独白2
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2001年12月31日(月) 昔日記

なんだかんだとパソコに触っていなかったからっていじりすぎ。
母の実家はパソコがない。まあジジババ二人なんである方がすごいが。
しかし私が滞在中に祖父はDVDを買ってきました。凄い。
パソコがあったら結構楽しそうにいじりそうだ。

で、久し振りなんですね。ここ書くのは。
なんつーかまあいろいろあって書きたいこともありまして。
思えば最近ずっと聞いていた槇原の曲の所為であったり聖なる夜の所為であったり冬コミケのせいであったりと。
まあようするに自分のせいなのですが。
懲りないですが酒が飲みたいです。
しかし私は一人で飲むのは嫌なんです。
我が儘というより寂しい(恥ずかしい言葉を惜しげもなく…)のです。
飲んだときはなんて言うのですかね、開放感ですか。
アルコールが入ると原始的な感情が抑制出来なくなるんですよね。
嬉しいというのは高等感情だそうな。
私はだったら原始的な感情を発散させるために飲みたいのかな。
祖母が私になんであんなおいしくもない物飲みたがるのといいました。
確かにどんな銘酒も本当に心の底からうまいと感じたことはなく、うまいというのは酒の中で飲みやすく、酔いやすい物が私の中の銘酒です。
地酒はうまいけど。八海山に越の寒梅。作りは一緒でも水が違うんだとか。
北雪は佐渡のお酒。手頃な値段で買いやすい。…って地酒自慢かよ!
とにかく酒は色々やらしてくれるんです。
大したことは結局できませんが。(突飛なことが出来るほど特別な人間ではない。)
誰にも話すつもりのなかった事を話してみたり。
聞いた方も楽しくないようなこと。
もう一人自分がいれば楽しいだろうなあ。
酔ってる自分を客観的に見ることが出来ますよ。

全然話変わりますが個人的な感情を。
私は我が儘で、(そう言うことを言うことが傲慢)つねにこうだったらいいのにな、とか考えたりするのです。
「こうしたい」ではなく「こうだったらいいのにな」で。
みんな普段こんなやって考えているのかはわかりませんが、私は『私が』こうやって希望的観測を持っていること傲慢以外の何者でもないと思います。
しかし私はそう思っていたとしても、徹底していない。
だからこういう考えに嫌悪感をもっているにも関わらずこういう考えがやめられないのです。
諦めているのではなく、私が嫌悪感を抱くのを含め、私の脳味噌はそれを容認している。つまり私はこの考えは正しいと思っているわけです。
話がそれました。
私が「こうだったらいいのにな」というのは要するに自分に対してではなく、他人に発せられるものなのです。
無条件に他人が、私にしてくれることを思っている。
「他人が私にこうしてくれたら私はきっとこうなれる。だからこうだったらいいのにな」そんな感じ。
でもこうだったらいいのになあと思っていても、実際に私に対して私が思って通りの事を寸分違いもせずに行われることはないわけで、さらに私は「寸分違いもせず」というほど細かく思い描くわけでもない。
実際こうだったらいいのにと思う行動を相手にとらせるには私からそう言う行動に出そうな人を捜して、そう言う行動をとるような言動をとり、そう言う課程から「こうだったらいいのに」という行動を相手がとるわけです。行動に移した場合。
私はきっと無意識にそう言う人を周りに好んで置いているんだと思います。

何が言いたいかというと。
現実では私が思った通りに行動する人なんかいなく、いたとしても自分がしむけたもので、さらにどうしても(無理だとわかっているのに)心から思い通りにした気分を味わいたい場合は下準備の課程を思い切り忘れるように自分を騙しているしかないと。
100歩譲って本当に確率は少ないが思い通りに言った場合、自分を騙して浸っている場合。
それはつまり私がどう足掻こうと一人で生きていると言うことを確認しただけで終わるということ。
私が他人にして欲しい、して欲しくない、というのはつまりそういうことなんです。
全てが私の思い通りになったならば世界は私一人でいるのと同じなわけです。

他人と自分の関係はいくらどこまで親しくなっても一緒にいても歯車のようだと思いました。
お互いに触れてるし、近いし、一緒に回っているけど絶対にかみ合わない。
かみ合ったら回らないんです。
そして回り続けたらガタがくる。
いずれ壊れるんですね。
それは早いか遅いかわかりませんが。
絶対にかみ合うことがない。
私は他人に嫌われるのは好きじゃありません。
大抵はみんなそうでしょうが。

