めるときに書こうと思っていたお題なのですが。
アホですね。つーかこのお題はきっと絶えず書き続けなければならないと私はおもうのです。(そして同じ事をいう)
社会と私の接点というか、私がここに生きている限り考えなければならないことというか、意識していなければならない事というか。
全ての根元とでも言いましょうか。
私がわざわざ今日書くというのもここが日記だからなのです。
考えが纏まらないのできっと何度も日を改めて同じ話をするかもしれません。
でも私はここを自分の日記だと思って書いていて、誰がどう思ってもエンターテイメントなつもりはないのです。(悪意はない)というかなってないでしょ。

さて、今日私が実感したのは本当にありきたりなことなのです。
この前妹がどうしてもといって泣いているところを見たのですが。
私にはこの感覚が凄く不思議で、親にも「オマエはホントにそう言うところないからなあ。執着というのはないわけ?どうしてもこれがやりたいってことはないわけ?」と言われました。
私もそのときは自分にはこだわること無いのかなあと思ったのですが。
ただ生きているだけだと思ってました。
だから問い続けてるのかなとか。

そんなことはなかったんだなあ。
そして自分の感覚はやはり他人には理解できたくて、私はいつまでもどうしようも無い人間だと言うことがわかりました。
私は正しいことが知りたい。
でもそれを考えると同時に正しいことなんか無いのだと思いました。
本当に。
私の中の正しいことは世に通用しないのでしょう。
私がいくら友達に誉められたとしても私が選んだ友達なのだから認めてくれる人を選んだに過ぎないのでしょう。
だから見ず知らずの他人の意見が欲しいのだし、批判も批判として欲しいと私は思うのですが。

何よりも私が欲しいのは真実であり、正しいことなのです。
そして例え私が他のどの他人にバカにされても無様であってもこれだけは絶対に正しいと思うことがあるのです。
他人に間違っていると思われても、私には正しいことなのです。
これは私が考えて出した結果です。価値観なんです。
私がいるから考える。考えている私は真実なんです。
それを放棄すると言うことは私の存在意義がないのと同じです。
それを放棄する事は私には出来ない。
無様でも頭が狂ったように見えようと。
私は妹と違った所で価値を感じているだけなのです。
どれが正しいわけでもない。大きな目で見れば。ただ私の中での正しいことはある。
ただ私が価値を置くところがわかるというような、執着するような場面が無いから無いと思うのですね。少し見えずらいところに価値があると考える。
結局は価値観なんですね。

でも私は正しいことをハッキリとわかっているわけでは無いのです。
「これだけは」と言う物が私の中にあったとしてもそれが何もなくなった私の真実かはわかりません。
無駄な感情を入れずに、それでも正しいことを事実に基づいて話したいし考えたい。
何より邪魔なのはプライドですね。自尊心。
私はこれをなくして、人の話をきちんと聞ける人間になりたいです。
でも人の話を聞かない人間の話は聞いても無駄な気がしますが。
ただそうやって思い込もうと(自尊心が)させている場合もあるので一応聞くには聞いた方がいいのですよね。
でも私はやっぱり未熟な人間で、完成されたものにはほど遠い。
ほど遠いから理由もなく(あるとすれば自分と違うこと)自分が正しいと他人に言えるのかしら。
でも口に出さないと本当に正しいと自分で思い込むことができない。(と思う時もある)
ぶつかるくらいなら関わらない方がいいんですよね。
自分と違うことを言ってる人に対してバカにする必要なんて全くないわけです。
ただ自分と違うことをバカにしないとやっていけないんでしょうね。
私はそれを無くしたい。
そうすることでなにが正しいのかわかればいいのにと思う。
表では不思議に思うといっていてもバカにしているのでしょうね。
未熟です。
でもしたいことを全て出来るとは限らないし、努力も必要でしょう。

ただ私がそう言う姿勢をとっていても、私が一生懸命になっていても、他人は価値を感じるところが私と違うので批判はされるんでしょうね。
それが当たり前で、それに対して私が「理不尽だ」と怒るのは本当にお門違いなわけです。
それと同時に自分が常に正しいと言い張り、人に押しつけるのも全くのお門違いなんですね。
ましてや自分の中の優劣を優先順位を他人に押しつけて恩着せがましく物事を言い、人は平等ではないと言いきるのも私はおかしいと思う。(本人早く気付いてほしい。ここを見ることなんか無いだろうけど。言っても通じなかったしね。聞く気も無かったみたいだし)
人は確かに平等では無いでしょう。
ただそれは自分の中の順位であり、他人の中ですべてその通りではないのです。
人を地球規模で、宇宙規模でみて、人以外の何であると?
私にはそれがわからないし、小さな規模で(ましてや他人の順位)見た意見を正しいとは言いたくない。

他人が理不尽を受けているとき、私は私と違う意見だという理由から苛立ちとか見下す態度を取りたくなります。
でも私は本当はその態度を取ってはいけないのです。(よく我慢出来ずにする。私は未熟だということ)
他人がどうこうでなく、私が取ってはいけない。
でも、理不尽の対象が私ならば、例えば私が正しいことはないと思っていても、個人の問題だから、相手と私の問題だから自分の正しいと言うことをどんなに無様でも頭が悪そうにみえてもバカにされても言い続けるのでしょうね。
ここが私の執着すべき所で、喚き散らしてでもこだわり続ける所。つまり価値を感じるところなのです。

