独白2
DiaryINDEXpastwill


2001年11月25日(日) 昔日記

今日はカニ鍋でした。うれしいですね。カニ!!
蟹座な私はカニが大好きです。(蟹座は関係ない)
一人ボケツッコミほどさみしいものはないですね。
しかしまああれですよ、昨日夜中にS籐さんから「害虫占いして!」って言われてしたんですけどね、私はムカデでした。
落ち着きなくて経験豊富で皮肉屋だけどサッパリ自覚がないんですと。
結構当たってると言われました。皮肉屋の辺りとか。
そんなものなんですかねえ。
私的にはあんまり当たってない気がしますが、他人から言わせると当たってるそうです。

つーことで本日のお題は『他人の中の自分』です。

私はこれほど怖いものはなかなか無いと思います。
他人の中の私というのは私ではないんですよね。
他人の公式で変換されたのが『他人の中の私』なんです。
私から言わせて貰うと、私はいつでも皮肉を言っているつもりはないですし、人生経験なんか全然ない青二才です。
世の中にはもっともっといっぱいいろんなことをしている人間はたくさんいますしね。
言葉にするとあっている気がするだけです。
誰にだっていろんな要素があってその人を構成するんですからね。

でも他人はそうは感じないわけです。
それはもちろん私もそうですが、自分以外の他人をそのまま見ることが出来ないからです。
相手の出す信号(行動)を自分の中の暗号解読の仕方で解読するんですよね。
だから重なっていることはあってもその人そのままではない。
その人の虚勢も、自分が気付かなければ虚勢は虚勢ではなくなり、自信になるんです。

それが怖い。
他人をだませるところが怖い。
それによって相手が私に無条件に期待するのも怖い。
いや、たいして期待するようなことはないでしょうが。私には。
些細にしても私は全然誉められた人間ではないし、誰かより勝っているわけではないんです。
こうやって逃げることで責任逃れをしている人間なんです。
私がいつもここで書いていることに共感を持ってもらえてることがあったのならば、それはその人が自分の暗号解読法で見ていて、私を見ているわけではないんです。そしてそれは私が私のために作ったニセの信号から出来ている。
ここ事態が私のための作った場だから。
どんなにがんばって自分を書こうとしても。

私が存在することだけで与えられるものはあります。
些細ですが。
でもそれ以上のものは期待されても返せないんです。
私はいつでも自分のペースでしか物事を運べないし、能力だって低い。
言い訳と逃げ道を自分のために作るのはかなり得意ですけどね。
私は逃げ道を作りすぎだ。

でも私は卑怯な人間だから(そう言って卑下することから全てが始まっている)他人に期待するなと言っておきながら他人が『他人の中の私』に憐れみと優しさを掛けてくれることを期待しているわけです。

あげているから期待する。
貰っているのに返せない。

だから私は他人の期待が怖いんですね。
見捨てられると憐れみと優しさが貰えないから。
ここの言葉はほとんどが策略だ。
言わせる言葉が嫌だと言っても私は言わせた言葉でしか満足できない。
期待するなと言ってもその言葉を貰うために相手を騙す。(期待をさせる)
他人の中の私は私ではないときちんとわかっているから怖いんですね。
どうしたらこの矛盾した行動をなんとか出来るのか。

人は一人ではやっぱり安定出来ないものなんですかね。

もう何を言っているのか自分でもよくわかりません。
はじめ言っていたことと全然論点がずれてきているのに直すことが出来ません。
つーかもともと訳解らないのに、今日はさらに頭が考えることを放棄しています。
本当に!全然考えが纏まりません。あー…2時間も座ってるよ。
いつもの倍以上のくせに何も出てこない。
ここは懺悔の場かよ!クソッ!


2001年11月21日(水) 昔日記

と言いながら本日は『プライベートライアン』を見てました。
しかし家族にことごとく妨害され(特に妹)一気に見れませんでした。
なんたること!!魅力半減ですよ。また見よう。(懲りませんよ。)

今日はクラスの人たち数人が合格発表だったんですよね。
いやー…昼休みは凄かったですよ。
なんつーかもう、私もイライラしちゃいます。
ドキドキでなくイライラね。
本来短気な癇癪持ちのお子さまな私ですから。
自分の感覚に忠実なんですよね。
でもって通じないと癇癪起こすと。

つーことで本日のお題は『勘違い』ですか?
もうホントただの愚痴になると思うんでお題も糞もあったもんではないでしょうけど。内容とあっていないこと間違いなし。

今日はホントに昼休みは静かーになっちゃったんですよ。
いろんな人が無口になっちゃって、関係ない私とその他数人の人は「受験生の教室だよねー」といってました。
それでもケータイとかにかかってきて廊下に出る人とか出てくると「私もドキドキしてきた!!」とかいって心配してました。
私のいつも仲良くしている子はホントにここ2,3日は顔色も悪くてこっちも心配しました。
でも正直なところ、他の特に仲のよくないクラスメイトなんかどうでも良かったんですよ。私は。
それでも受かったら「おめでとう」位いうつもりだったんですけどね。
教室に入るなり奇声を大声で発せられたりしたらこっちだって困りますよ。
嬉しいのは解るんですけどね。
でもまだまだ受かっていない人も受験校下げろとか言われてる人もいるんですよ?
アンタは受験前に相当周りに励ましてもらっててそれくらいも控えられないんですかね。
そう思いました。

