| 2006年10月02日(月) |
本当の気持ちじゃないなら、どんなことももうしないで |
今日は仕事もまったり目だったので、割り切って定時で帰りました。 早く帰れたので珍しく夕飯も作った。市販の具材セットを使ってだけど。回鍋肉。私は料理のセンスが壊滅的に駄目なので、こういう市販の混ぜていためるだけ、そういうものの方が断然おいしくできるのです。キャベツを買ってしゃりしゃり食べました。
風呂も入ってほっこりして、昨日のシンフォニックから一夜明けて色々思うに。
この状況で、ああいうバンドとは全く違うアレンジでPIERROT曲を聴けて、それを最後にしてくれたこと。それは私にとってもとても良かったことでした。キリトにとっての区切りになったように、私にも、他の人たちにも区切りになったんじゃあ、ないでしょうか。やっぱり、そういう場が必要だったと思うから。 (キリトひとりのその場をどうしても見たくない、見ることがつらい、そういう人の気持ちも分かるし、そういう人には少々酷な区切り方だったかもしれませんが)
私はCHILDで立つことも泣くことも合唱することもできなかった人ですが、だからといって感動しなかったわけじゃないんだ。 逆にキリトがあの場を提供してくれたことに、感謝する気持ちがある。 本当にどれも良いアレンジだったと思うし、CHILDも良かった。
だけどその会場の輪に入れなかったのは、きっとそれも区切りをつけたからだと思います。 そこで区切りをつけてもらったけれど、でもあの悲壮なキリトの歌う姿を見ても、気持ちがもう向かわなかった。 悲壮感が寒いと思ったわけでもなく、言動に腹が立ったわけでもなく、むしろ彼の気持ちは伝わってきてやり切れない気分になって頑張れーとかも思ってたのですが、ひどく予想通りな光景を見て感じて、でもその空気の中でキリトに手で煽られても、身体が動かなかった。あの、PIERROTのライブでイントロで手を挙げられただけで自然に手があがったように、引っ張られるなにかが、なかった。ついていきたいと、そういう風に感じられなかった。 私はとてもばか正直で、流れに乗ることが苦手な生きるのに不器用な人間なので、だから会場の雰囲気に合わせることもできず、取り残されていた。そういうことだと思います。
区切りをつけて、…ありがとうと、さよならをした感じがします。 きっとこれはほとんどの人とは相容れない意見で、反感をかうかもしれないのですけれど、あの大合唱そして大歓声の中歌い、頭を下げるキリトに、素直に拍手もしたし良い曲を場をありがとう、と本当に思ったけれど、そこで普通は「ついていきます!」てなるんだろうけれど、そうじゃなくて「これで満足できました」と思っちゃったんですよね私は。満足に終われました、って。 あの雰囲気の中で、そんな風に思ってたのは私ひとりかもしれないんですけれど。この辺、自分のひねくれ者度合いに自分でもびっくりするけれど、でもそう思っちゃったんだもんなあ。
私はPIERROTが好きなのであって、それは個々のこれからの活動とはまったく別のものであって。 正直、ギター隊がソロをやると最初に聞いた時からずっと、はっきり言ってどちらの音にもあまり期待はしてません。て言うと語弊があるな、どんなのかなーという気持ちはあるけど、好きかどうかは分からないな、て思ってきました。なぜなら私はあの5人でやってる音が空間が好きなのであって、同じ人だからといって個々で違う面子で作られるものが絶対に好きかというと、それは違うことなのです。長年のバンドファン暦でそれは身にしみてます。 そしてアンジェロは絶対に近い世界観で近い音でもって提示される、それは予想できる。だけど残念だけどそれを見たい気持ちにはまだならない。だって違うバンドだもの。 そういうことは本当は私は最初から分かってて、だけど未練ややり切れなさがあったからキリトのソロに行ってて、そこで肌で感じて、そしてシンフォンックでやっと自分なりの一段落をつけられたのだと思います。
それに多分、私の友達は誰のライブにも行かないだろうから、一人でも頑張って行きたいと思える活動は、残念だけどないのです。 ひとりでね、ハコにね、平日とかに行くのは、もう無理。 そうね、機会があったら見れたらいいんだけどね、…今はそんな気持ちです。都合がつけば、見てみたいかな。
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