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→【 infor-mation 】
△once upon a time
2002年10月01日(火)
■■告知・・・マニュアルはどこにもない。
今、医療社会の中で『告知』は当たり前のような扱いをされている。

もちろん、患者の権利のひとつとして 知る権利 というものが
提言されているし。


医療側からしたって
どんな処置をするにも
どんな治療をするにも

説明と同意は欠かせない。



あたしも看護学で勉強してきた一人だから

『告知』は当たり前 という気持ちでいた。




でも
あたしは、そう想いながらも
告知を拒否した 母を 説得できませんでした。


その話をここに残したいと想います。




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実はあたしたち家族が『告知』をしなかった という綴りを

読んでメィルを頂いたことがあります。



どれも『告知』賛成論という内容でした。




しかし どんな結論を出したにせよ
それはきっと、沢山考えて悩んで

家族が出した答えなのです。



うちの場合、妹ちゃんの癌が発覚してからというもの
母の精神状態は破錠寸前でした。

そこに、進行癌であること
予後不良という状態である

といったことが

母の精神状態を弱めていきました。



その母とこれから四六時中一緒にいるのは
妹ちゃんでした。



あたしはさっきも書いたように『告知』をすべきだと
考えていた人間です。


でも。



人は ひとりで 生きてきたわけではないのです。
そのことに気がつきました。



そして ひとりで 生きられるわけでもないのです。


誰かが誰かによって生かされていて
誰かも誰かによって生かされている。






とても他力本願な物云いに聞こえてしまうけれど、

でも、人間、一人で生きられるほど強くありません。


何かしらの社会のどこかに所属し
その中で自分を見つけ

その他人という沢山の中に自分の存在があればこそ

自立し、強く生きられるものだと あたしは想うのです。




母は、妹ちゃんがいる ということで
生かされていたのだと

想いました。


その妹ちゃんも 家族というユニットの中で
知らず知らずのうちに
生きるための能力を身に着けていったのだと想います。


そして、これからも そうして生きていくのです。





もしかしたら
母を説得すれば
無理やりでも『告知』ができたかもしれません。



でも、それはうちの家族、しいては妹ちゃんにとっては
余りにリスクが大きすぎました。


家族というものは、社会の中で一番小さなユニットです。
ましてや、これから妹ちゃんにとって、重要な場所。


そこにいる中心人物である母が破錠することは
妹ちゃんの精神状態に良いことなんて

ひとつも見当たりませんでした。

世の中には“母親であれば 子どものことをしっかり支えられるはずだ”
と考えている人達も多いでしょう。

しかし“うちの場合”は今回の件に関らず
それを期待できる母親ではありませんでした。

それは長年 彼女の娘をしてきた者でなければ
わからないでしょう。



あたしは 母を説得することをやめました。


ドクターは
適切な治療をし、適切な薬剤を選択し、病状を良い方向に導くことで
患者に立ち直りのきっかけと、前を向くためのエネルギーを与えることはできるけれど

生活レベルで支えになるのは、一番身近な人間です。
治療の結果にもこの支えは如実に現れたりするのです。




だから『告知』がベーシックな考え方だからといって

誰も彼もが『告知』と云う答えにはならないのだと想うのです。




要するに


マニュアルは どこにもないのです。






みんながみんな、同じ方向を見ているからって
その方向が正しいとは限らない。


『告知』は伝えればそれで じ・えんど の話ではありません。

特に、その人の病状や
その人の置かれている環境。
その人の生きてきた道。
その人の年齢。


そういう前提を無視して『告知』はできない。







これがあたしの結論でした。









どう答えを出したにせよ、

悩んで考えて出した結論には変わりがありません。


どちらの結論も 苦しんだ上での結論には違いがないのです。







あなたは、自分が癌だったら

『告知』を希望しますか?



もし

ご家族の誰かが『癌』だったとしたら

『告知』をしますか?




その答えは



自分たち主体で 見つけるしかないのです。




自分のコピーはどこにも在りはしないのだから。
















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