久しぶりに手に取った「現代詩手帖」。三月号です。 多くページがとられているのがロートレアモンの特集。いま何度も読み返しているのは秋吉台・現代詩セミナーにおける「自由詩の伝統はどこにあるのか」というディスカッション。
参加されているのは高橋睦郎さん、安藤元雄さん、倉橋健一さん、大岡信さんはVTRのみでの参加です。 「伝統」の問題に関して、安藤さんが面白い発言をされています。
−−−ぼくは詩人は本来「空洞」のような存在だと考えていて、(中略)その井戸とはもちろん地面に掘り下げられた穴のことであって、なかはからっぽです。 そこにはもともと何もないかもしれない。ただ他所から伝わってきた地下水が滲み出してそこに溜まるということは、ありうるわけですね。そしてそれが人に汲み上げられて飲まれると考えています。−−−
それをうけて高橋さんが
−−−そこで重要なのは水はやっぱり外から来ている、ということなんですね。 そして掘り下げられた井戸に自分がたまたまなりえた光栄を思えばそれでいいわけで、その井戸がどんなもであるかは忘れられてしまっていいわけです。おいしかったという記憶だけ残ればね−−−−
その後、ひとつの「言葉」が日本語のどんな歴史を背負ってそこにあるのかに意識的でなければ、と話は進んでいきます。 ことさらに「わたし」を書く詩を見なおさなければ、閉塞したままに終わる危険もあります。
また、これは今朝見たNHKの番組で写真家の藤原新也さんが語っておられたんですけれども、藤原さんはかつての「東京漂流」のような作品から「少女」を撮る位置に自分を移しておられます。それはなぜかという問いに答えて
−−−批評性を持つ作品。それはそれていいんですけれど、批評することで…(沈黙)…自分が完結してしまうんですね。ガスヌキしてしまうというか。それではひろがりがないというか。それよりもわたしの「写真」を撮るという行為を通して人に何か寄与できれば、その方向へ行こうと思ったのです−−−−
藤原さんは、不登校の少女と出会い、彼女の写真を撮り、語りあいます。その結果、彼女は学校へ行き出すようになりました。学校へ行くいかないも大事ですが、その前に彼女が自分を「開いた」んですね。藤原さんはそのことをとても大切に感じておられるようでした。『それも写真、なんです』と。
そして、ふたたび先のディスカッションに戻ると、高橋さんがこういう発言をされています。
−−−ほんとうの自由とは「それは自分とは関係ない」と考えることにあるのではなくて、いろんなものに触れて自分を開くことのほうにあるはずだ−−−−
まさに、「地下水脈」です。
「手帖」のほうでは入沢康夫さんの「詩の構造」という文章を読んでいます。 そして「婦人公論」の松本隆さんの対談もよんで、またしても「地下水脈」。 入沢さんのほうの言葉を借りるなら −−−詩は感動の起動装置であるということです。まちがっても感動や感情の叙述や記述といったものではありません−−−
これは、まっすぐに萩原朔太郎の『月に吠える』・序へつながりますね。
松本さんの言葉を借りると −−−いまの歌は自己主張ばかりですよ。「わたしは」「わたしは」という一人称の主張ばかりで、相手のことなんて何も考えていないみたいな。 生き方も「一人称」じゃだめだろうね。「私が」「私が」という生きかたをやめないと。−−−−
異論はあるだろうけれど、ぼくには全部、地下水脈で繋がっていると思えます。 もちろん「便宜上、にしはらと名のついた井戸」もそこまでせっせと掘っていきますよ。おいしい水を呑んでもらうために。
ではでは。
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