たそがれまで
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2002年09月28日(土) 母のこと 2  



母が個室に移ってから、MRSAに関する本を読みあさった。
少しでもその病気に関する知識が欲しかった。
と同時に、何故母が感染してしまったのか、理由が知りたかった。
「免疫力が落ちていたから」と云う理由ではない、他の理由が知りたかった。

だけどどれだけ本を読んでも、その病気に関する知識を得たとしても
原因をはっきり断定することはできない。
なぜなら、私がドクターに訊きただせなかったから。
そして恐らく、聞きただせていたとしても、前回と同じ説明でしかなかっただろう。

「病院側に落ち度があるのではないですか?」
なんて言える筈がない。
もしも病院を追い出されるような事になったら、母も私達親子も
途方に暮れることが目に見えていたから。
たださえ老人を長期に渡って入院させてくれる病院は少ない。
ましてやMRSAの患者など、どこの病院も「うん」とは言わないだろうから。



個室に入っている母、いや隔離されている母は淋しいからラジオが欲しいと言った。
視力が落ちているのでテレビも見られないから、ラジオが聴きたいと・・・

一日中ラジオを聴き、時々一緒に唄い、時々もらい泣きをしていたらしい。
週の3日をフルタイムで働いていた私は、週の3日しか病院には行けない。
母を担当してくださったナースの方が、いつも様子を教えてくれた。
とても優しく話される方で、私より5〜6才年下だったと思うが
母も私もとても彼女が好きだった。
今まで母を担当してくださったいろんな病院のナースの方々の中でも、
彼女が一番好きだった。


私が母を「みよちゃん」と呼ぶので、彼女も同じように呼んでくれた。
「みよちゃ〜ん、身体を拭こうね」「みよちゃ〜ん、ご飯だよ〜」っと
母も嬉しそうに返事をしていた。
勝手に彼女の名前を「みかちゃん」だと決めつけて・・
「みかちゃん、みかちゃん」と返事をする。
なかなか訪れない娘より、「みかちゃん」と呼びかける方が多かっただろう。

改めて彼女にお礼が言いたい。
伝わらないかもしれないけれど、隔離されていた2年間、
少しでも母を元気つけようとしてくれた彼女に私は頭が上がらない。
それは同時に、全ての看護士さん達へ頭が上がらないと云うことなのだ。
とても大変なお仕事だ。何年間も目の当たりにした。
ほんとうにありがとうございました。



その頃から、母の憎まれ口が減ってきた。
代わりに私への感謝の言葉を言うようになった。
不思議なことに、感謝の言葉を受けても嬉しくもなんともない。
かえって憎まれ口の方がほっとする。いつも凛としていた母、
弱みなど見せなかった母、その母が私に「ありがとう」なんて言っている。
なぜか母の「ありがとう」が淋しかった。


容態はずっと平行線のまま・・・
いつまで続くのだろう。
このまま外に出られないのだろうか。

外の景色が変わっていくのと同じように、母はだんだん子供にかえっていく。
口ずさむ歌も私が子供の頃に唄ってくれた、童謡が多くなっていた。




東風 |MAILHomePage

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