パラダイムチェンジ

2005年11月30日(水) 責任感の行方

さて、責任をとるということに関して、内田樹がBlogでこういうエント
リーを書いていた。

要所だけ引用すると


これらのニュースに共通するひとつの「文型」があることに気づかれただろうか。
それは「お前が責任を取れ」という声だけがあって、「私が責任を取り
ます」という声を発する人がいないということである。
私たちの社会はいまそういう人たちがマジョリティを占めるようになっ
てきた。
トラブルが起きるたびに「誰の責任か?」という他責的な語法で問題を論じることが、政治的に正しいソリューションだと人々は信じているようである。
前から申し上げているように、私はこのソリューションの有効性に対して懐疑的である。
「責任者を出せ」ということばづかいをする人間はその発語の瞬間に、その出来事を説明する重要なひとつの可能性を脳裏から消しているからである。
それは「もし、この件について自分にも責任があるとしたら、それは何か」という問いへむかう可能性である。(略)

私は「私ひとりのせいじゃない。責任は〈あいつら〉にもある」というようなことを言いたいわけではない。
「責任を取る」というのは「そういうこと」だと申し上げているのである。
「ひやり」とした経験から、私をそのような状況へと追い込んだ他のドライバーたちに対する呪詛を吐き出すよりも、自分の運転の仕方についての反省点を見出す方が生産的だというふうに私は考える。

「責任を取る」というのは、端的に言えば、「失敗から学ぶ」ということである。
「責任を取らせる」というのは、「失敗から学ばない」ということである。
失敗から学ぶ人間はしだいにトラブルに巻き込まれる可能性を減じてゆくことができる。
失敗から学ばない人間がトラブルに巻き込まれる可能性はたいていの場合増大してゆく。
そういうタイプの人間は、80%自分が悪い場合でも、残り20%の有責者を探して責め立てるようなソリューションにしがみつくようになる。
だが、他責的な人間が社会的な承認や敬意や愛情を持続的に確保することはむずかしい。
そして、周囲からの支援を持たない人間は、リスク社会においては、ほとんど継続的にトラブルに巻き込まれ、やがて背負い切れないほどの責任を取らされることになるのである。
「失敗から学ぶ」ことは「成功から学ぶ」ことよりも生存戦略上はるかに有利なことであると私は思っている。
しかし、現代日本ではこの意見に同意してくれる人は日ごとに減少している。
なぜ、人々は自分が「より生きる上で不利になる」方向に進んで向かってゆくのか。
私にはうまく理解できない。



うん、そうだよなあ、と私も思う。
別の言い方をすれば、「他に責任がある」という文型は、子供的であり、
「自分にも責任がある(かもしれない)」というのは、大人的であるような
気がする。
だって、他に責任がある、という言い方をするというのは、自分には
責任者能力がありません、と言っているようなものだし。

ただし、そこでいう「私にも責任がある」というのは、全面的に、100%
の責任を個人が被れ、という事ではないと思う。
そうではなく、もしも何か避けがたい事態が起きたときに、自分にも
何らかの落ち度があったのか、とか何が失敗だったのか、という事を
自分の問題として考えられる人間の方が、社会的な信用も含めて、より
よい人生を送れるような気がするのだ。

例えばね、今回のマンションの構造書偽造の問題にしたって、もしも
万が一、事が発覚した時に自分がこうむる代償の大きさを考えたのなら
マンションの構造を犯罪的なレベルまで落としたりはしないだろう。

つまり、責任を取るというのはもう一方では、最悪の事態になった場合に
自分で対処できるという最低限のリスクはおさえておくって事のような
気がするのである。

そして私はその事について、病院に勤務している時に学んだような気が
している。
医療事故というのが、起きてもおかしくはない現場であるからこそ、
まずはそういう危険の起きる芽を先につんでおく事が重要になるし、
今現在、ひんぱんに起こっているとされる医療事故の大半だって、そこに
いる医療スタッフの数であるとか、一人一人がもう少し仕事に対して余裕
のとれる環境が整えば、随分と減るんじゃないかな、という気がするし。

それに医療現場って、それこそ責任者出て来い、の文型で真っ先に槍玉に
あげられる場所だからこそ、それぞれの医療スタッフに限らず、例えば
医療事務の人だって、責任感やプロ意識みたいなものは否応なく持たされ
たりするもので。
でも、今の私が、仕事の面で多少なりともマシになっているとすれば、
そういう責任感というか危機管理の意識を持っていたからだと思うので
ある。

そしてそれは、今現在、自営になっても同様であり。多分フリーで様々な
仕事をしている人たちにも、共通しているんじゃないのかな。

でね、自分が自分のマンションの管理組合の理事長という、(一応)偉い
立場になって、外部の企業や管理会社とお付き合いをするようになって
一番驚いたのは、それが不動産系の会社組織の特徴なのかどうなのかは
わからないけれど、基本的には、責任の所在って言うのはぼやかす方向で
話が進められる、という事だった。

それは理事長である私にせよ、会社にせよ、誰がどう意思決定をして、
その結果どのような責任を負うのか、という事が、問題にならない様に
あらかじめ問題が処理されていく、というか。

もちろん、その場合であっても、お互いが責任を取るような事態が起こる
事を避けるため、事前の下準備というか、危険の芽は先に摘まれる形で
処理をされていたので、その事が問題になる事はなかったし、少なくとも
私が理事長を務めている間は、管理会社の人たちの仕事ぶりにあからさま
な不快感を感じることはなかった。

ただどこに責任があるのか、ということを曖昧にした結果として、
なあなあというか、一種の思考停止に陥ってしまう可能性は否めない様な
気がする。

そしてその場合、今回の事件のような想定外の事態が起こった場合に、
責任を感じている人と、責任は他者にあって自分にはないと考えている
人では、自ずと所作振舞いに有意な差が生まれてしまうような気がするし
危機管理という意味では、自分に多少の責任はあるのだ、と考える人の
方が切り抜けられるんじゃないのかな、なんて思うのである。


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