散歩主義

2003年05月21日(水) なぜ詩を書くか。

 今月の婦人公論の詩の選が発表された。今回は佳作。「輝く水」という作品です。
投稿仲間も佳作でした。
 ところで、ぼくらのようなアマチュアにとっては月一度くらいのペースのコンペティション形式の投稿はとても励みになります。もちろん、選に入らなければがっくりくるわけだけど、それならそれで、とアタマをひねる。幸いなことに婦人公論では入選と佳作がわりとコンスタントに続いてきています。それに選者の井坂洋子さんの選評がとても楽しみだし。これは選に入る入らないに関係なく、いつも。

 今回の選評は「なぜ詩を書くか」というタイトルでした。現代詩手帖5月号の「いま詩はどこに届くか」という特集の余韻が感じられました。「手帖」のなかで井坂さんは「私のルール」と題して、『私は私の自由のために書いている』と結んでいましたが、それをさらに噛み砕いた形での表現が「選評」にかかれていたように思います。
 少し引用します。

『たとえば仕事でとか、締切があるので書くというのでは、仕事や締切に食われてしまっているわけで、主体がこっちではなく向こうにある感じがするでしょう。
 そこには自由がありません。
 作の巧拙はともかく、自分は自分の(生きる)ために書きたい。そこで停滞してしまったら、また自分を活かす別のことをすればいいという、これは偉大なアマチュアリズムの精神だとも思うんですよね。』

 この発想自体に「自由」を意識したものに感じます。このなかで今、ぼくにとっても重要だと思った言葉は『(生きる)』です。つまり『詩を生きる』。
 実際に井坂さんは仕事として、締切を守って書いているわけですけれど、本来の『詩が好きで自由な気持ちで書くこと』を回復させたいと願っているのではないでしょうか。「詩的衝動」と呼ばれるものを再確認するかのように。「言語表現を探るため」や「ことばあそび」そんなことがやはり詩を書くことの基本であり、始まりであり、「仕事や締切」に優先することなのだと。
 
 ぼくは「自分のため」という言葉を『「書く主体」を取り戻したい』という意味に解釈しました。言葉以前の「詩的なるもの」にまで、「言葉によって」踏み込むことをいとわない。それがぼくにとっての詩となるでしょう。
 
 詩とは決意だと思います。


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