友人がマンガで太一に凄いことを言わせてました。
「オレは人と別れることもオレが嫌われることも信じられない!!」
本当に、彼女は凄い。
私はマンガ描く時(特にカカサス)自分自分自分でまるで自分の事を描いているような気になりますが、彼女はそうじゃないんだなあ。少なくとも私よりは。

話がまた脱線しました。
とにかく、私はそんな風に声を大にして叫ぶことは出来ませんが、心の中で少なからずそう思っていることは確かです。
だから他人に嫌われるのは好きじゃありません。
だから私は他人に対して、自分に対して逃げ道を作ってしか接しられない。
自分にも!!
これもまた本物です。それが私だ。
そう言う言いかたもあるでしょう。
物は言い様だ。
私はそれを私だとは思っていないわけではなく、私が他人に対して常に見ているやり方で私が見たいだけです。
分割して証明したい。
こういう私がいる、こういう私もいる。
でも全部合わせて私なんじゃなくて、これもあれも全部私だと言う証明がしたいというか。
そうすることで八方美人が(あんまりないけど)自分に容認されるというか。

なにをいいたいのか自分でもサッパリになってきましたが。
いつもながらいい加減です。
なんていうか…我が儘ですが私にたいして私がわからないように表面的な接し方をして欲しいんです。親しい人に。
私がわからないように私と親しいふりをして欲しい。
我が儘だとわかっていながら言うあたり死んでしまえだ。しかしこれも私の脳味噌は容認している事柄だと言うこと。
私は期待(無理だとわかっていながら夢をみる)していたのにやっぱり自分は一人でしかないと言うのに気付かされるよりは騙されていたいんです。

でもこうやって他人にして欲しいことを求めていることから自分で、自分に、気付きたくない事柄に気付かされているんですよね。
そして私は自分のためでもこの下準備を忘れることは出来ないでしょう。
これは感情から出来ないのではなく、人間には出来ることと出来ないことがあるという単純明快なことからです。
能力の低い人間は大変だ。生き方が不器用。

なんだかホントにつらつら長く書いてしまったのですが誰が読むんですかね。
凄い。つーかまたしても少し私信入り気味。気付くのかしら、本人。
私は臆病なので直接本人に言うことが出来ませんでした。
いつだって肝心な所でダメなんですよね。
つーかお題を決めないとだらだら長くなりますね。
明日は決めようかな。きちんと。
って明日って1月1日じゃん。
はやいですねー…。


2001年12月20日(木) 昔日記

topが描けないので逃げ出してきました。
いや、つらつら描いてはいるのですがどうも気に入らない。
ああ。理想ばかり高すぎるんですかね。
つーか理想がハッキリしていないんですかね。
参った参った。
そんなこんなでまたここに逃げ込んでいるわけです。
潔くない。
今日はまたS籐さんとお話していたのですが、私はやっぱりいさぎよくないんだなあ。
わかっているけどきちんと言葉にすることが出来ません。
逃げてばかりというか常に逃げる道を作っておくような話し方をする。
そう言う言葉ばかり選んでしゃべってる。結構無意識?
だとしたら自分すげえ!

なんとなく今日の出来事を書いているあたりここはやっぱり日記なんだなあと実感。
自分のために書いていると言うのが最も強く出ていますね。
私は昔から自分の日記はかたり口調でした。
まあ考えてみると気持ち悪いけどアンネも日記に名前付けてたくらいだから別に変でもないのかな?
他人のプライベートの日記なんか見たことないからわからないよ。
とにかくここは日記なんですね。
私がどんなにがんばって言葉を使っていていても完成はしない。
なぜなら私は日々変化しているはずだから。
ここは私が自分の考えをまとめる場ではなく私の成長過程とでも言いますか。
今日はこうだ、昨日はこうだった、みたいに変わっていくさまを比較するばなんだよねぇ。日記なんだからさ。
無理に答えを出そうとするのがいけないのですか。
本当は無理なんかしてないつもりで無理をしてるんですかね。

