寒の戻りになっています。明日の朝は相当冷え込むようです。 「しなやかさ」ということを考えさせてくれる、いくつかに触れました。
一つは平野啓一郎さんの「反・反動の見地」というコラム。 「日本語ブーム」のなかにも怪しいものがあるぞという指摘からはじまります。
まず、ワープロやパソコンの使用は日本語を崩壊させるぞ、という言説への批判。 要約すると、「もの」を書く時、あらかじめ「書く」べきものがアタマのなかに存在しているわけで、文字を書くことがすなわち思考ではない、ということ。文章は頭のなかにできあがっているわけだから、記述の道具がパソコンか手書きか、ということにはほとんど意味がない、と。 (個人の趣味としての手書は理解できるとして)
次に、日本語の横書きを非難する論への批判。 これは、漢字の先生なども文字の成り立ちから縦書きであるべき、という主張が大方ですが、べつにどちらでもいいじゃないか、というのが平野氏の主張。 よい事は見習うとして、表現というのはできるだけ大きな可能性に向けて開かれているべきだ、と。
決して縦書きのできないアルファベットに比して、縦でも横でも書ける自在に文章を書ける日本人の柔軟さは、むしろ美しい事ではないか、と。 韓国や中国では、今や出版物は横書きに統一されているそうです。
日本語の「危機」とは、そういうものではなく、結局のところ「よく読み」、「よく考える」ということだ、と。
彼が森鴎外の文章から学んだ事を書いたこともあるので、彼がどう思っているのか興味がありました。 果たして、「しなやか」でありますね。懐が深い。
「しなやかさ」の2つ目は、建築家の安藤忠雄さん。NHKの「にんげんドキュメント」という番組から。氏の事はこのダイアリーでも過去に何度も書いてます。 彼の口から「建築はいのちや」という言葉が出てきました。彼の建築の最大の特徴である「コンクリートの打ちっぱなし」については、「団塊の世代の特徴」「ぬくもりがない」という指摘があります。だけど、それは一面的な批判に過ぎません。
そういう批判をされる方はバウハウス全盛の頃のコンクリートを引き合いに出します。あまりの合理一辺倒で灰色だけの「自然」を感じさせない建物故に、情緒不安定や精神異常が続出し、慌てて植栽を配置しカラフルな家具を配置したりした「歴史」。
安藤さんがバウハウスを越えているのはあきらかです。その弱点から建築の発想をしておられる。命を際立たせ、支えるものとしての「コンクリート」であるのです。したがって余計な修飾は一切剥ぎ取られる。人が、光が、風かという発想が先に来るのです。
思うに、人間とは悲しいかな唯脳的な存在です。あくまでも自然のなかでは対立項として存在せざるをえない。そういう自覚は必要だと思うのです。だからこそ、「思い」を洗練させる場、そして肉体を解いてあげる場として建物を考えるのではないでしょうか。
どんなに粗末でも「家のない人間」という存在を自然はたちどころに消してしまいます。裸の人間はそれほどに弱い。弱いからこそ、自然との関係をどう結ぶか。 そこまで考えた「コンクリートの打ちっぱなし」。 「建築はいのちなんや」。いのちとは実に「しなやか」なのです。お寺の本堂に安藤さんは鉄と硝子と木材を使うといいきりました。 まず、「いのち」ありき。徹底してますね。
最後の「しなやかさ」。 またしてもジャズですが。 1965年、若きハーヒー・ハンコックのリーダー・アルバム「MAIDEN VOYAGE」。日本では、タイトル「処女航海」として有名です。 若々しいハンコックのピアノとフレディ・ハバードのトランペットのみずみずしいプレイ。久しぶりに聴いて、良かったです。
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