矛盾ですが。矛盾と私は思いません。
時と場合とでも言いますか。
やはり内と外の話なんですよね。
ただ内と外の感覚は個人によって異なる。

他人の大切な物なんかわかるわけが無いのです。
私がどうしても欲しかった言葉を、何故、あの人が言わなかったかと言うと、あの人の中で、あの人を構成するためにどうしても必要だった自尊心が、どうしても捨てられなかったのでしょうね。
私はその自尊心をどうしても無くしたいです。
自分の感情というフィルターを通しての見方は正しい物を見れないと思う。
でもそれと同時に私が人で、感情がある限り正しい事は見えないのでしょう。
見えたとしても私の中の正しいことなのでしょう。

他人に興味を持たれるというのは、より多くの人に興味を持たれると言うことはそれだけ自分と似たような(同じではない)人が多いということ。
その中にいるならば優劣、優先順位が出来ても大した問題にならないけれど、ひとたびそこを出ると感覚が違い、価値観がちがって衝突するのでしょうね。
必要なのは他人は他人であることをよく自覚し、常に気分良くいたいのならば自分の輪をつくるしか無いのだと言うこと。
人はこれを「井の中の蛙」という。
これは逃げなのですか?逃げることは悪いことだと?これはしてはいけないことだと?
それは私には声を大きくしては言えません。
それが私の矛盾であり、不明解なところでもあります。
私は凝り固まった頭のくせに、井の中出ていこうとして外からの叩きにあうわけです。
賢くない生き方なのでしょうね。

正に人から見たら本当に「だからなんだ」というここの文も、私には意味のあることなのです。


2002年01月20日(日) 昔日記

ホントに肩懲りすぎで死にそうです。
連日連夜ずーっと飽きることなくパソコに向かっている私が悪いのですか。
悪いんですね…。パソコに向かっているくせに日記書いてないあたりが何とも言えません。
何をしていたかといえば表の日記にくっつけたようなふざけたものを作っていたのですけれども。
ネットの波に乗るのというのもまた大変楽しいことであります。
いやー…ハリーポッターって大変ですね。

ああ、それにしても本当に…せつないですね。せつないというか…
今日も私は住葉さんとお電話していたのですが、彼女はとても聡明なお方だと私は思います。
いや、聡明であるのか?そうであると私はおもうのですが、もはやそれすら疑わしい。
矛盾した物言いですがそうなのです。
私は彼女を聡明だと思う。
でも彼女を聡明だと思う私が疑わしいわけです。

哲学は疑うことからとは言いますが…。
まあこんな学問は本当にすこぶる(というのは普通通じないらしい。とてもと言う意味)意味の無いことなのですよね。
しかし意味のないモノでも意味はあるのです。
大きな範囲で見た場合は意味がないのです。
でも私はここの日記でわざわざエセっぽい哲学もどきな日記を書いている。
哲学をして真理を言葉で表そうとするなんてモノは無駄なんです。
ただ私がここにある。それが全てを現していて、それだけが全てなんです。

私がここに存在している。
ただそれだけの事を言うのに、私という存在が、感情が、能力が、体がここにあるということを言葉にするのになんの意味があるのか。
そこに体現している、全てはここにあるのに。
生きている意味を説いて、なんの意味があるのか。
答えは大きな目で見て無駄なんですよね。(ここで私は無駄と言いきらないで問いかけの形を取る)
でも私には無駄ではないのです。
そこになんの意味があるのかは解りませんが、少なくとも私がこのことを問いつめると言うことは、私には意味のあることだということだと思う。
言葉で表すのはとても難しいです。
言葉で人(の全て)を表すというのは機械で人間一人を作る事よりも難しいのではないでしょうか。

例え話を。
言葉は機械です。人は人です。
機械で人を作るにはとても広い場所が必要です。それだけ人の体は効率よく出来ている。
そしてどんなに精密に、どんなに一生懸命頑張っても機械では(この場合生物的な部品は使わず鉄、ゴムそんなもの)人は作れないのですね。
当たり前です。基本的な素材が違うのですから。
要するに言葉では絶対に表しきれないということ。
でも例え人を作ることはできなくても、機械はそこにあるんです。
機能があるんです。実際に動くことができるのです。
言葉にそれは出来ない。
そこに体現する事すらできない。
そして元から違うもので現そうとする。
それはもう勝負はきまっているのですね。

『言葉で愛を確認しようともがき、結局、言葉に殺されたね』

今日ここを書く前にたまたま(というか毎日覗いているサイト様なんで…)読ませていただいた文にあったもの。
無許可なんですが…すみませんすみませんすみません!問題あったら消します。
話がそれましたが。
そうなんですよね。私は言葉に負けているんです。
私が頼っている言葉と絵。そのどちらも私に勝ものではないのです。
私の使う言葉は、私という体現するものの感情を全て表す事はできない。
言葉で感情を解き明かそうとして、結局負けてるんですね。
(使わせていただいた言葉の前後が必ずしも私の言うような話ではありません)

私が言葉を使うとき、わからない事、曖昧な事が出てきます。
私は仮説を立てるわけですね。
仮説です。合っているかもしれない。間違っているかもしれない。
でもどんどん進んで仮説の仮説、仮説の仮説の仮説といくと、最後にはなんにも残らなくなるんですね。
昔の人が精子(卵子かも)の中にはすでに完成された小さな小さな人が入っていると言ったのと似ていますね。
小さな人には小さな人が。小さな人の中の小さな人のそのまた中には小さな人が。
最後には結局なんにも残らないわけです。

でも私はここに体現しています。(無になるはずがない)
でも私はここに存在しています。(人類は随分昔からいた)

