| 2005年05月01日(日) |
バッドエデュケーション |
今回も映画ネタ。見てきたのはバッドエデュケーション。 この映画を見てきたのは実は5月1日の映画サービスデーで、以前から友 人に面白そうなんだけど、すごく混んでるんだよねーと言われてたので 半ば覚悟して見にいったら果たしてその通りで。 しかもそのほとんどは女性客。
で、この映画は 「トークトゥハー」の監督でもあるペドロ・アルモ ドバルの半自伝的映画で。 「モーターサイクルダイアリーズ」でイケメンぶりを発揮してたらしい ガエル・ガルシア・ベルナルが悪女ならぬホモのファムファタールぶり を発揮しているのが話題らしい。 すなわち、ゲイの官能ラブストーリー?なのである。 どうりで男性客が少ないわけである。
私自身がこの映画を見た感想はというと「意外と面白かった」である。 以前見た「トークトゥハー」の印象が強烈すぎたのもあるけれど、それ に比べるとこの作品は意外とおとなしい印象で。
物語は、現在スランプに陥っている映画監督の主人公、エンリケのもと に、彼の幼なじみ、イグナシオを名乗る青年がやってきて、一本の脚本 を手渡し、できれば役者として使ってほしいと依頼をする。 そしてその脚本は2人の体験を基にした作品だという。
自分の初恋!の相手であるイグナシオの変貌ぶりをいぶかしみながらも 脚本を手に取ったエンリケは、その脚本の内容に魅かれはじめる。
そこに書かれていた内容は、まだ寄宿学校時代の、エンリケとイグナシ オの青い体験であると同時に、イグナシオと校長である神父との、禁断 の関係を告発する内容だった。
この脚本を元に映画を撮ることを決断したエンリケは、やがてこの脚本 に隠された真実を知っていく。 イグナシオを名乗る青年は、彼の弟であり、そしてその弟と、イグナシ オと、神父の間に起きた真実とは、一体なんだったのか。
この映画の中で一番印象に残ったシーンはどこかというと、エンリケの 自宅のプールで、本当は真性のホモではないイグナシオの弟(ガエル・ ガルシア・ベルナル)が、パンツを下ろそうとした時にプールの中から その部分(股間)をじっと見つめるエンリケの視線の強烈さである。
うわー、こんな風に見られたらイヤだなあ、と思うほどの視線なのだ。 そしてそれと同様の視線を放っていたのが、幼少時代のイグナシオが きれいなボーイソプラノの歌声を響かせている姿を見つめている、神父 の視線であり。
っていうより、この作品、同じシチュエーションでガエル・ガルシア・ ベルナルが演じる役が女性だったら、多分単なる成人指定のエッチな 官能映画扱いだと思うのだ。 それが男同士になっただけで、これだけの女性を集めるあたり、ゲイ 映画恐るべし、って感じなのかも。
前作「トークトゥハー」が一方通行の愛を描き、それなりのカタルシス があったのに対し、この映画では神父のインモラルな、肉欲まみれの 愛情はあるものの、その相手である弟は、神父も、そしてエンリケさえ も愛してはいない。 彼はただ金のため、役をもらうためだけに本当はホモを毛嫌いしつつも 自分の身体を彼らに与え続ける。
そしてエンリケは、彼が自分の初恋の相手、イグナシオではなく、そし て彼がホモでもなく彼の事を愛していないことを知りながらも、彼の 身体を抱き続ける。
彼らは一体何を得て、そして何が得られなかったのか。 ホモセクシャルという関係が倒錯しているというよりは、その三者の 関係の歪み方こそが、印象に残った映画だった。
例えばそれは、男女の関係だったらノーマルなのか、それともお互いに 愛し合っていたら正常なのか。 おそらく、その答えは簡単には出てこないかもしれない。
でも、前作「トークトゥハー」が、たとえそれが歪んだものであったと しても愛を貫いた作品だったとすれば、この映画は一番愛から遠い作品 である、といえるような気もするのである。
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