私の感覚は他の人たちと掛け違いなんですかね。
彼女たちの態度に対して私が「結構迷惑だよね」といえば優しい言葉で「仕方ないよ」と言ってあげるんですよね。
でも私がその彼女たちの八つ当たりの態度にイライラして暴言を吐くと「そういうこというなよ!」とか言ってくれちゃうの。
彼女たちがくれるストレスは「受験だから仕方ない」扱いなのに、私の言う耳障りな暴言は「そういうこというのやめなよ!」なんですと。
別に怒ってるつもりは無いのですが。言った人に対して。
私は私で本当のことを言っていたつもりだったし、彼女たちも彼女たちで間違ったことはしてないつもりなんでしょう。
これが掛け違いってやつですか?

現代国語の教科書に載っていたものを思い出しました。
「何をするか解らない善人よりも頭のいい悪人のほうがいい」
善意からしたというものは失敗しても『善意』だから許さなくてはいけない。
最低限の悪事で目的を遂げる悪人は関わらなければ被害は無い。
この文を書いた人は本当は帰謬法でしたっけ?
あれを使って書いてると言うことらしいので全くこの文そのままの普通の意味では無いと思うのですが、要するにこういう意味だと思います。

みんな受験というと気が立っているものだ。
だから多少のことにも当たり前に目をつぶらなくてはならない。
善意からしてくれたことだ。
だから結果迷惑になったとしても感謝しなくてはならない。

世の中それが当たり前なんですか。
私はただそんなやって手放しで喜んでいて、まわりから「おめでとう」といわれても本当は心の底ではみんな何考えて言ってるか解らないと正直に思ったことを言いました。
結局は自分が不安にならないためにはむしろ落ちてくれればいいとも思ってるだろうといいました。
心から思っていなくてもそんなやってたら「おめでとう」という気もなくなるよと言いました。
それは私だけが思っていることで、みんなは違ったんですかね。
だから私の言葉は否定されたんですか。
人が喜んでいたら必ずその人に「おめでとう」と言わなければならないのですか?
私が勘違いをしているならば誰か忠告してください。
固まった頭ではもう軌道修正は出来ないかもしれませんが口を噤むことくらいは出来ます。

言わせる言葉は嫌いです。
といいつつも私はいろんな身近な人に自分の欲しい言葉を『言わせている』。
私は本当は言わせる言葉が好きなのに勘違いをしているんですか。
自分のことなのに解らないものですね。
むしろ自分のことだから余計なプライドとかが邪魔しているのかとも思いました。


今日の日記は一段と訳が分からない。つーかホント愚痴。
あーあ。ホントは私にはこんなこと言う資格は無いんですよね。
早くも逃げ出した戦線離脱女にはさ。
頭が悪いと大変だ。眠いしね…(関係ない)


2001年11月20日(火) 昔日記

昨日は☆が見たかったのに晴れてませんでした。
今日は無駄に晴れてますね。
新潟の澄んだ空気(要するに寒い)の中ではとても綺麗に星が見えますよ。
つーか!私が金を出し惜しみして3巻までしか『昴』を買ってこなかったから見れたんですけどね!!夜空が!
寒い中4巻買ってきましたよ…近所のジャ●コまで。

しかしあのマンガは凄いですよね。ホントに。
久し振りに吸い込まれました。
世界に。

と、いうことで本日のお題は『世界に浸る』です。

私は昔からマンガ読んだり本読んだりするのが好きでした。
子どもの読書量は小さいときどれだけ本を読んでもらってかで決まると聞きました。
私は長女だったせいかよく読んで貰ってたんですかね。
絵本を読んだ記憶はあまりありませんが、マンガから入ってよく読んでいます。今も。
でも今は読んでいるけれどもきっと前よりも世界に浸っていない。

私は少女マンガより少年マンガの方が好きでした。
なぜなら少女マンガは『世界』があまりハッキリしていなかったからだと思います。
世界がハッキリしていなかったというか私には合わなかったというか。
今も昔も私は人間がでてくる話を描くのならば、本当に「人間」を書いたものが好きです。
だからですね。少女マンガが合わなかったのは。
あれは妄想を描いているって感じで中に入れないんですよ。

では人間を描くというのはどうゆうことか。
私はそれを「世界を描く」ことだと思っています。
いろんな人間、悪いところも良いところもあって人間。
それがあって初めて「世界」ができて、『世界に浸る』ことが出来るんだと私は思います。

昔私はマンガを読んで、本を読んで、映画を見て、簡単に世界に浸ることが出来た気がします。
読んだり見たりするのは「世界に浸る」ことで現実から目を背けてると思うくらい。
それがどんどん歳をとるごとに難しくなっていっている。
それは私がマンガを描くようになったからなのか、言葉で自分を作っていっているからなのか。
感想が書けなくなっていったのもそのせいなのかもしれない。
人の作った「世界」を見る。
私にも私なりの「世界」があって、それが明確になるにつれて私は人の世界に入れなくなっている気がする。
自分の世界の価値観で、他人の世界を見る。
どんどん頭が固くなっていって、どうしようもない。