無駄だとわかっているのに私の感情は私に言葉にする事をさせるわけです。
無駄なのに意味があるのですね。

人の言う意味のあることとはどのようなことを言うのか私にはわかりません。
ただ私の中には曖昧な「内と外」(この感覚は小野不由美の屍鬼を読めばわかると思いますが…私の大好きというか…影響されたというか。そんな作品です)という感覚があり、その都度意味のあることかどうかなどが決まるわけです。

また長くておよそ日記とは言えないものになってしまいましたが。


2002年01月16日(水) 昔日記

おもしろ題名から始まります。
隣で親父が納豆を食っています。
はー…なんつーか眠いですね。今日S籐さんに「夜に寝ると眠くならないよ」と教えていただいたにも関わらず昼間寝た。
だから眠いのかしら。

今日はアレですよ。
マンガ本買ってきたのですねー。
久し振りにBLですか?いや、前から好きな雰囲気な作家さんのなんですが。
初コミックと言うことで買ってしまいました。
そこに(と言うか本の題名)「いとしいとしというこころ」ってかいてあったんですよ。
それを私はそのまんまの意味で取っていたのですが、「いとしいとしというこころ」→「糸し糸しと言う心」→「戀(恋)」と言うことだったらしいのですよ!
これはたまげましたね。
漢字って言うものには意味があるのだなあとか。
恋というのを辞書で引くと「恋しいと思う心」としか書いてなかったのですよね。
しかし漢字にはこんな意味があると。
そういえば「愛」は「心を受け取る」とか言うのも聞いたときありますしね。
昔の人は考えたものですね。

けっこう私は言葉遊び?というのかなあ。
そう言うものが好きなんですが、名前っておもしろいですよね。
いろんなものに名前が付いて初めて意味を持つみたいな?
いや、どうでしょう。
意味があって名前が付くのか。

ということで本日のお題は『名前を付ける』です。

名前を付けるというのは、つけた時点で言葉の策略にはまっているように思います。
策略って変な言い方ですが。
なんていうか…言葉の限界?
私が普段一生懸命使いたがる(私に)「滑稽」と言う言葉。
この滑稽と言う言葉にしても、(ばかばかしくて本気で相手をしていられないこと)私が思う滑稽と言う言葉が、他人にそのままの意味では伝わらない。
伝えようと頑張って、言葉の意味を説明しても、その説明でまた新しく言葉を使うから、延々説明しっぱなしに。
あー。名前がついた感情ひとつも満足に使えないきがします。

同じ意味なのに何個か名前の付いてる言葉。
これもまたなんというか…。
これはニュアンスで微妙な変化をだしているのかな?
どっちにしろ人の感覚で異なるわけですが。

名前を付けるという行為はとても安易でいい加減だとおもいます。
私はこの前本を買いました。
その感想とでも言いましょうか。感じたことなんですけれども。
例えば「コイツはバカらしいなー」と言う事も、ひとたび自分が思い込むために名前を付けたとする。
「愛おしい」とか。
そうすることによって、名前を付けた途端に「ばかばかしい」と見下した言葉は「愛おしい」と言う言葉にとって変わるのです。
いい加減ですよね。
山田詠美のいう愛おしいとは馬鹿馬鹿しいとか見下したような感情のような気がしてなりませんが。
それもまた私の感覚で感情に名前をつけているに過ぎませんが。

例え話をすると、名前というのはホットミルクの上に張った膜のようなものに感じます。
ホットミルクは個人の感情。カップは個人の体。
カップはいっぱい種類があって、ミルクは同じミルクでも成分が違うわけです。
でもみんな膜が出来る。
膜は名前で、みんな共通に出来るとする。成分は違っても。
感情があって初めて名前がつくわけです。
憎しみの感情も、本人がわけあって(例えばプライドだとか)愛情だと思い込みたい場合に出来る膜は愛情の膜なのですね。
同じ執着の感情も、個々のミルクの成分が判断基準だとすると出来る膜の名前が変わるわけです。
言葉と感情の境は曖昧です。
感情も言葉でしか言い表せないし思考も言葉で行われるから。
固まりかけのミルクは名前に入るのか感情に入るのか。
自分の話なのにわからないものですね。

なんだか今日も訳の分からないたとえ話と訳の分からない話。
だからなんだと言ってしまえばそれまでの日記(といえるのか)です。
言葉って難しいなあ。
私はいつも言葉の策略に落ちていて、言葉に負けている感じ。
無駄な勝負事なのかな。

測らずとも今日アップしたheisiの文となんかリンクしている感じ??
彼女と私の感覚の違いがよくわかりますね。


2002年01月14日(月) 昔日記

今風呂場でピアスを落として大慌てでした。
つーか長いヤツだからって油断してました。
一応人からもらったものなので。

明日は早いので寝ようかとも思いましたがバナナがあったので食って日記書きます。
誰もバナナ買ってきてくれなんていってないのにー!(私ぐらいしか食べない)
いや、食い物の大切さをもう少し噛み締めた方が良いでしょうね。私は。
つーかまずいものが嫌いなのではないのですが、やっぱ食べるのだったらおいしいものがいいのです。
当たり前ですが。無理にというか…お金無くても頑張っちゃうんですよね。
お金無いときはもはや食わない。…アホですね。
まずいものなんか食ってたまるかー!
って思っているわけでは無いのですが、食わないと言うことはそう思っているのでしょうか。
これってやっぱりプライドなのかしら。

本日のお題は『自尊心』ですね。

私はプライド高いくせに人から否定されるのはそんなに苦では無いというふざけた矛盾人間です。
例えば「オマエのやってることは無駄だらけでオマエに存在価値なんか無い」とか言われるのも結構苦にはならない。
つーかむしろ興味を引かれる。
私の頭はこういうことに関してはとても優秀なのかはわかりませんが、否定されるととても都合良く解釈するというか変換するというか。
便利なものですね。
プライドは高いけれど手段は選んでいられないという現状からこうなると言うこともありますが。
否定の言葉も楽しいものです。(変態ではない)