最近禅が学びたいです。
というか宗教まなびたいんだなあ。
なんつーかね、救われるかもしれないとか。おもってみたり。
でも私は何かに捕らわれているつもりはあんまりないです。
だから救われると言うのが実はわかんなかったりします。
強いて言うのならばやっぱり生きることに捕らわれてるのかな。
そのくせ自分の将来未来の類は全く思いつかないです。
だから生きるのに四苦八苦するのかな。
いや、未来は見えるものではないですが。
単に目標がないと言いますか。
でも私は今の自分の生き方では目標なんか生まれようもないことはわかっています。
生き方を変えるしかないんですね。
宗教は私にそのきっかけをくれるかどうか。
それが救いになるかもしれない。
というかそれが世に言う救いなのかな。

全てのことは信じることから始まるのですか。
哲学は逆なのかな。
学がないので判断しかねる。
勉強は全くの無駄ではないわけだ。
大いなるご先祖様の残した偉大なる実験結果みたいなものなんですかね。
それを学んで始めて判断ができるものなのでしょう。
つまり0か100しかないんだな。ホントは。
ただそこを曖昧に過ごしていても全く生きていくことに支障がないのでしなくなるんですね。

まあ私が日々考えていることはほとんど生きていく上で必要のないことなんですね。疑って型はめ込みたがる行為、考え。
疑うことなかれ。信じるものは救われる。
羨ましいことこの上ない。
信じるものは救われるというのは信じているから第三者によって救われるのではなく、信じている事によって救われるわけだ。

今日はホントは書かないつもりだったけど何となくつれづれなるままに書いてみたらいつもよりも支離滅裂。
だいたいここを書く前には風呂につかるのです。
「冷静と情熱のあいだ」ではないけれども私の逃げ場も風呂場とここなんだなあ。
明日も逃げるようであればきちんとお題を決めて。


2001年12月19日(水) 昔日記

なんかもう今日はホントにずっと昼間ねてましたね。
昼間というかなんというか。うーん。
学校帰ってきてから本を少し読んでそれから寝ました。
寝過ぎ!!もうかれこれ7時間も寝ましたよ。今日は。
おかげで頭が痛くなって薬薬…。バファ○ンは高いです。しかし半分は優しさ。
嘘らしいですが。

今日もtop絵を描かずに自由気ままに私はし放題。
しかし金が無いために買い物は出来ず。
つーか今日は面倒くさくて行く気になりませんでした。
明日行こうかなあ。
ああ。私は本当に戦線離脱者なので自由でいいです。
と言いつつも自由ってなんのことでしょう?
というかそもそも自由とはなんに対して自由なんですかねー??

ということで本日のお題は『自由を感じる』ですかね。

私たちは普段自由にすごしているかと思えば全くそんなことはないです。
例えば私が他の受験生と比べて全く勉強しないで遊んでいる。
しかし勉強せずに遊ぶことはまったく自由ではないわけです。
なぜなら人間と言うかあらゆる生き物には完全な自由なんてものは無いと私は思うから。
全てのものに時間というものが流れていて、死と言うものがつきまとってくる。
本当の自由とは何事にも捕らわれないものとすればそれが訪れるのは死後のこととなると思います。
しかしそれも必ずそうかといえばそんなことはわからない。
やったことですら私はわからないというのにやったことすら無いものをわかれというのは酷な話だ。そして死んだ人間は話しもしないのだから聞くことも出来ない。

でも私は他人から見れば自由だろうし自分でも束縛されているとも思えない。
まあ簡単にいうと制限付きの自由だ。そして多分私は私のクラスの人たちよりもほんの少し制限が少ないにすぎない。
それでも完全な自由といかなくても自由は自由なのかもしれない。
ただ私にはよくわからない。
望んで自由になるほど束縛されていることを意識したことはない。
いろんな所で私たちは束縛されているにもかかわらず、だ。

自由を感じる時というのは束縛されたものから解放された時だ。
そして自由を求めるときは何かに束縛されているときだ。
私は普段学校に行き、ご飯を食べ、人と話し、考える。
逆をいえば、私は学校に行かなくてはならない環境にいて、人間として生きるためにご飯を食べなくてはならなくて、世の中には他人がいて、一人では生きられないから他人とコミュニケーションをとり、生きているから考える。
これは本当は『生きていること』に束縛されていると私は思う。
ただみんなそれを当たり前だと思っていて、当たり前に受け入れていて、束縛されているとは思っていない。
少なくとも私がそれを意識する事は起きている時間の中でごく僅かだ。
つまり私たちは(少なくとも私は)全くの自由の中では生きられないんだと思う。