でもやっぱり「才能」って言うのはあるんですね。
自分の「世界」に他人を引きずりこむような。
本当に凄い。
そういうのは努力あっての才能なんですかね。努力も才能と言うか。
どこまでも世界が広がる。
自分の世界の価値観なんかは忘れてしまう。

マンガは一人で世界を作るものです。
だから必然的に世界の広さはその人の広さになると思います。
私の「世界」が狭いのも曖昧なのも、私が小さく曖昧だからなんだと思います。
映画やアニメは人が多く携わって世界ができるものです。
だから世界の広さもやっぱりマンガや本に比べて広い。
世界に浸りやすいと思います。
世間一般的に映画みたいな広い世界に共感するのはそのせいなのかな。
マンガは世界の小さな子どもが読むもんだと思われてるのはそのせいなのかな。

そんなことは無いですよね。
どれも大きさや表現方法が違うだけで現してるのは「自分の世界」だと思います。
自分の価値観をすっとばして「世界に浸る」。
「浸らせる」のは確固とした世界ができあがっているものだと思います。
それがだんだん出来にくくなっている。
それは私の「世界」ができあがっているからなのか。
だとしたら皮肉なものですね。
でもそうなったならばいろんな人が私の「世界」を価値観をすっ飛ばしてしまうようなところまで育てたいものです。


2001年11月16日(金) 昔日記

今日はめんどくさくなったんで日記書くのをやめようかと思ったのですが結局書いてます。
つーか眠いと頭働かないかなあと思ってやめようかと思ったのと、今日夕寝してたときに怖い夢見たんですよね。
だからあんまり今日は一人でパソコに向かってたくないなって。
ものすんごい恐がりです。ホントに凄い。
子どもっぽい上にとっても自意識過剰なマゾ女です。
つーか昨日の日記があんまりだ。
本日は大した前置きも思いつかず。

とにかくお題は『自虐的思考』ですかね。

かなりの自虐的な思考の持ち主ですよ。私は。
ホントに救いようがないくらい。
そんなことばっかりやってるから昨日の日記みたいな滑稽な文を書くんですね。
ウザイことこの上なし。

でも自虐的思考というのはホントに私には必要なことなんです。
無いと生きていけない。っていうか。
私が幸せになるにはこれがないとだめなんですよ。
要するに私はとても幸せになりたがりっこってことなんですよね。

といいつつも、私は幸せになりたいから自虐的思考を繰り広げているのか、自虐的思考を繰り広げてるから幸せなのか。
境界が曖昧だ。
最近いろんなことの境界が曖昧すぎてこまる。

私は自虐的思考でもって、本当は誰かに自分の存在を完全否定して貰いたいような人です。
でも我が儘だからその人というのはただの人ではダメで、それなりに基準があるわけです。
幸せになりたいと言っているのに他人に完全否定して貰いたがってる。
これは自虐的だからなのか、私にとってこれが幸せだからなのか。

私はなんだかんだ言って自分の幸せがなんだかよく分かっていません。
自虐的であったり、自分を低くしたりする事は私にとってとても楽になることだけれども、それが私の幸せなのかは実は解らない。
世間で言う幸せは金持ちであったり、好きな人に囲まれていたり、暖かいベッドで永眠してみたり、そんなことなんだと思います。
もちろん私はそれに全く魅力を感じない訳ではないし、楽な生き方をすればとても良いと思う。
でも私は自分でどんどん悪い方向に物事を運んでいくのが大得意だし、どんどん自分で追い込むことで楽になることもある。
辛いと思っていても、「自分は不幸だ」と思うことで自分の境遇に酔っている。
そう考えるのは私は本当に辛い目に遭ったことが無いからかもしれない。
自虐的といいつつも、それは本当に心からのものでは全くなく、むしろ期待を膨らましているだけかもしれない。

自虐的思考によって幸せになるのか、私の幸せが自虐的になることなのか。
認めて貰いたいと言ったその口で、私は他人に完全否定して貰いたいとも言う。
一体どっちが私の本音で、どっちに従っていきればいいのか。
自虐的になることは逃げることだとも言える。
でももしそれが私の幸せならば、私は逃げているんではなくて、私は幸せを求めて前向きに生きていることになる。
前向きに生きることは、自虐的になることではない。

自虐的思考によって行動することはそのときは楽な気分になるけれども現状は悪化
していることになる。
不幸に酔うことは逃げることなのか。私にとって幸せになることなのか。
不幸に酔うことで、私は幸せを願い、前向きに幸せに向かって生きているのか。
その場合の私の求める幸せとは?

本当にどこまで考えれば良いのか解らない。
何を考えて結論づければいいのか解らない。
だからデカルトはすべてを否定して、ただ一つ「我思う、故に我あり」という言葉で表現したのか。
考えることは無駄なことなのかもしれない。
でも私がこれによって自虐的思考になっていることは確かだ。
ただそれが私にとって幸せなのか、幸せになるためにそれをしているかは解らない。
世の中解らないことだらけです。
誰かが私を完全否定してくれたならば、私はすべてをその人のせいにして捨てることがきっとできる。
それは自虐的なのか幸せなのか。
生きているから幸せになりたいのか幸せになりたいから生きているのか。
幸せになりたいから死ぬのか、生きているから死にたいのか。

本当に訳の分からないことがたくさんだ。

そしてここの日記が一番訳が分からないこと間違いなし。
ここの言葉はきっと私にしか解らないで、私自身も結論が出ないでずーっと同じ道をひたすらぐるぐる回ってる。
誰かどうにかして欲しい。
今日の日記はいつも以上に解らないですね。
「☆食べよ」でもやけ食いだ!!