私が苦手で、一番自分のプライドの高さを思い知るのはそんな事では無いんです。
私の周りには同人やってるせいか年上の人が少なくありませんでした。
と言うか私とタメか上しかいなかったんですが。
私は若い人が苦手です。
というか年下…。
苦手というかね、ホント自分のプライドって高いんだなーと思うのが嫌。
だからといって年下の人を見ないとか認めないとか言うことはないつもりです。
ただ、私が年下の人を見ないようにすることはたまにある。

私は見ないようにすると言うことが逃げと言うか、プライドが高すぎるというのです。
ウザイ。
カウンタの話でもそうですが、最も考えなければならないことは、私の歳や相手の歳、表に出ている数字などではないんです。
それをわかっているのに私のくだらないプライドから正しい(正しいと言うのもおかしいですが)見方ができないというのは本当にくだらない。
結果的には自分にも良くないです。

見えていないというと身内。
私は自分の周りの人たちが凄い人たちだと思っています。
でも私はくだらないプライドを持っている。
私は私の持っているプライドから正しい見方が出来ていないかもしれない。
プライドが高く、自分を特別と思うと言うことは、自分の周りも特別だと思うと思います。
自分が仲のいい人なら特に。身内贔屓ですね。
私は私が特別でないと言うことを知っています。
ただ、これは「他人にとって」私は取るに足らない人物だと言うことで、「私にとって」私は特別ではないといっているわけではないのです。
内と外。
知っていてもどうしようもなく、その結果身内贔屓が起きるんですね。
私がそのくだらないプライドから仲のいい人たちを正しく見ることができないというのは滑稽というか無様というか…失礼なんでしょうか。
近くて遠い。
赤の他人だったら本当に客観的に見ることができるんでしょうね。
自分が関わった時点でもう客観的には見ることができないんです。

私は身内の人を買いかぶっているんです、ということが言いたいわけではなく、私のくだらないプライドがあるせいで正しく見えていない(おかしな言い方ですが他に適当な言葉が思いつかず)かもしれないといいたいのです。
では真実とは?と言われると痛いですが。
人の感覚とは曖昧なもので、大勢の人がいいといっても全員がいいとは言わない。
真実と言うものはわからないものなのかもしれません。
少なくとも自分に対して自分が弁護していると(私は思う)いうことがある限り、自分のことであっても判断の基準が無くなるわけだから真実はわからない。
疑いだしたらきりがないですが。

真実に一番近いのは事実を見た他人の意見だと思います。
ただそれも近いというだけで真実では無いと思います。
個人の感情がはいってきますから。
必ず信じられるというものは、私がここに存在して、考えていると言うこと。
「コギト・エルゴ・スム」ですね。
そこにある。あると言うことは事実では無いかもしれないけれど、あると「私が思う」ことは真実だと。

ここでの私の落とし穴というかここが無駄なことの証明というか。
あると思うのは真実。
では何故あるのか。
そこを考えるから無駄な循環になるわけですね。
私がこう思う、といっても証明のしようがないから絶対に憶測の域を出ない。
私の中の真実は他人の事実にはなり得ない。
私は私の無駄な感情というか保護の感情があることを知っている。
だから私の中の真実が、私の中でさえも真実かどうか疑う気持ちが出てくる訳です。

きっとこうやって疑うことすら完璧ではないからこそなおさら。
無意識に疑わずに認めていることもある。気付かないだけで。それが何かはわからないからこそ。

どんどんお題を無視して話が進みます。お題をつけなきゃいいのかなー…
あー…しかし倫理取っておけば良かったな。
本当に。なんで私のコースは倫理とれないんだろう。
つーか倫理って文系なのかよ!?
独学で勉強したいところです。

全ての事柄がハッキリしていなければ判断は出来ません。
私がすでに勉学(学校で学ぶこと)を放棄している時点で私の中での真実は既に見えないと言うことが約束されているんです。
全てにおいて中途半端。

ところでカウンタ回ってます。
ホントに私は自分一人で回す気満々だったので嬉しい限りです。
ありがとうございます。
堅苦しく無駄にありきたりなことを難しく書いている誇張日記ですみません。


2002年01月11日(金) 昔日記

結局昨日というか今日というか…寝ました。
ホントはここを書こうと思っていたのに寝て、学校行ったふりして、本屋行って、パン食べて今に至ります。
書いておけば良かったなー。
なんか12月はパソコンが壊れたり長期で家を空けていたりとあんまり書けなかったので頑張ろうと思っていたのですが、よの中うまく行かないと言うか、人というのはそうそう変われないのですね。

で、今日は本を買ってきたのですよ。表にもかいたのですが。
いやいや、マンガ本ではありませんよ。
久し振りに買ってちょっと嬉しいですね。本。
私は本屋にいるとホントに1日そこで時間がつぶせるくらい本大好きッ子の本の虫です。大分偏っていますけど。
でも読んだ本は少ないですね。好きな本を何度も読むのが好きなんです。映画もですが。あと好きじゃないとあんまり印象に残らないというか。
今日は根暗なくせにまだ読んでいなかったのかという太宰治の『斜陽』と前々から読んで見たかった山田詠美の『蝶々の纏足・風葬の教室』『色彩の息子』を買ってきました。
まだ全然読んでいないんですけどね。よかったらたぶんここで感想とか書くと思いますが。
まーなんて言いましょうか。
これは文庫3冊なんですが、ご飯をよく外食ですませ、(今日もジョ●ンのパンだ)なにかとお金をよく使う私はアホですね。
新潮文庫の本は安いですけどねー。
もっと私は貧乏だと言うことと金遣いが荒いと言うことを意識していなければなりませんね。