自由を得るためには束縛するものを壊すしかない。
だから自由を得るためにはまず束縛するものを「作らなくては」ならない。
作ると言うよりももとよりあったものに気付かなくてはならないのかもしれない。
生きている限り私は束縛されている。
生きていて、私は自由だと思っていて、気付かなければ良かったんですね。
私は私の中の全ての感情にまず束縛されている。
一人では生きていけないから社会に入ろうとして、そこでの約束事に束縛されている。
しかもたちの悪いことにそこでの約束事を破っても自由を得たわけではない。

もしかしたら私は自由と言うものを得ることは絶対に得ることは出来ないのかもしれない。
気付いていないだけで、私は全ての事柄に束縛されているのかもしれない。
本当に。私はただ気付いていないだけなのでしょう。意識していないだけなのでしょう。
ただ私がそれを意識することがないから、自由は得ることはできなくても感じることはできるのです。
あるといえばある。
得られなくとも感じられる。

さて、それでも人が思う自由とは「自由」といえるのでしょうか。

今日もまた自分で支離滅裂なことを言っています。
頭が痛いです。
私はきっと黄身に到達することは出来ないんだろうなあ。
頭が悪いと言うことは大変だ。
生きていくのも大変だ。
人間は考えることが出来るから自由を感じることが出来にくいのかもしれない。


2001年12月18日(火) 昔日記

てゆーかもうとっくに始まっていたのでしょうがね。
なんか雪が本格的に降ってこないとそんな感じがしません。
まあ新潟寒い寒い言っても私の住んでいるところは大したことないし、もっと寒い所なんかいっぱいあるのはわかってますが寒いです。
ついにパソコン部屋にストーブ持ってきました。
今までなかったのが不思議だ。床暖あったからといっても死ぬ。

さて、今日はかえってきたのは少々遅かったですがなんとかパソコンでの改装作業とでも言いますか、それが終わりました。
なのでのんきにまたこんなとこ書いているのですがね。
つーか本当はtop書いていないんですがね。死んでしまえ(口癖)です。
いやー。それにしてもホントに変なサイトになりそうですよ。
ご友人の住葉都様はとても可愛らしくなおかつ素晴らしく改装なさってました。
凄いですねえ。ホント。私はセンスないのですかねえ。
センスといえば今日はS籐さんとheisiと買い物にいったのですが、これがまた大変だ。なにがって?私はセンスがないのですよ。正直な話。
だから困るんです。自信がないんです。自分の選んだものに。
そして私は隠れオタク(学校では)気取りというかなんというか。いや、知ってる人は知っているのですがそうなんですよ。
ホントに見かけを気にします。

つーことで本日のお題は『見かけ』です。

って前にも書いたっけ?それすら覚えていないとはなんたることでしょうかねぇ?
救いようがありませんな。

で、見かけですが、まあ大切なものですね。出会い頭の印象は大半が視覚で構成されるものだと思うんですよ。だとしたらホントに大切になってきますよ。
まずは中身より見かけなんですから。
いや、別に中身より先に見かけを磨けと言っているわけではありません。ただ大切だからぞんざいにしてはいけないものですよね、って話。

なれてる人相手ならばまあいいですが、そうでない相手には見かけを気にします。
いくら私でも。だから一生懸命服買ったりしてるんですね。
私はおしゃれの概念とでもいうんですか?自分一人で着飾って化粧してってのはないんですよ。ホントは。
ただ人前になると自分をよりよく見せるためには見かけを気にするべきかなって。
見せる相手がいなかったら化粧もおしゃれもしませんよ。
他人がいるからしてるんです。

私はオタクです。
だからといって好きなこと(最近はそれも妖しいけれど)ばかりをやっていたりして他が目に入らなくなるというのは好きではありません。
本を買うためにはお金が必要、だから全部の金を本に使いましょう。
そんなことはしませんよ。
見かけは大事なんですから。
特にオタクだから大切になってくるのかな。
サイトのデザインも気になるし私服の合わせ方も凄く気になる。
元がどうこうとかいう問題ではないのですよ。
ただ自分がどれだけ周りとの調和というか見聞が広げられるかというか、そういった感じに大切なんです。私的に。