2001年11月14日(水) 昔日記

S籐さんがうちに来てくださいました。
おもしろ本を読ませてくださる彼女はうちの親父に捕まってしまいました。
すみません。

なんだか最近何にもかけません。
サイト開設祝いになにかあげようとか、topでないにしても何か描こうとか、色々思っているんですけど何にも描けません。

シャーマンキングを買いました。
ホントに凄いマンガだー…。一気に買ってしまったけど16巻は凄いよ。
何が凄いって…ねえ?
私はこういうときどうすればいいのか解らなくなってしまいますよ。
ホントにどうすればいいのか解らない。

なんでかっていうと、今私はこうやって文を描いて、絵なんか全然描いてないです。
そして、絵は自分の中では誰の絵とも(全くとはいいませんが)似てないと思う。
これは今まで私が影響を受けた方たちの絵を見て、自分なりに、自分のレベルに合わせて描き替えたというか、自分のものにしたっていうか。
でも話はそうはいかない。
っつーか価値観。世界観。
自分なりにがんばって築き上げてきたと思ってたんだけどなあ。
人の影響を受けてきたのかな?人の世界観、価値観を自分のものだと思って生きてきたのかな?
不安を通り越してもう自分の中に何もない感じ。
何にもする気は起きないし、何にも出来ません。
何をやっていても自分でない気がして何にも出来ない。
自分でない気がするなら更に自分でまた新しく築き上げていけばいいのにそれができないから何もしないで逃げている。

こういうとき無責任に思うこと。
なんで私の表現方法はマンガであり、文であり、言葉であるのか。
自分で選んだくせにねぇ。
ホントに参ってます。今。っつーか最近。

私は感想文を書くのがものすごく苦手です。
それは相手に対して私がどう思われるかとか、言葉遣いとか、ネチケットとか。
正直な話そんなことは本当は些細なことなんですよ。
書きたいなあとは思っても実は書くことが出来ない。
感想ってのは自分が思ったこと、感じたことなんですよね。
だったら私の世界観で、価値観で、考えていたことがそのまま(まるっきりで無いにしても)書かれてたらなにを感じて何を思えばいいんですか?

私にはそれが当たり前のように感じます。私もそう感じます。

それが感想?そして感想を送ってなんになるんですかね。
相手の世界観はそのまま。私の価値観もそのまま。
言ったからって私の中で何にもなくなるのは変わらない。
人と同じであることがこんなに虚無感っていうんですか?
そんなものを感じることだとは思いもしませんでした。

好きって言うのがこんなにこんなに嫌なことだと思いませんでした。
というか知っていたんでしょうね。ホントは。
たまたまいままでは言葉にする機会がなかっただけであって。
好きと言うより、自分と他人、似たようなことを考えているのに、相手は自分ではないし、自分も相手ではない。
相手はこんなに自分の思い通り。自分は似たことを考えているのにこの通り。
似ているのに全く違う。
嫌なことこの上ない。

私が私であるのは他人がいるからです。
自分との違いを見る。そうすると自分ができる。極端な話。
でも自分と他人が似ている。でも全く違う。
自分だと思っていた物が他人になった。
自分にはなにも残らない。

ホントに今宙に浮いている気分です。
自分と他人の境界線が曖昧な人がいます。
あからさまに違うなら救われる。
似てるのに違うのは本当に救いようが無いですね。
特に私みたいな本当に小さな、ごくありきたりな人間には。

被害者意識が強いのもまたいけない。
…って言う言葉もまた自分の言葉でない気がして嫌な気分になる。
この言葉が使われていたから。
でもこの言葉しか出てこなかったし、普通に自分の価値観で、世界観でこの言葉が出てきたつもりだった。
でもこれも自分で思っているだけで他人のものを自分のものだと思っているだけかもしれない。
考え出したらきりがないところがまたイヤだ。
嫌だといいながら現状をどうにも出来ないのもホントに嫌だ。

こんなところで、こんなに抽象的なことを書きながらもメッセージを含んで他人に何かを無言で期待している媚びた態度が嫌ですね。
本当にすみません。
つーか誰に謝っているのやら。謝るくらいなら最初からしなければ良いんですよね。それが出来ない低レベルな人間です。
誰かにこの希望的観測をうち切ってもらいたい。
自分勝手に考えている辺りが一番の希望的観測、エゴイストだ。