つーことで本日のお題は『意識しなくてはならない事』です。

私は本を読むのが好きなのですが、(クラスの中でも1番かもしれない、なんて)気分が乗らないと言うか、読まない時は本当に読まないんですよね。(でも活字に触れているのはパンピのこよりは多いと思う。なぜなら私はオタクだから)
でも一定時期とまではいかなくても本がどうしても読みたくなる事があるんですよ。
そう言うときはホントにずーっと本を読んでいます。授業中は寝て、家でもバスの中でもずーっと。
それはある時は自然に、ある時は意識的に作り出されるような状態なのですが。

私は頭がとても悪いのです。
だから本を読む。
私は常に意識していなければならないことを忘れがちです。
私は本当に思い上がった頭の悪い人間であることを常に意識していなくてはならなくて、世の中にはたくさんの人がいるという事と、私の存在が絶対に特別になることは無いと言うことを意識していなくてはならないのです。
本を読むことによって、それを思い出して、私のこの足りない頭に新しい空気とでもいいますか。
新鮮な空気を入れることによって腐れかけた頭の中身をどうにか保っているわけです。

私は何事にも関心が少ない方なのですが、それでも自分なりに「井の中の蛙にはなりたくない」とか考えるわけです。
関心が少ない人間というのは今置かれた状況だけで満足して、井の中の蛙になりがちだと私は思います。
だから。私は本当は周りに目を向け、広い感覚で外を見るように意識しなくてはならないのです。
出来ていないのですが。

私は自分の性格、能力、思考から自分がいかに器量のない人間かよくわかります。
自分で限界を決め、臆病になるくせに、私はプライドばかりが高い。
それを意識しなくてはならない。
私は他人が虚勢を張るのを見ていると、とても滑稽に見えるときがあります。
というのは、気になる人間と気にならない人間がいるのですが。
私は私が虚勢を張っているのがとても滑稽で仕方ない。
だから常に自分を下に持っていくようなことを意識しなくてはならないわけです。
意識しなくてはそうやって持っていけないというのは、私がプライドが高いと言うこと。

自分が滑稽であることを他人に知られてくないから下に持っていっているのに、そこでプライドを覆い隠すようなことをしてればそれもまた滑稽だ。
結局は隠していることには変わらない。
ただ私は私が「頭が悪い」と言うことよりも、「プライドが高い、虚栄心が強い」と言うことの方が恥だと感じるわけです。
他人に言わせれば同じ事でも私の中では違うらしい。

何よりも意識しないといけないのは考えることです。
私は本当に頭が悪いというか感受性が無いというか。
何を見ても、何を読んでも考えなくては本当に無駄になってしまうわけです。
私は意識しなければ何を見ても大抵特に考えることなくようなボンクラ頭の持ち主です。(これは遺伝のような気がする)
全ての事柄は信じること、思い込むことから始まると(私は思っている)同じように、読んで、見て、それだけではなく考える。
そこから始まるんだと思います。
自然と良いものはよいと感じられる人が羨ましい。
私はそれを出来るだけの感性を持ち合わせていなかったみたいです。
だから自信がないのですね。
好きと言うことに。この話はまた後日しそうですが。
なんだかんだしていなかったリンクの話ですが。

私は裸の王様みたいな人間だと言うことを、ここで書くことによって更に意識するわけです。
意識してるから滑稽で、していないと身動きがとれなくなって、だから演技過剰のバカみたいになるんですね。
生まれつき頭が良くて感受性がつよかったらよかったのになーなんて無駄なことを考えてみたり。
考え方が違ったりこういう道を選ばなければ良かったなんて言うのも後の祭りですけどね。

取りあえず不幸に酔いたい訳では無く。
客観的な感覚で書いているつもりでした。
意識して。


2002年01月07日(月) 昔日記

両親が私のために(とは言っていないけれど)饅頭を買ってきてくださったので食べています。
またしてもこんな時間。はー…早くもヤバイ。
つーか昨日今日と私は多大に迷惑を掛けたS籐さんに対し、「ラーメン食べたいね☆」なんて今日の終わりに我が儘こいてしまいました。
そして食べる私。
昨日は昨日でパスタを食ってすき焼きも食べる私。
そりゃあ太り増すとも。
「だからふとるんだよ」と冷たく冷静に適切な判断をheisiは私に下してくれました。はは。
つーかなんか8日から学校みたいですよ。
私はそんなことなどつゆ知らず。教えてくれたhaisiに感謝ですね!!
私は感謝しております。しかしねー。
どうやって表現したら良い物か。
私の心は開いているんですよ!彼女に対して!
Opten My Haert!!(私の心を開け!だし)

つーことで本日のお題は『表現すること』ですね。

数日前のS籐さんの日記にかぶってるような気がします。すみません。

私は好きな人には好きだ!と言う態度を取る方だと思います。
でもホントに人の価値観とは恐ろしい物で、私が好きだからこうする、と言うことが必ずしも相手の人に伝わっているとは限らない物です。
私は私で一生懸命に表現しているというのが相手に伝わらないのは切ないけど、きっと私はそのうちに疲れてその人を諦めてしまうんだろうなーとおぼろげながら思う。
私はどこまで行っても私で、相手はどこまでいっても相手なのだから、ある程度の時間を掛けても伝わらなかったらそれは一生伝わらないんだなー、と思いました。