ひとつのことに集中するのはいいことでしょう。
でもそれだけでは本当に視野の狭い人間になってしまう。
だからいろんなことをするんですよね。
で、私はオタクです。
しかし視野の狭い人間にはなりたくないんです。
だからみかけを気にする。
今年の流行は何かを知っているか。自分に何が似合うかを知っているか。大衆というか世間が、その場その場でどのような服装があうか、それに合わせる柔軟性を持っているか。
そんなことが見かけから結構わかっちゃうと思うんですよ。
ただ何度も言いますが、これはあくまでまずは見かけで判断すると言うのが前提なわけです。話せばわかるでしょ、とか、そう言う話ではないです。
で、見かけからそう判断されるのはわかっているからそうやって外ッ面も固めるわけです。

そういった基準で私は服を選んだり化粧したりしているんでまあホントに自分のカッコやらセンスやらに自信がないわけです。
簡単にいいますと他人のまねごとですからね。要は。
自分的にはホントの所どうでもいいんです。でも他人の手前そうは言ってられない。
そして他人の知識を借りて選ぶ。
自分がホントに選んだわけではないので自信がないわけです。

正直話結構美醜も私の中で曖昧ですね。
ただ私が好きか好きじゃないかはありますが、それは絶対ではないです。
まあこの世に絶対なんかないでしょうが。ある程度の支持があればそれがその時代の美醜の判断基準になるのは仕方ないです。
私はそれに半分流されつつも、「こんなことはまやかしのようなものだ」とおもっているから美醜が曖昧になる。
でも見かけを合わせるにはながされなきゃなんですよね。

ああもう何を言いたいんだかサッパリです。
風呂場では結構書くこと固まっていたはずなのになんでこう…うまく書きたいことが出てこんのでしょうかね。
つーか結局何が言いたいのかサッパリです。いつものことですかね。諦めましょうかね。
ただ私は自分の選択に自信がないのはどうしてかという言い訳がしたかったのですね。きっと。自分でよくわかっていないし。ああバカ丸出し。
ホント意味無いなあ。


2001年12月14日(金) 昔日記

とかいいつつも昨日はとても晴れていました。
一昨日は雪が降っていました。
今日は雨です。
つーか今日こそはtop描くぞー!というか更新するぞー!と意気込んでおきながらまたしてもここ書いています。そしてネットをしています。もう諦めてこれ書き上げちゃうよ。
なんなんだかなあ。ここは。
最近の内容の無さ過ぎは大笑いです。
だからといって前も内容があったというわけではありませんが。

話変わりますが、私は新潟の片田舎に住んでいるのですが、毎日新潟市に通っています。
片田舎に住んでいる私の発音は少なからずおかしいらしい。
田舎特有とでも言いましょうか。例えば、
「いちご」。正しくは「いちご」(↓↓↑)だそうです。わかりにく!!
しかし私の地元は「いちご」(↑↓↓)が多い。
同じく「イナゴ」。バッタの仲間みたいなあの虫ですよ、あの田んぼにいるやつ。これも同じ。頭上がり。って田んぼで最近イナゴみないなあ。農薬か!?怖!
そして「たまご」。

ということで本日のお題。『たまご』です。

なんて頭の悪い主題でしょうね。つーか無理あるっての。驚き。いや、しかし『たまご』なんです。
この前私がネット出来ずにヒマぶっこいて住葉さんにお電話したときに登った話題なんですが。つーか私が一方的に話してた。怖!
簡単にいうと『たまご』は人の深層心理?考え?底の底の原点とその上のもの?
そんなものを現して言っていたのですが。
泡の件もあるけど最近訳の分からない例えが多いですね。
とにかく私はここを書くことで自分を戒めていたり甘やかしてみたりもしますが、自分の中の原点、本当の行動の源は何かなあとか考えてみるわけです。正に無駄。
それがわかれば私の中で数式のような式ができると思ったりもしているわけです。

それでなんで『たまご』なのか。
ゆで卵の殻の中には膜があって、白身があって、黄身があるのは周知の事実です。
しかし、それはまあゆで卵むいてマヨネーズでもぶっかけて食ってみないことにはわからないんですよね。
しかし大抵そんなことも考えずにゆで卵には膜があって〜…、なわけです。

私の考えでは黄身が一番中心で原点なわけです。
例えば深層心理?でいうと全ては「自己満足、自己愛からきている」ということ。
今の私の原点は。
ゆで卵は一般的には黄身が1つ。白身に覆われているんですが、もしかしたら黄身は二つの双子かもしれない。しかも黄身がないかもしれない。
全くないとはいえないわけです。
つまり私がいま、原点は「自己満足云々」といっているのは全ては「黄身があるはずだ」と言う思い込みと一緒な訳です。
開いてみないことにはそこに何があるのかわからない。
しかし頭ン中輪切りにしたって黄身が(原点)入ってるかどうかなんかわからないものです。
だからいくら私がここで言葉を作っていてもハッキリとしないんですよね。

