CYMA’S MURMUR

2006年03月16日(木)   幸福な食卓/アンチ・アメリカ


「幸福な食卓」を読んだ。
とても楽しんで読んだ。
ほのぼのした気分だった。
最後の章に行くまでは。

最後の章は帰宅途中の電車で読んだ。
涙をこらえるのに、苦労した。

あまりにベタすぎる展開に言葉を失った。
そんな終わりにしなくても、
この小説の良さは全く損なわれないのに。


「死」が結末に置かれる物語が私は苦手だ。

そこに、悲しみを乗り越えての再生が暗示されてても、
気分が沈むことに違いはない。


最近読んだものだと、
「偶然の音楽」、「Brokeback Mountain」、
「博士の愛した数式」なんかもそうだ。

「博士の愛した数式」に関しては、
「死」は必須であったと思うけど。

「偶然の音楽」は半ば作者が逃げを売った結果の「死」に見えたし、
「Brokeback Mountain」は「死」のもたらした悲しみを描写することで、
愛の深さを描こうとしたのだろうけれど、
その手法は余りにも王道すぎてツマラナイ。





先週末にBrunoのCDがフランスから届いた。
早速聞きまくっている。

今日は、歌詞をネットで見つけてきて、
仏英翻訳かけてみた。

想像通り!
なかなか奥深い歌詞でした。

しかし、カナダなのに、おかしいな、って。

もうバレバレでしょうが、
私は基本的にはアンチ・アメリカ。
あのアメリカ的なるものが、どうにも相容れないのだ。

で、カナダも同じ大陸でしょ?
その割には歌詞が奥深いじゃないか、こりゃおかしい、と。
ま、全て偏見ですけどね。

アンチ・アメリカの話を続けると、
先日読み返した「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」の中で、
村上春樹が、

  ヨーロッパにもアジアにも偏屈な人をそのまま社会に
  受け入れる土壌があるが、アメリカにはそれがない。
  そういう人は本当にタフな決心をして森に小屋を建てて引きこもるしかない。

  ※かなりうろ覚えなので間違ってる可能性あり。でもニュアンスは合ってるはず。

って言ってて、なるほどね〜と思った。
あくまでも、社会参加を要請されるのがアメリカなのだ。

私にとってのヨーロッパのイメージは、
フレキシブルというよりは融通の利かない頑固さだけれども、
その頑固さの中に含みがある、ん、だよね。

アメリカも頑固なところがあるけど、
それはあくまでPowerとLeadershipに関することに限られる。
強いアメリカ、世界のリーダーたるアメリカ、
イニシアティブを持つアメリカ、
そういうセルフ・イメージにだけ頑固なんだよ、彼らは。

ま、セルフ・イメージすらない日本よりはよほどマシでしょうが。
でもやっぱり、深みがないというか、歴史が浅い感じがするよ、本当に。

このアンチ・アメリカのスタンスを私がどこで獲得したのか記憶にない。
特にそういう教育を受けたわけでもない。
でも割と我々世代には多いんじゃないかな。
大学に入ってすぐクラスメイトと話したとき、
ただ1人を除いて全員アンチ・アメリカだったのを思い出した。
外国語大学のドイツ語学部という母集団自体に
バイアスかかってるかもしれないけど。

単にメジャーなものへの反発かもしれない。





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