2001年11月10日(土) 昔日記

またしても私が日記を書こうって時になって親父が現れました。
もーナイスタイミング!!(死)タイミング良すぎて笑っちゃう。

で、今日は朝から友達(私を嫌っていると思われる)子が私の席に座ってました。
私の顔を見たその子は「ゴメン邪魔?」といいました。
正直な話私は朝ご飯食べて無くてさっさとカバンおいてご飯が座って食いたかったので、本当に正直に「うん、邪魔」といいました。
そしたら彼女は「ハッキリ言うね〜」と私の机の上に置いてあった化粧道具をがちゃがちゃしまいだしました。それの遅いこと。いかにもかったるそう。
めんどくさがりな私は「あー…いいよ。座ってても」といって別の友達の所に行きました。彼女は「そう?悪いね」といいました。私にはそれがはじめから用意されていた言葉のように感じました。
ハッキリ言う私もあれだけどやる気のない言葉を吐く彼女もどうでしょう。

つーことで本日のお題は『言葉にすること』ですよ。

実はこれは昨日の(日付の上では一昨日)の話。昨日書こうと思って前置きまで考えていたくせに寝た。しかも某サイトさんの裏を唐突に見たくなって、それを見てたら時間が過ぎていました。バカですね。

言葉にすることは私には安心するためにすることです。
ここをこうして書いていることは私には自分のことをより明確にきちんとしたものにしたいからということもあります。
でも最近思うことは、私はここを書くことによって制限されている、というのと、ウソといわないまでも騙しているということ。

制限されているというのは、言葉という物は自分に対しても他人に対しても『言葉という形』にした時点で形が決まってしまうと思うからです。
例えば私は昔かなり嫌なヤツで、人の「自分からは言いたくないし、あんまり知られたくないけど気づいて欲しい」という矛盾した人の心?考え?そんな物を口に出して相手に言うのが好きでした。
言われた本人はたとえ本当にきちんとは合っていなくても、自分が実はそういう風に他人に理解されたいという欲求がある(と私は思う)ので「なんでわかったの?実はね…」となるわけです。もちろん必ずしもそうなるわけではない。
その時に、本当は当たってなんかいなくてもそんなことを言われるのはほとんどないことだから『言葉にされた』その事柄を自分に当てはめる。
それが制限されることです。
私がこうして言葉にしている時点で、私は私の限界を自分できめ、自分で枠に当てはめているということ。

騙しているというのは、自分、そしてここを読んでくださっている方を私は騙している。
どんなに私が客観的に書こうとしても、私の言葉で、私が感じたことを一方的に書いているのだから正しい事実が書かれていない。
なのにあたかも正確な事実が書かれているかのように振る舞う。
これは誰が書いても同じように、まったくの客観的意見は書けないと思う。
他人のことを自分から見て、は客観的になるだろうが、自分のことを自分から見て、は客観的にはならない。
だから自分はどんなにがんばってもここで書いていることには自分に対する甘さがにじみ出ている。
どんなにがんばっても私が私のことに書くことについては甘さとともに自分の理想が必ず少しは入っている。

今私たちがかなり頼っているこの『言葉』というのは、明確な表現をすればするほど真実から遠くなる不完全な物だと思う。
感覚の中での曖昧さは、曖昧なところがむしろ正しいのかもしれない。
言葉にすることで伝えるのは、一番簡単で、一番わかりやすいけれども一番伝えられる物が少ないと思った。

なんだか『伝えること』でも似たようなこと書いた気がする。
ホント毎度毎度進歩が無いですね。


2001年11月08日(木) 昔日記

日記です。日記というのは毎日かいてこそ日記のような気がしないでもないのですが、なんだか最近ぐーたらしすぎですかね。
いや、topがんばっていたのですよ。私は。無駄に。(無駄なことが好きです。)
夜中に太るだろうプリングルス食いながらね。
いやいや太るとわかっていても不思議な物で食べてしまいます。
それは私が「こんなのちょっとくらい食べても太らないよね。大丈夫だよね。」
と、勝手な思いこみをしているからです。
思い込みって怖いですね!!

と、言うことで本日のお題は『思い込むこと』です。

さて、今日は相変わらず世界史の授業を生徒3人教師1人でやっていたわけです。
今日の範囲は第二次世界大戦でした。
で、2週間に一回は1日の半分が社会の日があるのですが、今日がそれで、世界史1時間はビデオを見ていたのです。
「扇情者」。アドルフ・ヒトラーのビデオでした。

ホントにこの人ほど凄い人はいませんね。良い悪いではなく凄いと思います。
この人を見ていると本当に人間の思い込みとは凄い物だと思いました。
イタリアはムッソリーニでしたっけ?
あの人は元は共産主義者だったと聞きました。
ですが、反戦論では民衆の注目を浴びることが出来ずに、ファシス党を作ったと言っていた気がします。
彼は自分の欲求に忠実で、他人に認められることをただ望んでいたのですね。
これは思い込みではなく、確固とした欲求であって、ヒトラーとは違うと私は思いました。

ビデオではその当時のドイツは本当に人々は絶望の中にいたのだと言っていました。
そこにヒトラーという人が現れた。
彼がこんなにも人々に支持され、崇められていたのはひとえに人間の思い込みから来ていたのだと私は思います。
彼が「許す」。彼の説く演説には「やっても良いんだよ」と言う救済のような物がありました。
すべてに絶望したような当時のドイツ人は「許されること」と「縛られること」を心の底から望んでいたのだと思います。
「許されること」は誰もが普段から望んでいることです。
「縛られること」を望むのは自分で考えることを放棄することだと思います。そして今の現状は自分にそぐわない。でも自分ではどうすることも出来ない。だから強力な誰かに引っ張られて行けばいい。失敗しても自分はなにも悪くはなく、その強力な誰かが悪いんだ。という逃げ道ができるという意味です。