私は私の中に黄身があると信じてここを書いているつもりです。
しかし全ての人が黄身を持っているとは限らない上に、黄身がみんな一緒な訳では無いかもしれない。
私は人の性格が違うのは原点を覆うものが違うと信じています。
しかし可能性はいくらでもあるんですよね。本当は。
でも私は私の黄身を信じている。
と言うことはやっぱり私は私の見方でしか他の物事を捉えられないことの証明なんですかね。
こういったところで黄身が本当にあるのか黄身の中身が本当にみんな同じなのかハッキリしないことには結論も出せないのですけれど。

基本的には私はここは黄身の存在、私の黄身を信じてここを書いています。
しかし、いつも書いていることが黄身についてとは限らない。
白身についてだとか膜についてだとかごちゃ混ぜになっているからここはますますわかりにくい。
つーか黄身についてなんか到達が出来てない。きっと。
まずはどこからどこまでが黄身なのか、どこからが白身なのか、本能は黄身の核なのか。そう言った事柄とかをハッキリと整理した方がいいんですよね。
それが難しいんですが。
ハキッリしていないからこそ私はこんなにも無駄に悩んでみたりしているのでしょうか。
原点と本能の関係がわかれば幸せと自虐的の関係もわかるようになれるのかしら。

某作家さんが「科学には証明出来ないものはない」とおっしゃっていました。
「でも証明するにはすべての事柄が明白でなくてはならない」でしたっけ?
なんか違う気もしますが。
とあるサイトさんで(マンキン話を探していた)とてもいい言葉を見つけました。

『いつもは明晰で論理的な彼だが、時折ひどく突飛なことを言う。しかも、それが自明の理であるかのようにけろりと言ってのけるのだ。言われた方が理解しようがしまいがお構いなしだ。』

って勝手に持ってきて良かったのかしら!?ご本人様がここを見ることはないとは思いますが…。
だいたいここを見てるのは本当にごく一部の方でしょうし。いつもありがとうございます。

いや、話がそれてしまいましたが、私が本当に数式のような証明をしたければ、全てを明晰にして、どこまでも自分の理を確固としたものにするしかないと。
そういうことなんですかねぇ。
いやいや、頭の悪い私には到底難しい事柄です。

なんだかんだ言っているうちにゆで卵が出来ました。
朝方にゆで卵…。アホです。しかし食います。

今日はなんだか訳の分からない文を本当につらつら書き連ねてしまいました。
この話はまた今度突き詰めて考えたいなあ。
こうやって見ていくとここは日記でないように見えてきちんと日記な訳ですね。
次に書くときはきっと1マイクロメートルでも前に進んでいると思いますから。
気分によってここの文の書き方も変わりますしね。
こうやって独り言の日もあればメッセージ臭くなるときもあると。
独り言を書いているときは気分が穏やかです。はは。
時は過ぎていくんだなあ…。
なんて悟ったみたいな訳の分からない締めで今日は(中途半端に)終わり。

2時間で起きなきゃだ!!


2001年12月13日(木) 昔日記

他のことをほとんどしなくなるところが怖いですね。
つーかもはやそこまでいくのは私が異常だからでしょうか。
だってネットって楽しいんですもの。言い訳ですが。
今日だって本当はもっと早くここを書いてしまって、マンガかtop絵を描こうと思っていたのにですね、なんたるざまでしょう。

今日は久し振りにと言いますか、カタログ見ました。冬コミの。
なんだかわざわざチェックとか入れてイベントに備えるのは随分久し振りです。
ネット始めてからは本当に縁遠くなっていた行動ですよ。
いやいやS籐さんに感謝です。だいたい彼女のお祝いだったのに家まで送らせるという暴挙にでる私。最悪。

しかしまあ楽しいです。カタログ見てるの。カップリングとか見てると特に。
私もホモ好きっつーんですか。まあそうですね、カカサスだし。
ホモなんですよねー…。しかしホモである必要があるんでしょうか。