私が良いとおもってしたことが、相手にとってあまり良くない事だとしたらホントにサイアクですね。
そして価値観が違えばそれはずーっと続いて、理解されることはないんです。
私は面倒くさがりと言うよりも本当に根性が無いというか。
そんな物なのですぐに諦めてしまうわけです。人も。
あきらめの表現もすぐ表に出るんだろうね。
片思いは基本的に好きじゃ無いですから。でも私は片思いだらけだなー。
自分の首を絞めてる感じ。仕方ないけど。

まあ好きを表現するにも色々ありますが、基本的に男女間で行われるのは性行為(かしこまった言い方だ)になるんですよね。男女とはかぎらんが。
なんかこういうイタターってこと日記書くのはどうよ、とか自分でも思うんですけどね。
やっぱりなんだかんだと言ってもマンガ描いてなかったら(今もこれ書こうかマンガ描こうか悩んでこっちにしたのだけれど)ここで書くしかないんだよね。
自分のためってゆーか私信っつーか。卑怯な手だけど。
私がこういう世界でなんか創作活動とかしてるからにはやっぱりよく考えちゃうような話なんですよ。
私は意味というか理由が欲しいから。

少女マンガの世界でもこっちの世界でも、やっぱりsexしてるシーンっつーのは付き物なわけですが、これって『相手が好きだからする』んだそうで。
基本的には世間的にもそうなるんですよね。
特別だと思い込んでる。
だからマンガ描くときの表現としてみんな描いてるのかな。
好きなことの証としてこういうことで表現するわけだ。

個人的な意見ですがね、私はこれ全然表現してないと思うんだけど。
相手が好きだからsexするんじゃない。sex好きだからでしょ。
だってね、sexが好きだと言うことの表現だとしたらそりゃーもー私sexしたい人だらけだ。
なんだかんだいって最終目的と言うんですか?一番親密度が高くなるためにはsexするしかない〜とか、「好きなら相手の体まで欲しくなる物だ」(ホントこの言葉には鳥肌が立つ)とか言うじゃないですか。
そしたらsex出来ない相手とはどーすんの。
私は昔からずっと思ってるけど『恋人』って言うのは「sexしてますよー」って公言出来る間柄というか、恋人と友達の違いって毎回sexする者同士かたまにするかまったくしないかの人だけど好きな人かの違いだと。
世間的には友達より恋人のほうが上なんでしょ。
sexしないと一生友達なんじゃない?
まあ世の中にはしないカップルもありますが。
それじゃあ友達とはどこで境界線を引くのでしょう?
少なくとも嫌いという事はなくても好きだという表現にはならないです。
私はこの手の、恋人同士が「好きならするのは当たり前でしょー」とかいいながら特別だと思い込んでるのを見るとホントに「バカじゃねーの?」とか思うのですが。
やってみたいからするんでしょ。自分と親しい方が安心できるしね。
だから好きな人とがいいとかいうんじゃないの?

お金とかも表現出来るになるんですかね。
私的にこれもどうかなーとか思うんですが。
好きじゃなくても「可哀想」でも金は出せるしね。
私は出せないだろうけど。
ああ。でもこれと同じでsexは好きな人とじゃないとダメ!とか言う人がいるのかな。

どうすれば表現できるものなんでしょう。
言葉は宛にならないし。
行動も疑いだしたらきりがないし。
表現は出来ないのでしょうかね。
「信じる者は救われる」
だとしたら私が「こうすることで表現出来る」と思い込まない限り答えは出ないんでしょうね。
私の好きなサイト様の言葉があります。(無許可なんですがっ!!)

「どうせ見付けた傍から斬捨てるでしょ?」

私がなんで上に書いたような表現方法が信じ込めないのか、何がそうさせているのかはわかりません。
制衝動はあるでしょう。
それが起こるのは「sexが好きだから」はよくても「相手が好きだから」は通用しない。
ここら辺のところがハッキリして欲しい。
私は、私が好きな人に何を見て何をしたいのか、私は何を見れば相手が私を好きでいてくれているかがわかるのか。
こういうところもハッキリして欲しい。
でもね、見つけた傍から切り捨てるんですよ。きっと。
私のいう「好き」は「執着」なだけなんですかね。
それでも「なんで」執着するのか、「なんで」この人じゃなくちゃだめだったのか、そうやって無駄に考えていくんだろうなー。

つーかお題完全無視ですね。
だいたい毎度毎度矛盾したことを平気で日々書き連ねすぎ。
1日1日は本当に別な日で、常に変化しているのか、私がただまとめられていないからなのか判断しかねます。
「一秒前の君にさえもう二度と逢えない」(by 槇原。無許可…)
正に。私も一秒前の自分にもう逢えなくて、おかげで矛盾が生じます。
言い訳ですけどねー…


2002年01月04日(金) 昔日記

「海の上のピアニスト」が今日あったんですねー。
失敗した!ビデオ準備しとけば良かったなー。
つーか今日はマンガ描くとかいっておきながら気付いたらこの時間で何にもしてない。
なんて意思の弱さでしょう。
でもそのかわりといっては何ですが「日記書きに100の質問」と言うのをやってみました。
おもしろかったですよ。最近100質やってばっかり。
それでね、そこのサイトさんに行ったら「空メール」ってのがあったんですよ。
そう言うのってあるんですねー。すごい!
カウンタついててもきちんと読んでるかわからないし、楽しいと思ってくれてるかはわからないってのは私も前からどうにかなんないかなーと思ってました。
そこで空メール!ああすごい。
私もそうですがメールって手紙と同じでホント出すとき緊張しちゃいます。
つい先日緊張しすぎてポカしたばっかりですしね。
でも空メールなら内容なくても「見たよ」ってことになるんですね。
凄いなー。

100質やってるときにね、思ったのは「悪口言われてたらどうしますか」って質問。
あれは…どうなんでしょう。
私は悪口と言うか…あんまり好きじゃ無いですが。(よく言う…)
回答をみたら「負け犬の遠吠え」とか書いてあってすごいなーとか。
つーか「この質問私のとこ見てるとしか思えません」とか言うのもあってビックリです。凄い…。
つーかこれこそですか?

