かっしーのつぶやき
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そうだった、彼女は、吉原知子は、サムライなのだ。
準優勝に終わった試合後の彼女の談話を読んで、それを思い出した。
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武士道の精髄を説いた名著『葉隠』は、あの有名な 「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」 という一文で始まる。 あんまりそこばかり有名なせいで、武士道とは、サムライとはすなわち散り際の美しさを以てその本分とするかのような考えが世間にはあるけれど、実はむしろ逆だと私は思う。
『葉隠』は説く。 「毎朝毎夕、改めては死々(しにしに)、常住死身に成りて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課(しおお)すべきなり。」
いざ事あらば華々しく散って見せようなんてのは所詮、一番カッコイイ散り時はいつだろうかと時分を窺う御為ごかしでしかない。 サムライに何か成すべき仕事があり、その使命の中にひととき己が身を置くと決めたのならば、いつでもその仕事に自分の全存在を賭して臨めるよう常に身近に死=「その使命を終了する時」のことを考えていて、考えて考え尽くしていつしか「いつ終わっても構わない」という域に至れば、かえって自分の使命が「終わる」ことを無駄に怯えることもなく、自他の存在に気負うことも萎縮することも超えて日々の武道芸道に自在に通じることができるようになるし、それが結局は己が成すべき仕事に対して生涯にわたって最善を尽くすことにつながっていく。
武士道とは、散華の美学を言うのでは決してなく、それは己が使命が終了するその最後の瞬間までを 「常に十全に生き尽くす」 ための、心構えのことを言うのだ。
この葉隠の一節に、私は彼女がいつかインタビューで語っていた言葉を思い出す。 インタビュアーが3年先のことを尋ねた時、彼女は笑って答えたのだ、
「だって生きてるかどうかだってわからないんだから」。
このとき彼女に関する知識が浅かった私は、吉原知子という人は大きな病気かケガでも身体に抱えているのだろうか、だからこんな何かを悟ったような発言をするのだろうかと思ったものだった。 だけど、違った。 彼女がその胸に抱えているのは、余人が考えるよりはるか深部まで透徹した、大きな覚悟だった。
葉隠に「常住死身」と語られていることと、 吉原が「常に一戦一戦が最後の試合と思ってプレーしている」と語ったこととは なんと似ていることだろう。 似ているどころの話じゃない。寸分も違わない。
山本常朝の武士道と吉原知子のバレースタイルは、つき詰めれば同じことを語っている。 今さら気がついた。 なんてことだろう。 なんて人だろう、吉原という選手は。
一瞬、魂を抜かれたように虚脱したあと、そして思った。
そうか、 それほどまでに吉原知子が自らのバレー人生においてサムライであるのなら、 そのサムライ・吉原に惚れ込んだ以上、たとえ私のような一ファンのごとき足軽雑兵といえども 心根は同じようにサムライでなくてはいけないってことなのだ。 そうでなければきっとあの侍大将に最後まで付き随っては走れないってことなのだ。
いつ何時刎ねられようと悔いのないように、 一日一日、一戦一戦、一打一打を今生最後と思い定めて。
そこまで思ったら、何だか雪の朝みたいな、厳しいけどあかるいような不思議な気分が、降ってきた。
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かくのごとく、同い年の赤の他人に『葉隠』なんてものを真剣に読む気にさせる。
そう、吉原知子とは、そういう人物なのだ。
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