と、言うことで本日のお題は『そうでなくてはならない理由』です。

私は普段から結構気にするんですよ。こういう無駄なこと。
だから男にメイドとか耳付きとか苦手なんですよね。
いや、女の子にも生耳(動物性)がついてたら結構嫌です。しっぽは良いんですよ。しっぽは。なぜなら私的に尻の割れ目の上、骨のあるとこからなんか出てたらちょっと萌え。変態ですから。
これはもう超個人的意見の塊なんですが。女の子はカワイイから良いんです。
女の子が着飾るのはいいんですよねー。そういう生き物だって私が思っているから。
男の子はね、女の子のカッコなんかしなくても男の子としてカワイイのが良いのです。カワイイの種類が違う。

これは私がそう思っているから「そうでなくてはならない」訳で、他人がどうこうと言う話では無いんですけどね。
だからカタログとか見てるのは結構面白いです。
「なんでー?なんでこのカップリングなの?」
とか口走りますが、それを描いている人も私と同じようにこうでなくてはならない理由があるからそのカップリングになる訳なんですよね。
夢見がちですが私はNARUTOではカカサスで無くてはならない理由があるし、シカいのでなくてはならない理由もあるし、ナルサクでなくてはならない理由がある。
すべては私の中の「そうでなくてはならない理由」ですが。

私がこれを書くのもマンガを描くのも「そうでなくてはならない理由」からきています。
その内容も。
パラレルやファンタジーはあんまり得意じゃないのも、そんなところからきています。きっと。

私は小野不由美先生の「屍鬼」が好きです。
この話は現実に存在はしない、屍鬼と言うものがでてきます。
私がこの作品がかなり好きなのは作者にとって、この現実に存在しない屍鬼と言うものをわざわざ出したのには明確な意志とでも言いましょうか。
こういうことが書きたい。そのためにはこのような存在があると書きやすい。話になる。つまりは「そうでなくてはならない理由」になれるわけです。
極端な言い方ですが。

本当にNARUTOという作品が好きな方には申し訳ないのですが、私がNARUTOで同人をやるのは私の感覚でこの作品を読み、私の感覚で「そうでなくてはならない」と言うことをマンガにしているにすぎないんだと思います。
だから本当は同人でわざわざ描かなくても私は私の感覚でマンガが描ける。
だからこそ昨日の話の続きですが、自分が没頭するとでも言いますか、こうやって同人すればするほどどんどん別物になっていくんですね。
だから同人はその人特有のものでオリジナルだともいえる。
でもそこには「この作品が好きだから」という理由があるから「この作品でなくてはならない」んだと思います。

私の場合はそこに「この作品の人気」というのと、「自分のオリジナリティーの無さ」から同人しているという理由も加わるのですが。
正直な話。
だって今NARUTOにカカシとサスケが出てこなくてもマンガ描けますから。
原作はそんなでもなくてもシカいのとか言ってますから。
デジモン好きでしたけど今あんまり描いてませんから。
どんどん好きな原作から離れて同人することに、本当は「そうでなくてはならない理由」を感じないから最近こんなにジャンルに困るのですかね。

原作と大幅に違うのに同人している意味を最近あまり感じません。
でも私の上に書いた理由から同人やめられないんですよね。
そしていま一番マンガ描きやすいのはNARUTOなんです。
ああ滑稽。またこの言葉。ボキャブラリーの無さを感じます。
「価値観」「滑稽」「自虐的」って私の好きな言葉なのかしら。
他の言い回しを知らないのが、正にこれこそ「そうでなくてはならない理由」ですよ。頭悪い。

本当に同人好きな人には申し訳無いですが、かなり正直な気持ちです。


2001年12月12日(水) 昔日記

やっとパソコも返ってきました。良かったです。
ホントにパソコ無い間はヒマでヒマで…。ヒマに付き合ってくださった方ありがとう。
つーか住葉さんとS籐さん。ごめんなさい。

とにかくなんか更新できたら良いんですがなんにも絵が更新出来ません。
なんと不甲斐ない…つーかホントに昼飯をカップラーメンで済ませずわざわざ作るほどヒマだったのにも関わらず。(後に味噌味なのに妹によってカレー味に変わる雑煮)
heisiさんの小説はアップしました。
彼女はヒマをこいてた私に救いの手を差し伸べてくださったのですよ。
しかしケータイの調子も最近おかしい私は彼女のメールがしばらく受信出来ずに生殺し。酷い話だ。

