ディリー?闇鍋アラカルト
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2005年06月15日(水) 不信

私たちの社会を考える上で非常に大切であると考える事がある。
それは、人間が、人類が信頼に値するものか?という事だ。
「人間不信」という言葉があり、そういう状態になった人は鬱症状を表したり、引き篭もったり自殺したりする。それだけではない、信じられない人間たちに復習しようという企てをする場合もある。詐欺という犯罪もそうだし、戦争にしても相手に対する信頼があるとするなら起こるだろうか?
犯罪でなくても、不信の兆候は至る所に目にする事が出来る。選挙の投票率が低いのは何故だろう。政治に対する不信があるのではないか。「どうせ私の一票なんてなんにもならない、政治は変わらない。」
国会での話し合いは知恵を出し合うのではなく、足の引っ張り合いをしているように見える。

果たして、人間とは信頼できないものなのだろうか?

それを考えるに当って、誕生当初の事を考える事が有益であると思う。
人間が母親の胎内から出て来た時、新生児の母親に対する態度はどうだろうか?不信の態度を表明するだろうか?母親は新生児に不信の態度を表明するだろうか?母親の状況が特に悪い場合は新生児に対して残虐な事をする可能性もあるけど、通常は新生児は母親に不信の念など抱かず、母親の胸で信頼しきって眠り、母親も無条件に守ろうとする。

初めに信頼ありき。

どのような人も人生を最初は信頼から始めたのだ。
それを、人間が信じられなくなるとしたら、その信じられなくなる思いに先立って、信じている事が裏切られるという辛い体験が存在する。
辛い体験が強力である程、体験の数が多い程不信の側に針は振れる。そうなると人生の最初に信頼から始めた事など忘れてしまう。いや、そんな辛い体験など無くても、大抵の人は忘れているだろう。
たまには思い出してみよう。
初めに信頼ありき。自分の記憶の中では薄れてしまっているとしても、赤子を抱く母親と子供の表情を見るなら、納得出来るだろう。
初めに信頼ありき!


いなっち |MAILHomePage

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