と、言うことで本日のお題は『負け犬の遠吠え』です。

私この言葉あんまり好きじゃないんですね。
私が負け犬だからってのもありますが。てゆーか8割くらい。
つい最近オバアチャンからいわれたのもね、かなり堪えました。

私は普段ここでこうやって色々自分なりに考えてみたり反省してみたりしているつもりなんですがね、本当につもりなんだなーって。
糞の役にもたちゃしない、と。
祖母も祖父もホントに何にもないところから初めて、今は年金と、働いていたときに貯蓄できちんと暮らしていってます。
そんな祖母と、最近の若者について話していたとき。
「最近の若いコは何を考えてるのかわからないよー。なんにも考えて無さそうに見えるけどね」
と言われました。まあここまでは一般的な『オバアチャンと孫』的会話。
でも私は私の周りの人がきちんと考えていると思っているし、(学校の適当に付き合ってるコは知らないけど)同人屋だって考えている人もいると思ったから、祖母に「考えてるコは考えているんだよ。私だってなんにも考えていないわけではないんだよ」といったんです。

「考えているだけじゃダメなんだよ。行動に移して、結果が出ないと」

そう返ってきました。
ホントにショックでした。
私は今、こうやって祖父母は年寄りだからとか、時代が違うからとか。
そんなことで祖父母を憐れんで見たり。
父母の不器用な所とか、思想の違いとか価値観の違いとか。
そう言うところで軽蔑してみたりとか。
絶対してないわけない。
普段私は他人に対して本当に謙った態度を取りたがるけど、心のほんっっっっとに奥底で、自分に期待をしてない訳ではないんです。
だれだってそうでしょ。
ホントに期待してなかったら生きてないと私は思う。
私は卑怯に表に出さないだけであって、自分はそのテの感情とは無関係で自虐的であると思い込みたいだけなのです。

そんな一面を自分で垣間見た。
私はここで屁理屈をこねて、他人を軽視して、ただそれだけ。
どんなに高い思想を持っても、どんなにいい考えであっても、私の場合はホントに何度も言っていますが実行されていないのです。
それなのに年輩の、血縁者に対して軽視している。
彼らは私とは違う事を考えて、違う行動にでて、私が大切だと思っていることを全く大切ではないと思っていても、少なくとも。

少なくとも家を造って子どもを育てて自分で生活できているんです。

生意気に物事を言ってみたり。養ってもらっているのに食いつぶして(これはホントに…)みたり。
子どもの反抗期ですかねー。なさけない。

世界は私を中心に回っているわけではないと思っていても、私を中心に私の世界は回っているのです。
そして私が私の世界でしか通じない言葉を他人に言ったとき。
その人が私よりも一般的に優れているにも関わらず私の価値観で劣っているとき。
負け犬の遠吠えになるんですね。

そして私は口ではこうやって敬意を払っていても、自分の価値観によって劣っている人間は一般的に優れていても本当に敬意を払ってはいないんでしょう。
私は私の判断でしか世界を見れないし、私を通して見た世界は私の世界なんです。
世界の中心は私なんだなー…なんて。
これは今日マンガに書こうと思っていたネタなんですが。

話がそれてしまいましたが、私がここで何をいっても、今の若い人たちが何に悩んで何を考えてみても、結果がでないといつまでたっても年輩の自立している方々には『負け犬の遠吠え』なんだと思いました。
これは何もこのことだけではなくて、今、私がどんなネタを持っていても書かなければ負け犬の遠吠えなんです。
しかも描くだけじゃなくて、結果が出ないとね。まあ当たり前ですが。
努力が認められるのは小学校までだっつーの。
世の中シビアだ。
同人やってなければ、無駄なこと考えなければ。
それなら即物的になればいいだけなのですがね。
それすら出来ない私はいつまでも負け犬なんでしょうね。


2002年01月02日(水) 昔日記

途中まで書いたのに間違えて消してしまいました。
なんと言うことだ!!
つーか今親父が帰ってきたんですがズボンの下にパジャマ!!
パジャマきながら外出てきたんかい!恥ずかしい…
まあそんなことは置いておいて、今日は凄い雪です。
うちのあたりにしては、ですが。ホントそろそろ除雪車が出てくる頃ですかね。
私はあれ嫌いなんですよ。
朝方うるさいわ家の前に雪あるわで。

そうそう、リンクを1件追加とnaruto好きに100の質問やってみました。
リンクはとても良いところなんですよ。私がサイト作る前から通っていた所なのですが。
言葉がね、きれいなんですねー。
私は言葉が綺麗なところっつーかそう言うところが大好きなのです。
だからうちのリンクは好みが丸わかりというか。
なんで今更リンク貼らせていただいたとか、そう言う話を今日しようかなーとも思ったのですが、それよりも興味深いというか気になるというか。
そう言う物を見つけたのでそっちにしようかな。

最近ここの日記はホントに裏の必要が全くないのですが、(それは前々からいわれてたけど)それでも裏なんですよね。
例え昨日の日記みたいにくだらない事を書いてみても。
表には持っていく気はあんまりしないのです。

