| Spilt Pieces |
| 2004年09月22日(水) |
| 分からない、ということは、こわい。 分からない、知らない、すると対処もできない。 人間関係に限って言えば、応用力がない人間ほどそう思うのではないか。 相手のためにと言いながら、実際は自分のため。 そんな人間の欲求を満たすために私が自分のパーソナルスペースの範囲を歪めてまで心を開くつもりもない。 皆が分からないことをおもしろいと思えたなら、相手の中に土足で入ってくる人もきっと減るだろうに。 私が、自分に強い興味を示さない人を好む理由も、おそらくはそういう人であれば余計な詮索をすることなく人間関係を築けるだけの強さを持っていると思うからだ。 そういう人とばかり一緒にいると、時折寂しくもなる。 だが、常に満腹では色んなことに鈍感になり、また、きっとつまらない。 分からないこともおもしろいと思いたい。 それはすなわち、自分と違うものをきちんと受け入れられるということだと思うから。 相手を思いやったフリをして、自分の正当性を主張していることくらい、気付いているんだよ。 でもきっと本人は自分のその幼稚さを自覚していないから、言ったところでヒビ割れが生じるだけのこと。 心を開いたような顔をして、やっぱり私は本音を口にしない。 不誠実なんだろうか。 何でも言えばいいという問題でもないと思うのだが。 分かっていない人間ほど、気軽に『分かる』と口にする。 相手に向けたつもりの言葉が実は単なる言い訳であることに、どうすれば気付けるのだろうか。 一見『いい人』ほど、何かを伝えようと思ったときにそれが難しくなる。 『悪い人』は、それ自体が半ばSOSだからまだ話ができる。 自らすぐに動いて『相手のために』何かしてしまうタイプの人間は、だから相手に対して不満も持つし、自分の思い通りにならないことに関して無意識的にストレスを溜める。 自ら努力してしまうだけに、その結果を期待し、自分の描いていない像に反発する。 だが人間関係など、うまくいかないことや分からないことだらけなのが当然で、そうなると自分を慰めるための言い訳が出る。 それが相手をいかに傷つけているのかにも気付かずに。 気軽に『分かる』などと言わないでくれ。 誰も、自分以外の人間の人生を送ったことがあるはずもないのに。 |
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