以前私がここの日記で書いたとおもうのですが、許してくれるのは人間ではダメだと言う話。
まあこれは私的意見なんで、他人はどうかと思うのですが、ヒトラーは人間だった。なのに人は救済を彼に求めた。
それは人々が彼は人間では無いという思い込みをしていたのかと思いました。
「彼は神ではない。しかし、普通なら出来ないすべてを許すということの出来る人間なんだ」ということ。
そこまで人々はせっぱ詰まっていただろうし、すべては思い込みの(あくまで私的意見。)宗教の代わりだったのかもしれません。
ヒトラー自身もきっと自分は「許し、引っ張る力がある」と思い込むことで、更に大衆に罪悪感を抱かせないようにしていたと思います。

本当に人の思い込みの力とは凄い物です。
私たちは日々このような大がかりな思い込みはしないまでも、多少の思い込みをしてると思います。そして自分のために思い込もうとしている。
当時の人々が自分を保つためにおもいこんだように。

私は背景を描くのが好きです。
これも実は思い込みなんですよね。
私は本当は背景を描くのが好きなんではなく、背景には人物ほど個性が出ないんです。
背景は今自分の周りにある物を完結に(そこら辺はその人の力量だからさすがに差が出る)ただ写すだけなんです。
自分の絵には自信がない。でも背景ならば自分独自の物では無いからいい。
そういうところから来ている物を、ただ「純粋に好きだから」と思い込んでいる。
そしてそれは自分のためでしか無い。

人は自分を守るための物をいっぱい持っている。
「忘れること」「思い込むこと」「自己を許すこと」
書いていたらきりがないし、根本に繋がることは一緒だ。

思い込むこともその中の代表的な物だと思う。
ただ、そこには思い込むことで前に進めることがあるのが救いだ。
私は背景を描くことが好きだと思い込む。
そうすると私はそれをがんばるようになる。
結果として得られる物は良い結果だと思う。

「救われる」と思い込むこと自体がもう思い込みかもしれない。
曖昧な私は曖昧なまま自分の常識で、救われることを求めているからだ。
そしてここの文章もまた自分が思い込むための道具でしか無いと思う。
なぜなら私が普段四六時中こんなことを考えているわけでは無いからだ。
ここは絵に描いた餅のように、本物のような偽物だと思う。
そうだと判っているのに書く。
むしろここまで来たら人の自己防衛能力で自分がどこまで逃げることができるのか
見てみたい物だ。


2001年11月04日(日) 昔日記

なんでこれから日記書こうって時に帰ってくるのかしら。うちの母は。
実はまだ全然topが終わってないのに日記を書き出す私。
なんなんでしょう。でも今回のはフォトショ塗りにしょうかと思ってたのでそんなに時間かからないかなーと。思ったけど背景が…。

まあそんなことはおいといて、今日は朝から祖父がきました。
外面のいい私は祖父と一緒にお話をしていました。
その時父宛に電話がかかってきました。
全くと言っていいほど愛想のない妹が電話をとり、祖父と話している私に向かって「電話。お父さんに。呼んできてよ。」といい、自分はパソコンに向かってメールを打っていました。

なんなんだそれは。

私は彼女の理不尽な行動はもうどうしようも無いのだろうと諦めてはいましたが、ホントに今日は耳を疑いました。
私今話してるんでしょ。あんたメール打ってるんでしょ。たった少し立って親父呼んで来るだけじゃない。しかもアンタが取った電話でしょ。
お前は常識どこにやってきたんだ??

つーことで本日のお題は『常識』です。

いや、もうホント身内の恥をさらした前置きですが、最近の若い人っつーかうちの妹くらいの年代ですか。
彼女たちの中の常識ってどうなんでしょう。

常識って言うのは言葉通り『常に持っていなければならない識別能力』だと私は思っています。知識ももちろんですが。
世間一般に向けて言われている常識とは、小学校で習うようなもの、挨拶をするとか、人にやられて嫌なことはしないとか、目上の方には丁寧語、とかだと思います。
確かに大人になるにつれて、こんなことはホントに表面だけの物に感じるようになりますが、(私はなった。)この常識がなっているだけで、相手の人がいい気分になったり、これが出来ていないだけで社会のなかで困ったり迷惑をかけたりするわけです。
うちの妹から言わせると、私の方が常識なっていないそうです。
多分彼女の中での常識と、私の中での常識が違うからだと思います。
それでは正しい常識とはどんな物なんでしょうか。

子供のころの子供同士の小さなグループにはそれなりにルールがあったのを覚えています。
どんなに小さな場でもルールがあり、それがその場での常識になる。
その小さい場が、どんどん大きな場に行くにつれて、みんなに通用するもの、世間一般の常識になるんだと私は思っています。
自分の置かれている立場によって常識は変わってくる、時代によって変わってくる、ただそれがホントに大きな場に合うだけのものになっていくかが子供扱いから大人扱いにかわるポイントかと思います。
実際私の妹と、私の「常識」は合わなかった。
それは私と妹は歳が違う、育った時代が違う、グループの性質が違う。(私と妹は中学校が違います。)