つーことで本日のお題。(久し振り!)『公開する事』です。

ここの日記は上で言ったとおり表にしないのは、ここを見て欲しくない人がいる訳ではなく、私にとってここは独り言の場なんですよね。
だから当然周りの人の名前も出てきたり、出さないにしてもわかっちゃうかなーってこともあるわけです。
なるべくわからないようにしていますけど。
だって実際の所は誰が見てるか分かりませんしね。
公開するってそう言う物でしょ。
例え注意書きをしていたとしても。
守る、守らない以前に見る、見ないは自由なわけですよ。
ネットで公開してるからには見られたとしても文句は言えないんです。

この場合一番たちが悪いのは身内より遠くて赤の他人より近い人らしいですが。
パンピの友達に見られても別に良いかなって最近は思うし。
つーかここはパンピの人も見てらっしゃるとのことですし。
オタクな所なのにむしろありがたいことです。
ここが裏扱いになっているのはですね、誰が見ても良いんですが、「私」に対して「あんなこと書いてたけど、これは誰について書いてるの?」と訊いてほしくないからなんですね。聞いても別にいいですが。
ただ聞いても答える気はあまりないです。赤の他人なら教えても支障は無いですけど、身内とか近い人に聞かれたりすると支障が出たりするから。
大したことではないですけど。
だから注意書きには「身内の方は見ないでください」とは書いてありますが、言葉通りの意味ではなく、見たよと言って詳しく聞かれても答える気には大抵なりませんよ、と言う意味なんです。

私は今までそういう意識でここを書いてきました。
そしてわざわざ入り口を探してくださるような方、つまり私に興味を持ってくださるような方に見て貰いたくて裏扱いにしたんです。
ある意味ふるいに掛けるような行為ですが。
確実ではありませんが効果はあるのではないでしょうか。
表に普通においてある日記をね、読んで欲しくない人に読まれて嫌だなーって思うのは良いけど、それに対して怒っていると言うことをわざわざ誰にでもよめるところに書くのはどうでしょう。
そういうことでホントに迷惑を被っている人もいるんでしょうし、ある意味悪質ないたずらでしょうけど、そういうのって仕方ないんじゃないんですか。
そんなに気になるのなら会員制にでもパスワード制にでもURL請求制にでもすりゃいいんです。
そう言うことをしないでおおっぴらに文句をみんなが見るところに書かれると脱力します。
要するに怒るだけの事でもないけどなんでこんなことするのかなあと力がぬける。
まあこれは私の個人的な意見ですが。
本人に直接言えないところが自分でももどかしいです。やなやつ。

公開する事はね、無意識に宛のない期待を持つことだと私は思うんです。
自分から率先して誰かに働きかけるのではなく、自分の事を好きな人を待ってる。
そこにからかい混じりの自分に嬉しい事を持ってきてはくれない人がきたら嫌なんですね。
公開したならば良いことだらけではないと思うのですが。
普段町を歩いても学校にいっても他人が自分に持つ意識はそれぞれ違うと思います。いいこともあるし悪いこともある。
それと同じで公開したならば相手がどんな意識を持とうが、書いてある内容を別な人に教えようがしょうがないと思うのですが。
嫌なら対策練ろうよ。自分で。

なんだか嫌な話なうえに長くなってしまいましたが。
私も人のこと全く言えない部分があるのになあ。
ある意味自分にも向けた感じですね。
明日はもっと楽しい話題を。


2002年01月01日(火) 昔日記

明けましておめでとうございます。
何度この言葉を打ったことか…いい加減に疲れます。
さて、でも新年なので。1月1日なので。
なんとかこの日付の間に日記を書いてしまいましょうかねーって。
一応特別な日らしいのでね。

私には本当はこの日がたいして特別な日では無いんです。
本当に。
昔はお年玉貰えて嬉しいなー、とかあったんですけどね。
いや、今年も貰いましてけど。
でも段々歳を取るに連れてホントにどうでもいいただの毎日の延長なんだなあと思いました。
というのもお年玉なんか貰わなくても全然お金が稼げるようになったし、親類ともあんまり関わらなくなったし。
本当にただの日なんですよね。
特別という感覚は、思うことで初めて生まれるんだと思います。
この日は特別だーって思い込む。
私はそれが出来ませんでした。
特別だと思い続けることは疲れます。
おいしいご飯を食べて、家族で集まって、お酒を飲んで。
…。煩わしいと言うよりも疲れるんです。私は。
歳を取ったのかなあ。
クリスマスはキリストの生まれた日なんですよ。
別に恋人が会う日な訳じゃあ無いんですよね。
恋人いないから(正直…)ひがんでるわけでは無いんですが。
むしろ私は特別な人って作りたくないぐらいなんです。
だいたいそっから特別な日ができたりするんだからホントに邪魔。

執着する事は疲れるんです。
執着し続けることができないなら私はしたくないし、私の根性では執着し続けることなんか出来ないことぐらいわかってます。
人に対してもね。努力はしていても生きてる限りずーっと執着し続けることなんか無理です。

ホントそんな感覚だからすこぶる正月ってヒマで仕方ない。
だから年賀メールなんか作ってみたりするんですかね。
ヒマだと一人でいるのが嫌で嫌で仕方ないです。
一人ではいられないくせにヒマではない(本読んでたりネットしてたり)時は他人を煩わしく感じたりするから私ってホント自分勝手だなあ。

時って言うのは常に流れている物なんだから特別な日と言う区切りは無いと思うんですよねー。
暇人の戯言ですが。
ホントここも戯言。
しかしもっとマトモなことを書きたいものですね…。
どうでもいいことばっかり。
明日こそ明日こそっていつも出来ないんですね。
ホント心が弱い。


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