自分を見失う事があります。「自分」が見えないのですから、生きているのは「自分」ではありません。なにかに損なわれている「自分」です。そして、その「なにか」というのはたいてい自分が創り出していることが多いのです。
自分で自分を捨てているのです。自分によって。たとえば、今こうやって書きこんでいるウィンドゥが「創ることを喜び、命がワクワクしている自分」だとすると、クリックして立ち上げる任意のウインドウが自分ではない、というような感覚。バーをクリックしたりブラウザの戻るをクリックすれば、この画面に戻って来れますが、実際の生きてる現場では時として戻り方を忘れがちです。
違う、そうじゃない。と自分に言えるかどうか。ネガティブな心に支配された時や、本来の自分が窒息しそうな時にそのことを蹴破れるかどうか。 20代のころはできなかったような気がします。別にねじくれてもねじくれたで生きていけるから。だけどそれはほんとになにも生みださないし、生きていけなくなります。意外と早くそういう事態は来ます。
やはり生きるということは、人と生きることではないでしょうか。孤独であってもおなじです。人を叩きのめし、こっそり踏み台にし、我利我欲のみで生きることも可能です。だけど、たぶんちっぽけな人生でしょうね。ぼくにだってそういう部分はあるのだと思います。だから、時々立ち往生する。 残念ながら(喜ぶべきか)ぼくの「なりたち」はそういうことができないようにできているようです。人を愉しませ、豊かな気持ちにさせることのほうが気持ちがいいようにできているようです。困った事に(喜ばしい事なのか)。
「書くこと」に関してそんな事を思っていました。
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