最近の人たちは(もちろん私を含め)小さな場の中で、他の年代とあまり関わることもなく大きくなって、いきなり社会と言う大きな場に出されると思う。
いきなり社会に出される直前に「一般常識」を頭にたたきこまれて、いきなり大きな場に出される。
社会はもう直接死活問題っていうんですか?金銭関係の物事ですから失敗は普通は許されないんですよね。
学校は、行ったら勉強だけでなく人間関係、部活ならば目上の人に対しての接し方、そんなことをやりながら小さな場の常識を、大きな社会に対応できる常識に変化させていく練習の場だと思います。

だけど私たちの時代には、学校はそんな機能を果たしていないと思う。
だいたい学校に入る前に最低限の常識(小さな場でも大きな場でも絶対あるような)は家庭で親がやるもんだ。
私は今学校に行っているけれども常識が育つような所では無いと思う。
部活は参加自由だし、(でも部活やっている子はホントに世渡り上手だと思う。)
校長の話は聞かない、先生たちはなんで校則にこんなことが書かれているかも言わずに「校則違反」とだけいって注意する。
外にふれあう機会が無いと思う。
きちんとなっている人もたくさんいるはずですけどね。

こうやって文句を言っている私ももちろん『今の時代の若い人』で、常識はなっていないと思う。
どこがなっていないのか、それがわからないのが怖いところです。
わからないのは私がいまだに小さなグループの中にいるからだ。
外に出る機会が無いと言いつつも外に出る気もなく、いまだに小さな場の薄っぺらい常識を使っている。
常識は時代によって変わってくるものだとは思います。
ですが、最近の人たちの子供扱いから大人扱いに変わる年代がどんどん高くなっていっている気がする。
それが「常識」になっていったら、ホントに常識のなっている人には迷惑きわまりないなあと思いました。

人のことは全然言えない私ですが。
他人と関わりを全く持たなければ常識なんか持つ必要無いんですよね。
でもそんなことは絶対私は出来ないから本当はきちんと常識を身につけるべきなんです。
今からでも間に合うかなあ…

なんか今日はやけにまじめな話をしてしまいました。
でもここはあくまで私の意見でしかなく、こうやって書いておきながら自分でできていない点もかなりあるだろうかと思われるいい加減な物です。
気分を悪くされた方がいたら申し訳無いなあ…。


2001年11月02日(金) 昔日記

カルボナーラ食ってきました。学校サボって遊んだ上に同人誌読み漁りですよ!
頭悪いことこの上なしですね!でもおいしかったです。
今日はS籐さんのお買い物につき合っていたのですが、最近の服はホントにカワイイ。つーか肩の出そうなかったるい感じの服とかサスケ服とかめっちゃ欲しいです。金がないけど!かったるい感じをかもしだし、私は大人な女になりたいのです。色気がないんですけどね!私は私の絵にそっくりだそうですが、私の描く女の子が色気のない健康優良児っぽいのはそのせいだと思われます。

で、今日一緒に行ったS籐さん、オタク友達なんですよね。
だから気兼ねなく「これサスケ服!」とか言えちゃう訳です。とっても気が楽ですよ!
しかも彼女はおしゃれさんですよ。色々楽しいです。
学校の友達ほっぽってメールも送らずオタク友達と遊んでました。
私の普段の生活がよく分かる行動だと思います。

で、本日のお題は、『オタク友達パンピの友達』です。

学校通ったり、同人やってたり、外に出たら友達が出来るのが普通かと思います。
ただ、オタクの私には「パンピ友達」「オタク友達」と二つに分かれてしまいます。
学校に行ったら学校の友達と遊ぶ訳ですが、大抵遊んでるのはオタク友達です。
大体heisiとは学校も同じなんですよ。帰りも大抵一緒です。
そこに別のオタク友達が入ってきて学校帰り遊んで帰るのがだいたいのパターンです。
それは買い物だったり、オタク店にいったり、ラーメン食べたり様々です。
普通、オタクの友達と言うと、オタク話ばかりするような印象かもしれません。
でも、私のオタク友達はなんでも話すし、遠出の遊びにも一緒にいきます。

だからと言って学校の友達とは全く遊びに行かない訳ではないし(回数は少ないにしても)、学校ではホントに仲良くしています。
今は時期的に学校の友達とは遊びに行けませんけどね、みんな忙しい時期ですから。早くも戦線離脱した私はいい気なもんです。

学校の友達は学校にいる間はとても仲良くしていますが、私がオタクなのを知っている人はとても少ないし、やっぱりオタクだからか少し世の中一般のこの年代の人とは話が合わなかったりするわけです。
その点、オタクの友達はオタクだから話が合わないことも少ない。
つーかオタク常識(なんだそりゃ)がわかってるから話が通じる。
そうなるとやっぱりオタクの友達の中に親しい友達が出来やすい。

でも、要は私とその人との感覚の合い方、重なった部分の多さなのかと思われます。
学校の友達にも私がオタクなのを知っている人はとても気が合うし、学校終わってもなんだかんだ言って繋がりがあると思うし、オタクでも気の合わない人はいっぱいいる。
私はかなりの理屈こきなので、まず理屈ばかりこねるのが好きでない人は表面ではいい顔していても、「この人何考えているんだろう」と思うはず。