で、久し振りの裏日記ですよ。
表もあんまりまともに書いていないのですがこっちは何を書きましょうかね。

今日は学校に行ったのですが(サボりがちなのが丸わかりな書き方だ)ナチュラルに雪が降ってて困りました。しかも懲りずにコートも着ずに。
新潟の女子高生はどういう神経をしてらっしゃるのでしょうかね。といいつつ私もおかしい。コート出すのが面倒くさいだけなんですが。
しかし教室はストーブついてて暖かいです。
ストーブの前というのは団らんの場とも言うのでしょうか。
クラスメイトが集まって普段話さない人とも話します。
浮ついた本当にくだらない表面だけの世間話。

つーことでなかなか無理がある前置きですが本日のお題は『気泡のような人間関係』です。

しっかし笑っちゃいます。
普段散々自分を下に持っていきたがる私なのに人を馬鹿にするのだけはやめないンですよねー。
自分がイライラしているから他人にあたる訳ですが、その対象は自分が彼女と合わないだけではなく、周りも彼女に少なからず不快感を感じているから対象に選ばれるわけです。
しかも自分では手を汚さないっつーか下さないってゆーか。
他人に誉め言葉を言わせて思った通りに素直に喜ぶ彼女を見て「バッカじゃねーの?」とほくそ笑む訳です。
自分がされたら一番嫌なことを苛立ち混じりに人にやらせてそんな隙を作る方が悪いと自分を正当化。

そんなことをついするのも私の中で彼女は水の上に浮いてる「その他」と名の付いた大きな泡と同じで、大した興味もなくただたんに私とは合わない人なんです。
私の中の公式に当てはめた表面だけわかった振りをしているどうでもいい人。
大抵のクラスメイトは名前の付かないその泡の中にいて、そうでないクラスメイトもその大きな泡の周りにくっついているかろうじて大きな泡に取り込まれていない小さな泡だ。
結局の所水の上に浮いている表面だけの世界の人間な訳です。
世の中人間がいっぱいいるのだからどうしてもそう言う人が出てきてもしかたないんですかね。
ただ私は人に合わせるのをとても面倒くさがる人間なので、そんないてもいなくても変わらないとか親しくなれもしないのに表面だけは知り合いでいたいとかいうようなミーハーな心構えとか、そんな人間とははじめから付き合いがない方が幾分か楽です。
そんなことは絶対無理ですけど。そして私はそんな偉そうに人に言える立場ではないのです。

でもまあ水に浮かぶ泡があるように底にくっついている気泡もあったりするわけです。
それは私にとってかけがえのないものとでも言うのでしょうか。
大切にしたいと思うし私に飽きないで欲しい人たちです。
しかし不思議なことにそう言う人たちこそ私は自分の公式に当てはめている気がする。
というかきっと実際そうだ。
期待しすぎるのは良くないと思うのは逆を言えば意識しなければ期待をしすぎてしまうということで、私が好きだと言うことはきっと私と似た感情を持っていると思い込んでいる。
底の方にへばりついていた私の大切な人たちも、その人を知っていくたびに気泡がだんだん大きくなって、ついには自分の公式に当てはめた目でしか見れなくなってわかったつもりになっている表面だけの人になり、近しいと思い込んでいるだけの水の上に浮いている泡になってしまっているかもしれない。

永遠なんてことはないのだから(この言葉をナチュラルにここに使った自分に大笑いをしましたが、あんまり笑えるのでそのままにしてみました)いずれその泡も大きな泡に取り込まれてしまって大きな泡はふくれすぎて割れる。
きっとそれは節目節目で起きるんですね。だから私は小学校とか、そのもっと前とか、そこらに関わった人たちをほとんど覚えていない。

私に近いと思い込んでいるだけで本当は自分の中でその他大勢に今、私の好きな人を入れるのは嫌です。自分が。
いつまでも底にへばりつけておきたかったら常に私が新鮮な目で相手を見なくてはならないし、相手にも飽きられないように成長しなくてはならないんですね。
呆れられるのは良いです。
いつもそう言う行いをしていますから。私は。
でも飽きられるのは切ない。
自分の価値がハッキリわかるから。
私は曖昧なことを言葉によってハッキリとさせたいくせにこういうところは笑っちゃうほど自分に甘く、そのためにものすごく曖昧です。
わかっているけれども行動に起こせない私はきっと救いようが無いですね。

この自虐的思考で不幸ぶるのもわかっているのにやめられない。


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