たそがれまで
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2002年09月27日(金) 母のこと

平成11年12月10日

母が亡くなった。
享年65才の早かった死。
でも長すぎる闘病生活と引き換えに、やっと手に入れた安息だと思う。
そうでも思わなければ、自分の決断を許すことができないのだ。
あと一つ手術をすれば、もっと生きていられたかもしれない。
例え寝たきりであったとしても、もっと生きていられたかもしれないのに。


死因は腎不全。
だけどそれがすべてじゃない。
糖尿病からの合併症で母の身体はボロボロだった。
50代半ばで最初の脳梗塞に倒れ、入院とリハビリを繰り返す日々の中で
母は何に希望を見いだし、何に絶望したのか計り知れない。


三度目の脳梗塞で、完全に左半身の麻痺と少しの痴呆が残った。
おぼつかない足取りで自宅のトイレに向かい、転倒、骨折。
足の付け根に人工骨頭を入れても、尚、歩こうと頑張った。

でもその人工骨頭が、母を苦しめることになるなんて・・・・・・

リハビリの為に施設の整った病院に入院した母は、毎日痛みと戦って頑張っていた。
順調に快復している筈だった。

あの日、仕事をしている私のポケベルが鳴るまではそう思っていた。
病院へ連絡を入れると「緊急手術が必要です。すぐ来てください」とのこと。
私は慌てて駆けつけた。

入院している内科のドクターではなく、始めて逢う外科のドクターから説明を受けた。
早急に開腹手術が必要なこと、しかし原因は分からないとのこと。
腹部に激痛を訴える母を見れば、「お願いします」の言葉しか浮かばなかった。

手術には5〜6時間かかっただろうか、もっと早く終わったのかもしれない。
術後室に運ばれた母がぼんやり目を開けたので、心からほっとした。

結局、何もなかった。開腹手術をしても何も原因は見つからなかった。

「ほんの少し腸が癒着していましたが、痛みとは関係ないと思います。」
ドクターはあっさりと事務的にそう言った。
私の反応を待つ間もなく、これからのことの説明を始める。
術後室からでたら一般病室へ移ること、同時に糖尿病の投薬もしていくこと、
傷口が落ち着いたら再び内科病棟へ移ること、そして、
母が結核菌のキャリアであることを告げた。
発病しているわけではないので心配はないが、私と子供達は結核の検査が義務付け
られていると云うこと・・・

結核菌のキャリアでもあるんだ・・・
母は欲張りだった。C型肝炎ウィルスも体内に保持していたのだ。


術後3日目、仕事帰りに母のいる術後室に行ったら「消毒中」の張り紙があった。
母は隣の部屋にいた。明日にはまた元の部屋に戻るからと看護士の方に言われ、
私はその日病院を後にした。

次の日、母は元の術後室に戻っていた。前に隣のベッドに寝ていたお婆さんの姿が
見えない。きっと一般病室に戻れたんだと少し嬉しくなった。

しばらくすると母も一般病室に移ることが出来て、いつもの憎まれ口も戻ってきた。
母の部屋はナースステーションから一番遠い部屋で、廊下の突き当たり。
ずらっと並んだ病室の入り口には患者さんの名札がかかる。ふと一人の患者さんの
名前に目が留まった。術後室で母の隣のベッドに寝ていたお婆さんである。
ふ〜ん、個室とは豪勢だわ・・・

突然そのドアが開き、中から看護士の方が出てこられた。目が合ったので
「こんにちは」っと挨拶したけれど、彼女はドアの横で白衣を脱ぐのに忙しく、
返事がなかった。白衣の上に白衣?と思ったけれど特に気にすることもなく、
私は母の病室に急いだ。当時の私に知識があれば、この時の看護士さんの行動が
その後の母を案じする出来事だと理解できたのに・・・

余談になるが、母はいくつもの病院にお世話になったけれど、その「病院」によって
その「科」によって随分と温度が違うのだ。 温度といっても室温ではない。
看護士さんの接し方である。比較的、内科の看護士さんの方が暖かみがある。
病棟自体の時間の流れもゆっくりしている。  と思う。
手術や付け替えが無い分、内科の方がゆったりしているのかしら。
口調さえ変わってくるのは不思議。似た性格の人ばかりが集まったりするのかしら、
それともその「科」によって性格が作られるのかしら、未だに疑問。


しばらくすると内科病棟に戻ることが許された。
もしかしたらもう戻れないかもしれないと覚悟して外科に移ったのだ。
その間3ヶ月余り、その期間に外科のドクターと話しをしたのはたった二度。
術後の説明と、内科へ移る時の説明だけ。その時も事務的に必要事項だけを
淡々と説明された。 私自身が一番苦手なタイプだった。


内科病棟へ戻ると、久しぶりに逢うナースの方々が笑顔で迎えて下さった。
嬉しかった。暖かい場所へ戻ってこれた事が一番嬉しかった。

もう少し体調が戻ればリハビリ再開と聞いて、母も私も喜んだ。
だけど母の体調はなかなか良くならない。微熱と嘔吐がしばらく続いた。

当時の私はシングルマザーで、幼い子供を二人抱えて仕事と保育園と病院を
行ったり来たり。今よりも若かったし、気が張ってたからできたのだろう。
時間に追われるように毎日が過ぎていった。そんな中、ポケベルが又、鳴った。
ドクターが話しをしたいとの連絡で、事後報告になるけれど時間を作って下さいと
言われた。そういう時と云うのは、良い話しではない。悲しいけれど勘は当たった。

病院に着くと母の病室が変わっていた。ナースステーションの前の二人部屋。
だけど部屋には母が一人で個室状態である。病室の入り口には濡れたバスタオルが
敷かれ、入室の際には白衣を着用して下さいとのこと・・・

なに?

これが第一の疑問。すぐにドクターがその謎を解いて下さった。

母はメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)に冒されていて、感染力が強いため
隔離が必要であると云うこと。この菌に効く薬は1種類しかないこと、そして特に強調するように、誰の体内にも存在する菌で免疫力が弱まると発病する事がある。
とゆっくり丁寧に、子供に言い聞かせるように説明して下さった。
いわゆる「院内感染」の代名詞ともなっているMRSAであった。

ふと前に外科病棟で見たあの隣のベッドにいたお婆さんを思いだした。
ドアの横で脱ぐ白衣、入り口に敷かれた濡れバスタオル、使い捨て手袋・・・
もしかしたら移った?   瞬時にそう思ったけれど、ドクターには何も言えなかった。

あの時ドクターに訊ねたら、何と云う答えが返ってきたのだろう。
だけど訊けなかった。どうしても訊けなかった。
ドクターに楯突いて、病院を追い出されることが怖かったのだ。
母の体内にあった菌だと云う説明を、鵜呑みにするしかなかった。
それに、腹部の手術をした時に感染したのか、人工骨頭を入れた時に感染したのか
なんて解らないじゃない。と自分に言い聞かせた。
だけど確かにあのお婆さんは、母と同じく隔離されていた。

長い闘いが始まった。もうリハビリどころの騒ぎではない。部屋から一歩たりとも出る
ことはできない。一人で寝返りをうつこともできなくなった。

そしてお約束のように、痴呆が急速に進行していった。


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