人との距離は、お互いの人格がきちんとしていればしているほど運命づけられていると思う。お互いにきっと「この人とはここまでだな」ってわかる。
知れば知るほど、距離の取り方が見えてきて、最適な距離をこえるとうまくいかなかったり、遠すぎると離れていく。
知れば知るほど遠くなる人も出来てくるんですよね。

私は距離の取り方を考えるのが苦手で、でも表面だけの付き合いも苦手という我が儘娘です。
表面だけのつきあいは、テレビもあまりまともに見ないし、映画の感想もちょっとずれてる私には何を話せばいいのか解りません。
オタクでも、パンピでも。
オタクの人の前で話すことは大抵何がどういう風に好きだとかそういう話とかだったりするはずだし、パンピのことも私はこういう風に考えて行動してたりするんだよ。とかだとおもいます。わたしの価値観の話をするんですよね。
だからまったく価値観の合わない人とは話が合わない。
だから必然的に自分に似たタイプばかり周りに増えていくんですよね。パンピもオタクも。
『類は友を呼ぶ』。まさにこの言葉です。
特別何かを努力していなくても、きっとこれからもこうなっていくんだろうなあと思いました。
価値観が合わなくてうまくいかないことほどバカらしいことは無いと思うから。

なんか長々とまたどうでもいいことを書きました。こここそが私の価値観の現れだ。
で、この日記は実は木曜日の話なんですよね。
途中まで書いてどうしようかなって悩んでいるうちに土曜日になっていました。
まいったなあ。


2001年11月01日(木) 昔日記

いや、何か寝過ぎなのは解っているのですが眠いです。
そして明日は学校サボって遊びに行くと思われるのできちんと寝たいですね。
で、今日は何を書きましょうかねえ。なんだか最近ネタが尽きてきた気もしないでもないです。
いや、なんつーか言葉の限界ってゆーか。
ただ単にこういう風に言葉にした物に対しての限界です。私の力不足からでしょうけど。
話を書くというのとこういう風に言葉にすることはやっぱり違うと思うんですよね。
私の友達はとてもマンガがうまい人がいるんですが、その人は本当に「感じさせる」ものを描くんですよ。
言葉にして理論的に書いていくのは大抵できると思うんですが感じさせるのは難しいと思う。歳をとっていくうちに余計に。少なくとも私は。
私はその人のマンガがとても好きで、彼女の描く女の子はものすごくかわいくて大好きです。
とってもかわいい女の子を描くし、凄いマンガを描くんです。
私にとってそれは私ができないことであるからとても憧れで、羨ましいことです。

つーことで本日のお題は『憧れとなりかわること』です。

微妙に落ちてない前置きですね!しかも長いし。

憧れというのは辞書で調べたところ、「物事に惹かれる気持ち」と書かれていて、もちろん私は今までそういう意味だときちんと解っていたはずなのに最近不思議に思います。
私よりもとても素晴らしい絵をかいて、凄いマンガを描いている人はたくさんいます。
私は案の定そういう人たちに憧れという感情を持つわけです。
憧れるということは、いずれ私もそういうのが描きたいなあってことなんですけど。
と言うことは私の目指している先はその人だと言うことになるんですよね。
まあ実際は憧れの人なんか一人だけでは無いんであんまり極端になることも無いと思いますけど。

でもそれって結局の所マネなんですかね。
だって先にそれをやっている人がいるわけでしょ。すでに。
そこに行くために今がんばっていて、自分と感覚が合っていて、自分より進んだものなんだから、そのまま延長していったら憧れの人と同じになってしまうわけだ。
人間そんなに正確ではないし能力の差もあるのでまんま同じになることは無くても似たものになることは確かだ。
それは憧れの人が少ないならなおさらだと思う。

私はその彼女の描くマンガが好きで、女の子がとってもかわいくて、憧れていて、それは私の感覚に合っていています。
でも彼女のようには描けないので、全然雰囲気の違う物になってしまいます。
これは能力の差なので仕方ないんですが、もし私にももっとレベルの高い能力があったら?
私は彼女のようにカワイイ女の子が描けて、凄いマンガが描けるようになるわけです。
でもそうしたときにはもう遅い。
たとえ同じような感覚で進んでいっても早く完成させた物が本物で、その後の物はマネになってしまうからです。

要するに「憧れ」とは自分が「成り代わりたい物」なのかもしれません。
なりたい物ではなく。なったところでマネと言われるだけですからね。

いくら感覚の種類なんか10人10色とはいっても似たような物なんかいくらでもあるし、重なっているところなんかものすごくいっぱいあると思う。
だからこそ個人の能力に差でも無ければ世の中マネだらけだ。
自分の能力の延長にいて、自分の欲しいものを手に入れている人を見る。
自分がそれを手に入れるにはなりかわるか、他の道を探したり、さらに上を行かなくてはならない。
憧れとはいい言葉のようで凄く自分勝手なただの妬みなような気がした。

だから何だという話なんですが。
個人の能力の差が、面白い結果を出すときもありますしね。
なんだかホントにだらだらどうでもいいことを書いています。
中身のない日記だ。


A |MAIL