99745..チェリー
あるネット上の死。
2007年10月31日(水)
1年半くらい前に、ネット検索をしていて、たまたま辿り着いた、30代前半の女性の方のブログ。

病気で、車椅子生活となった。
病院を退院されてから、家での毎日を、綴られていました。

ですが、それは、ネガティブな内容が、大半を、占めていた。

死にたい。歩きたい。痛い痛い痛い。

両足の激痛が、彼女を苦しめていた。
麻薬も、効く薬もなく、いつの日か彼女は、安楽死が、自分が楽になる道だと、話出す。

そんな彼女に、リアル社会の周りの方からは、なかなか理解を得られなかったようだ。
痛みに耐え、挫けても、また起き上がろうとして、頑張ってる彼女に、もっと頑張れ!と言ったり、弱さは甘えだと突き放したり…。

やっと頼れる…と感じた人も、重荷に感じて、次第に、彼女から距離を置いてしまう。

人から信頼を得られないばかりか、裏切られた…と感じた彼女は、リストカットを繰り返すようになる。

病気は、身体の自由ばかりか、人の気持ちも、ズタズタに切り離していった。

彼女の極端な性格は、病気になった影響だろうか?
いや…元来の性格なんだ。

きっと周りの人は、そう感じたのではないか?

少なくとも、私に言えることは、病気は、人の気持ちを変える。

本人の、そして、取り巻く周りの人々をも…。


あたしは、次第に、彼女の文章に魅かれていった。

あたしは、彼女程、喜怒哀楽を、あるがままに、表現できない。

だけど、誰にも、そんな『暗闇』は、あるのではないか?

全ての心には、本音が隠されている。
もしかしたら、病的と呼ばれるかもしれない、何かも…。

そして、綺麗なふりして生きている。

底から、吊り上げて…と、願う人がいても、手も差し出さずに。

そんな残酷な自分に、蓋をして…。

何食わぬ、偽善者なふりして、わかったふりして、他人事を、ツラツラと、説教したりするのだ。

時には、人の心は、残酷でもあることを…、少なくとも、私は病気から教えられた。


安楽死が、激痛から開放される、自分にとっては、唯一の幸せな道であると、解いた、彼女の文章に、画面の向こうから、コメントを投げ掛ける人々は、こう書いた。

あなたより、重い障害の人もいる。

あなたより、激痛を抱えながらも、生きてる人もいる。

生きれる命があるのに、死にたいと言うのは、贅沢だ。

生きたくても生きれない人が、あなたの文章を読んだら、悲しい気持ちになりますよ、書かないで下さい。

死にたいと言いながら、いつ死ぬのですか?

コメントは荒れ、閉鎖された。
それからは、彼女の文章のみが、一方的に、毎日、語られた。

読者との、交流を絶ってまで、彼女は、自分の決意を、貫き続けた。


結末は、呆気なかった。
病気が突然進行して、亡くなられた。

最後の彼女のブログの日記は、死を告げる知り合いの方のお知らせだった。



どんなに激痛に耐えて、生き抜いただろうか…。
彼女は、激痛から、開放されたのだ。


彼女は、いつだって、こう記していた。

「この激痛は、人にはわからない。」
「あなたは、この激痛に耐えてまで、生きれるのですか?」
「激痛がなければ、生きたいと思う。」
「激痛がない日は、こんなに楽しい。」


効果的な鎮痛の治療法は、なかったのだろうか?

あるコメントでは、こんなことを綴っていた方がいた。

「ほんとに、激痛に苦しんでるならば、ブログを更新できないはず。」

ブログは、唯一の支えだったんでは、ないだろうか?


患者は、病状に辛い時も、どうして、ネットに発信するのだろうか?

それは、自分が生きた証しを残すことと、仲間を見つけたいからではないか?と、私は、思う。
彼女は、1人でもいい、理解してくれる人が、側にいたんだろうか?

私が、そんなこと思うこと自体、おせっかいかもしれない…。
人は人を、結局は、大切な部分で、支えられないのかもしれない。

人は、1人で生きて、死ぬのだ。

彼女は、それを、伝えたのかもしれない。


ネットで、繋がっていた、あるブログの女性の文字。
リアルに会ったことはないから、現実味が、どこかないようにも感じる…。


だけど、私は、泣いた。
オンオン泣いた。

彼女の死に、胸が痛んだ。

これは、現実だ。


不治の病を通して、わかること。
それは、人は簡単には、分かり合えないということ。

医師に傷付き、家族と傷付け合い、私は、そうして生きてきた。

愛する人から、離れられ、人間不信にも陥った。

腹痛に、救急車で運ばれた時、「今こんなに痛いのは、私だけなんだ。」「この痛みを、誰かに、共感してもらうこともできないし、痛くないと言われたら、私が痛いと言っても、痛くなくなるんだ。」と思うと、ゾッとした…。

痛みは、人の精神をも、簡単に、破滅していくのだ…。


どうか、日本の医学が、痛みに鈍感になってもらいたくない。
痛みは、色で伝えられない。他覚的には、他者に伝わりようがないのだ。

そして、在宅患者さんなども、末期がんの痛みが、適切な薬物の使用において、コントロールできますように。
命の尊厳が、守られますように。
願ってなりません。

痛みに我慢することは、美ではありません。
痛みに我慢できないことは、弱いことではありません。
もはや、痛みに耐えさせる医師が、技術と知識に欠けているんだと、思いたい。


プライバシーに関わることなので、文章にすることを悩みました。
ですが、私の感じたままを、書こうと思いました。

また、記述するに際しては、彼女の、詳しい病気のことについては、書くことを避けました。
ブログのアドレスについても、彼女の意思が確認できなくなった今は、お教えできませんことを、ご了解下さい。


私は、彼女宛てに、メールを送ろうとした文章を、送らずに削除してしまったことがある。
閲覧者なだけの私に、いったい何ができるだろう?
彼女を、傷付けてしまうことが辛かった…。

ううん…もしかしたら、私はいつの日か、重くなって、裏切ってしまうかもしれない。
それが怖かったのだ。

たぶん、自分が傷付くことが…。

だけど、裏切って、裏切られれば、よかった。
どんなに傷付いても、彼女の命に、触れたかった。

それ自体が、私の偽善であり、綺麗事なんだろう…。

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